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 土佐国府から南方に伸びる古代官道の道幅は約6m。10年以上前(平成20年)に、祈年遺跡(旧:士島田遺跡)で道路の遺構が発見されたことから、古代南海道の姿が徐々に分かるようになってきた。当初は「士島田遺跡」(“士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?”)と呼んでいたはずなのに、いつの間にか「祈年遺跡」と名称が変わっていて不思議に思っていたのだが、その理由が分かった。本当の地名が「士島田」ではなく「土島田」が正しいということが判明したのだ。「過ちては改むるに憚ること勿れ」ーー古代史においても常にそのようにありたいものである。

 それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
 地方では諸道の駅路が七世紀のものが一〇メートルから一一メートル、奈良時代には一二メートル・九メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は六メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も六メートルになることが多い。(P6~7)
 今風に言うと、古代官道は“コスパ最悪”。すなわち全盛期は幅12m以上の官道が大半だったが、建造費・維持費・運用費などがかかりすぎて、平安時代には駅路が6メートルに幅員減少することが多かった。コストパフォーマンス(費用対効果)が悪いことが古代官道衰退の大きな要因となっている。
 また、駅路とは別に郡家間を繋ぐ伝路と呼ばれる道は当初から6m幅の規格だったとされる。土佐国府から南に伸びる南北道が前者か後者かは、道幅6mだけでは判断がつかない。

▲埋め戻し前の柱穴跡(南国市元町1丁目の野中廃寺跡)

 従来は8世紀末以降の平安時代の建立とされてきた野中廃寺が、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡では7世紀後半の建物跡が見つかっている。道をはさんだ東西に7世紀の建物があるということから、この南北道も7世紀には伝路として建設されていたと考えるのが合理的である。さらに東偏12度(N12°E)の長岡条里に沿っているので、香長平野における条里制の設営も7世紀以前になりそうだ。

 南国市教育委員会・文化財係の担当者は「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話しているようだが、この中央政権が近畿天皇家であるか、それとも倭国・九州王朝なのかは、評制の時代(700年以前)であったことも考慮して慎重に判断する必要がありそうだ。

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
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