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 ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』の“土佐国分寺伽藍配置考(17)―七重塔の基壇はどこに―”で、土佐国分寺問題について今まで取り上げてきた論点をよく整理してくださっているようで、大変ありがたいことだ。土佐国分寺跡に関しては数次にわたる発掘調査やその報告書などもあり、資料としては豊富なのだが、素人が足を踏み入れるとその情報量に溺れそうになり、私もこれまで手を出せずにいた。
 『新修 国分寺の研究』という本は仰向けに寝転がって読むにはとても体力のいる本であったが、全国的な国分寺関連の資料や論文がまとめられていて、非常に有用な書籍のようだ。しかし古田武彦氏がいつも史料批判から始められたように、対象とする史料の信頼度をよく確認しておくことが必要だ。「新修」と銘打っているものの、使用されている古瓦の図などの資料は意外と昔のままなのではないかとの印象を受けた。現在では疑問とされていることでも、そのまま掲載されているように見受けられる。
 それが浮き彫りになったのが今回、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』で発せられた疑問である。『新修 国分寺の研究』の「第217図 土佐の古瓦」(P386)の④に複弁六葉半蓮華文軒丸瓦が掲載されているのに、南国市教育委員会はなぜこれを土佐国分寺跡出土瓦に入れていないのかとのご指摘。ごもっともである。同書はこの軒丸瓦を「土佐国分寺出土瓦の内、複弁蓮花文は二形式が知られる。その一④は花弁は六葉半、高い周縁の内側面に輻線と斜格子の複合文を刻み、中房の蓮子は周環をめぐらし、十個を配している」(P385)と説明している。
 実はこの瓦については過去に紹介したことがある。“土佐国府跡、内裏の西から13弁菊紋軒丸瓦(前編)(後編)”においてである。明治期の『皆山集』には「国分寺古瓦ノ図」として「其瓦一枚ハ丸ニシテ菊花アリ 〜 辨十三アリ」と記録されている。

 ところが、江戸時代の国学者・鹿持雅澄(1791‐1858年)の『土佐日記地理弁』では、次のように書かれている。
 国府ノアリシ跡ヲ、里俗内裏屋敷ト称リ、又ソコニ、内裏グロト云伝フル所アリ、紀子旧跡ノ碑ソコニ建リ、コノ内裏グロノ西ヲ瓦畑ト云、ムカシ古瓦多ク出ケルニヨリテ、カク云リ、今ニ瓦ノ小片、マゝ出ルコトアリ、其中ニ菊紋ノ瓦甚稀也、イヅレモ布目アリテ、今ノ製ニ異ナリ、ソコヨリ東一丁余ニ、御門前ト云処アリテ、当昔国府ノ門、ソコニアリシト、(下略)
 土佐国府跡の紀貫之が住んでいたとされる場所が内裏と呼ばれ、記念碑が建っている。『土佐日記地理弁』によると、内裏ぐろの西を瓦畑といい、そこから古瓦が多く出土している。その中に十三弁菊紋瓦があったと記録されているのだ。
 『皆山集』では、国府の西だから国分寺の古瓦と判断したのだろう。単純に内裏の真西であれば土佐国分寺跡の推定寺域の北辺よりももっと北になる。前回の国府小学校校長の証言である「飛鳥時代の蓮弁古瓦」が出土した場所と、ほぼ同じ地点ということになる。地理的には国府小学校の目と鼻の先だ。
 一方の蓮弁古瓦について田所眉東氏は、国司館などに使われた瓦であろうはずがなく、近くの比江廃寺関連の古瓦であろうと推測した。その様式の古さから「之は伊予国小松町北川に於ける聖徳太子建立の法安寺の影響の外はないと観るに就ては、当時の官道に着眼せなければならん」とし、飛鳥時代創建の伊予国(愛媛県)最古の古代寺院とされている法安寺の影響と考えた。
 以上のような理由で南国市教育委員会は「複弁六葉半蓮華文軒丸瓦(13弁菊紋軒丸瓦)」を土佐国分寺跡出土の瓦類から除外したものと理解する。実際に発掘調査で出土したもの、出土地点が明確なもののみについて報告し、出土地点が明瞭でない古瓦については除外する――むしろ学問的な真摯ささえ感じた。
 多かれ少なかれ他県でも同様のことがあるだろう。問題点が修正されないまま『新修 国分寺の研究』が装丁を新たにしていたとすれば少し残念である。単に『新修 国分寺の研究』に書かれているからとか、著名な学者が言っているからということを鵜呑みにすることは危険なのである。
 ところで、伊予国最古の古代寺院とされる法安寺がなぜ西条市などに存在したのだろうか。伊予国府域の今治市や松山平野などではなかったのだろうか。一つ心当たりがある。西条市の明理川に「紫宸殿」地名が残されており、その地名遺称と関連する古代寺院だったのではないか。そして土佐には「内裏」地名が残されている。古代において実際にそのような場所が存在していたとすれば、少なくとも天皇と同格以上の人物が住んでいたと考えるほかない。7世紀以前においては、近畿天皇家も日本列島のナンバーワンではなかった。
 そして、「十三弁花紋は九州王朝の家紋」であったとの説もあり、九州の太宰府市を中心として、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が多く出土しているようだ。現在では蓮華文と呼ばれる「13弁菊紋軒丸瓦」――内裏地区付近で出土したとの伝承は尊重すべきであろう。かつて古田武彦氏は「古瓦の出土があれば、古代寺院が存在したとなぜ分かるのだろうか?」といったニュアンスのことを語られていた。一瞬、何を言っているのだろうと理解に時間がかかったが、必ずしも古代寺院とは限らないのではなかとの意味だったようである。
 ちなみに、複弁六葉半とされている軒丸瓦が単弁に見えるとのご意見もあるが、「1+3+2+2+2+3=13」との説明を目にしたことがあり、別の拓本では確かにそのようにも見える。


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 南国市国分の土佐国分寺跡から素弁の古瓦が出土していることから、国分僧寺に先行する白鳳寺院が存在していた可能性が浮かび上がってきた。「土佐国分寺は先行寺院から転用された」とする説は稲垣晋也氏や山本哲也氏など、複数の専門家も言及している。けれども慎重に検討すべき問題点もあることを指摘しておきたい。
 そもそも“多元的「国分寺」研究サークル”で「土佐国分寺に素弁あり」と判断した発端は『土佐史談65号』(土佐史談会、昭和13年12月)であった。何事も出典に当たることは大切なことで、『土佐史談』のバックナンバーを探し、田所眉東氏の論考「土佐國分寺瓦に就て」の中に拓影があるのを確認した。

 近年の土佐国分寺の発掘調査が始まるのが1970年代であり、80年代から継続的な調査が本格化する。田所眉東氏が目にした瓦や拓本は、それ以前の昭和12年時点で土佐国分寺周辺や長岡郡国府小学校などに所蔵されていたものであり、正確な出土地点は不明瞭なものが多いこと。とりわけ田所氏が「国府小学校所蔵蓮弁古瓦は畿内地方なれば飛鳥時代のものと見られるが、流布の時間を考へても白鳳時代のものとなる」と考察している古瓦については、国府小学校校長の話によると、紀貫之が住んだとされる(国司庁址)より出土したとのこと。いわゆる「タイリ(内裏か)」地名が残る場所である。

▲国府小学校所蔵の連弁古瓦拓本

 『高知県史』掲載の図に「土佐国分寺及び国府址出土古瓦」と書かれているのはこのような理由からである。また、山本哲也氏も「国分寺蔵瓦類のなかには同寺出土以外の瓦類が一部含まれている」(「土佐国分寺跡の再検討」『南海史学32号』1994年)と註釈している。
 土佐国分僧寺の古瓦を見れば白鳳式の奈良前期のものがある。阿波は畿内に近けれども未だ斯くの如きものを発見せぬ之には驚いたのである、国府小学校所蔵の蓮弁古瓦を見ては実に驚愕して居る。万一にも此瓦当を畿内地方で見せられたれば飛鳥時代のものと云わなければならんが、土佐なれば其流布の時間を考へなければならんから、先ず白鳳時代と見た。
 されば国分僧寺より先に此辺に寺院が早やあったと云へる。校長殿の言として紀氏邸址方面(国司庁址)より出土したというがこれは寺院関係のものである、只今の所比江方面に斯の如き蓮弁古瓦の出土候補地は他に見出せぬ。比江塔址の心柱礎石の加工状態は国分僧寺のそれに似たるも、雄大さは比江の方が大いに優れて居る、之れを以て古代寺院代用説を採る所以である。(田所眉東「土佐國府址」『土佐史談62号』昭和13年3月)
 この文書には徳島県の田所氏の驚きがよく表現されている。近畿天皇家一元史観に立てば、畿内に近い徳島県のほうが時代的に古くなければならないが、瓦の形式から言えば高知県のほうがずっと古いというのだ。また田所氏は、四国においてはまず伊予国に古代寺院が建立され、土佐国の古代寺院は伊予国小松町北川の法安寺の影響であろうとまで考察している。すなわち、東からの伝播ではなく、西からの伝播を示唆しているのである。


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 「素弁」言うたち、7世紀とは限らんちや。
 NHK大河ドラマ『青天を衝け』で、渋沢栄一のライバルとして高知県出身の岩崎弥太郎が登場。その影響もあって、思わず土佐弁スタートになってしまった。作品中ではあまりにも悪役として描かれていることに、安芸市在住の若き歴女も憤慨している様子であった。
 さて、通説では「奈良時代創建の国分僧寺跡」とされる南国市国分に所在する土佐国分寺。これまでの発掘調査では、複弁八葉蓮華文、単弁八葉蓮華文、素弁十六葉蓮華文、素弁十二葉蓮華文の軒丸瓦が確認されているとのこと。南国市の生涯学習課文化財係に問い合わせて確認した。確かに、素弁の軒丸瓦は出土していたのだ。「ただし、素弁の軒丸瓦の制作年代は比較できる資料に乏しいためはっきりしません」と、やや逃げ腰のコメント。川原寺式系や高句麗様式とされるものもあるが、在地性が強く直接系譜をたどることは難しいとされているようだ。
 タイトルの「8分の7素弁コスモス文軒丸瓦」は正式名称ではない。岡本健児氏が「コスモスのような文様の軒丸瓦」と表現しておられたので、蓮華文とするよりも特徴をよく表しているので使ってみた。
 比江廃寺の発掘調査で、奈良時代後期の瓦がたくさん出てきたのです。コスモスのような文様の軒丸瓦などが。つまり国分僧寺に使われたと同じ瓦がある時期、比江廃寺で使われているのです。私はこのことが「国分尼寺は比江廃寺であった」ことの裏付けだと考えています。尼寺としてここを再編成し、一部を建て直す際に国分寺と同じ瓦を使ったのでしょう。(『ものがたり考古学―土佐国遍路五十年―』岡本健児著、1994年)
 比江廃寺国分尼寺転用説を主張されていた岡本氏は、この軒丸瓦を奈良時代後期と位置付けているようだ。その特徴について、『比江廃寺と土佐国分寺の古瓦について』では次のように説明している。
3、単弁蓮華文鐙瓦
 中房に蓮子一個をいれる。八弁にして八弁中一個のみ胡桃形を入れた単弁であり、ほかの七弁は素弁の特殊なものである。石田博士は『東大寺と国分寺』のなかで「弁は一つおきに先の円い単弁を配す」と記されているが、一つおきに単弁になっていず、八弁中一個のみが単弁である。素縁である。
 すなわち「8分の1単弁+8分の7素弁」という不思議な蓮華文軒丸瓦なのである。長野県では「蕨手文軒丸瓦」という他県で見られない独特な瓦が出土しており、その年代や位置づけに困惑しているようだ。高知県も同様で、他県であまり見られない独自の瓦が多いとされる。研究者泣かせでもあるが、多元的な視点に立てば、それはそれで重要な意味がある。
 山本哲也氏は「土佐国分寺の鐙瓦・宇瓦には、藤原宮式や平城宮式の白鳳期~奈良朝様式の影響は認められない。このため、土佐国分寺は先行寺院から転用されたという意見もある」(「土佐国分寺の再検討」『南海史学32号』1994年)と稲垣晋也氏の先行説(「南海道古瓦の系譜」『新修 国分寺の研究 第五巻上 南海道』)を取り上げている。

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 土佐国分寺から素弁の軒丸瓦が出土しているかどうかが大問題となっている。土佐国分寺の創建は定説では8世紀とされていることから、てっきり素弁瓦の出土はないという先入観があった。逆に素弁蓮華文軒丸瓦が出土していれば7世紀創建という年代比定がなされるはずである。高知市の秦泉寺廃寺が7世紀に創建された土佐国最古の白鳳寺院と比定された背景にも素弁蓮華文軒丸瓦の出土が一つの根拠となったからだ。
 それがどういうわけか、土佐国分寺からも素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているという情報が、多元的「国分寺」研究サークルの調査によって明らかになってきた。『新修 国分寺の研究 第5巻上 南海道』(角田文衛編、1987年)P317に収録された一番下の第171図に「土佐国分寺素弁蓮花文鐙瓦(『土佐史談』65号より)」とある。
 この軒丸瓦の図についてはどこかで見た覚えはあったが、不明瞭で素弁という認識は持っていなかった。ところが、岡本健児著『比江廃寺と土佐国分寺の古瓦について』には、次のように説明してあった。
4、素弁蓮華文鐙瓦
 素縁で、素弁の蓮華文が十二弁ある。中房には蓮子七個を入れているもので、その径は小さい。出土数は他の種類の鐙瓦と比べて少なくない。現品は失われて拓本がとれないので、これのみ図示しなかった。石田茂作博士の『奈良時代文化雑故』と土佐史談六五号に図示してある。
 『土佐史談 第65号』といったら、前回取り上げた田所眉東氏の論考「土佐国分寺古瓦に就て」(“一元史観による地方の編年50年ずれ”参照)に掲載された図で、『高知県史 考古資料編』(高知県、1973年)にも所収された。その際、「瓦の編年に問題がある」との編者注がなされているものの、どのような問題があるのかは明示されていない。この外にも素弁十六葉蓮華文および単弁・素弁を併せ持つ特殊な八弁の軒丸瓦が出土してるようだ。
 これまでONラインのN側(701年以降)とばかり思い込んでいて、探求対象としてあまり食指が動かなかった土佐国分寺であったが、もしかしたらO側(700年以前)の創建の可能性さえ見えてきた。いくつかの問題点を内包しつつも、土佐国分寺出土の素弁蓮華文軒丸瓦はあったようだ。

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 “七重塔はなかったーー命令違反の土佐国分寺”の記事を書いたところ、ブログsanmaoの暦歴徒然草で、“妄想:土佐国分寺伽藍配置考(1)~(5)―「七重塔」の基壇はどこに―”というテーマで取り上げていただき、「聖武天皇の詔」への命令違反ではなかった可能性を示す仮説を提示された。現金堂の位置に七重塔があったとするもので、命令違反でないとすれば、七重塔を建てるには最低18m四方の基壇が必要であり、それを可能にする場所は金堂のある中央の基壇しかないというわけだ。詳細はブログ『sanmaoの暦歴徒然草』の記事を参照してほしい。
 これに伴って『肥さんの夢ブログ』でも土佐国分寺のことが紹介されていた。ちょっと驚いたのだが、土佐国分寺で素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているというのである。私の認識では土佐国分寺からは「素弁」は出ておらず、ONライン(701年)以降の創建と考えていたからだ。南海道については、次のようにリストアップされている。
【南海道】
(52) 紀伊国分寺・・・   「単」「複」
(53) 阿波国分寺・・・   「単」「複」
(54) 讃岐国分寺・・・「素」「単」「複」
(55) 伊予国分寺・・・   「単」「複」
(56) 土佐国分寺・・・「素」「単」「複」
(57) 淡路国分寺・・・「素」「単」「複」
 けれども、以前(2018年5月)紹介された「国分寺における素弁蓮華文軒丸瓦の分布(石田茂作氏)」のマップでは、土佐国は「素弁」なしとされている。
▲国分寺における素弁蓮華文軒丸瓦の分布

 どうも参照した資料によって、「素弁あり」とするものと「素弁なし」とするものとがあるようなのだ。素弁軒丸瓦の出土があるかないかは、創建年代の比定に大きく関わることなので、あいまいにできない問題だ。

 順を追って調べていきたいと考えているが、とりあえず過去のブログで紹介した画像を再度アップしておく。「土佐国分寺及び国府址出土古瓦」の拓影である。
 上図は田所眉東氏の論考「土佐国分寺瓦に就て」(土佐史談第65号)に掲載された図で、『高知県史 考古資料編』(高知県、1973年)にも所収された。その際、「徳島県の学者田所眉東氏の土佐国分寺および尼寺説である。面白い立論をされているが、瓦の編年に問題がある」(“一元史観による地方の編年50年ずれ”参照)との編者注がなされている。識者のご判断を仰ぎたい。

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 天平十三年(741年)の聖武天皇の詔により創建された土佐国分寺。勅令の中心は国分寺建立ではなく、「七重塔を建てよ」というところにあったことを前回紹介した。土佐国分寺の場合も寺伝によると天平九年の建立というから、詔が発令された時点では全国的にすでに国分寺(国府寺)的な寺院が存在していたところが多かったのであろう。
 そして土佐国分寺の場合は七重塔ではなく、掟破りの三重塔だったという内容を書いた。厳密にいうと、三重塔か五重塔か実際には分かっていない。塔の心礎から判断した推測に過ぎないのだが、おそらく七重塔は無理であろうとの結論である。
 土佐国分寺より北東に約2kmの所に比江廃寺塔跡(国指定の史跡) がある。比江廃寺は白鳳時代創建の法隆寺式伽藍配置と推定されており、塔の心礎のみが残っている。その礎石の大きさは縦3.24m横2.21m。中央の穴は81cmであることから、その40倍の30mを越える五重塔であったと推測されている。塔基壇の一辺の長さは11.6メートル。これを尺に直すと38尺。塔の基壇は正方形であるので、比江廃寺の基壇は38尺ということになる。

 これに対して土佐国分寺の場合は、現在では寺院境内に礎石等はほとんど残されていないが、客殿の庭園には礎石として使用されたと考えられる平石が庭石として置かれており、その中には塔芯礎も庭石として立てられている。この塔芯礎は元々境内地の南東部分の歴代住職の墓所にあり、秋葉社の土台として使われていたということから、大きく移動していなければ歴代住職墓所の位置が塔跡である可能性を示している。
 塔芯礎の形状は三角形を呈しており、長辺は約135cm、短辺は約113cm、最大厚約70cmである。硅岩の自然石に径68cm、深さ5.5cmの円孔が柱座として穿たれており、さらにその中心には径約20cm、深さ5cmの円孔が掘込まれており、形態から舎利孔ではなく心柱のほぞ孔と考えられている。この点、阿波国分寺の柱座径71cmに比べてもやや小さい。
 すなわち五重塔とされている比江廃寺の心礎と比べて柱座の穴が一回り小さく、推定される塔の高さは27m程度となり、三重塔と考えたものであろう。比江廃寺の塔心礎は動いていないが、土佐国分寺の礎石は動かされている。この事実が土佐国分寺の伽藍配置復元を難しくしている要因であろう。

 金堂の位置は現本堂とほぼ同位置に存在していたものと考えられる。掘込み地業による基壇跡の規模は南北18m、東西は推定30m前後を測り、建立された金堂の規模は4間×5~7間と考えられる。また、基壇跡の方向はN16°Eであり、土塁等と同じ方向を示している。本堂西の大師堂付近に見られる古瓦は西回廊、僧舎内庭園の古瓦は東回廊、惣社の東方に散布する古瓦は中門及び南門のもと推定すれば、先の塔跡も含め東大寺式の伽藍配置が復元される。また、惣社東に土壇状の地形があり、東の塔跡(歴代住職の墓所)と対照的な位置であることから西塔跡とも考えられるが、塔芯礎や礎石は確認されていない。
 中央に配した金堂を中心として、すべての伽藍が中央の区画内に収まることが土佐国分寺跡のひとつの特徴とされている。近年の発掘調査によって、推定寺域が北へ1.5倍ほど広がっていたことが分かり、南北約198m、東西約150mの範囲が伽藍地として築地塀で囲まれていたと考えられる。そうなると、これまでセンターであった金堂の位置は寺域の南寄りの場所になってしまう。新たな情報をもとに、伽藍配置など再検討する必要がありそうだ。




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 南国市国分の土佐国分寺は天平13年(741年)に聖武天皇の勅願により全国68か所に建てられた国分寺の一つで、現在は四国88か所霊場・第29番札所になっている。

 大正11年に土佐国分寺跡が国の史跡に指定された当初は、古代の寺域は南北450尺(約136m)、東西500尺(約150m)と考えられていた。その後昭和52年から幾度も発掘調査が行なわれ、金堂跡や僧房跡と考えられる建物などが見つかった。この段階では寺域のちょうど中央に金堂跡があり、東大寺式伽藍配置という推測がなされている。
 2016年からの寺域を調査する発掘調査で、古代の北門や、寺の主要施設を囲んでいた築地塀の痕跡、溝などを確認。当時の寺域は現在の寺域より更に北側60m位のところまで広がっていたことが分かってきた。すなわち、当時の寺域は現在の1.5倍ほどになり、塀に囲まれた伽藍地は南北約198m、東西約150mの範囲であったことが分かってきたのだ。

 そうすると、現在の寺域のほぼ中央にあった金堂跡が実際は伽藍地の南3分の1ほどの場所にあったことになる。新しい調査結果を踏まえて伽藍配置を検討し直す必要がありそうだ。ちなみに安岡源一氏は『国分寺の研究上』のなかに記された「土佐国分寺」の論文で、「境内で、布目瓦の発見採集できるのは、太師堂・金堂の背後及び僧舎の内庭園の一部である」と述べている。
 ところで、741年に出された聖武天皇の「国分寺建立の詔」と呼ばれている詔勅には「国分寺を建てよ」という内容は書かれていない。詔の中心は次のようなものである。
 (天平十三年)三月……乙巳、詔して曰く。「……宜しく天下諸国をして各(おのおの)敬みて七重塔一区を造り、併せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。……僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒を受くべし。……」と。(『続日本紀』、原漢文)
 簡単に言うと、「七重塔をつくり、僧寺には20人の僧、尼寺には10人の尼を置きなさい」といった命令であった。
 仏教考古学者・石田茂作博士が土佐国分寺を訪れたときのこと、塔の跡を調べていて「この塔は聖武天皇の命令違反だなあ」と言ったという。土佐国分寺の塔の心礎には径68cm、深さ5.5cmの穴、さらにいま一段の径20cm、深さ5cmの穴がある。比江廃寺の場合は径81cm、深さ9cmの穴であるから、これより一回り小さく、心礎の大きさから割り出される塔の高さはせいぜい27mちょっとで、七重塔は建たないという。土佐国分寺跡の場合はどうも三重塔だったようなのだ。

 5年間にわたる調査の成果として、金堂の約150m東側では平安末期―鎌倉期とみられる遺構、遺物が多数出土。鍛冶工房などに多く見られる鍛冶場の送風口「ふいご羽口」や鉄を精錬する際の不純物「鉄滓」も含まれていた。また、国分寺南西側では古墳・奈良・平安時代から中世にかけての多量の土器が出土した。国分寺伽藍中心部の施設の多くは真北から約7度東に傾いた方位で作られているのに対して、この地域では2~3度東に傾いた方位でそろえており、時期差による違いがあると報告されている。

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 前回紹介した『鬼滅の刃』3大聖地の一つ、溝口竈門神社(福岡県筑後市溝口)は1014年に筑前国竈門山(現在の太宰府市)より勧請された。
 竈門山というのは宝満山のことで、信仰の山として知られる。現在では竈門神社上宮(山頂、標高 829m)、下宮(本社殿、標高 175m)が鎮座する。ここが『鬼滅の刃』3大聖地の筆頭とされる宝満宮竈門神社(祭神・玉依姫命)のことである。
 中宮跡は8合目、標高 725m に位置し、現在堂社は無い。山の名称は歴史的には「御笠山」の異称もあり、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(『古今和歌集』巻九)に歌われた三笠山というのは、奈良県の山などではなく、玄海灘から東方に見える竈門山(宝満山)のことだとの指摘(“春日なる三笠の山ーー『土佐日記』紀貫之の証言”)もある。
 それはさておき、問題は『鬼滅の刃』の聖地とされる本場九州の宝満宮竈門神社や溝口竈門神社の祭神がいずれも玉依姫命であるということだ。これに対して高知県の竈戸神社の祭神は奥津日子神・奥津比売神の二神とするところが多い。「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている」(『神道史』清原貞雄著、1941年)といった専門家の解釈が影響しているようだ。
 『神社明細帳』の竈戸神社(荒神)の祭神は、前述の二神の外、迦具突知神、火産霊神(火武主比神)がある。いずれも火の神であるが、これは神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう。(『長宗我部地検帳の神々』廣江清著、昭和58年)
 明治維新により新政府は神道の国教化を進め、神仏習合の信仰形態はよろしくないということで、神仏分離令を発した。神社自体も仏教色を廃し、神社の名所変更や祭神・沿革等の差出しを求めた。それらをもとに作られたのが『神社明細帳』である。このとき「荒神宮」「三宝荒神」は一律「竈戸神社」に名称変更されている。祭神についても明治政府に忖度してか、体裁を整えたようなところが見られる。マジカルバナナではないが、竈といったら火。火といったら火産霊神といった具合である。
 『鬼滅の刃』の作品中では「炎の呼吸を火の呼吸と言ってはならない」と戒められている。竈門家に伝承されてきた「ヒノカミ神楽」の「ヒ」は単なる「火」ではないのかもしれない。主人公・竈門炭治郎を助ける医者の珠世(たまよ)も作品中では重要な役割を果たしているようだが、その名は玉依姫命に由来するとも推測されている。

 今回紹介する高知市春野町芳原299の竈戸神社の祭神は「火産霊神ほか五柱」とされている。名称変更前は荒神宮。春野町でも人口が集中する南ヶ丘団地とキャンプ地として知られる春野球場との中間地点。観音正寺観音堂(高知県指定有形文化財)の近く、106段の石段の上に鎮座する。
 現地を訪れたとき、石段の下に若一王子宮の巨大な鳥居があったので、場所を間違えたかと思ったほどだったが、若一王子宮自体はさらに離れた場所に鎮座していた。春野町芳原の竈戸神社もまた他と同じように回りが見渡せるような高台の岡の上にあった。近くには馬頭観世音菩薩が祀られており、白土峠に向かうこの場所は、古来より山越えの要所となっていたようだ。

▲若一王子宮の鳥居の奥の山に竈戸神社が鎮座する
 ところで、高知県では玉依姫命を祭神とするような竈戸神社は今のところ聞いたことがない。けれども幡多郡を中心に八幡宮の配神として祀られている形態がある。宇佐八幡宮などでは①応神天皇、②神功皇后、③比売大神の3柱として祀られているが、③比売大神の代わりに「玉依姫命」として祀られているのである。
 高知県には7郡あって、「中5郡」という表現がある。高岡郡・吾川郡・土佐郡・長岡郡・香美郡の5つは中央の指示・伝達が行き届き、ある程度同じの文化を共有してきたが、東の端の安芸郡と西の端の幡多郡は独自の文化を保ってきたとされる。神社行政においても幡多郡だけは吉田家直支配の歴史があって、中央の意向にすんなりとは従わなかったところがある。
  九州の竈門神社に関係する「玉依姫命」が幡多郡の歴史ある八幡宮の祭神として残されてきたことに何か深い意味を感じる。

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 9月25日に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が地上波で初放送された。2019年4月から9月に放送されたテレビアニメ『鬼滅の刃 竈門炭治郎 立志編』で登場した「ヒノカミ神楽」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。

 煉獄杏寿郎は何の脈絡もなく、主人公・竈門炭治郎に対して、開口一番「溝口少年」と呼びかける。この場面と福岡県筑後市溝口1553の溝口竈門神社(祭神:玉依姫命)との関連性を見つけ、最初に聖地化のアドバイスを観光協会にしたのが、地域活性化コスプレイヤー・丹タキさん。その後、丹さんが属するコスプレイヤー集団『奇抜の刃』は、イベントや祭事、テレビ取材に協力しながら溝口竈門神社を鬼滅3大聖地の一つに押し上げたという。
 ところで、無限列車に乗り込んだ鬼殺隊員の竈門炭治郎・我妻善逸・嘴平伊之助の3人は「かまぼこ隊」と呼ばれている。前回紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈門(かまど)神社⑤――高知市長浜”は、海外からも注文が殺到している禰豆子の「竹ちくわ」を製造する土佐蒲鉾(かまぼこ)本社のすぐ近くでもあり、高知県におけるプチ『鬼滅の刃』聖地として盛り上げてほしいところである。高知市観光協会にでも話を持ちかけるべきだろうか。
 それはさておき、今回紹介するのは南国市野中、西福寺と道を隔てた向かいに鎮座する竈戸神社である。高知県では漢字表記が「竈門」でなく「竈戸」が主流であることはこれまでにも言及してきた通りである。神社関係の資料にも掲載されず、小さな祠であるが、境内社ではなく「竈戸神社」と書かれた扁額付きの鳥居がしっかりある。野中という地名が示すように、この場所は先だって発掘調査で法起寺式伽藍配置が確認された野中廃寺跡のすぐ北、年越山の南麓に位置する。

 年越山といえば、頼朝の実弟、源希義が平家方の家人・蓮池家綱や平田俊遠らと激戦を交えた由緒ある場所とされる。源氏方夜須行家の援軍も間に合わず、無惨にも25歳の若さで斬り殺されてしまったのがこの年越山の近くだと考えられてきた。
 “眠り鬼”魘夢(えんむ)と激闘。その後に登場した“上弦”と呼ばれる幹部クラスの鬼・猗窩座(あかざ)と、壮絶な死闘を繰り広げた末に若くして命を落とした鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎の姿とオーバーラップする。テレビ放送をきっかけに再燃する『鬼滅の刃』ブームに合わせて、これまで紹介した高知県のプチ『鬼滅の刃』聖地をリストアップしておく。

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 土佐国府から南方に伸びる古代官道の道幅は約6m。10年以上前(平成20年)に、祈年遺跡(旧:士島田遺跡)で道路の遺構が発見されたことから、古代南海道の姿が徐々に分かるようになってきた。当初は「士島田遺跡」(“士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?”)と呼んでいたはずなのに、いつの間にか「祈年遺跡」と名称が変わっていて不思議に思っていたのだが、その理由が分かった。本当の地名が「士島田」ではなく「土島田」が正しいということが判明したのだ。「過ちては改むるに憚ること勿れ」ーー古代史においても常にそのようにありたいものである。

 それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
 地方では諸道の駅路が七世紀のものが一〇メートルから一一メートル、奈良時代には一二メートル・九メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は六メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も六メートルになることが多い。(P6~7)
 今風に言うと、古代官道は“コスパ最悪”。すなわち全盛期は幅12m以上の官道が大半だったが、建造費・維持費・運用費などがかかりすぎて、平安時代には駅路が6メートルに幅員減少することが多かった。コストパフォーマンス(費用対効果)が悪いことが古代官道衰退の大きな要因となっている。
 また、駅路とは別に郡家間を繋ぐ伝路と呼ばれる道は当初から6m幅の規格だったとされる。土佐国府から南に伸びる南北道が前者か後者かは、道幅6mだけでは判断がつかない。

▲埋め戻し前の柱穴跡(南国市元町1丁目の野中廃寺跡)

 従来は8世紀末以降の平安時代の建立とされてきた野中廃寺が、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡では7世紀後半の建物跡が見つかっている。道をはさんだ東西に7世紀の建物があるということから、この南北道も7世紀には伝路として建設されていたと考えるのが合理的である。さらに東偏12度(N12°E)の長岡条里に沿っているので、香長平野における条里制の設営も7世紀以前になりそうだ。

 南国市教育委員会・文化財係の担当者は「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話しているようだが、この中央政権が近畿天皇家であるか、それとも倭国・九州王朝なのかは、評制の時代(700年以前)であったことも考慮して慎重に判断する必要がありそうだ。

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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