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 「高知の弥生時代、文字使用? 県内3遺跡で『すずり』」
 1年以上待ち続けていたニュースが飛び込んできた。福岡県に始まり、山陰・近畿など全国的に弥生時代の硯(すずり)が数多く見つかってきている。その大半は「砥石(といし)」を再鑑定して、実際は硯と判明したものだ。

 高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。
 鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。

 古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。
 高知県立埋蔵文化財センターと南国市教育委員会が、調査結果を発表したのは4月26日。その2日前、「発掘速報展 西野々遺跡」初日(24日)のギャラリートークの時点では、本物の砥石についての展示と解説はあったものの、硯の発見については、まだ極秘にされていたということか。
 弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。
 今後は文字の伝来や文字使用についても、これまでの教科書の記述を大きく改める必要性が出てきそうだ。そもそも建武中元二年(57年)に後漢の光武帝から賜った金印の印文漢委奴國王」が読めていなかったとしたらナンセンスである。
 今回確認された硯は、南国市篠原の埋蔵文化財センターで4月28日~5月8日(土曜休館)、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示される。本当の意味での「速報展」になりそうだ。



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 2022年4月24日から、「発掘速報展 西野々遺跡」(主催:高知県立埋蔵文化財センター)が始まった。西野々と聞いても、地元の人間ですらどこにあるかピンと来ないかもしれない。高知龍馬空港の北西、南国市立香長中学校の西にある丘陵の麓、物部川とその支流により形成された扇状地に立地している。
 高知南国道路の建設に伴い、平成16〜19年度にかけて西野々遺跡の発掘調査が実施された。平成22年度までには、 発掘成果の整理作業を行い 『西野々遺跡Ⅰ〜Ⅲ』の報告書3冊が刊行されている。
 ということは‘発掘速報展’と呼ぶには時間が経ち過ぎている。まあ、今までの慣例でタイトルをつけてしまったということだろうか。けれども初日のギャラリートークでは、新鮮な発見もあったので良しとしよう。
 発掘調査では、弥生時代から中世にかけての竪穴建物跡や掘立柱建物跡、横列や溝、土坑、道路遺構、中世墓などを含めて約2万か所の遺構が確認されている。とりわけ注目したのは幅3~5mの道路遺構である。香長中学校付近で道路遺構が出ているという話は以前から耳にしていたが、詳細はあまり知らなかった。それもそのはず、遺跡名と結びつかなかったのだ。

 古代の建物群と道

 古代においては、調査区の東側を中心に奈良~平安時代前期にかけての約100棟の掘立柱建物跡が確認されています。掘立柱建物は方位を揃えた規格的な建物配置で、大型の建物跡も含まれることから官衙(役所)に関係した施設と考えられます。 出土遺物は、土師器の杯や皿、須恵器の杯や甕、壷、緑釉陶器、石帯などが出土しています。
 建物群の西側には両側に側溝を持った幅3~5mの南北方向の道路遺構が確認されています。 道は少なくとも二時期の使用が確認され、その規模から主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性があります。
 道路遺構の北の延長線上には土佐国府があり、南の方向には、土佐湾が存在することから、国府と浜辺を結ぶような道であったと考えられます。(パンフレットより引用)
 南海道土佐国における古代官道の遺構といえば、「祈年遺跡」における幅6mの南北道。それと昨年の発掘速報展「高田遺跡」の幅10.4mの東西道が注目されている。実は西野々遺跡の道路遺構はそれらに先行して発掘されていたものだ。古代官道とするには道路の規格としてワンランク落ちるようであり、「主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性」と判断している点はうなずける。
 周辺の遺跡群との関連からも、この遺跡が持つ意義は大きい。西野々遺跡の南には、里改田(さとかいだ)遺跡があり、字「道源寺」の地名遺称が残る。これは『続日本紀』天平勝宝八年(756年)、「土左国道原寺」の記載と関連すると考えられている。
 東には、1000人規模ともいわれる弥生時代最大級の田村遺跡群があり、『土佐日記』に書かれた紀貫之の寄港地「おおみなと大湊)」は物部川河口付近に比定される(緒説あり)。北上すれば、長岡評の評衙関連施設ではないかと注目されている若宮ノ東遺跡や法起寺式伽藍配置の野中廃寺跡、そして土佐国府推定地 (土佐国衙跡)に達する。
 遺跡名のインパクトの弱さのせいか、あまり注目されてこなかった「西野々遺跡」に再度目を向けさせた今回の発掘速報展。周辺での新たな発見が相次ぐ中、遅きに失したとはいえ、いいところにスポットを当てたタイムリーな企画だったかもしれない。

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 全国の一級河川の水質ランキングでも連年1位(国土交通省調べ)を記録している奇跡の清流仁淀川。その川沿いに拓けた吾川郡いの町は土佐和紙の産地としても有名である。春先には花見客でにぎわう仁淀川堤防桜堤公園のたもと。相生川が仁淀川に流れ込む川口付近に、いの町では数少ない竈戸神社の一つが鎮座する。
 『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)で紹介されているのは柳瀬上分の一社のみ。『追補版』と合わせて、著者自ら拝観して回った高知県内2622社の中には、33社(本編24+追補9)の竈戸神社(竈神社なども含む)が掲載されているものの、面積に比して、いの町は竈戸神社が少ないように感じる。もしかしたら本に紹介されていない神社がまだあるのかもしれない。
 『鬼滅の刃』ブームと関連して、全国的に竈門神社を聖地化しようという動きが広まった。これまでにも説明してきたように、高知県での標準的な漢字表記は「竈戸神社」である。いの町といえば、細田守監督の映画『竜とそばかすの姫』の舞台にもなった波川(はかわ)公園や伊野駅など、むしろそちらの映画関連の聖地化が進んでいる。

 その土讃線JR伊野駅にも近く、「厩ノ尻」地名のさらに西「池ノ尻」付近に今回紹介する竈戸神社が鎮座する。扁額には「上田神社」「竈戸神社」が併記され、上田家の先祖神と思われる上田明神が合祀されているようだ。

 「〇〇ノ尻」は「〇〇跡」を意味し、「池ノ尻」という地名から、かつて相生川口に池があったと推定される。数年前、朝倉義景氏は紀貫之船出の地は大津(古くは大角)ではなく、地検帳に記載された「カウツ池」のカウツを国府津と考え、長らく信じられてきた従来説を打ち破る新説「土佐国国府要人船出の地についての歴史地理学的考察ー紀貫之ー」(『土佐史談270号』土佐史談会、2019年3月)を提示した。説得力のある説で大いに勉強になったが、一点疑問があって「カウツは川津の可能性はありませんか?」と質問したことがあった。 川口の池は川津に適した場所となり、河川交通の要所となる。「厩ノ尻」との位置関係から仁淀川の渡し舟を係留する川港だったかもしれない。それを裏付けるかのように、この川岸には「いのの大国さま」と言われ、土佐の三大祭りの一社でもある椙本神社の御神体が流れ着いたという伝承もある。

いののかみ この川ぐまに よりたまひし
日をかたらへば ひとのひさしさ
   釈迢空

 近くには中世の荘園制度に由来する地名「今在家」もあることから、有力百姓とそれに連なる小作人で形成された集落があったことが想定される。堤防のすぐ内側にある竈戸神社は今在家の人々によって祀られてきたものだろうか。
 4月20日から「『鬼滅の刃』全集中展 無限列車編・遊郭編」が東京会場で始まった。終了後は6月16日より福岡、7月15日より札幌でも開催される。また、石川、大阪、宮城、広島、愛知の5か所でも開催が予定されているが、なぜか四国上陸はなさそうだ。独自に『鬼滅の刃』ブームと竈門神社の秘密に全集中していきたい。


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 高知市朝倉の西に隣接する“土佐和紙”のメッカ吾川郡いの町。ここには古代官道の駅家(うまや)の存在をにおわせる「馬ヤノシリ」地名がある。アニメ映画『竜とそばかすの姫』の舞台として有名になったJR伊野駅の南西、早稲川西岸で伊野中学校の近くの場所だ。

 岡本健児氏が「地検帳から見た土佐の郡衙」(『土佐史談159号』土佐史談会、昭和57年5月)の中で、吾川郡の郡家を伊野町(現いの町)に比定したのは『長宗我部地検帳』に見える「大リャウ(大領)」などの地名が根拠になっている。それを補足すべく、伊野村地籍図で「厩ノ尻」を確認した後、「大領は県立伊野商業高校北の小高い場所にあり、厩ノ尻は町立伊野中学校の近くである」と結んでいる。

▲おおよそ上が東、左が北
 「〇〇ノ尻」は〇〇跡を意味すると考えられ、「厩ノ尻」は「厩(うまや)跡」ないしは「駅家(うまや)跡」を示す地名遺称として、高知県下に数か所存在している。それが中世のものか、古代まで遡れるかについては慎重に議論すべきところだが、郡家比定地とセットで存在するケースがいくつか見られる。
 南海道の土佐国府に通じる古代官道に関しては、718年以降は阿波国経由。それ以前は伊予国経由であったと考えられている。古い段階の伊予国経由の官道がどこを通っていたかについては、いくつかの説があって、いの町に吾川郡家があり、「厩ノ尻」が古代官道の30里(約16km)ごとに配置された駅家跡であったとすれば、ルートを推定する上で重要な定点となる。
 この経路が有力な点は、土佐神社(一宮)――朝倉神社(二宮)――小村神社(二宮;三宮とする説あり)という歴史ある延喜式内社および国史現在社を経る東西線上にあって、現在もJRや国道33号線が通る比較的直線的な交通路であることだ。小村神社の創建については「勝照二年(587年)」という九州年号で記録されている点は、これまで言及してきた通りである。
 その一方で、古代寺院である大寺廃寺(春野町西分)や野田廃寺(土佐市高岡町丙)はそれよりも南方にある。ともに素弁蓮華文軒丸瓦が出土した7世紀に遡りうる寺院である。他県の事例でも、古代寺院は古代官道付近に建立されることが多く、大寺廃寺跡のさらに南方、春野町秋山に吾川郡家を比定する説も出されている。先の岡本氏自身も大寺廃寺跡付近に郡衙関連施設が発掘される可能性について言及している。
 これらを状況証拠とするならば、高知市春野町(旧吾川郡)――土佐市を経由する南方ルートの可能性も見えてくる。四国八十八か所遍路道が春野町や土佐市を通っていることも、その有力な根拠と考えられる。すなわち古代官道の多くは、後の四国八十八か所遍路道に引き継がれていったという指摘である。
 718年以前の伊予国経由の古代官道がどのようなルートを通っていたか。今後、発掘調査等で明らかになることが期待されるところだが、高知県における‘古代史の争点’の一つである。


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 毎年3月下旬に刊行される「古代に真実を求めて」シリーズの最新刊・古田史学論集第25集『古代史の争点』がついにお目見えした。期待していたイメージとはやや異なっていたが、その内容を簡単に紹介しておこう。追って『新・古代史の扉』や明石書店のホームページ等でも取り上げられることだろう。
古代に真実を求めて
古田史学論集第25集
『古代史の争点 ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―』

<目次>
【特集】
古代史の争点
ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―
◆「邪馬台国」大和説の終焉を告げる
 ー関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』 の気概ー
◆「邪馬台国」が行方不明になった理由
◆伸弥呼・壹與から倭の五王へ
◆二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」
◆聖徳太子と仏教
 ―石井公成氏に問う―
◆「鴻朧寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について
 ―『日本書紀』に於ける所謂「推古朝の遣隋使」の史料批判ー
◆九州王朝と大化の改新
 ー盗まれた伊勢王の即位と常色の改革ー
◆九州王朝の全盛期
 ー伊勢王の評制施行と難波宮造営ー
◆王朝統合と交代の新・古代史
 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
◆王朝交代の真実
 ―称制と禅譲ー
◆中宮天皇
 ー薬師寺は九州王朝の寺ー
コラム①『鬼滅の刃』ブームと竈門神社
コラム②小野妹子と冠位十二階の謎
コラム③教科書から聖徳太子は消えるのか?
コラム④北部九州から出土したカットグラスと分銅



 裏表紙のキャッチコピーは次のような内容になっている。
奴国とされた場所に邪馬壹国はあった
聖徳太子は二人実在した
倭国改革の立役者その名は伊勢王
なぜ薬師寺は二つあったのか?
古代史の争点を多元論で読み解く
 あえて各論考のタイトルのみを記すにとどめておいたが、今回の第25集『古代史の争点』は「古田史学の会・関西」の四天王による共著という色合いが強い。古田史学の中心テーマに絞ったため、バラエティー感には欠けるが、「邪馬台国大和説」の矛盾点を明確に指摘し、「多元史観・九州王朝説」という歴史観を明示し、学術的にはレベルの高いものになっている。

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 「地方史を多元史観で読み解く」――これは簡単なことではない。とりわけ土佐国(高知県)において中世以前にさかのぼれる史料は少なく、古代についてはなおさら希少である。多くの県でかかえている悩みでもあろう。そんな中でも長野県における吉村八洲男氏の研究は、古田史学をベースとした多元的地方史研究の方法論として、大いに参考にさせてもらっている。ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に「科野からの便り」シリーズと題して連載されているので、ご参照いただきたい。
 さて、小村神社(高岡郡日高村下分小村1794)の始鎮「勝照二年」という九州年号の存在は、土佐国古代史を多元史観で読み解く上で嚆矢(こうし)となる発見(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1”)であった。これに対して、「近畿天皇家以外に年号なし」という一元史観の立場から疑問視する向きもあろう。それだけに、その年号が書かれている「貞和三年(1347年)棟札」の文面を実際に見てみたいと思っていた。この棟札は現存する県内棟札最古の「仁治元年(1240年)棟札」に次いで2番目に古いとされる。もちろんそこには、同時代性が疑問視されている「斉明六年棟札」「大宝二年棟札」などは含まれていない。
 そんな折、その棟札の写真が偶然にも『伊野史談50号』(伊野史談会、平成12年3月)に掲載されていたのである。墨書は摩滅が著しく、岡本健児氏は赤外線照射によって棟札に記された文字を確認したとある。「小村神社の仁治・貞和の棟札」と題する論考で、次のように紹介されている。
 「上棟正一位二宮小村大天神造営 番匠左兵衛尉藤原弘次 鍛冶権守掃部員氏 當天神者去勝寶二年當國御影向之後天平寶字三年被始行御船遊……(中略)……
右意趣者生金輪聖王天長地久國吏安穏并将軍家繁昌家門泰平万民快楽乃國法界平等利益    貞和三年丁亥
十一月十五日」

 岡本氏は大意についても、次のように説明している。
 この度、正一位二宮小村大天神の上棟、造営を行なった。大工は左兵衛尉藤原弘次、そして、鍛冶は権守の掃部員氏である。さて、当小村天神社は天平勝宝二年(七五〇)に土佐国に影向(ようごう)している。 影向は神の来現を云う。その後天平宝字三年(七五九)には、始めて御船遊びをされる。……(後略)……
 これを読む限りでは「勝照」年号など、どこにも見当たらない。『土佐国群書類従 巻一』『高岡郡日高村資料調査報告書』など、岡本氏と同様に「當天神者去勝寶二年當國御影向」と記載している活字本も多い。これに対して「當天神者去勝照二年~」というように「勝照二年」と書かれている文書もある。『高知県神社明細帳』および『土佐遺語』(谷秦山、一七〇八年頃成立)などである。
 おそらく原文は「勝照二年」の形であろう。中間的な形態として、「勝照二年」の「照」の字の右横に(宝カ)と註書きしてる文献も存在することから、「勝照」→「勝宝」の書き換えが起きており、一元史観の立場から天平宝字以前で字形の似ている年号に当てはめようとした写し手の判断が見て取れる。しかも初出で「天平」を省略した「勝宝」と表記し、2番目の「天平宝字」年号は省略なしという書き方には矛盾がある。
 写真を見る限りでは、確かに「勝照」か「勝寶」か判断がつかない。とりわけ2文字目はほとんど見えていないようだ。そのため岡本氏は『土佐国蠹簡集木屑』(寛政初年―同六年の間の編)・『南路志』(文化十年編)の同棟札文も参照したと書かれている。どちらも「勝宝」と書かれている文献である。
 しかし、より古い段階では文字が判別できていたはずであり、その意味でも江戸時代前期の儒者・谷重遠(号は秦山、1663~1718年)の『土佐遺語』における「勝照」表記のほうが信頼できると言えるだろう。彼の「小村社造替勧縁疏」では「按古来所傳、小村大天神者、用明天皇二年始鎮坐當國」と考察されており、「勝照二年=用明天皇二年(587年)」説をとっている。原文が「(天平)勝寶二年」だったとしたら、孝謙天皇の治世なので全くのナンセンスである。
 これが根拠となって小村神社の縁起等も用明天皇二年(587年)創建という立場をとっているようだ。けれども九州年号としての「勝照二年」であれば実際は586年であり、1年のずれが生じている。原文が「勝照二年」であることの確認と、その上での正しい歴史像を形成していく必要があるだろう。

 現在、社殿前にある神社の案内板には「用命帝の2年」と誤字が放置されたままになっている。暗に「用明天皇などではない」との気概が込められているのかもしれないが、訂正される際には「勝照二年(586年)」と正しい伝承を伝えてほしいと願う。

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 「5五の位は天王山」という将棋の格言がある。現代将棋では穴熊囲いに代表されるように、低く構えて、細い攻めをつなげ、大さばきを狙う戦い方が主流となり、私が好んで指していた五筋位取り戦法などはすたれてしまった。
 天王山という山は実在していて、最も有名なのは京都府乙訓郡大山崎町にある。かつては西側の山腹を摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、南北朝の争乱や応仁の乱でも、戦略上の要地として奪い合いの舞台となった。なかでも、1582年に織田信長を討った明智光秀と、その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして、「天下分け目の天王山」と表現された。

▲吾川郡いの町天王ニュータウン

 前置きはそれくらいにしておいて、昨年(2021年)9月に『肥さんの夢ブログ』で “日本各地にある「天王」”というタイトルで、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンの地名を紹介していただいた。その際、「いの町の天王は、何に由来するものでしょうか?」との質問をいただいていたが、正確なところが分からず、そのままになっていた。このほど有力な情報が見つかったので報告させていただきたい。
 『伊野史談第50号』(伊野史談会、平成12年)に大岩稔幸氏の「天王・八坂神社建立の経緯」という記事があった。天王という地名について、元伊野町会議員・森沢豊吉翁(平成11年没)の話が紹介されている。「天王地区には天王山、天王ヶ谷という字(ほのぎ)があった。山は削られ、谷は埋められたため、現在は山も谷も消滅している。『天王』という名前は新たに勝手につけた団地名ではない。天王山という山があったので、関係者全員が『天王』という名前がよかろうという事になった」という。
 ここに登場する天王山は関西の山ではなく、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンにおける話である。旧高知八田街道にある鳥越峠に沿って北側に聳える三角に尖った山であった。そしてこの山を含む北側の字をも天王山、下の字を天王ヶ谷といった。この天王山は造成地第一の高地であったが、昭和61年工事が始まって、2ヵ月ではやくもその面影は消失したと記録されている。
 その山にはかつて祇園様(牛頭天王)が祀られていて、後に現在の八田天王島に移転したという。昔は八坂神社と言われていたが、いつの間にか中島神社になった。すなわち、この牛頭天王および天王山が「天王ニュータウン」の地名由来ということになりそうだ。

▲いの町八田の中島神社(祇園様)

 天王ニュータウンは八田地区(吾川郡)と池ノ内地区(旧土佐郡)にまたがって新しく造成された町である。したがって天王地区には産土神(うぶすながみ)としての氏神様というものがなかった。この天王ニュータウンという名称の由来となった「祇園様」を再度天王地区に招来し、氏神様としてお祀りしようという試みがあったが、八田からUターン分祠はかなわず、結局京都の八坂神社からⅠターン御霊分けとなったようだ。
 
平成12年に遷座された天王八坂神社は八田の境谷の東隣りで、天王南七丁目にも接する池ノ内木屋ヶ谷に鎮座する。この八坂神社を天王地名の由来とするには新しすぎると感じていたが、以上のようないきさつがあったわけである。
 昭和29年の市町村合併により、八田も池ノ内も同じ吾川郡伊野町に合併されて、2004年(平成16年)に吾北村、土佐郡本川村を新設合併。その際、現在の平仮名表記「いの町」になった。



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 仁淀ブルーとして県外にも知られるようになった仁淀川。その河口に位置する高知市春野町西畑地区は「西畑人形」の発祥の地である。高知県では人形を「デコ」といい、人形芝居を「デコ芝居」といっていた。明治~大正期には農民が一座を組み、最盛期には34座が活動したという。農閑期には四国内のみならず 中国・九州方面でも興行を行い人気を博した。
 昭和に入って次第に衰退し、戦後は全く見られなくなったが、1996年に「西畑人形芝居保存会」が発足し、春野町西畑の岐(ふなと)神社の夏祭り(旧暦6月25日)などで活動が復活した。西畑バス停の近く、「介護予防施設高知市春野デコの里」の前には「西畑人形発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。

▲春野町西畑の森神社が鎮座する鼓鳴山

 岐神社には何度か足を運んだことがあるが、西畑地区には岐神社の他に、近くに森神社が鎮座しているはずだ。以前来たときは見つけられずに帰ってしまったが、岐神社の春祭りの日の夕刻、何かに誘われるままに森神社へと向かった。山の登り口に森神社の案内板があった。後から知ったことだが、岐の谷の東側の山を鼓鳴山(こめいざん)といい、岐の里では真夜中にこの山から鼓の音が聞こえてくるという話が伝わっている。
 この鼓鳴山の頂き近くに小さいお宮さんがあります。古くから不入〔いらず〕権現〔ごんげん〕と呼んでいますが、文書の上では森神社となっています。祭神は谷の西側にある岐神社の祭神の姉神様だそうです。不入権現というのは、前は女人禁制となっていたからだろうと思いますが、昔から女性がこの山にはいると大雨になる、といわれています。(『はるの昔ばなし』「鼓鳴山」より)
 入山して、はたと困った。道がないのである。断片的には道らしきものがあるが、つながっていない。崩れやすい急な斜面で、倒木もある。正規ルートでないところから入ってしまったのだろうか。滑落する危険も考えないではなかったが、下山するときは分かりやすい道に出れるだろうと期待して、そのまま道なき道を登っていった。
 そこまでして森神社にこだわったことには理由がある。春野一帯を支配していた国人領主としての吉良氏は、戦に敗れて戦国期には衰亡した。吉良氏に与(くみ)した森山氏も森氏へと姓を変えて命脈を保ったとされる。
 実は、その森氏に関係する神社が、春野町西諸木にある2つの神社「森神社」「御山所神社」ではないかという推測があった。まるで、かつての「森山」姓を「森」と「山」に分けて祀っているかのようである。ブログで紹介した際は私年号をテーマとして、“「天政」年号を刻んだ手水鉢――高知市春野町西諸木の森神社”、“御山所神社にもう一つの「天晴」年号――高知市春野町西諸木”という形で取り上げた。実際に西諸木には数軒の「森」さんが住んでおられるようだ。機会があれば森山氏をルーツとしているかどうか調べてみたい思いもある。
 一方、西畑の森神社はどうなのか。森神社を山に祀るという点でいえば、これも「森山」につながるという連想もできる。しかしながら、西畑地区では森姓は電話帳にも出ていない。

 道なき山の急斜面を尾根まで登ると参道らしき道が現れた。少し行くと、扁額に「森神社」と書かれた鳥居がある。その左脇の立て札にも何か記されていた。「奉納 天晴一五三年五月吉日予定 芳実」ーー知識がなければ意味するところが分からないことだろう。「天晴一五三年」とはいつのことなのか?

 これに関してはピンと来るものがあった。幕末土佐で使用された私年号である。もちろん国家主権が定めた正規の年号ではないが、土佐では明治維新よりも1年早く、天晴年号が民間で用いられた。すなわち天晴元年=1867年ということが知られている。当然ながら「天晴一五三年」などは架空の年号ということになるが、春野町西諸木の森神社や御山所神社の「天政」「天晴」年号を知る人のウイットか、あるいはルーツや思想を共有する者たちによる何らかの意図が感じられた。
 一応「天晴一五三年」がいつになるか計算してみると、1867年を元年として、1867+153-1=2019年。ほんの3年前だ。現在では西畑の森神社は夏祭りしか行われていないと聞く。
 さて、夕日も傾き、暗くなる前に下山しようと道を探したが、やはり迷ってしまった。登ってきたルートよりもさらに南方の山の急斜面を恐る恐る下っていった。標高がさほど高くなく、無事民家の脇道に出られたから良かったものの、あまり人に勧められたものではない。けれども今回、「天晴」年号を用いた幕末土佐の志士たちの精神が春野町西畑の地にも受け継がれていることを垣間見た気がした。


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 これまで『皆山集』(高知県立図書館発行:原本は明治時代、高知県庁で高知県史料などの編さんに従事していた松野尾章行が集録した史料集)をメインに、いわゆる「九州年号」を発見してきた。一方、1815年(文化十ニ年)高知城下朝倉町、武藤到和・平道父子が中心となり編纂された『南路志』には「九州年号」はないだろうと思っていた。もちろん『日本書紀』からの引用としての「白鳳」などは随所に見られるが、それはものの数には入れられない。同様に「天武天皇朱鳥元年八月丁丑、為天皇體不豫、祈于神祇」(『南路志 第1巻』P167)なども、『日本書紀』の引用としての「朱鳥元年」であるからノーカウントだ。
 ところが、それに続いて「同書曰 持統天皇朱鳥三年七月辛未、流偽兵衛、河内國澁川郡人、柏原廣山、于土左國」とある。配流に関する記事だ。この「朱鳥三年」とは何なのだろうか。


 現在の『日本書紀』によるならば、天武天皇十五年(686年)に朱鳥元年となっており、朱鳥の元号はこの年限りで、翌年からは持統天皇元年になる。しかし、『万葉集』左注が引用した日本紀の記述に持統天皇の時代の記事に対してまで、朱鳥の元号(朱鳥四年、六~八年)が用いられているのである。
 万葉集に引用された日本紀は、現存日本書紀そのものではなく、寧ろ年の干支や朱鳥の年号などが書かれてあった本ではなかったのか。あるいはまだ一部に整理整頓の残されていた未完成な草稿本のようなものであったのかもしれない。(並木宏衛氏 「万葉集巻雑歌と日本書紀」より)
 これに対し、『南路志』では「持統天皇朱鳥三年」として持統天皇三年の記事をそのまま引用していることから、編者は「朱鳥三年=持統天皇三年」つまり朱鳥は持統天皇の年号のようにとらえていることが判断できる。これは江戸時代における尊皇派の儒者の思想によるものだろうか。土佐南学派の谷秦山(重遠)が「勝照二年=用明天皇二年」と考えたこと(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1”)と背景が似ている。すなわち、「天皇家以外に年号なし」という一元史観に基づく歴史認識である。

 だが、問題はそれだけにとどまらない。“朱鳥二年の天満宮の宝刀はいずこへ①”で紹介したように、潮江天満宮の宝刀に「朱鳥二年」が刻まれていることが『皆山集①』に記録されている。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)
「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀   土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有   匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
 これが本物であれば金石文扱いの一級史料となるが、仮に偽造されたものであったとしても、それが製造された時点で朱鳥年号が元年だけではないという認識があったことになる。『南路志』の「持統天皇朱鳥三年」についても同様のことが言える。すなわち、朱鳥年号は元年のみでなく、複数年続いたという認識である。
 『日本書紀』編者は隠そうと試みたかもしれないが、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』などいくつかの文献にその痕跡が残っており、抹消することはできなかったようである。近畿天皇家に先行する九州王朝による「九州年号」の痕跡を……。持統天皇、文武天皇は改元を行わず、通説では「大宝」建元(701年)までの15年にわたって元号は断絶したことになっている。
 

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 “高知市春野町「宝司部(ほしぶ)」地名の謎”と銘打って、地元ネタで長々と論じてしまった。そろそろまとめておこう。最も有力な結論としては「保司分」由来ということになりそうだ。他の可能性も消えたわけではないが、中世的所領単位「保」の管理者である保司の所領「保司分」が「宝司部」地名のルーツであったと考える。これが論理的にも史料的状況からも一番可能性の高い結論として提示したい。
 では、実際に「保司分」という言葉が使用された例が存在するのであろうか。正平十五年(1360年)に書かれた「塔婆丸船差荷支配状」(東大寺文書二十一<一四五七>)を見ると、「得善保司分」「安田保司分」などの記載がある。使用例としては、やや意味を異にするようだが、14世紀当時は普通に使われていた言葉だったことが分かる。16世紀の『長宗我部地検帳』との時代的な隔たりも、適当な距離感ではないだろうか。
▲「塔婆丸船差荷支配状」正平十五(1360)年

 また、開発を受け負った在地領主が保司の下で公文職に任じられたとされる。春野町には「公文」姓の方がおられ、『長宗我部地検帳』にもすでに「公文孫九良」などの名が見える。職業から苗字に転化したパターンである。プロ棋士の羽生善治永生7冠、山下敬吾九段などがお世話になったという「やってて良かった公文式」の公文公(1914ー1995年)社長も高知県出身である。さらには「宝司部」地区の大半が屋敷地となっていたことからも、保司の所領としてふさわしい価値の高い土地であったと考えられる。


▲門屋貫助屋敷跡

 その西側にある春野町西分一帯は縄文・弥生時代からの遺跡も多く、古代寺院・大寺廃寺の存在も知られており、古くから拓かれていたことが分かる。これに対して、東側の低湿地で開墾に労力を要したと推測される芳原方面が「保」として開発の対象となったのではないだろうか。
 もともと荒野の開発は三年間の「地利免除」、「雑公事免除」をうけ、開発後は開発者をもってその土地の主とする慣習が、十二世紀に一般化しており、開発された田地をもって給田にあて、また年貢・公事を免ぜられた馬上免とすることがしばしばみられるのは、そうした慣習にもとづくものであったことはいうまでもない。しかしそうした慣習を足場にして、在地領主の開発に強力な保障を与えたのは鎌倉幕府――源頼朝であった。(『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』P119より、網野善彦著、2008年)
 この春野町芳原周辺一帯を「保」として開墾していく、まさに橋頭保となったのが「宝司部」地区だったと考えられる。その時期がいつ頃であったかを検証するのが今後の課題でもあり、春野町の歴史を解き明かしていく上で重要な問題となってきそうだ。
 当初期待していた古代までは遡(さかのぼ)れないようであるが、地名遺称「宝司部」には、その名の通りに春野町の歴史をひもとく宝が隠されていた。「宝司部」は中世の所領「保司分」に由来する地名だったのである。『長宗我部地検帳』の段階では、既にその制度はすたれ、地名化してホノギ「ホウシフン(分)」として記録されることとなった。やがて、その意味は忘れ去られ、音のみが伝えられ、好字に置き換えられて現代に至ったのだろう。


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朱儒国民
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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