2024年の青龍の年。早明浦ダムに竜がいるという情報を手がかりに、『ドラゴンクエスト』の冒険に出かけた。国道439号線沿いの道の駅「土佐さめうら」で辰年記念スタンプラリーの用紙と聞き込み情報をゲット。
何と白髪神社の場所が地蔵寺川を渡った目と鼻の先であった。もう1つの目的であった「輪抜け様」を実施している神社である。土佐郡土佐町宮古野(みやこの)。推定樹齢300年以上という4本のスギ巨木が土佐町指定天然記念物に定められている。
6月30日は雨模様の輪抜け様となり、茅の輪の上には雨除けがこしらえてあった。外国人らしき人もカメラを片手に参拝に来ていた。
6月30日は雨模様の輪抜け様となり、茅の輪の上には雨除けがこしらえてあった。外国人らしき人もカメラを片手に参拝に来ていた。
白髪神社は、国道に背を向けるように鎮座している。神社から見ると、国道と反対の向きに、水田内をまっすぐ参道が延びている。結果的に神社の裏口から入って、表参道に抜けることになった。一の鳥居まで行くと、社殿が数本の大杉に埋もれてしまったように見える。
旧郷社ということで、古い歴史を持つ。宮古野の白髪神社の宮元宮司は第41代目になるとか。古文書によると白髪神社の遷座時、初代宮元左近将監は天慶五年(西暦946年)の方であり、長徳寺建立が久安五年(西暦1149年)だとすると、それよりも古いことになる。
白髪神社を後にして、川の駅、湖の駅を経て、細い山道を慎重にドライブしながら村の駅(結の里)にたどり着く。そこで手にしたのは「辰年プレミアムカード」であった。
旧郷社ということで、古い歴史を持つ。宮古野の白髪神社の宮元宮司は第41代目になるとか。古文書によると白髪神社の遷座時、初代宮元左近将監は天慶五年(西暦946年)の方であり、長徳寺建立が久安五年(西暦1149年)だとすると、それよりも古いことになる。
白髪神社を後にして、川の駅、湖の駅を経て、細い山道を慎重にドライブしながら村の駅(結の里)にたどり着く。そこで手にしたのは「辰年プレミアムカード」であった。
宮古野白髮神社
土佐郡森村宮古野に郷社白髪神社がある。同社は同村宮古野、南泉、北泉、土居四ヶ村の總鎮守で昔は白髪大明神と稱した。これは森郷の地頭近江守の氏神であるといはれている。近江守はもと近江の人で戰國の時代流落してこの地に來り、故國の白髪山を移して白髪大明神を勧請したといふ。
古老の傳説によると、昔土居村は長磯村といつて民家僅かに二十軒ばかりの小部落であつたが、何時の頃か、何處からともなく多くの猿どもが部落を襲って来て部落の者共を喰ひ殺して仕舞って、漸く山元に、 住つていた老翁夫妻と容貌美しいぞの一人娘と三人が生き残っていた。ある日阿波の國から一人の武士がやつて来た。即ち森近江である。彼は吉野川に沿うて獵をしながら此處へ辿りつき、この老翁に一夜の宿を申入れたが老翁は此の地は猿の來攻で一人残らず村民は喰い殺されて仕舞ひこの一家三人だけが漸くそ の惨害より免れて今日に到つたがこの先きいかにせんかと今心配して途方にくれていることを告げ、危險な土地故一刻も早く立ち去られよと斷つたが、近江は少しも意に介せず、自分は獣などは何とも思はぬから是非一宿さして呉れとて漸く老翁の許を得てゆつくり旅の疲勞を休めた。その夜果せる哉、老翁のいう通り十二頭の猿がやつて来たので平素手練の腕前、美事に十二頭を打ち取り之を長磯村の前川へ流した所それが段々流の末の阿波に至るまでに一頭づ、十二ヶ所に漂着してその所々で祟をなしたので、その十二の猿を権現と祀り十二権現の社が川筋に十二ヶ所たつている。さうした由来から土居村へ猿が出て来るのを不吉の兆と言ひ傳へてゐる。森近江は老翁の配偶として長磯村を森村と改稱した。
一日森近江は本山鄉行見川の奥なる白髪の老翁に出遭ひ奇瑞を得てから、附近の者どもはこの白髪の老翁を崇敬し白髪山に參詣する者漸次に数を増加して来たので、森、本山、本川の村人らは右三郷の中央の森の中へ社殿を建立して白髪大明神と稱し崇敬祈祀しその所を宮古野と稱したといふ。
(參考)
この神社に長會我部元親父子の署名した棟札が今に殘つて居る所を見ると萬更ただの隠祠でないことが判る。棟札に曰く
天正二年、大旦那秦氏元親、同千雄丸、右願主地頭茗原氏孝顏、同春松丸、神主正重福井神兵衛、北村定安、波越民部
『土佐傳説全集』(津村久茂著、昭和23年)49〜50ページより
『土佐傳説全集』(津村久茂著、昭和23年)49〜50ページより
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2024年、今年も6月30日がやって来た。この日は高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日である。一般的には「夏越の大祓」などと呼ばれる。
県外ではどうなのかと気になっていたところ、愛媛県松山市では同じく6月30日に開催しているとのこと。しかし本来は陰暦の6月30日に行う行事であり、伝統を重んじて陽暦の7月に執り行っているところもあるようだ。
県外ではどうなのかと気になっていたところ、愛媛県松山市では同じく6月30日に開催しているとのこと。しかし本来は陰暦の6月30日に行う行事であり、伝統を重んじて陽暦の7月に執り行っているところもあるようだ。
昨年は初めて「輪抜け様」の輪に加わった高知市神田の三所神社を訪れた。知り合いも「今年は三所神社に行ってみようかな」と言っていた。珍しく今年は日曜日と重なり、例年より賑わいそうな予想もある。穴場の神社を発掘するのも楽しみの1つだ。輪抜け様の日によく雨が降るというジンクスは今年も当てはまりそうである。穢れを洗い流してくれる雨なのかもしれない。
参考までに夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧を紹介しておく。年々グレードアップしてきており、正確でないところもあるかもしれないが、役立ててもらえたら幸いである。
夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧
<神社名> <現住所>
土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮 高知市石立町54
出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29
潮江天満宮 高知市天神町19-20
多賀神社 高知市宝永町8-36
小津神社 高知市幸町9-1
郡頭神社 高知市鴨部上町5−8
三所神社 高知市神田358−1 <new>
高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮 高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社 高知市仁井田3514
大川上美良布神社 香美市香北町韮生野243
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社 高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮 高知市長浜6600
愛宕神社 高知市愛宕山121-1
薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社 高知市大津乙3199
清川神社 高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮 高知市福井町917
本宮神社 高知市本宮町94
多賀神社 高知市宝永町8−36
掛川神社 高知市薊野中町8-30
六條八幡宮 高知市春野町西分3522
仁井田神社 高知市北秦泉寺
熊野神社 南国市久礼田2213
剱尾神社 南国市浜改田2465
椙本神社 吾川郡いの町大国町
三島神社 土佐市高岡丁天神
久礼八幡宮 高岡郡中土佐町久礼
不破八幡宮 四万十市不破
常栄神社 四万十市具同8712番
天神神社は岐阜県瑞穂市居倉にある神社である。旧社格は郷社。倭姫命が滞在した「伊久良河宮(いくらがわのみや)」の跡とされ、元伊勢の一つとなっている。正史『日本書記』や『倭姫命(やまとひめのみこと)世紀』等に次のように書かれている。
「垂仁天皇の時、倭姫命に命ぜられ、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」
垂仁天皇から命を受けた娘の倭姫命が天照大神を祀る地を探し、この地にたどり着いたという。それがいつの時代なのか正確には分からないが、その痕跡はあるのだろうか。『岐阜県の歴史』(2000年)を開いても、それらしいことは何も書かれていない。しかし、周辺地図を確認してみると、方八町程度の正方形の土地の北辺中央に伊久良河宮跡が位置し、南辺を古代官道が通っていた。宮殿らしきものがあってもおかしくないロケーションである。
その跡地に、高皇産霊神・神皇産霊神の天神御二柱を祭神として斉き祀ることから、社号を「天津神神社」と古書に記されている。本来、天神とは学問の神様・菅原道真のことではなく、神代の時代に活躍した天津神のことなのである。相殿に誉田別命、外27柱を合祀する。 神社境内の奥には、神が宿る御船代石(みふなしろいし)と呼ばれる石が2つ安置されている。その北側に天照大神、西側には倭姫命が祀られている。東側の境内社は愛知県や岐阜県などに多い白山神社のようだ。また付近からは神獣鏡の破片(福富茂直宮司所蔵)が出土しており、古い時代の痕跡を確かに残しているようだ。
伊久良河宮跡は、伊勢神宮のふるさととして伊勢神宮から尊崇されており、今でもお使いの方が参拝にいらっしゃるという。
<歴史>
『倭姫命世記』によれば、垂仁天皇10年、倭姫命が天照大神の御霊代を祀る地を探し、淡海国坂田宮より美濃国伊久良河の地にたどり着き、この地に4年滞在したと伝えるが、当神社はこの時伊久良河宮としてこの地に宮殿が造られたのが始まりと伝えられ、また本殿右にある御船代石(みふなしろいし)はその時に天照大神の神輿を安置した跡とも伝える。ちなみにその後、倭姫命は生津から2艘の木船で川を下り、尾張国神戸(現一宮市)にたどり着き、中島宮に滞在することとなる(『世記』)。
社伝によれば、社殿建立以前は一帯が禁足地とされ、御船代石を憑代に祭祀が行われていたというが、御船代石の周囲からは神獣文鏡6面や硬玉製を始めとする30個余りの勾玉が出土しており、古代の祭祀遺跡であると見られている。
江戸時代には旗本の青木氏の崇敬を受け、現在の本殿は元禄年間(1688年ー1704年)の造替である。明治以前は「伊久良河宮 天神宮」や「天津神神社」とも呼ばれていたが、明治6年(1873年)、「天神神社」に改称して郷社に列した。
残暑どころか猛暑続きの日々。神社巡りも厳しい季節だ。今年初めて茅の輪を作り、輪抜け様を行った高知市神田の三所神社。神社通の方ならこの神社名で熊野系の神社ではないかとイメージできるのではないか。
鳥居横の掲示板に御祭神が書かれている。伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、速玉之男大神(はやだまのおのおおかみ)、事解之男大神(ことさかのおのおおかみ)。間違いなく紀州熊野三山の三神が祀られているようだ。三柱の神様を祀ることから三所神社と呼ばれるのだろう。
高知県には多くの熊野神社があり、高知市内にも次のような熊野系神社が目につく。
高知市鷹匠町2-4-26 熊野神社(山内神社境内社)
鳥居横の掲示板に御祭神が書かれている。伊邪那美大神(いざなみのおおかみ)、速玉之男大神(はやだまのおのおおかみ)、事解之男大神(ことさかのおのおおかみ)。間違いなく紀州熊野三山の三神が祀られているようだ。三柱の神様を祀ることから三所神社と呼ばれるのだろう。
高知県には多くの熊野神社があり、高知市内にも次のような熊野系神社が目につく。
高知市鷹匠町2-4-26 熊野神社(山内神社境内社)
高知市比島町2丁目 四社神社・熊野神社
高知市鏡上的渕違野 熊野神社
高知市鏡去坂 熊野十二所神社
高知市鏡的渕 熊野神社
これらに加えて、高知市神田の三所神社も熊野系ということになるだろう。なぜ、熊野神社が多いのか。いつ頃、どういう経緯で高知県に入ってくることになったのか。興味は尽きないが、また回を改めて書いてみたい。
これらに加えて、高知市神田の三所神社も熊野系ということになるだろう。なぜ、熊野神社が多いのか。いつ頃、どういう経緯で高知県に入ってくることになったのか。興味は尽きないが、また回を改めて書いてみたい。
2023年、今年も6月30日がやって来た。この日は高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日である。一般的には「夏越の大祓」などと呼ばれる。県外ではどうなのかと気になっていたところ、愛媛県松山市では同じく6月30日に開催しているとのこと。しかし本来は陰暦の6月30日に行う行事であり、伝統を重んじて陽暦の7月に執り行っているところもある。
今年の注目は何と言っても初登場、高知市神田の三所神社だろう。地域住民の声もあり新たに「輪抜け様」の輪に加わることになった。その意気込みはポスターのクオリティーにも表れている。氏子の人も「三所神社始まって以来初めての輪抜け様」と語る。メダカすくいをはじめとする屋台を準備しているかたわら、フライングして輪抜けをして参拝させてもらった。
今年は気持ちも新たに、いつもと違う輪抜け様となったが、輪抜け様の日によく雨が降るというジンクスもコロナ禍前のことを思い出す。参考までに夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧を紹介しておく。年々グレードアップしてきており、正確でないところもあるかもしれないが、役立ててもらえたら幸いである。
夏越の祓「輪抜け様」実施神社一覧
<神社名> <現住所>
土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1
朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ
石立八幡宮 高知市石立町54
出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29
潮江天満宮 高知市天神町19-20
多賀神社 高知市宝永町8-36
小津神社 高知市幸町9-1
郡頭神社 高知市鴨部上町5−8
三所神社 高知市神田358−1 <new>
三所神社 高知市神田358−1 <new>
高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2
高知八幡宮 高知市はりまや町3丁目8−11
仁井田神社 高知市仁井田3514
大川上美良布神社 香美市香北町韮生野243
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2-136
山内神社 高知市鷹匠町2-4-65
若宮八幡宮 高知市長浜6600
愛宕神社 高知市愛宕山121-1
薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社 高知市大津乙3199
清川神社 高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮 高知市福井町917
本宮神社 高知市本宮町94
多賀神社 高知市宝永町8−36
掛川神社 高知市薊野中町8-30
六條八幡宮 高知市春野町西分3522
仁井田神社 高知市北秦泉寺
熊野神社 南国市久礼田2213
剱尾神社 南国市浜改田2465
椙本神社 吾川郡いの町大国町
三島神社 土佐市高岡丁天神
久礼八幡宮 高岡郡中土佐町久礼
不破八幡宮 四万十市不破
常栄神社 四万十市具同8712番
連続テレビ小説『らんまん』で、主人公・槙野万太郎が幼少期の頃、裏山の神社の境内で天狗の坂本龍馬と会う。ドラマで描かれているのは、慶応3年(西暦1867年)3月の土佐・佐川だ。この頃、史実では下関に滞在していたとされ、第3回では迎えに来た別の侍が「何やりゆうがですか、下関におることになっちゅうがですき」と龍馬を諫めるシーンも盛り込まれている。
「龍馬は作り話ですけんど、天狗のほうは本当に居りました」と、牧野富太郎の生家を案内する地元の観光ガイドは語っていた。生家の近くにある龍淵山・青源寺十三世「愚仲(ぐちゅう)和尚」のことのようだ。明治初頭の苛酷な廃仏毀釈に対して身命を賭して法灯と伽藍を護り抜いた功績により廃絶をまぬがれ、現在の堂宇が今日に伝えられた。裏山で遊ぶ富太郎らに、目玉をくらわせたこともあり、幼い頃の牧野博士に影響を与えた人物とされる。
その舞台となった肝心の裏山の神社とは? 生家の脇から登る階段があった。久しぶりの山登りで境内に上がるまでに完全に息が切れてしまった。身体の弱かった富太郎を鍛えてくれた場所でもあったようだ。
高岡郡佐川町甲の金峰神社(伊奘冉命、外三神)の境内には「文化十三年丙子(1816年)」の年号が刻まれた灯籠も残されている。江戸時代は「午王宮」「産土神社」などと呼ばれていたらしい。「私はその前から植物が好きで、わが家の裏手にある産土神社のある山に登ってよく植物を採ったり、見たりしていたことを憶えている」と『牧野富太郎自叙伝』にも記されている。
いの町といえば映画『竜とそばかすの姫』の舞台にもなったJR伊野駅。そこから徒歩15分ほど行った仁淀川の近くに、歴史ある椙本神社が鎮座する。2023年2月12日(日)は、「いの大黒さま」と親しまれる椙本神社の春の大祭が行われていた。
テレビニュースでも祭の様子が報道されていたようで、「福銭はもらってきた?」と聞かれたが、持ち帰ったのは屋台で買った大判焼き。抹茶、チーズベーコンなどの変わり種の餡入り。
「福銭」というのは、神楽「大国主の舞」で稲穂や小づちを担いだ2体の神が五穀豊穣や一家の円満を願って舞い踊った後に配布するもの。訪れた人たちが向こう一年幸せに暮らせるようにと、祈願した小銭が入った袋のことらしい。
小銭は逃してしまったが大判ゲットで良しとすべきか。
しばらく引きこもりがちであったが、久しぶりに出かけてみると、道沿いに屋台が立ち並んでいる。「犬も歩けば棒に当たる」ではないが、何か神様から呼ばれたような感覚だった。
毎年2月に行われる椙本神社の春の大祭は土佐三大祭りにも数えられている。笹の枝に絵馬や小さな俵をくくりつけた福笹が名物で、朝から地元の人たちが去年の福笹を手に次々と訪れ、奉納しては新しい福笹を買い求める。
参拝者は古くから伝えられている福俵を手に、福をいただきその年の幸せを祈願する。7段飾りの雛人形を背景に福を呼び込む神楽「大国主の舞」は、すでに奉納された後であったが、夕方訪れたときには獅子舞を観ることができた。
毎年2月に行われる椙本神社の春の大祭は土佐三大祭りにも数えられている。笹の枝に絵馬や小さな俵をくくりつけた福笹が名物で、朝から地元の人たちが去年の福笹を手に次々と訪れ、奉納しては新しい福笹を買い求める。
参拝者は古くから伝えられている福俵を手に、福をいただきその年の幸せを祈願する。7段飾りの雛人形を背景に福を呼び込む神楽「大国主の舞」は、すでに奉納された後であったが、夕方訪れたときには獅子舞を観ることができた。
テレビニュースでも祭の様子が報道されていたようで、「福銭はもらってきた?」と聞かれたが、持ち帰ったのは屋台で買った大判焼き。抹茶、チーズベーコンなどの変わり種の餡入り。
「福銭」というのは、神楽「大国主の舞」で稲穂や小づちを担いだ2体の神が五穀豊穣や一家の円満を願って舞い踊った後に配布するもの。訪れた人たちが向こう一年幸せに暮らせるようにと、祈願した小銭が入った袋のことらしい。
小銭は逃してしまったが大判ゲットで良しとすべきか。
遅くなりましたが、新年明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。
長良川の堤防から初日の出を見ながら、白髭(しらひげ)神社(岐阜県大垣市墨俣町)で2023年元旦の初詣。岐阜県長良川沿いには複数の白髭神社が鎮座しているようです。案内板には次のように説明してあります。
▲大垣市墨俣町・白髭神社
長良川の堤防から初日の出を見ながら、白髭(しらひげ)神社(岐阜県大垣市墨俣町)で2023年元旦の初詣。岐阜県長良川沿いには複数の白髭神社が鎮座しているようです。案内板には次のように説明してあります。
白髭神社
(祭神) 猿田彦命もとは白髭大明神と言い、社家今村氏が代々務めていたという。寛文七年(一六六七年)と天和二年(一六八二年)の文書に大明神とあって、明治七年(一八七四年)に白髭社として届け、 明治一二年(一八七九年)に村社となった。続いて明治一三年 (一八八〇)には白髭神社として神社明細帳に記された。 白髭神社は舟運の無事を祈って建てられた神社であって、長良川沿いには多い。
▲大垣市墨俣町・白髭神社
ここは美濃国安八郡式内社の荒方神社(荒方明神)の論社の一つです。元々の位置は現在の犀川河川敷であり、本巣郡と安八郡の境に存在したといいます。墨俣城の北に位置し、境内は一夜城址公園の一部となっています。元日のこの日、公園内で羽根突きをしている姿が見られました。
東隣りにある境内社は豊国神社。これは墨俣城の模擬天守閣(大垣市墨俣歴史資料館)が築かれた際、大阪城公園の豊國神社から分祀したそうです。なお、大阪の豊國神社の祭神は豊臣秀吉、豊臣秀頼、豊臣秀長ですが、豊国神社に分祀された祭神は豊臣秀吉のみとのこと。
初日の出に集まった人々に、地元の方が2023年の干支である兎のストラップを配っていました。新年早々、福を分けていただき、有難い一年のスタートとなりました。
初日の出に集まった人々に、地元の方が2023年の干支である兎のストラップを配っていました。新年早々、福を分けていただき、有難い一年のスタートとなりました。
『はるの暦』(春野地区町内会連合会)の7月の予定を見て、「あきさみよー」「ありえん」と、朝ドラ『ちむどんどん』風の驚きを覚えた。なんと毎日が夏祭りではないか。今日7月17日は、「弘岡上八幡宮夏祭り」「秋山春日神社夏季大祭」「諸木八幡宮夏祭り」と3社で行われている。むしろ祭りのない日が珍しい。強いて言うなら土曜日が少ない? これって、まさかユダヤ教の安息日に仕事をしてはいけないという伝統の影響なのではと、ふと頭をよぎった。
いまだコロナ禍にあって、夜店などの出店はほとんど見られないものの、神事を欠かさず行っているとしたら、さぞかし宮司さんも大忙しだろう。近年は10社以上を兼任される方も多いと聞く。
▲2022年7月の『はるの暦』 |
いまだコロナ禍にあって、夜店などの出店はほとんど見られないものの、神事を欠かさず行っているとしたら、さぞかし宮司さんも大忙しだろう。近年は10社以上を兼任される方も多いと聞く。
さて、『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると、中世における高知県内の「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」と言及している。
八幡社がこのように多いことについて、宮地直一氏の『八幡宮の研究』では、次のような理由を列挙している。
八幡社がこのように多いことについて、宮地直一氏の『八幡宮の研究』では、次のような理由を列挙している。
一 宇佐・男山・鶴岡等の社領に各別宮を設けしこと。なかんずく男山最も広く散布せし結果、その別宮の数最も多かりき。ニ 源氏の分布に従ひ、各地に八幡を設けしこと。三 八幡宮の時めきし結果、あらぬ社をも八幡宮と変更せしこと。四 豊後の諸八幡宮が大友氏に対して執りし政策の如く、一時の権宜より出でしこと。五 応神寺の血脈の神は、八幡と号するに至りしこと。六 寺の鎮守は、その祭神を問はず、八幡と号せしこと。七 武神となりし結果、武家が各地にこれを奉じ、又その居城の鎮守となしたこと。
『はるの暦』にあった「弘岡上八幡宮夏祭り」を見ておこうと思い立って、さてどちらの八幡宮だろうと考えた。吉良城近くの小山に祀られている八幡宮かと思って、竹林の小道を登っていくと、道は整備されていたものの、そこには誰もいなかった。もしかして前に紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈(かまど)神社⑨――春野町弘岡上の八幡宮境内社”なのではないかと思い、再度足を運ぶことにした。それほど近くに、複数の八幡宮が鎮座しているのである。
夕方5時頃に着いてみると、すでに八幡宮夏祭りは終了して、片付けが行われているところだった。帰ろうとする人に「ここには鳥居が3つ並んでいますね」と話しかけると、「氏神様(八幡宮)と竈神社とお伊勢様(神明宮)です」と教えてくださった。竈神社を中心に西側に八幡宮、東側に神明宮という配置については先にも触れたが、どうも大和朝廷が定めた「二所宗廟」に由来するのではないかと思えてきた。
つまり、平安時代に朝廷が八幡宮と伊勢神宮に「二所宗廟」という位置づけを与えた。その二社が地方の神社にも勧請されたというわけだ。九州王朝時代においては、八幡宮の前身として、高良大社ないしは竈門神社が国家の宗廟としての役割を担っていたのではないかと推測している。まず竈神社ありきで、そこに「二所宗廟」としての八幡宮と神明宮が勧請された……。旧郷社でもある高知市春野町弘岡上の八幡宮の祭祀形態がこの仮説を後押ししているかのようだ。宇佐神宮と聖武天皇との関わりはもっと古く、725年に宇佐宮を現在の小倉山に移した際、法蓮という雑密僧が境内に弥勒禅院を建立し、738年には聖武天皇の援助を受け豪華な金堂・講堂が建てられました。仏教と習合した八幡神は八幡大菩薩と呼ばれるようになります。その宇佐神宮を、京都の裏鬼門の守護として西南の男山に勧請したのも、大安寺の僧行教という空海の弟子です。やがて、王城守護鎮護の神、王権・水運の神として朝廷から崇敬されるようになり、伊勢神宮と並び「二所宗廟」と称されました。応神天皇由来の武の神であることから、源頼義により源氏の氏神とされ、武士の世になると鎌倉から全国に拡がりました。今約8万ある神社のうち、最多は稲荷社で2番が八幡社です。(『サンデー世界日報』より)
吾峠呼世晴氏による漫画『鬼滅の刃』が映画化され、テレビアニメ版では「無限列車編」「遊郭編」までが放映された。大正時代の日本を舞台に鬼に家族を殺された少年・竈門炭治郎(かまどたんじろう)と鬼にされてしまった妹・禰豆子(ねずこ)の兄妹が、家族を殺した鬼を倒すため旅に出る冒険物語は絶大な人気を巻き起こした。
主人公の苗字である「竈門(かまど)」と名のつく神社が聖地化され、ファンが多く訪れるなど社会現象となった。全国的にも関連するスポットに注目が集まっており、長野県の竈神社(長野県大町市大町4718)もその一つとしてクローズアップされた。近隣の白馬村には『ねずこの森』という遊歩道があったり、鬼無里村には鬼女伝説があったり。長野県には「ねずみ」関連地名が多く存在することが指摘されている。一説には動物の鼠ではなく、古代官道上に設置された軍事組織「不寝見(ねずみ)」――寝ずの見張りに由来する地名とも考えられている。
さて、今回紹介する高知県の竈土神社(高知市長浜1870)は高知競馬場の南、新川川の北岸に鎮座している。高知県の場合は「竈門」でなく「竈戸」が標準的な表記であり、次いで「竈」が多い。「土」を使う「竈土」の表記は珍しいが、実はブログで紹介するのは2例目である。
主人公の苗字である「竈門(かまど)」と名のつく神社が聖地化され、ファンが多く訪れるなど社会現象となった。全国的にも関連するスポットに注目が集まっており、長野県の竈神社(長野県大町市大町4718)もその一つとしてクローズアップされた。近隣の白馬村には『ねずこの森』という遊歩道があったり、鬼無里村には鬼女伝説があったり。長野県には「ねずみ」関連地名が多く存在することが指摘されている。一説には動物の鼠ではなく、古代官道上に設置された軍事組織「不寝見(ねずみ)」――寝ずの見張りに由来する地名とも考えられている。
さて、今回紹介する高知県の竈土神社(高知市長浜1870)は高知競馬場の南、新川川の北岸に鎮座している。高知県の場合は「竈門」でなく「竈戸」が標準的な表記であり、次いで「竈」が多い。「土」を使う「竈土」の表記は珍しいが、実はブログで紹介するのは2例目である。
以前紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈土(かまど)神社③――横浜新町”は高知競馬場の北側にあって、まさに高知競馬場を南北に挟んで、2つの竈土神社が子午線(子の方角と午の方角を結ぶ南北線)上に鎮座していることになる。なぜ「土」がついているのかは想像でしかないが、大土御祖神を祭神としていることから「土」の字を用いたのではないだろうか。
勝負ごとに「土」がつくのは縁起でもないが、地に足をつけて走る馬であれば問題ないかもしれない。高知競馬のハルウララ(生涯戦績113戦0勝)はむしろ、土をつけすぎて超人気になったくらいだ。当時を知らない世代でも、『ウマ娘 プリティーダービー』でブームが再燃している。
別に縁起を担ぐわけではないが、平安時代中期に編纂された『延喜式』には「鎭竈鳴祭」「御竈祭」などの祭りの名が記されており、竈神のルーツは古く、宮中と関連を持っていたことが分かる。中世、神仏習合の時代には「三宝荒神」として祀られるようになり、明治維新の際の神仏分離政策により、高知県では「三宝荒神」「荒神宮」などに対して、一律「竈戸神社」への名称変更の達しがなされた。
長野県大町市の「竈神社」について見ても、高知県と事情は似通っている。そのルーツは少なくとも鎌倉時代まではさかのぼることができ、当初は三宝荒神社と呼ばれ、地域の人々にも荒神様として親しまれていたようだ。明治に入り新政府により神仏分離令が発せられると、信濃大町の「三宝荒神社」は神道色の強い「竈神社」に名称が改められ、現在に至ったとのこと。
祭神が「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」「奥津彦(おくつひこ)神」「奥津姫(おくつひめ)神」とされているところは、最も標準的といえる。ある面、『古事記』『日本書紀』の神話体系に合わせたような一元的な祭神について、廣江清氏は『長宗我部地検帳の神々』(昭和58年)で、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」と指摘している。むしろ、今回紹介した「竈土神社」の大土御祖神という祭神は「竈の神」としてはマイナーであり、右へ倣いをしておらず、かえって真実味を帯びている。
はたして、竈門(竈戸、竈、竈土)神社の祭神「火の神」とはどのような存在なのだろうか。アニメ版『鬼滅の刃』第19話では、竈門家に「ヒノカミ神楽」が伝承されていたことが描かれている。2021年9月に地上波で初放送された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で「ヒノカミ」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。はやく続編が放映されることを期待しつつ、さらなる調査を進めていきたい。
祭神が「軻遇突智命(かぐつちのみこと)」「奥津彦(おくつひこ)神」「奥津姫(おくつひめ)神」とされているところは、最も標準的といえる。ある面、『古事記』『日本書紀』の神話体系に合わせたような一元的な祭神について、廣江清氏は『長宗我部地検帳の神々』(昭和58年)で、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」と指摘している。むしろ、今回紹介した「竈土神社」の大土御祖神という祭神は「竈の神」としてはマイナーであり、右へ倣いをしておらず、かえって真実味を帯びている。
はたして、竈門(竈戸、竈、竈土)神社の祭神「火の神」とはどのような存在なのだろうか。アニメ版『鬼滅の刃』第19話では、竈門家に「ヒノカミ神楽」が伝承されていたことが描かれている。2021年9月に地上波で初放送された『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』で「ヒノカミ」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。はやく続編が放映されることを期待しつつ、さらなる調査を進めていきたい。
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『探訪―土左の歴史』第20号
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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