高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。
鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。
古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。
弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。
2022年4月24日から、「発掘速報展 西野々遺跡」(主催:高知県立埋蔵文化財センター)が始まった。西野々と聞いても、地元の人間ですらどこにあるかピンと来ないかもしれない。高知龍馬空港の北西、南国市立香長中学校の西にある丘陵の麓、物部川とその支流により形成された扇状地に立地している。
古代の建物群と道
古代においては、調査区の東側を中心に奈良~平安時代前期にかけての約100棟の掘立柱建物跡が確認されています。掘立柱建物は方位を揃えた規格的な建物配置で、大型の建物跡も含まれることから官衙(役所)に関係した施設と考えられます。 出土遺物は、土師器の杯や皿、須恵器の杯や甕、壷、緑釉陶器、石帯などが出土しています。
建物群の西側には両側に側溝を持った幅3~5mの南北方向の道路遺構が確認されています。 道は少なくとも二時期の使用が確認され、その規模から主要な官道(本線)に繋がるような枝道 (支線) であった可能性があります。
道路遺構の北の延長線上には土佐国府があり、南の方向には、土佐湾が存在することから、国府と浜辺を結ぶような道であったと考えられます。(パンフレットより引用)
東には、1000人規模ともいわれる弥生時代最大級の田村遺跡群があり、『土佐日記』に書かれた紀貫之の寄港地「おおみなと(大湊)」は物部川河口付近に比定される(緒説あり)。北上すれば、長岡評の評衙関連施設ではないかと注目されている若宮ノ東遺跡や法起寺式伽藍配置の野中廃寺跡、そして土佐国府推定地 (土佐国衙跡)に達する。
全国の一級河川の水質ランキングでも連年1位(国土交通省調べ)を記録している奇跡の清流仁淀川。その川沿いに拓けた吾川郡いの町は土佐和紙の産地としても有名である。春先には花見客でにぎわう仁淀川堤防桜堤公園のたもと。相生川が仁淀川に流れ込む川口付近に、いの町では数少ない竈戸神社の一つが鎮座する。
『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)で紹介されているのは柳瀬上分の一社のみ。『追補版』と合わせて、著者自ら拝観して回った高知県内2622社の中には、33社(本編24+追補9)の竈戸神社(竈神社なども含む)が掲載されているものの、面積に比して、いの町は竈戸神社が少ないように感じる。もしかしたら本に紹介されていない神社がまだあるのかもしれない。
『鬼滅の刃』ブームと関連して、全国的に竈門神社を聖地化しようという動きが広まった。これまでにも説明してきたように、高知県での標準的な漢字表記は「竈戸神社」である。いの町といえば、細田守監督の映画『竜とそばかすの姫』の舞台にもなった波川(はかわ)公園や伊野駅など、むしろそちらの映画関連の聖地化が進んでいる。
その土讃線JR伊野駅にも近く、「厩ノ尻」地名のさらに西「池ノ尻」付近に今回紹介する竈戸神社が鎮座する。扁額には「上田神社」「竈戸神社」が併記され、上田家の先祖神と思われる上田明神が合祀されているようだ。
「〇〇ノ尻」は「〇〇跡」を意味し、「池ノ尻」という地名から、かつて相生川口に池があったと推定される。数年前、朝倉義景氏は紀貫之船出の地は大津(古くは大角)ではなく、地検帳に記載された「カウツ池」のカウツを国府津と考え、長らく信じられてきた従来説を打ち破る新説「土佐国国府要人船出の地についての歴史地理学的考察ー紀貫之ー」(『土佐史談270号』土佐史談会、2019年3月)を提示した。説得力のある説で大いに勉強になったが、一点疑問があって「カウツは川津の可能性はありませんか?」と質問したことがあった。 川口の池は川津に適した場所となり、河川交通の要所となる。「厩ノ尻」との位置関係から仁淀川の渡し舟を係留する川港だったかもしれない。それを裏付けるかのように、この川岸には「いのの大国さま」と言われ、土佐の三大祭りの一社でもある椙本神社の御神体が流れ着いたという伝承もある。
いののかみ この川ぐまに よりたまひし
日をかたらへば ひとのひさしさ
釈迢空
近くには中世の荘園制度に由来する地名「今在家」もあることから、有力百姓とそれに連なる小作人で形成された集落があったことが想定される。堤防のすぐ内側にある竈戸神社は今在家の人々によって祀られてきたものだろうか。
4月20日から「『鬼滅の刃』全集中展 無限列車編・遊郭編」が東京会場で始まった。終了後は6月16日より福岡、7月15日より札幌でも開催される。また、石川、大阪、宮城、広島、愛知の5か所でも開催が予定されているが、なぜか四国上陸はなさそうだ。独自に『鬼滅の刃』ブームと竈門神社の秘密に全集中していきたい。
▲おおよそ上が東、左が北 |
この経路が有力な点は、土佐神社(一宮)――朝倉神社(二宮)――小村神社(二宮;三宮とする説あり)という歴史ある延喜式内社および国史現在社を経る東西線上にあって、現在もJRや国道33号線が通る比較的直線的な交通路であることだ。小村神社の創建については「勝照二年(587年)」という九州年号で記録されている点は、これまで言及してきた通りである。
その一方で、古代寺院である大寺廃寺(春野町西分)や野田廃寺(土佐市高岡町丙)はそれよりも南方にある。ともに素弁蓮華文軒丸瓦が出土した7世紀に遡りうる寺院である。他県の事例でも、古代寺院は古代官道付近に建立されることが多く、大寺廃寺跡のさらに南方、春野町秋山に吾川郡家を比定する説も出されている。先の岡本氏自身も大寺廃寺跡付近に郡衙関連施設が発掘される可能性について言及している。
これらを状況証拠とするならば、高知市春野町(旧吾川郡)――土佐市を経由する南方ルートの可能性も見えてくる。四国八十八か所遍路道が春野町や土佐市を通っていることも、その有力な根拠と考えられる。すなわち古代官道の多くは、後の四国八十八か所遍路道に引き継がれていったという指摘である。
718年以前の伊予国経由の古代官道がどのようなルートを通っていたか。今後、発掘調査等で明らかになることが期待されるところだが、高知県における‘古代史の争点’の一つである。
古田史学論集第25集
<目次>
ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―
―石井公成氏に問う―
◆「鴻朧寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について
ー盗まれた伊勢王の即位と常色の改革ー
ー伊勢王の評制施行と難波宮造営ー
―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
―称制と禅譲ー
ー薬師寺は九州王朝の寺ー
コラム②小野妹子と冠位十二階の謎
コラム③教科書から聖徳太子は消えるのか?
コラム④北部九州から出土したカットグラスと分銅
裏表紙のキャッチコピーは次のような内容になっている。
奴国とされた場所に邪馬壹国はあった
聖徳太子は二人実在した
倭国改革の立役者その名は伊勢王
なぜ薬師寺は二つあったのか?
古代史の争点を多元論で読み解く
この度、正一位二宮小村大天神の上棟、造営を行なった。大工は左兵衛尉藤原弘次、そして、鍛冶は権守の掃部員氏である。さて、当小村天神社は天平勝宝二年(七五〇)に土佐国に影向(ようごう)している。 影向は神の来現を云う。その後天平宝字三年(七五九)には、始めて御船遊びをされる。……(後略)……
天王山という山は実在していて、最も有名なのは京都府乙訓郡大山崎町にある。かつては西側の山腹を摂津国(現在の大阪府)と山城国(現在の京都府)の国境がよぎり、南北朝の争乱や応仁の乱でも、戦略上の要地として奪い合いの舞台となった。なかでも、1582年に織田信長を討った明智光秀と、その仇討ちを果たそうとする羽柴秀吉が戦った山崎の戦いでは、この山を制した方が天下を取ることになるとして、「天下分け目の天王山」と表現された。
▲吾川郡いの町天王ニュータウン |
前置きはそれくらいにしておいて、昨年(2021年)9月に『肥さんの夢ブログ』で “日本各地にある「天王」”というタイトルで、高知県吾川郡いの町天王ニュータウンの地名を紹介していただいた。その際、「いの町の天王は、何に由来するものでしょうか?」との質問をいただいていたが、正確なところが分からず、そのままになっていた。このほど有力な情報が見つかったので報告させていただきたい。
その山にはかつて祇園様(牛頭天王)が祀られていて、後に現在の八田天王島に移転したという。昔は八坂神社と言われていたが、いつの間にか中島神社になった。すなわち、この牛頭天王および天王山が「天王ニュータウン」の地名由来ということになりそうだ。
▲いの町八田の中島神社(祇園様) |
天王ニュータウンは八田地区(吾川郡)と池ノ内地区(旧土佐郡)にまたがって新しく造成された町である。したがって天王地区には産土神(うぶすながみ)としての氏神様というものがなかった。この天王ニュータウンという名称の由来となった「祇園様」を再度天王地区に招来し、氏神様としてお祀りしようという試みがあったが、八田からUターン分祠はかなわず、結局京都の八坂神社からⅠターン御霊分けとなったようだ。
平成12年に遷座された天王八坂神社は八田の境谷の東隣りで、天王南七丁目にも接する池ノ内木屋ヶ谷に鎮座する。この八坂神社を天王地名の由来とするには新しすぎると感じていたが、以上のようないきさつがあったわけである。
昭和に入って次第に衰退し、戦後は全く見られなくなったが、1996年に「西畑人形芝居保存会」が発足し、春野町西畑の岐(ふなと)神社の夏祭り(旧暦6月25日)などで活動が復活した。西畑バス停の近く、「介護予防施設高知市春野デコの里」の前には「西畑人形発祥之地」と刻まれた大きな石碑が建っている。
▲春野町西畑の森神社が鎮座する鼓鳴山 |
岐神社には何度か足を運んだことがあるが、西畑地区には岐神社の他に、近くに森神社が鎮座しているはずだ。以前来たときは見つけられずに帰ってしまったが、岐神社の春祭りの日の夕刻、何かに誘われるままに森神社へと向かった。山の登り口に森神社の案内板があった。後から知ったことだが、岐の谷の東側の山を鼓鳴山(こめいざん)といい、岐の里では真夜中にこの山から鼓の音が聞こえてくるという話が伝わっている。
この鼓鳴山の頂き近くに小さいお宮さんがあります。古くから不入〔いらず〕権現〔ごんげん〕と呼んでいますが、文書の上では森神社となっています。祭神は谷の西側にある岐神社の祭神の姉神様だそうです。不入権現というのは、前は女人禁制となっていたからだろうと思いますが、昔から女性がこの山にはいると大雨になる、といわれています。(『はるの昔ばなし』「鼓鳴山」より)入山して、はたと困った。道がないのである。断片的には道らしきものがあるが、つながっていない。崩れやすい急な斜面で、倒木もある。正規ルートでないところから入ってしまったのだろうか。滑落する危険も考えないではなかったが、下山するときは分かりやすい道に出れるだろうと期待して、そのまま道なき道を登っていった。
実は、その森氏に関係する神社が、春野町西諸木にある2つの神社「森神社」「御山所神社」ではないかという推測があった。まるで、かつての「森山」姓を「森」と「山」に分けて祀っているかのようである。ブログで紹介した際は私年号をテーマとして、“「天政」年号を刻んだ手水鉢――高知市春野町西諸木の森神社”、“御山所神社にもう一つの「天晴」年号――高知市春野町西諸木”という形で取り上げた。実際に西諸木には数軒の「森」さんが住んでおられるようだ。機会があれば森山氏をルーツとしているかどうか調べてみたい思いもある。
一方、西畑の森神社はどうなのか。森神社を山に祀るという点でいえば、これも「森山」につながるという連想もできる。しかしながら、西畑地区では森姓は電話帳にも出ていない。
これに関してはピンと来るものがあった。幕末土佐で使用された私年号である。もちろん国家主権が定めた正規の年号ではないが、土佐では明治維新よりも1年早く、天晴年号が民間で用いられた。すなわち天晴元年=1867年ということが知られている。当然ながら「天晴一五三年」などは架空の年号ということになるが、春野町西諸木の森神社や御山所神社の「天政」「天晴」年号を知る人のウイットか、あるいはルーツや思想を共有する者たちによる何らかの意図が感じられた。
一応「天晴一五三年」がいつになるか計算してみると、1867年を元年として、1867+153-1=2019年。ほんの3年前だ。現在では西畑の森神社は夏祭りしか行われていないと聞く。
さて、夕日も傾き、暗くなる前に下山しようと道を探したが、やはり迷ってしまった。登ってきたルートよりもさらに南方の山の急斜面を恐る恐る下っていった。標高がさほど高くなく、無事民家の脇道に出られたから良かったものの、あまり人に勧められたものではない。けれども今回、「天晴」年号を用いた幕末土佐の志士たちの精神が春野町西畑の地にも受け継がれていることを垣間見た気がした。
ところが、それに続いて「同書曰 持統天皇朱鳥三年七月辛未、流偽兵衛、河内國澁川郡人、柏原廣山、于土左國」とある。配流に関する記事だ。この「朱鳥三年」とは何なのだろうか。
現在の『日本書紀』によるならば、天武天皇十五年(686年)に朱鳥元年となっており、朱鳥の元号はこの年限りで、翌年からは持統天皇元年になる。しかし、『万葉集』左注が引用した日本紀の記述に持統天皇の時代の記事に対してまで、朱鳥の元号(朱鳥四年、六~八年)が用いられているのである。
万葉集に引用された日本紀は、現存日本書紀そのものではなく、寧ろ年の干支や朱鳥の年号などが書かれてあった本ではなかったのか。あるいはまだ一部に整理整頓の残されていた未完成な草稿本のようなものであったのかもしれない。(並木宏衛氏 「万葉集巻雑歌と日本書紀」より)これに対し、『南路志』では「持統天皇朱鳥三年」として持統天皇三年の記事をそのまま引用していることから、編者は「朱鳥三年=持統天皇三年」つまり朱鳥は持統天皇の年号のようにとらえていることが判断できる。これは江戸時代における尊皇派の儒者の思想によるものだろうか。土佐南学派の谷秦山(重遠)が「勝照二年=用明天皇二年」と考えたこと(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1~4”)と背景が似ている。すなわち、「天皇家以外に年号なし」という一元史観に基づく歴史認識である。
だが、問題はそれだけにとどまらない。“朱鳥二年の天満宮の宝刀はいずこへ①~③”で紹介したように、潮江天満宮の宝刀に「朱鳥二年」が刻まれていることが『皆山集①』に記録されている。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
『日本書紀』編者は隠そうと試みたかもしれないが、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』などいくつかの文献にその痕跡が残っており、抹消することはできなかったようである。近畿天皇家に先行する九州王朝による「九州年号」の痕跡を……。持統天皇、文武天皇は改元を行わず、通説では「大宝」建元(701年)までの15年にわたって元号は断絶したことになっている。
では、実際に「保司分」という言葉が使用された例が存在するのであろうか。正平十五年(1360年)に書かれた「塔婆丸船差荷支配状」(東大寺文書二十一<一四五七>)を見ると、「得善保司分」「安田保司分」などの記載がある。使用例としては、やや意味を異にするようだが、14世紀当時は普通に使われていた言葉だったことが分かる。16世紀の『長宗我部地検帳』との時代的な隔たりも、適当な距離感ではないだろうか。
▲「塔婆丸船差荷支配状」正平十五(1360)年 |
また、開発を受け負った在地領主が保司の下で公文職に任じられたとされる。春野町には「公文」姓の方がおられ、『長宗我部地検帳』にもすでに「公文孫九良」などの名が見える。職業から苗字に転化したパターンである。プロ棋士の羽生善治永生7冠、山下敬吾九段などがお世話になったという「やってて良かった公文式」の公文公(1914ー1995年)社長も高知県出身である。さらには「宝司部」地区の大半が屋敷地となっていたことからも、保司の所領としてふさわしい価値の高い土地であったと考えられる。
▲門屋貫助屋敷跡 |
もともと荒野の開発は三年間の「地利免除」、「雑公事免除」をうけ、開発後は開発者をもってその土地の主とする慣習が、十二世紀に一般化しており、開発された田地をもって給田にあて、また年貢・公事を免ぜられた馬上免とすることがしばしばみられるのは、そうした慣習にもとづくものであったことはいうまでもない。しかしそうした慣習を足場にして、在地領主の開発に強力な保障を与えたのは鎌倉幕府――源頼朝であった。(『網野善彦著作集第三巻 荘園公領制の構造』P119より、網野善彦著、2008年)
当初期待していた古代までは遡(さかのぼ)れないようであるが、地名遺称「宝司部」には、その名の通りに春野町の歴史をひもとく宝が隠されていた。「宝司部」は中世の所領「保司分」に由来する地名だったのである。『長宗我部地検帳』の段階では、既にその制度はすたれ、地名化してホノギ「ホウシフン(分)」として記録されることとなった。やがて、その意味は忘れ去られ、音のみが伝えられ、好字に置き換えられて現代に至ったのだろう。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。