高知市春野町西諸木にも雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう遍路道が通っている。町内を通る遍路道は狭く、駐車警告の張り紙もある。一見、こんな細道がかつての古代官道とはとても思えない。だが、まったく可能性がないわけではない。全国的に見てもかつての古代官道の道幅が広すぎるため、後代に道を狭められたというケースが多々ある。ここ西諸木の遍路道も水路や歩道に一部が変えられているが、かつては3m以上の道幅があったのではないかと思わされるような場所もある。
それはさておき、“幕末土佐で使われた私年号「天晴」”で紹介したように、高知県内には、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」という私年号が刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。
▲「天政」年号を刻んだ手水鉢(春野町西諸木の森神社) |
①鎮守の森、②(通常は南北に)まっすぐ伸びた参道、③目印の鳥居ーーなど、これらの特徴が地図や地形から読み取れるものだ。だが、森神社に関しては①鎮守の森も②参道も見当たらない。かろうじて③鳥居はあるものの、遠くからは目立たない。まるで目立たないように隠しているかのようである。
けれども前を通り過ぎようとしたとき、これだというインスピレーションがあった。「森神社」と書かれた扁額などもない。それでも、すぐに私年号を刻んだ手水鉢を発見することができた。「奉献 天政元卯歳 九月吉日 惣中」――間違いなさそうである。広く使用された「天晴」ではなく「天政」という漢字一字違いの年号である。同じ西諸木にある御山所神社(御山所宮)の狛犬には「天晴元卯九月令日 氏子中」とあり、すぐ近くで漢字表記が異なるのは不思議である。どのような事情・背景があったのだろうか。
夏至の日はともすれば、父の日と同様、あまり気付かれないままに過ぎ去っていく。それに対して春分の日や秋分の日は国民の祝日であり、また彼岸の中日ということもあって、わりと馴染み深い。「昼と夜の長さが等しくなる日」「太陽が真東から昇り真西に沈む」といった定義は現代人には明確で分かりやすいと感じるかもしれないが、古代の人々にとってはどうだったのだろうか。
時計がなく方位磁針もない時代に、昼と夜の時間や真東・真西というものをどう認識するのだろうか。逆に太陽や星座の観測を通してそれらを知ろうとしたことが、古代の遺跡などを調べることによって推し量ることができる。
とりわけ三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など縄文時代の遺跡の多くは冬至や夏至の日を意識して造られているように見える(“縄文人はカレンダーを持っていたか?”)。方位磁針があっても真東や真西は正確には見つけにくい。磁北そのものが真北とは一致していないからである。それに比べると、日の出や日の入りが最も南寄りになる冬至の日は長期間にわたって日々の観測を怠らなければ、わりと正確に割り出せることだろう。
それは夏至の日でも条件は同じと思われるかもしれない。日の出・日の入りが最も北寄りになる日を見つければよいわけである。しかし、6月は梅雨シーズンである。雨の日が多ければ日の出・日の入りの観測は難しくなる。よって夏至の日よりは雨が少ない12月の冬至の日のほうが観測にはより適していると言えるだろう。
『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。
さて、一年を2つに分ける際に、①春分から秋分、秋分から春分をそれぞれ一年とした。②冬至から夏至、夏至から冬至をそれぞれ1年とした。ーー他にも可能性はあるだろうが、大きくはこの2説に分けられるのではなかろうか。どちらが実態に即しているだろうか。
ブログ<sanmaoの暦歴徒然草>では、次のように言及している。私も②なのではないかと考えてきたので、この意見には大いに同意するところがある。
ただ一つ、私見を述べれば「春分点と秋分点で日数を分割するのが観測方法からも簡単である」という見解には同意できません。「暦法」は長い間、太陽年(回帰年)を「冬至から次の冬至までの日数」としてきました。それは観測方法が簡単で間違い難いからです。冬至から夏至までを「春年」、夏至から冬至までを「秋年」とした、これが私の見解です。『魏略』の「春耕秋収」によって春・秋を出発点とする考えには同意できません(文献と天文学・暦部のどちらをとるかという観点から)。
また、春分・秋分の日とお彼岸・お墓参りが関連付けられるのは、仏教伝来以降と考えられることから、それ以前、悠久なる縄文時代においては、やはり春分・秋分の日よりも冬至・夏至の日、とりわけ冬至の日が一年の変わり目として意識されていたのではなかろうか。西洋のクリスマスでさえ、元来は冬至の祭りに上書きされたものとの話もあるように、洋の東西を問わず、冬至の日が一年の変わり目となっていた可能性が高い。その対極にあって二倍年暦のもう一方の起点になっていたのが夏至の日だったと考えるが、いかがであろうか。
“安芸郡安田町東島の城八幡宮にも高良玉垂命”で紹介したように、安田町東島の八幡宮には本尊として阿弥陀如来が安置されているが、御祭神は「応神天皇、神功皇后、高良玉垂命」なのである。この「高良玉垂命」と記載されている横に、あろうことか「たからたまだれのみこと」とルビが振られているのだ。あえてルビを振るからには、何か明確な根拠があるのだろうか。本尊 木造 阿弥陀如来立像
像高七九・二 寄木造(室町時代)創建不詳。
『南路志』に「弥陀八幡城 社記云 安田地頭三河守居城鎮守之由」と見える。祭神応神天皇、神功皇后、高良玉垂命。安田三河守の居城跡に建つ。
筑後国一宮・高良大社に倣(なら)えば、当然「こうらたまたれのみこと」「こうらじんじゃ」のはずである。しかし、本場九州でも久留米の人々は高良大社のことを「タカガミさん」と呼んでいるという話が『伊勢神宮の向こう側』(室伏志畔著、1997年)110頁で紹介されている。頭ごなしに間違いだと否定することは避けておこう。
ところが、『新安田文化史』よりも古い『安田文化史』(安岡大六・松本保共著、昭和27年)の段階ではルビはついていなかった。『新安田文化史』は安岡大六氏の弟子が『安田文化史』を元に新たな資料も加えて編集したようである。この間、『土佐太平記』(明神健太郎著、昭和40年)が出版されており、その中に「高良玉多礼日子命(たからたまだれひこのみこと)」との記述が登場する。明神健太郎氏が何を根拠に「たから~」と読んだのか。史料とした『八幡荘伝承記』自体に書かれていたものか。それとも『南路志』所収、 琉球国から漂着した「高良(たから)長峯」という船頭の名前を参考にしたものか。
沖縄県では地名も姓も「たから」だが、九州島内では俳優の高良健吾(こうらけんご、熊本県出身)に代表されるように「こうら」読みであることは以前にも紹介した。高良大社については「月読(ツクヨミ)命」との関連も指摘されているだけに、読みにもこだわってみたいところである。
さて、幡多地方の白皇神社の祭神は「大巳貴命」との表記が大半である。そんな中で旧大内町では「大名持命」という表記になっている。大内町は高知県幡多郡にあった町で、1957年に月灘村と合併し大月町が発足した。現在の大月町の西半にあたり、宿毛湾に面し、柏島を擁する。
白皇神社は①弘見に2社、②芳ノ沢に2社、③平山、④清王、⑤泊浦に各1社、⑥頭集では音無神社に合祭として記述されている。祭神については、弘見に鎮座する2社のみ「大山祇命」とされているのは不思議だが、他はすべて「大名持命」である。そしてほとんどが旧村社であったことから、一村一社ならぬ「一村一白皇」という形態がとられていたと推測する。つまり、白皇神社をもって各村をまとめていたのではないだろうか。
“高知県西部の「白皇神社」再考③――白川伯王家とのつながりを発見”の回で、やっと白皇神社と神祇伯白川家との関係が垣間見えたところであったが、この大内町にもその片鱗が見つかった。柏島の稲荷神社(幡多郡大月町柏島9番)の扁額に、白川伯王家の手による御染筆があるという。
「正一位稲荷大明神」安政四年六月十五日神祇官統領 神祇伯資訓王御染筆
調べれば調べるほど興味深い事実が見えてくるものである。現大月町には月山神社・一宮神社・塩釜神社・音無神社・鷣(はいたか)神社・曽我神社など、謎に包まれた神社が多く残されている。現地の情報をしっかりと拾い上げながら、幡多地方における白皇神社の濃密分布の意味を正しく理解していきたい。
そしてその数少ない事例の一つが高知県にもあった。幕末に使用された私年号「天晴(てんせい)」である。『土佐史談』190号(土佐史談会、平成4年9月)に広谷喜十郎氏の「『天晴』私年号と幕末の世直し意識」と題する論考がある。私年号「天晴」が記録された石灯籠などの一覧が以下のように紹介されている。
(一)安芸郡安田町神峯山 神峰神社の石灯籠これらの記録から、天晴元年が慶応三年であることが判明する。「一夜空しき(1867年)江戸幕府」――大政奉還<慶応3年10月14日(1867年11月9日)>の年である。明治元年に改元されたのは、慶応四年9月8日のことであるから、一年以上さかのぼった前年5月から「天晴」という年号を使用していたことになる。坂本龍馬のみならず、土佐の民衆は日本の夜明けを予見し「慶応」年号をやめて、先取りして「天晴」の年号を勝手に使用していたようである。
奉献
常夜燈
天晴元丁卯
五月吉日
安芸土居村![]()
(二)安芸市土居 春日神社の石灯籠
奉献天晴元卯九月令日氏子中
(三)香美郡赤岡町 須留田神社の絵馬奉献天晴元丁卯年
五月吉祥日
丑之歳男
(四)吾川郡春野町西諸木 御山所宮の狛犬
天晴元卯九月令日
氏子中(五)吾川郡春野町西諸木 森神社の手水鉢
奉献天政元卯歳九月吉日 惣中
(六)吾川郡吾川村 鈴ヶ森の石灯籠
月燈
天晴元卯九月十八日
慶応から明治に移る間に天晴という年号が使われていたことたは「田口家の神祭帳」「須江高野家文書」などにも記録があることから間違いなさそうである。高知市広報『あかるいまち』2008年9月号で、次のように紹介されている。
幻の年号「天晴(てんせい)」
約三十年前、安芸市土居の知人から、同地の春日神社の境内に天晴元年九月の年号が刻記された石灯籠(とうろう)があると知らされた。調べてみると、安芸郡安田町の神峯(こうのみね)神社にも「天晴元年五月」と刻記された石灯籠があり、それには「安喜(あき)土居村」とも刻まれている。その後、民俗学者・坂本正夫氏らの調査により、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」と刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。『土佐山田町史』にも、田口家の神祭帳や高野家文書の記述を根拠として、慶応から明治に移る間に天晴年号が使用されていることが指摘されている。「丁卯」に当たるのは慶応三(一八六七)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。判明している限りでは、天晴という年号が地域的に使われたのは、前年の五月から明治元年までということになる。また、石灯籠や手水鉢などには、「氏子中」や「惣中」と記されており、個人の寄進ではなく村の総意によって寄進されていることがわかる。石灯籠などの石造物を寄進する場合、早めに注文するはずであり、この年号を使用した地域が広範囲で、しかも短期間に普及していることから、単なる思いつきではないことは明らかである。このような動きは、全国的に見られるものだったのだろうか。年号の歴史に関する本を調べてみても、支配階級において天晴という年号が検討されたことは見当たらない。上意下達の厳しい封建体制が敷かれていた時代に、年号という絶対的な物に起こったこの現象は、民衆の世直し願望の一種と考えることも可能かもしれない。神峯神社にある石灯籠の年号について、明治末期に高村晴義氏は「慶応三年の事なり(略)京阪の言信(略)此頃の国内の不穏なるにつき年号を改めてこの妖気を攘(はら)ふの議朝廷におこり」と語っている。翌慶応四年に天晴への改元の動きがあることを見越して、年号が刻記されたことの証言である。
久保常晴著『日本私年号の研究』では「私年号」第一類として、「大化」以前の年号のなかった時代における「非公年号」を「古代年号」と呼んでいる。「令和」改元をきっかけとして年号に関する書籍が出版され、数多くの報道もなされた。ところが、「古代年号」に関してはアンタッチャブルとされているのか、誰も触れようとしないように見える。いわゆる「九州年号」と呼ばれる年号群である。
<九州年号一覧>
【継体】517~521年(5年間)【善記】522~525年(4年間)【正和】526~530年(5年間)【教到】531~535年(5年間)【僧聴】536~541年(5年間)【明要】541~551年(11年間)【貴楽】552~553年(2年間)【法清】554~557年(4年間)【兄弟】558年(1年間)【蔵和】559~563年(5年間)【師安】564年(1年間)【和僧】565~569年(5年間)【金光】570~575年(6年間)【賢接】576~580年(5年間)【鏡当】581~584年(4年間)【勝照】585~588年(4年間)【端政】589~593年(5年間)【告貴】594~600年(7年間)【願転】601~604年(4年間)【光元】605~610年(6年間)【定居】611~617年(7年間)【倭京】618~622年(5年間)【仁王】623~634年(12年間)【僧要】635~639年(5年間)【命長】640~646年(7年間)【常色】647~651年(5年間)【白雉】652~660年(9年間)【白鳳】661~683年(23年間)【朱雀】684~685年(2年間)【朱鳥】686~694年(9年間)【大化】695~703年(9年間)【大長】704~712年(9年間)※漢字表記や年代について一部異説あり
安芸郡東洋町の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社には何かありそうだと感じていた。『高知県神社明細帳』(明治25年)には「高良神社・別名高良大明神・祭神高良玉垂之命・所在地甲浦河内字高良前」となっている。
②祭礼の次第1・三所台(サンショダイ)
旧暦8月12日三所台の神事。14宵宮、15日本祭、16日仕手上げである。神職によって金弊が迎え祷に、紙幣が送り祷に渡され、総代によって神殿から拝殿出口まで白い布が敷かれ、総代が小太鼓とつづみの御神楽を奏する中を、神職が御神体に人いきれがかからぬようにマスクをし、御神体を抱え込んで一目散に高良神社(川辺の御旅所)目ざして走る。……(中略)……高良神社に着けば開帳し、その中に御神体、金弊、紙幣、神鐉を納め、簡単な無言の祈りの後に、再びそれらを取り出して松明を先頭に八幡神社へ無言で走る。(P230より)
似たところでは、奈良県櫟本町瓦釜にある高良神社の秋祭りで「まぐわい神事」を行っており、高良神社の男神が八幡神社の女神のもとへ、出会い(結婚?)に行くというものがある。立場は逆のようだが、東洋町甲浦の高良神社の祭神が八幡宮祭神・応神天皇の叔母(與止姫か)に相当する女性神とされていることを考えると、さもありなんというところだろうか。
滋賀県犬上郡甲良町尼子1の甲良神社(“滋賀県の高良神社③――甲良神社は九州系”)が「高良」の置き換えとすることが妥当であることが分かり、その地域の中心として祀られる神様(甲良神社)の名が地名「甲良町」となる事例だと判明したのである。だとすれば「甲浦(高良)権現」から「甲浦」地名が生じた可能性もありそうに思える。他にも高知県の海岸には「甲殿(こうどの)」という地名もある。「甲殿」「甲浦」「甲良町」などの字が高良に通じるとすれば新たな視野が広がってくる。今後の研究課題である。
最後に安芸郡東洋町の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社についての解説文を引用しておく。
3.高良神社(こうらじんじゃ)
(1)高知県神社明細帳には「高良神社・高知県安芸郡東洋町大字河内字高良前に鎮座し旧社格は無各社。祭神は高良玉垂之命(こうらたまたれのみこと)、由緒等は未詳。古来より河内村および甲浦村の崇敬神にして、古くは高良大神宮と称す。明治元年3月改称の通達により高良神社と改称。社地は、もと小白浜(天正地検帳に小白浜の地名あり)だが、明治12年高良前と改称。伝来する金弊の箱蓋に宝暦十二年壬午十一月と書かれている。神社牒には「八幡神社の向い、カウラ大明神また川原また河原とも記す。社殿三尺×四尺、板橋長さ2間半。橋から社殿まで9尺。社地2代3歩。神躰記には神体帋幣、祭日9月15日、信徒1520人(これは甲浦と河内の総世帯数であろう)とある。全国的に著名な高良神社には広辞苑に『官弊大社・石清水八幡宮の摂社・高良明神社・上高良は武内宿祢、下高良は玉垂命を祀る』と『国弊大社・筑後国の高良神社』とがある。野根の高良神社は野根八幡宮の脇宮にして旧名竹内大明神と称す。(『東洋町の神社と祭り』P239より)
長引くコロナ禍にあって、県や地域を越えた研究協力がより一層必要と痛感させられるこの頃である。そのような中にあって、弊ブログ『もう一つの歴史教科書問題』をご覧になった読者から、メッセージや情報提供などをいただくことは何よりも有り難く、研究の糧にもつながっている。直接、返信できない方々も多いので、この場を借りて感謝の意を表したい。
九州と科野のつながりを研究されている上田市の吉村八洲男氏によると、長野県には高良神社(合祀や境内社など含む)が23社見つかっている。一方、現在分かっている範囲で、滋賀県には6社、大阪府にも5社といった分布を示しており、「九州王朝系近江朝説」や「前期難波宮九州王朝副都説」との相関関係があるかどうかは今後の研究課題である。
高良神社の密集地帯である長野県と滋賀県に挟まれた岐阜県ではどうなのだろうかと疑問を持ったのがきっかけであった。壬申の乱(672年)では伊勢国や美濃国など東国の支援を受けた大海人皇子(のちの天武天皇)が、大友皇子の軍を破って勝利し、政権の座に就くことになる。天武天皇をバックアップした勢力が九州王朝系なのか、それとも反九州王朝勢力なのか。高良神社の有無が一つの目安になるのではないかと考えたのだ。
当初、美濃国は高良神社の空白地帯(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と思われていた。ところが犬塚幹夫氏のご指摘のように、不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社(“岐阜県の高良神社②ーー不破郡垂井町の勝神社(前編)”)があったのだ。この地域の軍隊が先んじて不破の関を押さえたことが、壬申の乱の勝因にもつながっており、その勢力の背景は天武天皇政権のアイデンティティーにも関わる意味を持つ。
室伏志畔氏は著書『伊勢神宮の向こう側』(1997年)で、伊勢神宮の「二十年式年祭」のルーツを壬申の乱から20年後となる持統天皇の692年の伊勢行幸に求めている。信州の穂高神社にも同じ「二十年式年祭」があり興味深いところであるが、さらに注目すべきは伊勢神宮にまつられている天照大神が、岐阜県瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座していたとの伝承である。
『日本書記』や『倭姫命(やまとひめのみこと)世紀』等に、次のように書かれている。「垂仁天皇の時、倭姫命に命ぜられ、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」――瑞穂市の伊久良河宮跡は、いわゆる「元伊勢(もといせ)」と呼ばれている。その瑞穂市は「倭王(松野連)系図」に記載されている十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、倭王の流れを汲む後孫らしき松野姓の濃密分布地となっている。
また、古田史学の会・東海の竹内強会長は『東海の古代』第120号(2010年8月)「伊勢湾・三河湾への海人族の伝播(5世紀後半から6世紀)」の中で、①横穴式石室の分布 ②済州島の海女の風習 ③製塩土器などについて考察し、「こうしたいくつかの実証的例はこの地域(伊勢湾岸・三河湾岸)が5世紀頃から北部九州・玄界灘・朝鮮半島南岸と直接深く関わっていたことを証明している」と論じている。
『伊勢物語』で知られる在原業平が880年美濃権守に任じられ、美濃国府(現・垂井町府中)に赴任した際に、2kmほど離れた垂井町表佐に館を建立したと言われている。業平が亡くなったあと、天皇の勅願により館跡に開創された業平寺(現在の在原山薬師寺)は、「筑後玉垂命」を祀る勝神社のすぐ南の地にあった。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれないに 水くくるとは
在原業平朝臣
紀貫之は『古今和歌集ー仮名序』において「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし」と評した。蕨(わらび)灯籠の立ち並ぶ勝神社境内の紅葉は、5月だというのに唐紅(からくれない)に染まっていた。しぼめる花(九州王朝)の色なくてにほひ(痕跡)残れるがごとしと言うべきか。歴史の真実を伝えたい心情のみが先立って、正しく理解してもらうための論理や表現の不足を感じる。
先ごろ(2020年)、岐阜県で高良玉垂命を祀る神社は朝浦八幡宮のみ(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と拙ブログで紹介したところ、すぐさま福岡県の犬塚幹夫氏より情報提供があった。「実はもう一社、勝神社という神社があります」とのこと。情報をもとに調べてみると、確かにその通りであった。
不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社があったのだ。表向きは高良神社ではないので、岐阜県神社庁のサイトの検索にかからず、祭神としても高良玉垂命でもなく武内宿祢でもない。筑後玉垂命として祀られる例はこれまで見聞きしたことがなかったのだが、高良大社(福岡県久留米市御井町1)が筑後国一宮であることから考えても、高良神社の祭神として間違いなさそうである。
これに対して、美濃国一宮は金山彦を祭神とする南宮大社(不破郡垂井町宮代1734-1)である。古くは仲山金山彦神社と呼ばれたが、美濃国府の南に位置するところから南宮神社と称するようになった。ここには古代官道の駅制に使われた駅鈴が保管されており、毎年11月3日には公開されている。
さらに東へ1km余りの場所に鎮座しているのが、今回注目している勝神社なのである。『新修垂井町史通史編』(垂井町、1996年)に次のような記載がある。
垂井町指定史跡勝宮古墳昭和三十五年一月二十六日指定
この古墳は、全長三〇メートルの前方後円墳で、勝神社本殿の北に接しており、東側を流れる相川の氾濫のため周囲の地形が著しく改変されていて、現在は後円部と思われる部分のみ残っている。かつて、古墳の周囲の地中三~五メートル付近から、粘土に混じって須恵器や土師器の破片が出土したと伝えられている。勝神社の祭神、筑後玉垂命(武内宿禰)の墓として信仰されている。
平成二十九年五月 垂井町教育委員会
相川をはさんだ北側にも直径40mの大形円墳である綾戸古墳(垂井町綾戸907)があり、須恵器の三足壺が出土。こちらも武内宿禰の墓との伝承が伝わる。高良玉垂命を武内宿禰に比定する説もあるが、勝神社が「筑後玉垂命」という名前を伝えているということは、大和朝廷の臣下などではなく、九州の筑後から直接来た神様であるとの主張が感じられる。
以前紹介した朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神は飛騨国に、勝神社の筑後玉垂命は美濃国の中心部に祀られていたことが分かる。高良神社の空白地帯と思われていた岐阜県にも、かつて九州王朝の影響が及んでいたことを示しているのではないだろうか。もう少し深く掘り下げて調べる必要がありそうだ。
先日4月30日が図書館記念日だったということには気付かずに、オーテピア高知図書館に足を運んでいた。
「犬も歩けば棒に当たる」である。3階で“<企画展>『高知県神社明細帳』と土佐の『式内社』”を開催中であった。欲を言えば展示解説を聞きたいところであったが、日程が合わなかったようだ。PRを兼ねて案内文を引用しておこう。
高知県立図書館の貴重資料の一つに『高知県神社明細帳』があります。
『高知県神社明細帳』は、第二次世界大戦直後まで、国、県によって管理、運用されてきた高知県の神社の公的帳簿でした。
今回の展示では、『高知県神社明細帳』の内容や来歴を紹介します。併せて、この資料に掲載されている古い神社の一群として、土佐の『式内社』21社も紹介します。
『式内社』とは、西暦927年に朝廷が編纂した『延喜式神名帳』に名前が載る神社で、いずれも1000年以上の歴史を誇ります。
この機会に、魅力的な資料や土佐の神社に親しんでいただけたらと考えています。
○開催期間2021年4月27日(火)~7月18日(日)
○展示場所
オーテピア高知図書館 3階 展示室(猫の看板を目印にお越しください。)
○展示解説
2021年4月29日(木・祝)、5月5日(水・祝)、22日(土)
をはじめ、期間中の土日祝に合計7~8回開催します。
いずれも、13:30~(30分程度)<参加無料、申込不要>
高知県の歴史を紐解く上で、『高知県神社明細帳』には私も随分お世話になった。閲覧のたびに申請書を書かなければならないのは手間であるが、資料の性格上やむを得ないことは承知している。
ブログでも紹介して来たが、高知県には21の延喜式内社があり、土佐国七郡中で高岡郡には式内社が全く存在しない。九州年号「勝照二年(586年)」創建とされる小村神社(土佐国二宮あるいは三宮)でさえ、式内社としては記載されていないのだ。
それはさて置き、今春発刊となった「古代に真実を求めて」シリーズの古田史学論集第二十四集『俾弥呼と邪馬壹国』(古田史学の会 編、2021/03/30)がオーテピアに置いてあるかどうか気になった。古田武彦『「邪馬台国」はなかった』発刊五十周年を記念して制作された本であり、古田史学のエキスを知る上では恰好の一冊となっている。
利用者数日本一を記録したオーテピア高知図書館であるが、県立図書館時代には目立つ位置に並んでいた古田武彦氏の著作シリーズ(主にミネルヴァ書房)が、高知市図書館と移転合併リニューアルに伴い、広くなったにも関わらず、大半が書庫にしまい込まれてしまったのだ。残念な限りである。
備え付けのパソコンから「古田武彦」で検索してみた結果……。あった。しかも「NEW」マーク付である。探そうと思ったが、既に貸出中。情報にさとい古田ファンがいたものだ。
実は高知県立図書館が閉館となる最終日、地元テレビ局のインタビューを受けたことがある。マスコミは自局の求めるコメントを引き出そうとするものである。その誘導を感じつつ、利用しやすくなることを期待する旨コメントしたつもりだ。
学習室もできて、利用層は広がったかもしれない。しかし、研究者にとっては必要な書籍の多くが、毎回書庫から取り出してもらわないといけないことが多くなったようにも感じる。それと県外の『県史』や『神社史』関連の本が少ないようである。
私の求める本がマイナーなためだろうか。この日借りた本3冊とも、書庫から出してもらったものであった。
当初は香美郡に「コウラ」地名(“香美郡に「コウラ」地名が存在していた”)があることを確認するために現地に足を運び、そのすぐ近くに宗我神社があることを知った。その時点ではまだ、この社の存在する意味をよく分からずにいた。
最近、安芸市の古代史を調査していくにつれて、蘇我氏とミヤケおよび条里制との関連性が見えてきた(“安芸市の条里制水田に九州王朝系蘇我氏が関与”)。そして安芸郡家近くには蘇我神社が祀られていたのだ。
安芸市の事例を見た時に、もう一つのよく似た事例があることを思い出した。それが野市町の宗我神社周辺の状況である。香南市野市町は高知平野の東の端にあって東偏13度の条里制遺構が残る場所である。これは国府周辺の香長平野に広がる東偏12度の条里制地割とほぼ一致している。
看板には宗我神社の説明が次のように書かれている。
北方500mの場所には「ミヤケ」という地名遺称があり、付近一帯には曽我遺跡が広がる。漢字表記は「曽我」「宗我」であるが、安芸市と同様、蘇我氏との関連を考えてもよさそうだ。通説では大和国高市郡曽我を蘇我氏の出身地とし、『新抄格勅符抄』に「宗我の神」(806年)、『延喜式神名帳』に大和国高市郡に「宗我坐宗我都比古神社二座」などとある。野市町曽我の地に祀られた宗我神社は、むしろ本来の字形を残しているとも言える。屯倉(ミヤケ)の管理運営に関わった蘇我氏は崇仏派でもあり、「古代寺院の礎石」があることも納得がいく。
『三代実録』に記載される国史現在社。大正三年北方500mの曽我から現在地に移転。天正神社を合祭した。拝殿前左側に「古代寺院の礎石」円形二重柱座造出は町有形文化財考古資料。かつて御神宝として兎田八幡宮と同型の銅剣があったという。
不思議なことに蘇我一族は稲目の代から突然、近畿天皇家の重臣として台頭したように見える。その先祖の系図は「韓子」「高麗」など朝鮮半島に関連深い名前であり、造作であると主張する学者も多い。「蘇我氏は九州王朝から派遣された目付役」といった説が登場するゆえんである。蘇我氏の先祖が朝鮮半島との関わりをもって活動してきたということは、地政学上、九州北部に拠点を持たずしてはあり得ない。そのルーツを九州に求めることは的外れではないだろう。神宝の銅剣や近隣の「コウラ」地名が九州とのつながりを推測させる。
最後に『万葉集』で地名「宗我」が登場する数少ない例を紹介しておく。
ま菅よし 宗我の河原に 鳴く千鳥
間なし我が背子 我が恋ふらくは
(『万葉集』巻十二、3087番)原文:真菅吉宗我乃河原尓鳴千鳥間無吾背子吾戀良苦者
03 | 2025/04 | 05 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 |
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。