忍者ブログ
 県外の読者からのコメントで、高知市横浜の清川神社に南学中興の祖・谷時中のお墓があることを教えられた。「灯台下暗し」で、地元の人間にもあまり知られていないスポットかもしれない。そもそも「谷時中って誰?」と思う高知県民も多いのではないだろうか。人気が坂本龍馬に一点集中するあまり、他の高知の偉人たちが十分に発掘・PRできていない弊害があるように感じる。
 ところで、神社にお墓があることに違和感を持たれる方もいるのではないだろうか。神道では穢(けが)れを忌み嫌う考え方があり、お寺とお墓のセットはあるが、神社とお墓が共存するというのはどうなのか。「百聞は一見に如かず」――とにかく行ってみることにした。

 浦戸湾に面する高知市横浜東町の横浜病院に隣接する箕越山。かつては前の道路をよく通っていたものだった。当時は全く気づくこともなく通過していたらしい。旧道に踏み入れると「谷時中の墓」の案内板がすぐに見つかった。山の一画が墓所になっており、ゆるやかな階段を昇りつめた頂上に清川神社の鳥居が見えてきた。下調べで見た古い写真と違って、つい最近きれいに整備された様子である。

 古い頌徳碑碑文は文字が見えづらくなっているが、平成23年に改修工事が行われたようで、地元住民と東京都在住の森夫妻のご尽力があったことが、新しい石碑に刻まれている。森夫人の旧姓名が「カントリー・ガール」の谷山浩子ならぬ谷浩子さん。谷時中の後孫であろうか。

谷時中(1599(8?)ー1649)

 慶長4(3?) 年安芸郡甲浦に出生。 父宗慶は浄土真宗の僧で、のち吾川郡瀬戸村(現高知市) 真乗(常)寺に移住。雪蹊寺の天質上人から儒学を学び、これを野中兼山・山崎闇斎らに教え、藩政を支える学問にまで発展させたが、 自身は官途につかず瀬戸村の低地を干拓し耕地を開いた。晩年田地や山林を播磨屋宗徳に売却し、息子の京都遊学の費用に当てた。慶安2年12月死去。後年村人はその功績を讃えるため墓に祠を建て清川神社と称した。
1993(平成5)年3月 高知市教育委員会
 谷家の先祖は奥州の佐藤氏で、高知県の東の玄関口、安芸郡甲浦にやってきた。父宗慶は親鸞派の甲浦真乗寺の住職で、貧乏な寺に生まれた時中は慶長十八年(1613年)、14歳の時、父に連れられ長浜瀬戸村(現高知市瀬戸)真乗寺に移る。ほどなく、長浜雪蹊寺住職天質和尚に弟子入りし、25歳まで朱子学を学んだ。
 ある日、天質が『大学』の「財を生ずるに大道あり」の章の講義を終え、さらに「金銭や財産は身をほろぼし、家を貧乏にする故、何一つ所有していないことが安全である」と講義した。孔子の教えである儒学と現世の欲を遠ざける仏教との矛盾を感じとった時中の反論は天質を感心させたという。
 当時の南学はこの世を捨てた僧侶から、君臣、父子、夫婦といった現世の人道を学ぶという自己矛盾を抱えていた。時中は還俗して三郎左衛門と改名し、干拓事業をおこして人々の生活を豊かにする儒者としての道を選んだ。殖産興業、経済主義の、理論より実践に重きをおく「実学」を打ち立てたのである。


拍手[1回]

PR
 現在では「宝司部」と表記されている春野町の「ほしぶ」地名であるが、古い地図では「法司分」や「法師分」との表記が見られる。読みも「ホウシブン」であったかもしれない。
 まず「法司分」とした場合に連想されるのは、戦国時代に春野を治めた吉良氏による分国法「吉良条目」の制定である。何か法を司る機関が存在したのだろうか。「天文年間吉良宣経は弘岡城主として周防山口から南村梅軒を迎え、土佐南学の基を開き、法を定めて所領の支配と家臣の統制を行ない、善政をしいて次第に勢力を伸張した」(『長宗我部地検帳 吾川郡上』P683の解説)と山本大氏は述べている。高知市のホームページにも「南学発祥の地」について、次のように紹介されている。
 吉良氏についての史料『吉良物語』などによれば、戦国時代の吉良氏当主であった宣経(のぶつね)は学問を愛し、天文年間(1531-55)に周防(すおう)国(山口県)から南村梅軒(みなみむらばいけん)を迎えました。梅軒は仏教や朱子学などにすぐれた知識を持つ学僧で、宣経とその一族宣義(のぶよし)らは梅軒の教えを熱心に受けたといいます。この梅軒の教えは、のちに雪蹊寺(せっけいじ)の天質(てんしつ)、そして谷時中(たにじちゅう)、野中兼山(のなかけんざん)に受け継がれ、土佐の朱子学である「南学(なんがく)」へと発展します。宣経らが梅軒の教えを受けたと伝えられる場所が「南学発祥地」として指定されました。
 現在この場所には南学発祥地としての記念碑が建っています。しかし、この梅軒や南学発祥についてはのちに研究が進められ、『吉良物語』などの史料の信憑性が疑われるようになったこともあり、さまざまな異説もあります。(高知市公式ホームページより)
 高知県の観光業界の振興のためには、隠しておきたいところであるが、「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない」(マタイによる福音書5章15節)――真実を隠しておくことはできないのである。吉良宣経により制定されたとする吉良条目の根拠とするところは『吉良物語』(真西堂如淵著)であり、「長宗我部元親百箇条」などを参考にして、後世の潤色がなされているとの指摘があり、近年は疑問視される部分も多いようだ。物語と史実を混同してはいけないのである。
 余談ではあるが、このことは大化二年(646年)に出された「改新の詔」が、大宝律令など後世の律令をベースにして、『日本書紀』編纂に際し書き替えられた可能性があるといった内容とよく似ている。
 南村梅軒や吉良条目に関する新しい根拠でも発見されれば別であるが、史実に基づかない以上は、法を司る機関としての「法司分」といった地名由来の可能性も消えることになる。残る本命としては、やはり「法師分」であろうか……。


拍手[2回]

 『長宗我部地検帳』に「ホウシ分」とあることから、高知市春野町西分の「宝司部(ほしぶ)」地名が中世以前にさかのぼれる古い地名であることが判明した。「宝司」という漢字のイメージから、個人的な印象では福岡県太宰府市蔵司地区の「蔵司」(収められた税を管理する役所)のように、古代の役所か何かに関係する地名ではないかとの期待もあった。
 しかし、古くは「法司」「法師」などとも表記され、「宝司」は最も新しく当てられた漢字のようである。『長宗我部地検帳』に「ホウシフン」とある音を基本に考えるべきだろう。そこで向かったのが高知大学図書館。地名辞典を開きながら、全国に似たような地名はないかと探してみた。『地名が解き明かす古代日本ー錯覚された北海道・東北ー』(ミネルヴァ書房、2012年) の著者・合田洋一氏も「渡島は北海道ではない」ことを論証した際に、古田武彦氏のアドバイスで全国の「渡(わたり)」地名について悉皆調査を行ったという。

 当時はまだコロナが流行する前だったので、時間をかけて調査することが可能であったが、コロナ禍の蔓延防止対策として、ここしばらくの間は、大学関係者以外は図書館内の滞在は30分程度までと決められている。館内には少ない人数しか見当たらないのだが、学問の発展にとってはやや残念な現状である。
 地名辞典を検索しながら、「ホウシ~」に似たような地名はないかと探したところ、「傍示峠」のような地名が多く存在することが分かってきた。「数多ければ勝つ」とは言い切れないが、やはり統計的手法も可能性を絞り込んでいく上では有効である。
 四国では愛媛県・徳島県・高知県の県境に「三傍示山」があり、大阪府(河内国)と奈良県(大和国)の境にも「傍示(ほうじ)の里」という地名が残っている。傍示とは傍(ふだ)を立てて、国境であることを通行人に示した標柱のようなものである。全国的に見ると、この「傍示」に由来する境界線付近につけられた地名が多いようである。ちなみに高知県には「傍士」姓も存在する。
 そのような事例を多く目にすると、春野町西分の「ホウシ分」も元は「傍示分」だったのではないかという思いになってきた。古くは濁点抜きの表記も多く「ボウジ」が「ホウシ」と書かれている可能性もある。そもそも「西分」という地名自体が喜津賀分を東分と西分とに分けたことに由来する。「宝司部」はその東分と西分の境目だったのではないか。驚くべき大発見を期待しすぎていたが、意外と結論は平凡なものなのかもしれない。
 一応、「宝司部」が境界付近に位置しているか確認しておく必要はある。『長宗我部地検帳』に記載された当時の喜津賀(木塚)は長浜村の西に隣接する地域で、西分は西分村及び西諸木村、東分は内谷村・東諸木村・吉原村からなっている。現在、「宝司部」地区は西分にあり、東は芳原と接している。境界部という条件に合いそうだが、西分の小字図を見てみると、「法司分」の東隣りに「南林口」「マガリヤ」などと続く。地検帳にも「ホウシフン」に続いて西分内に出てくるホノギである。境界線が変わった可能性もあるが、そうでなければ傍示を立てるべき場所とは違う。どうも「傍示」に由来する地名ではなさそうだ。
 他にもいくつかの可能性があり、一つ一つ調べていくことにしよう。

拍手[3回]

 新しい地名なのか、古くからある地名なのかは、地名研究においてまず確かめておかなければならないことである。高知市春野町西分の「宝司部(ほしぶ)」についてはどうだろうか。
 高知県には恰好の史料がある。豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳『長宗我部地検帳』である。天正十五(1587)年から数年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。
 『長宗我部地検帳』に記載されていれば16世紀以前にさかのぼることができ、記載されていなければ、ほとんどの場合江戸時代以降の比較的新しい地名ということになる。いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」である。
 もちろん、『長宗我部地検帳』も無謬(むびゅう)というわけではなく、記載されないものもある。けれども土佐一国の基本台帳としての客観的な資料的性格を考えると、主権者のイデオロギーを反映する『日本書紀』などよりも、はるかに信頼性があって、まさに一級史料と言えるだろう。
 実はこの『長宗我部地検帳』に例の地名が記録されていたのである。『長宗我部地検帳 吾川郡上』P180~181に「ホウシフン」というホノギ(小字)があり、「ホウシ分」との表記もある。このことから3文字目の漢字について、古くは「部」ではなく「分」であったことは確認できるが、初めの2文字が「宝司」「法司」「法師」のいずれであるかについては判明しない。

▲『長宗我部地検帳 吾川郡上』P181

 また当時は濁点をつけずに表記することが多く、「ホ」と「ボ」それと「シ」と「ジ」のどちらで発音していたのかは判断がつかない。いずれにしても現代の「ほしぶ」という発音とは微妙に違っている。変化が最も小さいものと考えると「ホウシブン」というように「フ」だけに濁点をつけて「ブ」と発音するのが良さそうだが、他の選択肢も念頭に置いておくべきかもしれない。

 重要な点は16世紀末の時点で、現代とはやや異なっているものの、すでに「ホウシ分」という地名が実在していたということである。よって地名の由来もそれ以前にさかのぼって考えなければならないようだ。


拍手[2回]

 高知市春野町に「宝司部(ほしぶ)」という不思議な響きの地名がある。あまり聞きなれない地名なので、名前の由来が気になって仕方がない。「干しぶどう?」ーーちょっと短絡的すぎる。
 全国的に大雪の予報が出されて心配なところだが、おでんがおいしい季節でもある。ギザギザのちくわぶは切り口が星型になり、星形のちくわぶで「ほしぶ」なんてことをふと連想してしまった。

 「宝司部(ほしぶ)」の音から、すぐにイメージされるのは「星~」である。「星組」や「星神社」などとは関係ないのだろうか。宝司部から1キロメートル圏内に大寺廃寺という古代寺院跡がある。そこから高句麗様式とされる有稜線素弁蓮華文軒丸瓦が採集され、現在は高知市春野郷土資料館に「8世紀」(7世紀とすべきか)と説明・展示されている。古代瓦に用いられた瓦当文様には「花組」「星組」などの分類があり、その一方の「星組」流派の瓦工集団に関係する地名なのではとの妄想がふくらんだ。
 しかし、妄想の風船は真実のひと針ですぐに破裂する。「花組」「星組」は学問分類上の通称であり、古代においてそのような呼ばれ方をしたわけではない。つい最近の命名なのである。このように名称の新旧についてはしっかりと確認する必要がある。
 地名研究においても市町村合併等で新たに誕生した地名なのか、古代から続く地名なのかは調べておくことが重要だ。例えば「山田」+「芳奈」=「山奈」(宿毛市)という合併後の地名を見て、「山名氏と関連がある地名だ」などと言ったら、とんだ恥をかくことになる。

 同じような理由で「星神社」の線も消えることになる。高知県には星神社が50社以上あり、春野町内にも2つの星神社がある。1社は最近紹介した“高知市春野町秋山の旧郷社・星神社”で、もう1社は森山字妙見谷という場所に鎮座する。いずれも天之御中主神や明星尊などを祭神とする星信仰に関係する神社であるが、地名が示すように江戸時代以前は「妙見」と呼ばれていて、明治維新の神仏分離令に伴い、「星神社」へと名称変更している。やはり新しい名称なのである。
 地名研究は単なる言葉遊びであってはいけない。可能な限り実証的な史料を根拠としながら、統計的な手法も活用しつつ、大半の人たちが納得できるような論証を心がけていかなくてはならない。次回からもう少し、学問的なアプローチを試みたい。

拍手[2回]

 高知市春野町西分に「宝司部(ほしぶ)」という珍しい地名がある。初めてこの地名を目にした時から、何か心惹かれるものがあり、その由来をたずねてみたいと思いながらも、他に類例はなさそうで、手がかりも少ないだろうと予想された。

 場所はJA高知春野から東へ行くこと約600メートル、「うららか春陽荘」周辺の微高地である。広域農道を挟んだ北側に宝司部公民館があり、「寶司分組」と刻まれた灯籠(明治十丑四月吉日)も立っている。そのままの字形であれば、「宝を司る部署」といったイメージである。

 昭和11年発行の大日本帝國陸地測量部刊「明治三十九年測圖量之宿尺圖昭和八年測圖及び修正測圖」に書かれた地名を見ると「法司分」となっている。こちらは「法を司る」という漢字が使われ、「部」が「分」になっている。『第二集西分村史』にも「字法司分段別七畝十六歩」と同様の表記である。
 ところが『春野町史料』には「法師分部落 一ニ宝司分トモ云フ。元標北▢度ノ方位ニアリ。東西約二町、南北約四町ノ間ニ人家散在ス。全戸農ニシテ副業ハ紙仕茸薦製造及養蚕等ナリ。大正四 三十七戸」と記述されている。「法師分」だと意味合いがかなり違ってくる。現地在住の長老にお聞きしたところ、これらの表記の差異が存在することは熟知しておられたが、地名の由来については知らないとのこと。
 より原初的な表記および地名のルーツは何なのだろうか。
「宝司」か「法司」か、あるいは「法師」なのか。3文字目についても「部」または「分」に、表記は揺らいでいる。先行研究もなく、地名の由来を紹介した出版物等もなさそうである。いろいろと想像は膨らむが、数年前から調査してきた内容を順を追って紹介していきたい。


拍手[2回]

 高知市春野町秋山。用水路沿いに、雪蹊寺(33番札所)からの種間寺(34番札所)へ向かう四国八十八ヶ所遍路道(県道279号線)が通っている。秋山城址を通り過ぎ、JA集出荷場の脇道を南西に入ってしばらく行くと、旧郷社・星神社(春野町秋山3276)が鎮座している。
 町はずれの田園地帯に鎮座する星神社が、かつて当地域32集落の産土神であり、郷社として崇敬されていたことは、現在の姿からは想像しにくい。近所の人の話では、「今では氏子も減って、祭りも行われなくなった」とのこと。
 いまでこそ春野町役場や春野文化ホール「ピアステージ」、春野中学校などが林立する西分が春野町の中心であるように見えるが、これは市町村合併に伴うもの。合併の歴史を簡単に記しておこう。
1954年(昭和29年)6月1日 諸木村・秋山村・芳原村が合併して平和村が発足。
1956年(昭和31年)9月30日 平和村・西分村・仁西村・森山村・弘岡上ノ村・弘岡中ノ村・弘岡下ノ村が合併して春野村が発足。
1969年(昭和44年)9月30日 春野村が町制施行して春野町となる。
2008年(平成20年)1月1日 高知市に編入。同日春野町廃止。
 このように現在では高知市に編入された春野町であるが、かつては吾川郡であった。古代において吾川郡の郡家がどこに置かれていたかについては、長らく岡本健児氏の「いの町枝川説」が有力であったが、近年、朝倉慶景氏による「春野町秋山説」が出された。その比定地が今回紹介する星神社の南方数百メートル地点なのである。
 この新説が正しいとすれば、吾川郡の郡家がその北方に星神社を祀っていたという位置づけとなり、後の時代に郷社として引き継がれていったことが十分納得できる。鳥居手前の井戸脇に「奉寄進 惣中 天保十二辛 丑九月吉日」と刻まれた立派な手水鉢が、かつての崇敬の名残りを伝えているようだ。

 『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、星神社の祭神は「天之御中主神、明星尊」としているが、『高知県神社誌』(竹崎五郎著、昭和6年)では出雲の国引き神話に関連する「國所引座八束水臣津野命」も併記されている。古い歴史を感じさせるところだが、『鎮守の森は今』では省略したのかもしれない。勧請年月縁起沿革等未詳。元は妙見大明神と称した。


拍手[4回]

 毎週日曜放送のアニメ『無職転生 ~異世界行ったら本気だす~』第23話で、ついにフィットア領へと戻ってきたルーデウスたち。故郷のブエナ村は荒地になり、ボレアス家のあったロアの街も難民キャンプとなっていた。「まずは井戸づくりですな。ここは川まで少し離れていますので、皆苦労しております」と主人公ルーデウスは依頼される。
 ふつうは近くに川がないから井戸を掘る。けれども、古代において国内最大級とされる直径9.5メートルの瓜尻(うりじり)遺跡の井戸は接岸施設を伴う水路遺構の近くで見つかった。その解釈に専門家も悩んでいるのが正直なところであろう。
 安芸市僧津の統合中学校建設地内の「 瓜尻遺跡」(古墳~平安期)について考える講演会が、12月12日に安芸市民会館で開かれた。考古学者で滋賀大名誉教授の小笠原好彦氏が「大化の改新以後、中央に税を納めるための流通拠点。米やカツオ、塩などが集まり、絹織物の工房があったのだろう」と、集まった約160人に見解を披露した。小笠原氏は「豪族の居館や 郡衙(地方に設けられた役所)にしては規模が小さい」と指摘。井戸のある23m四方の区画には塀が巡らされ、門が設けられた南側には建物の遺構が全くない点に注目。流通拠点や絹織物の工房があった場所との見立てを述べたことが、『読売新聞』(2021年12月15日)の記事から読み取れる。
 当日講演会に参加した方からも「23m四方の方形区画や船着き場や運河を配する構成から、調の集積場ではなかったか」と同様の趣旨の情報提供があった。いただいたコメントに「井戸との関連はまだわからないとも。 解明できそうもないものは祭祀遺構にする話は少し笑いました!」とあり、講演会の様子が伝わってきた。発見当初、安芸市教育委員会は「神聖な行事のための水として使われていたのでは」と推測した経緯もあり、小笠原氏は井戸と祭祀との関連は疑問視しておられるようだ。

 「大化の改新以後、中央に税を納めるための流通拠点」あるいは「公的な市」とする小笠原説はたいへん興味深いところだ。近くには三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の生家があり、この地から日本の水運業、ひいては実業界を担う人物が現れたのは歴史の同時性(歴史は繰り返す)というものか。
 ただし、645年の「大化の改新」については疑問点も多く、多元史観では大宝律令(701年)が大和朝廷による中央集権体制のスタートとされる。そうなると、7世紀代における瓜尻遺跡の存在意義は近畿天皇家との関係を抜きにして考えなければならないだろう。

 ところで、岩崎弥太郎の生家の住所は安芸市井ノ口甲一ノ宮。「井ノ口」とは主に用水取水口の地名であり、伏流水となる前の地点で用水路に確保する所である。瓜尻遺跡の周辺は安芸条里の北端部にあたり、条里の中央付近には「ミヤケダ」地名もある。安芸条里の灌漑施設を管理運営する上で、安芸川からの取水口となる場所が重要とされたと考えられる。そのことは一ノ宮古墳や一宮神社(安芸郡の一ノ宮、土佐国の一ノ宮は「しなね様」で有名な土佐神社)が存在し、古代寺院が存在していたことが明らかになったことでも理解できる。
 AI(人工知能)の登場で囲碁界ではプロ棋士が教えてきたことが、必ずしも正しいとは限らないことが明らかになってきた。古代史の解明にも先入観を持たないAIを導入してみたいものだ。Hey Siri(ヘイ、シリ)教えて「瓜尻遺跡」。


拍手[4回]

 12月22日、今日は冬期特別授業なので、いつもと違う話をしてみましょう。タイトルにもある「科学的思考とは?」という内容です。大学入試センター試験が共通テストに変わり、思考力を問う問題が出題されるようになってきました。そこでいくつかの質問に答えてもらいましょう。
 Q1.今日は何の日でしょう?
 よく見ると、上の図の中に答えが書かれています。そう、冬至の日ですね。昼が最も短くなる日です。ところで、2学期の期末テストの結果はどうでしたか。成績がいま一歩だった人も、この日を境に昼が長くなっていくように、成績もV字回復を目指していきましょう。
 さて、次の質問です。
 Q2.縄文人はカレンダーを持っていたでしょうか?
 どちらかに手を上げてみてください。カレンダーを持っていたと思う人? 何人かいますね。……それでは、持っていなかったと思う人? 自信はなさそうですが、さっきより増えました。持っていなかったという人のほうが多いようですね。多数決で、持っていなかったという結論でいいですか。
 えっ、いけない。そう、いけませんね。なぜなら、真理は多数決によって決めることはできないからです。では、どのようにして決定するのでしょうか。それは根拠を示して論証するというやり方です。これが科学的方法論というものです。
 最後の質問です。
 Q3.縄文人のことを知るには何を調べればよいでしょうか?
 そう、遺跡です。縄文人のことを知るには、縄文時代の遺跡を調べたらいいですよね。では、縄文時代を代表するのは何遺跡? 都合の悪いことは「見ない」「聞かない」「言わない」――ナイ、ナイ、ナイの三内丸山遺跡ですね。つい最近、世界文化遺産にも登録されました。


▲縄文時代の三内丸山遺跡
 
 三内丸山遺跡では、直径1メートルの柱跡が4.2メートル間隔で6本分見つかっています。今はそこに柱だけ立てて、巨大な建造物があったことをイメージできるようにしています。壁はないですけどね。
 ある人が冬至の日、雪の積もる青森県の三内丸山遺跡に行って、日が沈む方角を調べました。すると、日没の瞬間、3本の柱の影がピッタリ重なったといいます。ということは、この建物は冬至の日没の方角に合わせて建てられていたことになります。
 これだけなら偶然の一致とも考えられますが、お隣りの秋田県にも大湯環状列石(ストーンサークル)という、やはり縄文時代の遺跡があります。大小2つの環状列石があり、小さいほうの円の中心から大きいほうの円の中心の石柱を見た方角が、ちょうど冬至の日の出の方角に一致するというのです。
 他にも、長野県のレイラインや岐阜県下呂市金山町にある金山巨石群など、冬至や夏至を意識した遺構が全国各地に見られます。すなわち、縄文時代当時の人は冬至を知っていたということですね(さり気ないダジャレに生徒もニンマリ)。
 四国銀行が配っているような『トムとジェリー』のカレンダーみたいなものではないですが、建造物等を利用して季節の移り変わりを読みとっていて、その時代には「冬至の日」を1年の節目としていたのではないでしょうか。
 12月下旬にもかかわらず、この日の「冬至スペシャル授業」は冒頭から汗が流れるような熱い授業となった。


拍手[2回]

 もう5年前になるだろうか。『古田史学会報136号』(2016年10月)に、西村秀己氏の論考「南海道の付け替え」が掲載された。九州王朝から大和朝廷への政権交代の画期を示すONライン(701年)の存在を強く印象付けるものであった。
 それだけに、同論考に添えられた「新・旧土佐への交通路」とする地図には、少し残念な思いがあった。掲載直後、西村氏には「阿波(徳島)ルートが違ってますよ」とご忠告申し上げておいた。同地図が『古田史学論集』にそのまま掲載されることを危惧し、間違い部分だけでも修正してほしかったからである。
 厳密に言うと、伊予(愛媛)ルートも主流説ではない。代表的な説として、①ほぼ現在の国道33号が通る内陸路線(日野尚志説)や②海岸を大きく周回する路線(足利健亮説)などが出されている。通説が正しいとは限らないけれども、先行研究を無視したルートを示しても、既存の学者たちを納得させることはできない。
 批判じみたことになるので、あまり言わずにおこうとも考えていたが、最近『市民古代史の会・京都』における「古代官道の研究」と題する講演会(下記ユーチューブ動画参照)で、先の地図がそのまま使用されていたようなので、僭越ながら多少なりとも注意を促しておきたい。
主催:市民古代史の会・京都(代表:山口哲也)古代官道の不思議発見@古賀達也@市民古代史の会・京都@キャンパスプラザ京都@20211123@29:01@DSCN9280
https://youtu.be/kFagnmfvpCg


 土佐国の古代官道については、718(養老二)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国を経由するルートに変更された。これが九州王朝から大和朝廷への政権交代によるものとする「南海道の付け替え」である。この718~796年におけるコース(養老官道)については、これまでいくつかの説が出されていたが、吉野川や那賀川沿いといった内陸部を通るルートはほぼ否定されている。
 現段階では、徳島県の海岸部をたどり、室戸岬は避けて野根山街道を経由し、やはり高知県の太平洋岸に近いルートを通ると推測されている。その根拠としては、735
天平七の「阿波国那賀郡武芸(海部郡牟岐)木簡、および高田遺跡(香南市野市町)における古代官道遺構の発見などがあげられる。
 そして土佐国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されたのは796(延暦十五)年であり、これが延暦官道としてその後『延喜式』などにも記録されている。西村氏による「新・旧土佐への交通路」の地図は、具体的な距離の算定や九州王朝説を印象づける意味では分かりやすいものだが、実際の古代南海道ルートと誤解される恐れがある。使用される際には既存の説を理解した上での例示にとどめてほしい。


拍手[2回]

カレンダー
06 2025/07 08
S M T W T F S
1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31
フリーエリア
『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
最新CM
[06/30 ニシヤマイワオ]
[10/12 服部静尚]
[04/18 菅野 拓]
[11/01 霜]
[08/15 上城 誠]
最新TB
プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者アナライズ
忍者ブログ [PR]
Copyright(C) もう一つの歴史教科書問題 All Rights Reserved