確かに「大婦天皇」と刻まれていた。大阪府北部の走落神社(豊能郡豊能町)境内の右手に少し入った場所。かつて余野にあった天武天皇宮から移されたという。
掲示板の説明によると天武天皇→大武天皇→大婦天皇と変化したとされているが、本当だろうか? 四万十市蕨岡の高良神社は元、大夫天皇あるいは大武天皇と呼ばれていた。共通性を感じるものの、天武天皇につなげるのは一元史観の影響かもしれない。
ここも神社合祀令の影響で多くの境内社が祀られている。八幡神社まで境内社として取り込まれているのは珍しい。祭神に武内宿禰命も見えることから、高良神社とのつながりが考えられるかもしれない。
由緒 走落神社はもと小玉神社と称した。明治40年、当時の東能勢村内にあった九社の神社を小玉神社に合併して社名を走落神社としたのである。明治39年8月、勅令として神社合併整理が行われた。伝承によると木代庄は平安時代末の康治2年(1142年)6月20日、貝川三位長乗が一族36人を率いて、都より来り開発の鍬を打ち込んだのが始まりと伝えられている。そして木代、切畑、大円という三村を開発した。この時の三ヶ荘の氏神として、木代庄大円村に延喜式内走落神社を創立したと伝えられている。戦国時代、織田信長の兵火にかかるのを恐れてか、この頃、走落神社の御祭神を分散して相殿としてお祀していた天照大神を木代村に移して「小玉宮」を建立し、少名彦名命を切畑村に移して「走湯天王社」を建立し、元の走落神社は社名を改めて、鎮座地の字名“藤の森”を取って「藤森神社」とし建速素盞嗚命をお祀りしたという。そこで、明治の神社合併で村内十社の神社が合併されたが、その中で社格の高く、もと御同殿にお祀り申し上げていた神様が再び、同殿、同床に鎮座されたことから社名を「走落神社」とした。「走落」の社名と走落神社周辺の地名等から走落神社創生当時、その近辺に病気に効験のある冷泉か、温泉が湧出しており、湯治に集まった人等の尊崇を集めた神社ではないかと思うのである。先ず「ハシル」は、万葉集でも「岩走る垂水の」等、水の流れる形容に使われており、この様な事から「水が流れ落ちている所にある神社」ということが考えられる。又、走落神社が三社に分散した時の一社に「走湯天王社」があり、この社名は“湯が迸り出ていた”と解することが出来る。 現在の走落神社の御本殿は、藤森神社の御本殿を移したものであるが、三間社流造の立派な建築である。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 |
木代走落神社石燈籠
この燈籠は、明治40年(1907)の神社合併のとき、余野にあった天武天皇宮から移されたものである。銘文は、「大婦天皇御宝前」「正徳元年(1711)9月吉日」とある。天武天皇宮は、柏尾宮、大武天皇宮とも呼ばれていたので、大武を大婦の字にあてて表したと思われる。当走落神社は、「延喜式」神名帳の島下郡17社の内に記される式内社で、もとは切畑に鎮座したと伝えられる。現在の鎮座地は、もと走落神社の相殿神であった天照大神を分祀して祀った小玉神社のあつたところである。
平成5年11月 豊能町教育委員会
(社頭掲示板より)
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秋の田の 仮庵(かりほ)の庵(いほ)の
苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ
天智天皇(1番)『後撰集』秋中・302
天智天皇(てんじてんのう。626~671)
舒明(じょめい)天皇の皇子で即位前の名前は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。藤原鎌足とともに蘇我氏を撃ち、大化改新をなしとげ、天皇に即位しました。その後、飛鳥から近江に都を移しています。
天智天皇は平安時代には、歴代天皇の祖として非常に尊敬されていました。この歌は元々、万葉集の詠み人知らずの歌でしたが、そういうイメージから、口伝で伝えられるうちに、天智天皇作とされるようになったようです。
『ちょっと差がつく百人一首講座』から引用させてもらいました。
天智天皇が歴代天皇の祖として非常に尊敬されていたということは、百人一首の第一番に「秋の田の~」の歌が採用されていることからもうかがえる。
古田史学の会でも正木裕氏の主張する近江朝の問題が話題になっているが、政権交代の礎を築いた立役者は何と言っても天智天皇かもしれない。天智天皇の不改常典が大宝律令の元になっているとすると、貴い宝「大宝」とは、まさに天智天皇のことをさしていたのではないだろうか?
何を根拠にと思われる人もいるだろう。九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代における大宝年間の祭神置き換え問題。全国的に大宝天皇になった所がいくつか存在する。「コウラ」という場所に建つ八坂神社がかつては大宝天皇であった。また、高知県吾川郡いの町中ノ川の大森神社も明治維新前は大宝天皇と呼ばれていた。そして祭神は天智天皇であったというのだ。
岡豊城跡のすぐ北の山頂に鎮座する岡豊別宮八幡宮(南国市岡豊町八幡)。正面の階段からの登ろうと思ったが車を停める場所がない。裏側に回るとヤマト運輸の横から山に登る小道がある。高知の道はどこでも似たようなものだが車で上がって、無事戻れるのか心配になる。ちなみに「ヤマトの諸君」は交通安全祈願のため毎月、神社にお参りしているらしい。
さて、拝殿の左手に境内社がズラリと並んで祀られている。7社とも同じような形であり、何も説明がないので、それぞれ何が祀られているか分からない。
この山は男山とも呼ばれ、石清水八幡宮との繋がりを指摘する人もいる。そうであれば摂社に高良神社があっても不思議ではない。右手奥にも境内社があり、他の八幡宮の例では拝殿に向かって右手側に高良神社が祀られていることが多い。
かつては長宗我部氏ゆかりの品を多く所蔵していたが、大正年間の大火で大半が焼失したという。
現在は元親が画工真重に命じて作らせたという三十六歌仙の画額14枚と、出陣の際使用したと伝えられる熊蜂の盃があるのみ。ともに県立歴史民俗資料館が保管している。
当宮の宮司谷氏の祖である大神氏は、大和国三輪山(大神神社)から土佐に移り、その子孫は谷左近、谷秦山、谷干城など土佐の名族に発展したという。
当社を土佐国分寺の守護神、いわゆる国分八幡宮とする説がある。当社は、土佐国分寺の西方に位置し、国分寺もやはり元親による再建が伝わっている。
土佐国の一国一社の八幡宮、いわゆる国府八幡宮は不詳とされるが、『皆山集①』に登場する豊岡八幡宮について、高良神社を含む摂社十数社が記載されている。石段途中にも恵比須神社や大山祇大神など五社ほどあるので、摂社の数からするほぼ一致する。
確認はとれていないが、岡豊別宮八幡宮の境内社の1つが高良神社である可能性は高い。
大宝年間(701~704年)に祭神の置き換えがあったのではないかと思われる神社がいくつか存在する。その1つが滋賀県栗東市綣の追来神社(大宝神社境内社)である。
まずは境内の案内を見て欲しい。明らかに700年以前からあった追来神社が、701年に勧請された大宝天王にとって代わられたことが読み取れる。これこそ九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのではないだろうか?
大宝神社
当社は明治以前まで大宝天王宮・今宮応天大神宮とよばれ、 疫神を鎮める牛頭天王として信仰を集め古くは氏子圏が旧栗太 郡内の五十余村にも及んだと伝えられる。大宝神社
祭神は素盞鳴尊で、本殿は棟札から弘安元年(1278)に 棟上げが行われたとされるが、現在の本殿は後世のものである。
境内社の稲田姫神社は一間社檜皮葺で旧名を十禅師宮とい い、本殿右側にある追来神社(重要文化財)を模して造営されたと思われる程よく似た江戸時代の建造物である。
また境内には明治初期近郷の子弟を多く集めて教導に尽くし た足助武雄(楓崖)の石造碑があり、市指定の史跡となっている。
-境内案内板-
追来神社の由緒(延喜式内社栗太八座の一座とも言われている)
地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。 伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記さ れている。社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んで いる。
御神木は いぶき で意布伎の意は、「お」とも読めるため 「おふき」とよんで追来に転じたとされる説が有力である。 「いふき」の「ふき」は、息を吹く、風を意味し風の神である。 また、雨乞いにより雨を授けて頂いたので水の神でもある。 地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社 としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされて いると推測される。 国指定重要文化財特別保護建造物一間社流造り 鎌倉時代1283年(弘安6年)の棟札現存……棟札も文化財指定
あまつか (通称には蛇塚)
1430年(永享2年)6月の文書中、干時にて苗が枯れつつあった とき、若宮権現追来神社裏手に大穴を掘り、田楽や神楽の奉納、 大般若心経等の奉読等を続けることにより、2日後三昼夜適量の雨量 があったとあり、仏法と神力は信ずるだけのことがある等が記されている。その後の干時にも諸奉納とともに池をさらえることにより、適量の降雨に 恵まれたことが文書に記されている、由緒ある池。
-境内案内板-
石岡八幡宮境内の右手奥、高良神社が祀られている。この裏側は椿の群生地であり、祭ヶ岡古墳がある。社地を古くは「橘の島」と言っていたことや神功皇后の伝承などが案内板に書かれている。
「愛媛県の高良神社①ーー伊豫岡八幡宮 境内社」もそうであったが、古墳のある場所に立地していることから歴史の古さがうかがえる。さらにこの二社は高縄半島の付け根に相当し、重要な共通点がある。重信川河口付近と中山川河口付近という共に古代における港の立地条件に適した場所だということだ。石岡神社は熟田津の比定地にも近い。
石岡神社の由緒として「孝元天皇の曾孫で、景行天皇から仁徳天皇までの五代帝の長臣で、とくに仲哀天皇薨去の後は神功皇后を支え、また応仁天皇(八幡神)を守り育てた大臣で、高良神社の主祭神である竹内宿祢の子孫紀氏玉井」が石岡の地で八幡宮を鎮座奉祀してきたことが案内板に書かれている。
『古事記』『日本書紀』の記述を元にした表向きの説明はそうだとしても、その頃は九州王朝を中心とした倭国の時代だと考えられるので「盗まれた神話」(九州王朝の事績が日本書紀に取り込まれた)の原典が誰を主人公として描かれていたかの解明が必要なのだ。
紀姓玉井氏の系図からの引用も紹介してあり、高良神社が八幡宮の摂社として祀られている表向きの理由は分かってきたが……。
「タイリ中ニツカアリ」と『長宗我部地検帳』(16世紀末)に記録されている。土佐国の国府は長岡郡にあり、現在、南国市の国分寺がある付近の東側と推定されている。その北の一角が「内裏」と呼ばれており、『土佐日記』で有名な紀貫之邸宅跡とされる。「タイリは大吏」とする研究者もいるが、朝倉慶景氏は「地元の伝承からしても内裏で間違いなし」とする。

国司ともなれば地元の人々から神のように崇められたのであろうから、その居住地を内裏と呼ぶようになったとでも言うのだろうか? 天皇を頂点とする時代に、たかが国司ごときで天皇気取りとはあり得ない。それこそ中央に知れたら左遷どころではあるまい。
内裏地名が間違いでなく、紀貫之が原因の地名でもないとすれば、考えられる結論はただ一つ。紀貫之以前、いや引田虫麿(740年)よりも前に、天皇以上の人物が内裏に住んでいた……。
滋賀県の高良神社に重要な手がかりが隠されていた。古くは高良塚と呼ばれていた場所である。
高良神社 (コウラ)
滋賀県彦根市鳥居本町2462国司ともなれば地元の人々から神のように崇められたのであろうから、その居住地を内裏と呼ぶようになったとでも言うのだろうか? 天皇を頂点とする時代に、たかが国司ごときで天皇気取りとはあり得ない。それこそ中央に知れたら左遷どころではあるまい。
内裏地名が間違いでなく、紀貫之が原因の地名でもないとすれば、考えられる結論はただ一つ。紀貫之以前、いや引田虫麿(740年)よりも前に、天皇以上の人物が内裏に住んでいた……。
滋賀県の高良神社に重要な手がかりが隠されていた。古くは高良塚と呼ばれていた場所である。
高良神社 (コウラ)
祭神 武内宿禰命
御由緒天保三年四月の創立という。『坂田郡志』に「此の地、古へより高良塚と称して一丘の高地なりしが、天保三年四月、この高地を穿ちしに、古鏡二面を発掘せり。依って祠を建て武内宿禰を祭神とす。祭日は五月五日なり。」と記している。
先ほどの内裏地名の中に「コフラ」という区画がある。どうやら、そこが塚があった場所のようである。昔、菊の紋の入った瓦が出てきたという。その北隣が「宮ノ前」であることからも、かつて高良神社が存在したことがうかがえる。その祭神こそが天皇以上の存在ーーもちろん武内宿祢のことではない。
菊紋の瓦と言えば……、四万十市蕨岡の高良神社の瓦も菊の紋であった。そもそも久留米市の高良大社自身が菊の紋を掲げていたではないか。
高良神社と書いて何と読むか? 漢字自体は簡単であるが意外と読めない。「こうら」それとも「たから」?
インターネット上で、愛媛県のとある高良神社に「たからじんじゃ」とルビがふってあった。読み間違いか、それとも本当にそう読むのか? また、さる八幡宮の宮司さんが自社境内の高良神社をどう読むか分からなかったという話を聞いたこともある。
さて、人名でも高良さんという方がいる。『南路志3』で高良神社探しをしていたら、突然次の記事が飛び込んできた。

琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前である。久留米地名研究会の古川清久氏によると、沖縄県では「たから」、鹿児島県では9割方「こうら」であるという。そう言えば俳優の高良(こうら)健吾は熊本県の出身。NHKの『LIFE』というテレビ番組において、熊本弁でしゃべりまくり、天草のイルカウォッチングを紹介してくれていた。
いずれにしても、高良という名前の淵源を探ってみる必要がありそうだ。
インターネット上で、愛媛県のとある高良神社に「たからじんじゃ」とルビがふってあった。読み間違いか、それとも本当にそう読むのか? また、さる八幡宮の宮司さんが自社境内の高良神社をどう読むか分からなかったという話を聞いたこともある。
さて、人名でも高良さんという方がいる。『南路志3』で高良神社探しをしていたら、突然次の記事が飛び込んできた。
琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前である。久留米地名研究会の古川清久氏によると、沖縄県では「たから」、鹿児島県では9割方「こうら」であるという。そう言えば俳優の高良(こうら)健吾は熊本県の出身。NHKの『LIFE』というテレビ番組において、熊本弁でしゃべりまくり、天草のイルカウォッチングを紹介してくれていた。
いずれにしても、高良という名前の淵源を探ってみる必要がありそうだ。
橘の洞門を越えて愛媛県に入った。どうしても確認しておきたいところがある。伊予市の伊予岡八幡神社の境内にある高良神社である。
伊予岡八幡神社は伊予岡古墳群(6世紀~7世紀初頭)の上に建ち、多くの境内社が鎮座する。
社殿に掲げられている絵を見ると、上吾川郡に鎮座する十二社を明治42年11月1日、官命によって合祀したと記録されている。その背景には明治39年の神社整理令がある。香川県でもそうであったが、この官命が出されて数年間のうちに、無各社はじめ存続の難しい小社は次々と境内社に取り込まれた。
しかし、この時合祀された12社の中には高良神社の名前は見えない。多くの境内社が建ち並ぶ中でも、最も高い場所に鎮座しているのが高良神社である。
何か格式の違いを表しているように見える。そもそも、なぜ高良神社は八幡宮の境内社となったのか? この謎は高良神社探しを始めた時からついて回った。逆に高良神社を探すには八幡宮の境内社を調べればよい……。こうして四国全体では20社以上の高良神社があることが分かってきた。
伊予岡八幡神社は伊予岡古墳群(6世紀~7世紀初頭)の上に建ち、多くの境内社が鎮座する。
社殿に掲げられている絵を見ると、上吾川郡に鎮座する十二社を明治42年11月1日、官命によって合祀したと記録されている。その背景には明治39年の神社整理令がある。香川県でもそうであったが、この官命が出されて数年間のうちに、無各社はじめ存続の難しい小社は次々と境内社に取り込まれた。
しかし、この時合祀された12社の中には高良神社の名前は見えない。多くの境内社が建ち並ぶ中でも、最も高い場所に鎮座しているのが高良神社である。
何か格式の違いを表しているように見える。そもそも、なぜ高良神社は八幡宮の境内社となったのか? この謎は高良神社探しを始めた時からついて回った。逆に高良神社を探すには八幡宮の境内社を調べればよい……。こうして四国全体では20社以上の高良神社があることが分かってきた。
高良神社の謎を解くには、筑後国一宮の高良大社(福岡県久留米市御井町1)について考える必要がある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。古代から筑後国の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰が見られる。
本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある両部鳥居は、神仏習合の名残とされ、四万十市蕨岡の高良神社もやはり両部鳥居であった。
- 正殿:高良玉垂命 - 神紋は「横木瓜」
- 左殿:八幡大神 - 神紋は「右三巴」
- 右殿:住吉大神 - 神紋は「五七桐」
以下、「ウィキペディア」から一部引用。
仁徳天皇55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる。『延喜式神名帳』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。
スマートフォンの地図を追いながら、「この辺りのはずだが……」。神社が見当たらない。こんな時は地元の人に聞くのが一番。「この近くに高良神社はありませんか?」「そこです。と言ってもお旅所ですけどね」と少し気の毒そうな返答。
鳥居はあるがただの駐車場では? 画面上のマップには確かに高良神社と出ている。高松市香西南町の高良神社は同本町にある宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)となっていた。
200メートルほど離れた宇佐八幡神社の境内社に白峯神社があるが、そこに高良神社を含む五社が合祀されている。明治39年の神社整理令により、近隣の無格社が明治40年に境内社として取り込まれ、大正12年に白峯神社に合祀されたいきさつが読み取れる。
香川県にはこの他にもいくつかの高良神社が存在するが、ほとんどは八幡宮の境内社となっている。
尚、香川県の高良神社を調べる際に、ブログ「伝える会」さんがとても参考になり、この場を借りてお礼を申し上げます。
鳥居はあるがただの駐車場では? 画面上のマップには確かに高良神社と出ている。高松市香西南町の高良神社は同本町にある宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)となっていた。
200メートルほど離れた宇佐八幡神社の境内社に白峯神社があるが、そこに高良神社を含む五社が合祀されている。明治39年の神社整理令により、近隣の無格社が明治40年に境内社として取り込まれ、大正12年に白峯神社に合祀されたいきさつが読み取れる。
香川県にはこの他にもいくつかの高良神社が存在するが、ほとんどは八幡宮の境内社となっている。
尚、香川県の高良神社を調べる際に、ブログ「伝える会」さんがとても参考になり、この場を借りてお礼を申し上げます。
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塾講師
趣味:
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自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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