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 “七重塔はなかったーー命令違反の土佐国分寺”の記事を書いたところ、ブログsanmaoの暦歴徒然草で、“妄想:土佐国分寺伽藍配置考(1)~(5)―「七重塔」の基壇はどこに―”というテーマで取り上げていただき、「聖武天皇の詔」への命令違反ではなかった可能性を示す仮説を提示された。現金堂の位置に七重塔があったとするもので、命令違反でないとすれば、七重塔を建てるには最低18m四方の基壇が必要であり、それを可能にする場所は金堂のある中央の基壇しかないというわけだ。詳細はブログ『sanmaoの暦歴徒然草』の記事を参照してほしい。
 これに伴って『肥さんの夢ブログ』でも土佐国分寺のことが紹介されていた。ちょっと驚いたのだが、土佐国分寺で素弁蓮華文軒丸瓦が出土しているというのである。私の認識では土佐国分寺からは「素弁」は出ておらず、ONライン(701年)以降の創建と考えていたからだ。南海道については、次のようにリストアップされている。
【南海道】
(52) 紀伊国分寺・・・   「単」「複」
(53) 阿波国分寺・・・   「単」「複」
(54) 讃岐国分寺・・・「素」「単」「複」
(55) 伊予国分寺・・・   「単」「複」
(56) 土佐国分寺・・・「素」「単」「複」
(57) 淡路国分寺・・・「素」「単」「複」
 けれども、以前(2018年5月)紹介された「国分寺における素弁蓮華文軒丸瓦の分布(石田茂作氏)」のマップでは、土佐国は「素弁」なしとされている。
▲国分寺における素弁蓮華文軒丸瓦の分布

 どうも参照した資料によって、「素弁あり」とするものと「素弁なし」とするものとがあるようなのだ。素弁軒丸瓦の出土があるかないかは、創建年代の比定に大きく関わることなので、あいまいにできない問題だ。

 順を追って調べていきたいと考えているが、とりあえず過去のブログで紹介した画像を再度アップしておく。「土佐国分寺及び国府址出土古瓦」の拓影である。
 上図は田所眉東氏の論考「土佐国分寺瓦に就て」(土佐史談第65号)に掲載された図で、『高知県史 考古資料編』(高知県、1973年)にも所収された。その際、「徳島県の学者田所眉東氏の土佐国分寺および尼寺説である。面白い立論をされているが、瓦の編年に問題がある」(“一元史観による地方の編年50年ずれ”参照)との編者注がなされている。識者のご判断を仰ぎたい。

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 天平十三年(741年)の聖武天皇の詔により創建された土佐国分寺。勅令の中心は国分寺建立ではなく、「七重塔を建てよ」というところにあったことを前回紹介した。土佐国分寺の場合も寺伝によると天平九年の建立というから、詔が発令された時点では全国的にすでに国分寺(国府寺)的な寺院が存在していたところが多かったのであろう。
 そして土佐国分寺の場合は七重塔ではなく、掟破りの三重塔だったという内容を書いた。厳密にいうと、三重塔か五重塔か実際には分かっていない。塔の心礎から判断した推測に過ぎないのだが、おそらく七重塔は無理であろうとの結論である。
 土佐国分寺より北東に約2kmの所に比江廃寺塔跡(国指定の史跡) がある。比江廃寺は白鳳時代創建の法隆寺式伽藍配置と推定されており、塔の心礎のみが残っている。その礎石の大きさは縦3.24m横2.21m。中央の穴は81cmであることから、その40倍の30mを越える五重塔であったと推測されている。塔基壇の一辺の長さは11.6メートル。これを尺に直すと38尺。塔の基壇は正方形であるので、比江廃寺の基壇は38尺ということになる。

 これに対して土佐国分寺の場合は、現在では寺院境内に礎石等はほとんど残されていないが、客殿の庭園には礎石として使用されたと考えられる平石が庭石として置かれており、その中には塔芯礎も庭石として立てられている。この塔芯礎は元々境内地の南東部分の歴代住職の墓所にあり、秋葉社の土台として使われていたということから、大きく移動していなければ歴代住職墓所の位置が塔跡である可能性を示している。
 塔芯礎の形状は三角形を呈しており、長辺は約135cm、短辺は約113cm、最大厚約70cmである。硅岩の自然石に径68cm、深さ5.5cmの円孔が柱座として穿たれており、さらにその中心には径約20cm、深さ5cmの円孔が掘込まれており、形態から舎利孔ではなく心柱のほぞ孔と考えられている。この点、阿波国分寺の柱座径71cmに比べてもやや小さい。
 すなわち五重塔とされている比江廃寺の心礎と比べて柱座の穴が一回り小さく、推定される塔の高さは27m程度となり、三重塔と考えたものであろう。比江廃寺の塔心礎は動いていないが、土佐国分寺の礎石は動かされている。この事実が土佐国分寺の伽藍配置復元を難しくしている要因であろう。

 金堂の位置は現本堂とほぼ同位置に存在していたものと考えられる。掘込み地業による基壇跡の規模は南北18m、東西は推定30m前後を測り、建立された金堂の規模は4間×5~7間と考えられる。また、基壇跡の方向はN16°Eであり、土塁等と同じ方向を示している。本堂西の大師堂付近に見られる古瓦は西回廊、僧舎内庭園の古瓦は東回廊、惣社の東方に散布する古瓦は中門及び南門のもと推定すれば、先の塔跡も含め東大寺式の伽藍配置が復元される。また、惣社東に土壇状の地形があり、東の塔跡(歴代住職の墓所)と対照的な位置であることから西塔跡とも考えられるが、塔芯礎や礎石は確認されていない。
 中央に配した金堂を中心として、すべての伽藍が中央の区画内に収まることが土佐国分寺跡のひとつの特徴とされている。近年の発掘調査によって、推定寺域が北へ1.5倍ほど広がっていたことが分かり、南北約198m、東西約150mの範囲が伽藍地として築地塀で囲まれていたと考えられる。そうなると、これまでセンターであった金堂の位置は寺域の南寄りの場所になってしまう。新たな情報をもとに、伽藍配置など再検討する必要がありそうだ。




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 南国市国分の土佐国分寺は天平13年(741年)に聖武天皇の勅願により全国68か所に建てられた国分寺の一つで、現在は四国88か所霊場・第29番札所になっている。

 大正11年に土佐国分寺跡が国の史跡に指定された当初は、古代の寺域は南北450尺(約136m)、東西500尺(約150m)と考えられていた。その後昭和52年から幾度も発掘調査が行なわれ、金堂跡や僧房跡と考えられる建物などが見つかった。この段階では寺域のちょうど中央に金堂跡があり、東大寺式伽藍配置という推測がなされている。
 2016年からの寺域を調査する発掘調査で、古代の北門や、寺の主要施設を囲んでいた築地塀の痕跡、溝などを確認。当時の寺域は現在の寺域より更に北側60m位のところまで広がっていたことが分かってきた。すなわち、当時の寺域は現在の1.5倍ほどになり、塀に囲まれた伽藍地は南北約198m、東西約150mの範囲であったことが分かってきたのだ。

 そうすると、現在の寺域のほぼ中央にあった金堂跡が実際は伽藍地の南3分の1ほどの場所にあったことになる。新しい調査結果を踏まえて伽藍配置を検討し直す必要がありそうだ。ちなみに安岡源一氏は『国分寺の研究上』のなかに記された「土佐国分寺」の論文で、「境内で、布目瓦の発見採集できるのは、太師堂・金堂の背後及び僧舎の内庭園の一部である」と述べている。
 ところで、741年に出された聖武天皇の「国分寺建立の詔」と呼ばれている詔勅には「国分寺を建てよ」という内容は書かれていない。詔の中心は次のようなものである。
 (天平十三年)三月……乙巳、詔して曰く。「……宜しく天下諸国をして各(おのおの)敬みて七重塔一区を造り、併せて金光明最勝王経・妙法蓮華経各一部を写さしむべし。……僧寺には必ず廿僧有らしめ、其の寺の名を金光明四天王護国之寺と為し、尼寺には一十尼ありて、其の寺の名を法華滅罪之寺と為し、両寺相共に宜しく教戒を受くべし。……」と。(『続日本紀』、原漢文)
 簡単に言うと、「七重塔をつくり、僧寺には20人の僧、尼寺には10人の尼を置きなさい」といった命令であった。
 仏教考古学者・石田茂作博士が土佐国分寺を訪れたときのこと、塔の跡を調べていて「この塔は聖武天皇の命令違反だなあ」と言ったという。土佐国分寺の塔の心礎には径68cm、深さ5.5cmの穴、さらにいま一段の径20cm、深さ5cmの穴がある。比江廃寺の場合は径81cm、深さ9cmの穴であるから、これより一回り小さく、心礎の大きさから割り出される塔の高さはせいぜい27mちょっとで、七重塔は建たないという。土佐国分寺跡の場合はどうも三重塔だったようなのだ。

 5年間にわたる調査の成果として、金堂の約150m東側では平安末期―鎌倉期とみられる遺構、遺物が多数出土。鍛冶工房などに多く見られる鍛冶場の送風口「ふいご羽口」や鉄を精錬する際の不純物「鉄滓」も含まれていた。また、国分寺南西側では古墳・奈良・平安時代から中世にかけての多量の土器が出土した。国分寺伽藍中心部の施設の多くは真北から約7度東に傾いた方位で作られているのに対して、この地域では2~3度東に傾いた方位でそろえており、時期差による違いがあると報告されている。

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 前回紹介した『鬼滅の刃』3大聖地の一つ、溝口竈門神社(福岡県筑後市溝口)は1014年に筑前国竈門山(現在の太宰府市)より勧請された。
 竈門山というのは宝満山のことで、信仰の山として知られる。現在では竈門神社上宮(山頂、標高 829m)、下宮(本社殿、標高 175m)が鎮座する。ここが『鬼滅の刃』3大聖地の筆頭とされる宝満宮竈門神社(祭神・玉依姫命)のことである。
 中宮跡は8合目、標高 725m に位置し、現在堂社は無い。山の名称は歴史的には「御笠山」の異称もあり、阿倍仲麻呂の「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」(『古今和歌集』巻九)に歌われた三笠山というのは、奈良県の山などではなく、玄海灘から東方に見える竈門山(宝満山)のことだとの指摘(“春日なる三笠の山ーー『土佐日記』紀貫之の証言”)もある。
 それはさておき、問題は『鬼滅の刃』の聖地とされる本場九州の宝満宮竈門神社や溝口竈門神社の祭神がいずれも玉依姫命であるということだ。これに対して高知県の竈戸神社の祭神は奥津日子神・奥津比売神の二神とするところが多い。「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている」(『神道史』清原貞雄著、1941年)といった専門家の解釈が影響しているようだ。
 『神社明細帳』の竈戸神社(荒神)の祭神は、前述の二神の外、迦具突知神、火産霊神(火武主比神)がある。いずれも火の神であるが、これは神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう。(『長宗我部地検帳の神々』廣江清著、昭和58年)
 明治維新により新政府は神道の国教化を進め、神仏習合の信仰形態はよろしくないということで、神仏分離令を発した。神社自体も仏教色を廃し、神社の名所変更や祭神・沿革等の差出しを求めた。それらをもとに作られたのが『神社明細帳』である。このとき「荒神宮」「三宝荒神」は一律「竈戸神社」に名称変更されている。祭神についても明治政府に忖度してか、体裁を整えたようなところが見られる。マジカルバナナではないが、竈といったら火。火といったら火産霊神といった具合である。
 『鬼滅の刃』の作品中では「炎の呼吸を火の呼吸と言ってはならない」と戒められている。竈門家に伝承されてきた「ヒノカミ神楽」の「ヒ」は単なる「火」ではないのかもしれない。主人公・竈門炭治郎を助ける医者の珠世(たまよ)も作品中では重要な役割を果たしているようだが、その名は玉依姫命に由来するとも推測されている。

 今回紹介する高知市春野町芳原299の竈戸神社の祭神は「火産霊神ほか五柱」とされている。名称変更前は荒神宮。春野町でも人口が集中する南ヶ丘団地とキャンプ地として知られる春野球場との中間地点。観音正寺観音堂(高知県指定有形文化財)の近く、106段の石段の上に鎮座する。
 現地を訪れたとき、石段の下に若一王子宮の巨大な鳥居があったので、場所を間違えたかと思ったほどだったが、若一王子宮自体はさらに離れた場所に鎮座していた。春野町芳原の竈戸神社もまた他と同じように回りが見渡せるような高台の岡の上にあった。近くには馬頭観世音菩薩が祀られており、白土峠に向かうこの場所は、古来より山越えの要所となっていたようだ。

▲若一王子宮の鳥居の奥の山に竈戸神社が鎮座する
 ところで、高知県では玉依姫命を祭神とするような竈戸神社は今のところ聞いたことがない。けれども幡多郡を中心に八幡宮の配神として祀られている形態がある。宇佐八幡宮などでは①応神天皇、②神功皇后、③比売大神の3柱として祀られているが、③比売大神の代わりに「玉依姫命」として祀られているのである。
 高知県には7郡あって、「中5郡」という表現がある。高岡郡・吾川郡・土佐郡・長岡郡・香美郡の5つは中央の指示・伝達が行き届き、ある程度同じの文化を共有してきたが、東の端の安芸郡と西の端の幡多郡は独自の文化を保ってきたとされる。神社行政においても幡多郡だけは吉田家直支配の歴史があって、中央の意向にすんなりとは従わなかったところがある。
  九州の竈門神社に関係する「玉依姫命」が幡多郡の歴史ある八幡宮の祭神として残されてきたことに何か深い意味を感じる。

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 9月25日に『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』が地上波で初放送された。2019年4月から9月に放送されたテレビアニメ『鬼滅の刃 竈門炭治郎 立志編』で登場した「ヒノカミ神楽」の秘密が少しは解けるかと期待していたが、「炎の呼吸」を使う鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎でさえ、まったく知らない様子だった。

 煉獄杏寿郎は何の脈絡もなく、主人公・竈門炭治郎に対して、開口一番「溝口少年」と呼びかける。この場面と福岡県筑後市溝口1553の溝口竈門神社(祭神:玉依姫命)との関連性を見つけ、最初に聖地化のアドバイスを観光協会にしたのが、地域活性化コスプレイヤー・丹タキさん。その後、丹さんが属するコスプレイヤー集団『奇抜の刃』は、イベントや祭事、テレビ取材に協力しながら溝口竈門神社を鬼滅3大聖地の一つに押し上げたという。
 ところで、無限列車に乗り込んだ鬼殺隊員の竈門炭治郎・我妻善逸・嘴平伊之助の3人は「かまぼこ隊」と呼ばれている。前回紹介した“『鬼滅の刃』ブームと竈門(かまど)神社⑤――高知市長浜”は、海外からも注文が殺到している禰豆子の「竹ちくわ」を製造する土佐蒲鉾(かまぼこ)本社のすぐ近くでもあり、高知県におけるプチ『鬼滅の刃』聖地として盛り上げてほしいところである。高知市観光協会にでも話を持ちかけるべきだろうか。
 それはさておき、今回紹介するのは南国市野中、西福寺と道を隔てた向かいに鎮座する竈戸神社である。高知県では漢字表記が「竈門」でなく「竈戸」が主流であることはこれまでにも言及してきた通りである。神社関係の資料にも掲載されず、小さな祠であるが、境内社ではなく「竈戸神社」と書かれた扁額付きの鳥居がしっかりある。野中という地名が示すように、この場所は先だって発掘調査で法起寺式伽藍配置が確認された野中廃寺跡のすぐ北、年越山の南麓に位置する。

 年越山といえば、頼朝の実弟、源希義が平家方の家人・蓮池家綱や平田俊遠らと激戦を交えた由緒ある場所とされる。源氏方夜須行家の援軍も間に合わず、無惨にも25歳の若さで斬り殺されてしまったのがこの年越山の近くだと考えられてきた。
 “眠り鬼”魘夢(えんむ)と激闘。その後に登場した“上弦”と呼ばれる幹部クラスの鬼・猗窩座(あかざ)と、壮絶な死闘を繰り広げた末に若くして命を落とした鬼殺隊の炎柱・煉獄杏寿郎の姿とオーバーラップする。テレビ放送をきっかけに再燃する『鬼滅の刃』ブームに合わせて、これまで紹介した高知県のプチ『鬼滅の刃』聖地をリストアップしておく。

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 土佐国府から南方に伸びる古代官道の道幅は約6m。10年以上前(平成20年)に、祈年遺跡(旧:士島田遺跡)で道路の遺構が発見されたことから、古代南海道の姿が徐々に分かるようになってきた。当初は「士島田遺跡」(“士島田遺跡の古代官道跡をどう解釈するべきか?”)と呼んでいたはずなのに、いつの間にか「祈年遺跡」と名称が変わっていて不思議に思っていたのだが、その理由が分かった。本当の地名が「士島田」ではなく「土島田」が正しいということが判明したのだ。「過ちては改むるに憚ること勿れ」ーー古代史においても常にそのようにありたいものである。

 それはさておき、祈年遺跡や年越山の切り通しを経て、南北に走っていたと推定される約6m幅の古代南海道がいつ建設されたかが一つの宿題となっていた。『事典 日本古代の道と駅』(木下良著、2009年)では古代官道の道幅について、次のように解説している。
 地方では諸道の駅路が七世紀のものが一〇メートルから一一メートル、奈良時代には一二メートル・九メートルのことが多く、駅路以外の郡家間を繋ぐとみられ、著者が伝路と称している道路は六メートル前後であるが、平安時代に入ると駅路も六メートルになることが多い。(P6~7)
 今風に言うと、古代官道は“コスパ最悪”。すなわち全盛期は幅12m以上の官道が大半だったが、建造費・維持費・運用費などがかかりすぎて、平安時代には駅路が6メートルに幅員減少することが多かった。コストパフォーマンス(費用対効果)が悪いことが古代官道衰退の大きな要因となっている。
 また、駅路とは別に郡家間を繋ぐ伝路と呼ばれる道は当初から6m幅の規格だったとされる。土佐国府から南に伸びる南北道が前者か後者かは、道幅6mだけでは判断がつかない。

▲埋め戻し前の柱穴跡(南国市元町1丁目の野中廃寺跡)

 従来は8世紀末以降の平安時代の建立とされてきた野中廃寺が、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡では7世紀後半の建物跡が見つかっている。道をはさんだ東西に7世紀の建物があるということから、この南北道も7世紀には伝路として建設されていたと考えるのが合理的である。さらに東偏12度(N12°E)の長岡条里に沿っているので、香長平野における条里制の設営も7世紀以前になりそうだ。

 南国市教育委員会・文化財係の担当者は「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話しているようだが、この中央政権が近畿天皇家であるか、それとも倭国・九州王朝なのかは、評制の時代(700年以前)であったことも考慮して慎重に判断する必要がありそうだ。

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 ニニギノミコトが降り立ったという天孫降臨の地はどこだろうか。通説では九州の日向(今の宮崎県)の高千穂のクジフル嶺(たけ)、あるいは霧島山とされている。また『古事記小事典 古代の真相を探る』は薩摩半島笠沙町や筑紫(福岡県)の日向峠等へ降り立ったとする説なども紹介している。


 専門家は天孫降臨を単なる神話と見る向きもあって、正面から歴史研究の対象とされることは少なかった。これに対して、古田武彦氏は『盗まれた神話』(昭和54年)で、学問の研究対象として取り上げ、筑紫(福岡県)の日向峠へ降り立ったとする天孫降臨の真相を解き明かしたのであった。
 ところで、日向には「ひゅうが」「ひむか」「ひなた」など、いくつかの読み方が存在する。天孫降臨の地、日向はどう読むのだろうか。
 通説では筑紫を九州島と解釈し、宮崎県の日向(ひゅうが)に当ててきた。ひと昔前はサッカー漫画『キャプテン翼』の大流行で主人公・大空翼のライバル日向(ひゅうが)小次郎の存在感もあってか、「ひゅうが」読みが一般的であった。
 最近ではアニメ『ハイキュー!!』の主人公・日向(ひなた)翔陽、アイドルグループ日向(ひなた)坂46の人気も一役買って「ひなた」読みが市民権を得てきたように感じる。不思議なことに、「日向坂46」のグループ名は、東京都港区三田に実在する「日向坂(ひゅうがざか)」に由来しているという。ひらがなにした時に、「ひゅうがざか」よりも「ひなたざか」の字画の方が運勢的に良いため、「ひなたざか」になったそうだ。実は日向坂(ひなたざか)自体も、埼玉県さいたま市に実在している。
 『古事記』には「竺紫の日向の高千穂のくしふるたけに天降りまさしめき」とあり、この天孫降臨の場所について、古来より宮崎県(日向)の高千穂などに比定されてきた。しかしこの通説には疑問がある。古田氏は「天孫降臨神話」は大和朝廷の史官による創作ではなく、「歴史上の事実を“本質的に”反映している。それは紀元前二~三世紀頃、朝鮮海峡を拠点とする天照や邇邇芸命ら海人(あま)族による、稲作が盛んだった豊穣の地(豊葦原水穗国とよあしはらみずほのくに)“博多湾岸”への青銅の武器を携えての侵攻だった」とした。創作された神話なら降臨場所はどこでも構わないだろうが、史実の反映と見るならば、周辺に紀元前にさかのぼる弥生時代の遺跡がなければならない。
 その点、遺跡が密集する糸島郡と福岡平野の境付近の日向峠とする古田説は有力である。しかも『古事記』にはこの場所について重要なヒントが示されていた。「此の地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり。故、此地は甚吉(いとよ)き地(ところ)」と書かれている。
「此の地(糸島郡、高祖山付近から望む)は
①(北なる)韓国に向かって大道が通り抜け、
②(南なる)笠沙の地(御笠川流域)の前面に当たっている。そして、
③(東から)朝日の直に照りつける国、
④(西から)夕日の照る国だ」
 この文章は「四至」文だったと古田氏は指摘する。後に荘園立荘の際などに四至を定めて場所を確定するのに似ている。この文面は玄界灘に面し、韓国に直行できるような場所にこそふさわしい。その点、宮崎県や鹿児島県などには違和感しかなく、周囲の遺跡の状況ともそぐわない。
 慶長年間の福岡恰土郡高祖村椚(くぬぎ)に関する黒田家文書に「五郎丸の内、日向山に、新村押立」とあり、『福岡県地理全誌』恰土郡には「民家の後に、あるを、くしふる山と云」とあることから、糸島郡の有名な三雲遺跡の近辺、高祖連山一帯の地が「日向山」と考えられる。
 余談になるが、古田氏は「くしふる→くぬぎ」音の転訛説は、無理な俗説としており、同感である。高知県にも複数見られる「くぎぬき」地名が「くぎぬき→くぬぎ」と転訛したものではないだろうか。いずれにしても天孫降臨の地「筑紫の日向」とは、“宮崎の日向(ひゅうが)”ではなく、“福岡県の日向(ひなた)峠”一帯を指していたと結論づけたい。

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 以前、“土佐国最古の廃寺トライアングルーー秦泉寺・大寺・野田廃寺”について書いたことがあったが、最近の発掘調査で“南国市の古代寺院トライアングル”に注目が集まっている。土佐国府跡の北東部に位置する比江廃寺。西に隣接する土佐国分寺。国府から南方に伸びる古代官道東側にある野中廃寺の3寺院である。

①野中廃寺(南国市元町)

 前回紹介したように、南国市元町1丁目の野中廃寺について、高知県内の古代寺院では初めて伽藍配置が判明した。かつて、野中廃寺跡を探そうと思って現地を訪問したことがあったが、地元の人に尋ねても全く知らない様子であった。それが先月、新聞で大きく取り上げられたのである。

古代寺院の伽藍配置判明 県内初

南国市の野中廃寺跡 基壇発見

 ……古代寺院の伽藍が判明するのは県内初の事例。近くの「若宮ノ東遺跡」(篠原)で見つかった同時代の役所「評衙」跡との深いつながりが推測される。……寺域は150メートル四方におよび、ほかにも全国に類例のない独自模様の瓦や、県内では3遺跡目となる「二彩陶器」が出土したという。(高知新聞7月10日号より抜粋)
 毎日新聞でも「出土物の須恵器や二彩陶器を分析し、寺の存続時期は白鳳期の7世紀後半から平安時代の10世紀ごろまでと推定」と年代比定の根拠を示していた。伽藍配置については、野田廃寺は東に塔、西に金堂がある「法起寺式」であった。

②比江廃寺(南国市比江)

 他の古代寺院については伽藍配置は不明とされているものの、比江廃寺に関しては塔の心礎が残っており、東に金堂、西に塔がある「法隆寺式」と推定されている。出土した瓦については「7世紀代に遡り得る瓦も存在するものの、その多くは8世紀以降のものとみられ、創建当時の堂宇は金堂など限られていたのではなかろうか」とし、寺院の性格に関しては次のように考察されている。
 豪族の氏寺として創建された点については,特に異論は出されていないもののその後の性格についてはいくつかの考えが提示されている。一つは国府寺(国府付属寺院)に転用されたとするもの(岡本1959,廣田 1990)である。比江廃寺が土佐国府の丁度北東部,鬼門に位置することが大きな要因である。
 もう一つは国分尼寺に転用されたとする意見(安岡・山本 1959 ,岡本 1968)である。比江廃寺から土佐国分寺の瓦と同范のものが出土していることと地名に国分尼寺に関係したホノギがあることを理由にしている。
(『比江廃寺跡Ⅲ 平成6・7 年度の確認調査報告書』より)
 「豪族の氏寺として創建された点については,特に異論は出されていない」としているが、土佐国府を太宰府の都府楼跡になぞらえた時、観世音寺の位置に相当するのが比江廃寺であることから、当初から国府寺的な意味合いで創建されたのではなかろうか。さらに出原惠三氏は「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」(「比江廃寺」『土佐史談189号』土佐史談会、平成4年3月)と指摘する。

③土佐国分寺(南国市国分)

 もう一つの土佐国分寺についても、昨年までに大々的な発掘調査が行われた。2020年12月12日に「土佐国分寺の寺域3倍か 南国市 周辺に5棟の建物跡」との見出しで、金堂などの主要施設があった伽藍地の南西側で、8世紀前後とみられる建物群跡などが見つかったと新聞報道された。
 土佐国分寺は、741年(聖武天皇の詔)以降に全国で建立された古代寺院の一つ。現在の国分寺を含む南北約136m、東西約150mが国の史跡に指定されている。2016年から寺域について調査し、古代の北門や、寺の主要施設を囲んでいた築地塀の痕跡、溝などを確認。塀に囲まれた伽藍地は南北約198m、東西約150mとなり、従来の伽藍配置の推定に変更が加えられそうだ。

 整理すると、①野中廃寺と②比江廃寺がONライン(701年)以前の創建となり、③土佐国分寺がONライン以後の創建と考えられる。安芸郡奈半利町のコゴロク廃寺や安芸市僧津の瓜尻遺跡で確認された古代寺院なども含め、さらなる調査や検証が求められるところだ。


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 高知県には古代寺院が8つあったとされている。高知市を挟んで西の土佐市高岡町には野田廃寺。東の南国市篠原には野中廃寺があったとされる。ちょっと混乱しそうだが、野田廃寺は秦泉寺廃寺や大寺廃寺とともに廃寺トライアングル(“土佐国最古の廃寺トライアングルーー秦泉寺・大寺・野田廃寺”)をなす。旧土佐郡・吾川郡・高岡郡にまたがるものの、素弁蓮華文軒丸瓦の類似性から、共通の文化圏にあったことを推測させる。
 一方、今回とり上げる野中廃寺のほうは土佐国府跡の南方にあって、土佐国分寺や比江廃寺とともに南国市古代寺院トライアングルを形成している。この野中廃寺については江戸時代の文献にも国分尼寺ではないかと考察されていたが、平安時代に創建された寺院と年代比定されていたため、その説は退けられていた。
國分尼寺[古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。]  
按ニ、此鐘楼堂跡ハ古への國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出[国分寺よりも古瓦出る]、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、猶可考。 (『南路志 第2巻』郡郷の部(上)P345)
 個人的にはこの野中廃寺の年代が50年はさかのぼって奈良時代の創建ではないかと推測しており、国分尼寺の第一候補と考えていた。そんな矢先、今年7月までに発掘調査が行われており、驚くべき報告がなされている。遅ればせながら、記事を紹介しておく。

古代寺院の伽藍配置、高知県内で初特定 南国の野中廃寺

 高知県南国市の野中廃寺について、市教育委員会は9日、東に塔、西に金堂がある「法起寺式(ほっきじしき)」に近い伽藍(がらん)配置だったことが発掘調査でわかったと発表した。県内には野中廃寺を含む八つの古代寺院があったと伝えられ、伽藍配置を特定できたのは初めてという。
 住宅開発に伴い、昨年2月から始めた調査で、寺の中心的建物の基礎になる基壇が新たに二つ見つかった。存在が知られていた二つの基壇を含め、計四つの基壇の特徴から野中廃寺の塔、金堂、講堂、中門の配置が明らかになった。金堂の基壇は東西25・5メートル以上、南北18メートル以上で、塔の基壇は12メートル四方のほぼ正方形だった。

▲野中廃寺の伽藍配置図(南国市教育委員会)
 これまで野中廃寺は、8世紀末以降の平安時代の建立とされてきたが、出土した土器から7世紀後半の白鳳期に創建されたことが判明。寺の南西約500メートルにある若宮ノ東遺跡で7世紀後半に建てられた役所と見られる建物跡が見つかっていることから、市教委の文化財係の油利崇(ゆりたかし)さんは「野中廃寺と若宮ノ東遺跡の双方に、中央政権とつながりのある土佐の有力者が関わっていたと想定できる」と話している。
 また、塔や金堂の北側に見つかった講堂の基壇の東側に、規則正しく並ぶ柱穴も確認された。僧侶などが暮らした僧坊跡(南北19・8メートル、東西6・3メートル)と見られる。(朝日新聞デジタル記事2021年7月10日)
 50年どころか100年以上も創建年代がさかのぼり、白鳳期の寺院であることが判明。土佐国分寺よりも古く、聖武天皇の詔(741年)よりも先に創建されていたことが分かってきたのである。そして何より、高知県内の古代寺院では初めて伽藍配置が明らかになったのだ。東に塔、西に金堂がある「法起寺式」に近い伽藍配置であった。
 法起寺式は九州から関東地方まで、地方に多い古代寺院の形式とされている。一元史観では奈良県の法起寺の伽藍配置の形式が地方に伝播したものとされるが、これについては多元史観の立場から機会を改めて、別の考察をしてみたいところである。今後、他の古代寺院についても発掘調査等を経て、伽藍配置が明らかにされることを期待する。

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 「先生、万有引力って何ですか?」
 キタ━(゚∀゚)━!
 高校2年の物理では万有引力について学習する。「万有」などという言葉は普段使うことがないので、その意味が捉えにくい。ここでどう答えるかが腕の見せどころである。言葉の意味を説明するのか。それとも公式を示してあげるべきか。
 私は物理学者アイザック・ニュートン(1642-1727年)の話から入ることにした。

 コロナ禍というわけではないが、ヨーロッパで感染症のペストが広まっていた頃、ニュートンは自宅にこもって考え事をしていたそうな。リンゴが木から落ちた時にニュートンは万有引力の法則を思いついたと言われている。なして? 「万有引力」というわけだから、万(よろず)の物が引っぱる力を有する。地球がリンゴを引っ張ったのでリンゴは地球に落ちた。それだけではない。リンゴも地球を引っ張っているのである。じゃあ、なぜ地球はリンゴに向かって落ちてこないのか。それは質量が桁違いに地球のほうが大きいので、目に見える移動は起きないのだ。
 さて、リンゴは木から落ちてきたのだが、その上空にはぽっかり月が浮かんでいたという。ニュートンは考えた。「なぜ月は落ちてこないのか」と。当時のヨーロッパでは重いものは下に落ちる性質があるとされ、地上の法則と天体などの運動に関する天上の法則は異なるものと考えられていた。ニュートンはその常識に疑問を呈したのである。「万有」と名づけるからには、月や星なども含めた概念となる。地球と月の間にも万有引力が働くはずである。どうして月はリンゴのように落ちてこないのか。現代では常識の範囲かもしれないが、月は地球の周りを公転しており、重力と遠心力がつり合っているからである。

 ある人は言った。「宇宙は回転するもので満ちている」と。まさに『自転しながら公転する』世界である。逆に言うと回転しないものは存在できなかったという理屈なのだ。すなわち宇宙のあらゆる存在は中心を求めて調和し、一体となって回転運動しているのである。


<万有引力の公式>
万有引力定数G = 6.67×10-11 N⋅m2/kg2

 ところで、万有引力の公式を見ると、力の大きさは距離の二乗に反比例することが分かります。距離が2倍、3倍……になると、力は2×2=4分の1倍、3×3=9分の1倍……というようにです。一説によると、学習効果も先生との距離の二乗に反比例するとも言われます。だから前に座ったほうがいいという話です。
 「一番後ろに座っている人、もっと前に来ませんか?」
 「いえ、大丈夫です。心の距離は近いですから……」

 

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朱儒国民
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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