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 大晦日。今年ももうすぐ終わろうとしている。
 ところで縄文人はカレンダーを持っていただろうか? 時々、生徒たちに質問することがある。当たり前のように彼らは「持っていなかった」と答える。ここからが冬至スペシャル授業の始まりである。
 最近の子供たちは冬至を知らない。いや、夏至・冬至の二至、春分・秋分の二分を併せた二至二分が何月なのかもよく分かっていない。「春分が3月、夏至が6月、秋分が9月、冬至が12月、世界のナベアツ!」と教えてあげると「先生、それ古い」と言われる。けれども、こうやって教えたことはなかなか忘れない。記憶のフック付けという技術である。
 「縄文人がカレンダーを持っていたかどうかを知るには何を調べたらいい?」と、さらに問いかける。賢い子からは「遺跡」という答えが返ってくる。「では、縄文時代の遺跡といったら何?」
 「吉野ヶ里」
 「それは弥生時代」
 といったやり取りをしながら、とくに重要な3つの遺跡を時代と場所をセットで確認していく。そして縄文時代を代表する三内丸山遺跡の登場である。この遺跡、何がすごいかというと、直径1メートルの柱跡が4.2メートル間隔で6本分見つかったこと。そこには巨大な建造物があったことになる。縄文時代、東北地方は先進地だったのだ。
 普通、建物は東西南北を意識して建てられる。この巨大建造物は真東よりも約30度ほど北に向けて建てられている。夏至の日の日の出の方角を表しているという説もあるが、誤差が大きすぎるようだ。逆に見ると真西よりも約30度ほど南を向いているともとれる。そこである人が冬至の日(12月下旬)、雪の積もる青森県の三内丸山遺跡に行って、日が沈むのを待った。すると、日没の瞬間、3本の柱の影がピッタリ重なったという。まさに冬至の日没の方角に合わせて建てられていたことになる。
 これだけなら偶然の一致とも考えられないこともない。お隣り、秋田県に行くと大湯ストーンサークルという、やはり縄文時代の遺跡がある。大小2つの環状列石があり、大きいほうの円の中心から小さいほうの円の中心を結ぶ線は夏至の日没の方角というふうに説明してある。だが実際は、小さいほうから大きいほうを見た方角がちょうど冬至の日の出の方角により一致するという。
 やはり、縄文時代当時の人は冬至を知っていたようだ。今のような紙のカレンダーはなくとも建造物等を利用して歳月の移り変わりを読みとっていたのだ。その頃は1年の節目を冬至としていたのではないだろうか。
 「今日の授業は面白かった」。自然にこぼれた小6の女の子の感想が何より嬉しかった。

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『探訪―土左の歴史』第19号 (仁淀川歴史会、2023年6月)
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
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