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 「長岡郡大豊町に斉明6年棟札があった①」で紹介した長岡郡大豊町は高知県北部の山間地帯にある。隣接する本山町、土佐町、大川村の4町村を合わせて「嶺北」とも呼ばれ、標高200〜1800mの典型的な山村地域だ。約90%を森林が占め、まさに高知の中の高地といったところだろうか。
 大豊町桃原(ももはら)には「高羅大夫社」が鎮座しているというので、その神社が高良神社と同様の社であるのか確認したいと思って訪ねたのがきっかけだったが、行ってびっくり。桃原地区のほとんどが「上村」姓だったのである。高知県では「植」の字を使う「植村」姓が主流で、「上村」は珍しい。
 北側には四国山地の峰々が連なり、急な斜面に人家が建ち並ぶ。舗装された道路はあるが、山頂に近づくと、車では引き返すのも大変な道になってくる。吉野川を見下ろす景色は素晴らしいけれども、よくこんな不便そうな場所に住んでいるものだと関心する。まさに桃源郷を連想させる隠れ里のような桃原地区であった。
 ホームページ『名字由来net』<https://myoji-yurai.net/sp/>によると、「上村」姓のルーツには次の三つの流れがあるようだ。
①現熊本県である肥後国球磨郡が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。藤原南家。
②ほか清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)、
③古代氏族であり、美努(みの)王の妻県犬養(あがたのいぬかい)三千代が橘宿禰(すくね)の氏姓を与えられることに始まる橘氏楠木氏流。
など様々な流派がある。
 大豊町は大杉と豊永の名前を合わせたものであり、桃原はかつての豊永郷に含まれる。さらに豊永という名前は、小笠原備中守豊永の末裔で、豊永の姓は肥前松浦郡豊永庄に由来していると記録にある。現在も熊本県玉名郡に豊永という地域があり、球磨郡にもかつては豊永郷があったという。どういうわけか急に九州とのつながりが見えてきた。
 ONライン(701年)以前の創建を伝える参大妙見社の棟札(斉明六年棟札)の存在。天御中主尊を祭神とする妙見社は明治になって星神社に名称変更になっているが、高知県下約60社中の13社が大豊町に集中している。熊本県の八代神社(妙見宮)をはじめとする九州方面からの妙見信仰が高知県内で最初に根付いたところが大豊町(旧豊永郷)ではなかったか。
 さらに、大宝二年棟札(熊野十二所神社所蔵)に上村姓が見えることから、この上村一族が大豊町桃原の地で、古くから妙見社および熊野十二所神社、さらには高良神社(高羅大夫社)を祀ってきたのではないかと推測できる。
 中世より豊永郷を治めていた小笠原氏、豊永氏が、江戸時代の土佐藩政時代にも、この地をそのままを治めることとなった。中世以前の文化が多く残る貴重な地域となったゆえんである。土佐山内家宝物資料館に保存されている『御侍中先祖書系図牒』には、太平、怒田、九次の三ケ村を領地とするとある。「九次」という場所が不明とされているが、神事と関係する地名のようにも感じられる。
 ますますこの地域とこの地に入植して住みいついた一族に目が離せなくなってきたようだ。


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 日本史上最大のクーデターともいわれる本能寺の変(1582年)を起こした明智光秀を通して描かれる戦国絵巻『麒麟がくる』が、いよいよ1月19日(日)に放送スタートとなる。仁のある政治をする為政者が現れると降り立つとされる聖なる獣・麒麟ーーそれがタイトルの元になっている。
 なぜ、明智光秀は謀反を起こしてまで、主君・織田信長を討とうとしたのか。背後の動機などをドラマでどのように描くか注目したいところだ。高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には次のように書かれている。
 このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。

 はっきりとした動機までは書かれていないものの、「独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み」と表現している。軍記物語などでは粗相をした光秀が信長に辱めを受け、その恨みを晴らすべく謀反を起こしたとする「怨恨(えんこん)説」が一般に出回っているストーリーである。ところが近年の研究では、どうも従来考えられていた通説とは違っていたことが明らかになってきている。
 1月1日(水)の正月番組BSプレミアムの「本能寺の変サミット2020」では、気鋭の研究者が一堂に会し、「本能寺の変」をめぐる歴史激論バトルを繰り広げた。【司会】爆笑問題,【解説】本郷和人、【コメンテーター】細川護煕、【パネリスト】天野忠幸・石川美咲・稲葉継陽・柴裕之・高木叙子・福島克彦・藤田達生というメンバー。
 野望説、共謀説などが紹介される中で、最も注目されたのが「四国説」である。林原美術館(岡山市北区丸の内2−7−15)に所蔵されていた石谷家文書によって、新たな事実が分かってきている。詳しいところまでは言及されていなかったが、簡単に言うと、織田信長の四国攻めから長宗我部元親を守るためのやむを得ざる選択であったということだ。
 長宗我部元親夫人については斎藤内蔵助の妹ではなく、土岐石谷兵部大輔光政の娘であったことが、朝倉慶景氏によって昭和54年の段階で発表されている。明智光秀もやはり清和源氏土岐氏の流れを汲んでいる。「長宗我部元親夫人の出自について」(『シリーズ織豊大名の研究第一巻 長宗我部元親』平井上総編著、2014年)の中で朝倉氏は「元親は石谷氏を核として、斎藤氏・蜷川氏・明智氏らと固く結ばれて情報を得たり、行動を共にしているのである」と述べている。
 そのような最先端の研究の成果が、果たしてNHK大河ドラマ『麒麟がくる』にどこまで反映されているだろうか。楽しみである。


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 1997年に書いた「神話理解の3段階」というタイトルの文章が出てきた。もう20年以上前の話である。「日本神話と聖書の秘密」シリーズを始めた手前、その原点に立ち返ろうと思って探したところ、ちゃんと残されていた。今読み返すと稚拙な文章だったと恥ずかしくも感じるが、当時の思いが蘇ってもくる。そのままの内容でお届けしよう。

神話理解の3段階

“真実かウソか”ではなくどちらも段階的真理。

 物事を正確に理解するためには、一つの方向から見ただけでは十分ではありません。少なくとも3段階の視点を経験することが、全体像を正しく把握することにつながります。神話の理解においても、この原則がよく当てはまります。歴史的にも次の3段階の認識の過程があったことを見ることができます。
①絶対の段階
神話を神の啓示として、あるいは実際にあった出来事としてそのごとくに信じる段階。
②相対化の段階
「神話は史実ではなく、後代の偽造、作り話である」と相対的にとらえる段階。
③中和の段階
「神話は史実そのものではないが、全くのでたらめではなく、史実に基づく内容が投影されている」というように、より高次元的な理解がなされる段階。

子供の発育と同様に神話認識も発展する

 人類の知性が、無知の状態から啓発されていくにつれて、神話に対するとらえ方も次第に発展していきます。それは子供の知的発育の過程にも似ています。子供は自らの主体性を持たないうちは、親の言うことをすべてそのごとくに信じます。学校でいろいろな知識を身につけるようになってくると、科学的説明のないもの、論理的でないものに対して反発を覚えるようになります。しかし、さらに大人になると、言葉の背後の動機を酌み取るようになってきて、一見論理的でない事柄にも、何かしら深い意味を見いだすようになってくるのです。
 例えば、子供が成長すると、幼い頃に信じていたサンタクロースが実在しないことを知って失望してしまいます。しかし、サンタクロースが貧しい人々を助けた聖ニコラスという人に由来することを教えられれば、まったく無意味とは考えないでしょう。
 これと同様に、人間の知性がいまだに開発されていない時代においては、神話が絶対的な支配力を持っていました。やがて理性を中心とする合理主義が台頭し、科学万能が叫ばれるようになると、神話というものは「人間が勝手に作ったもの」と解釈されるようになります。しかし、古代の遺跡が発掘され、文献や資料の検証が進んでくると「単なる作り話と言い難い内容がある」というように見直されてくるのです。

シュリーマンのトロヤ遺跡の発掘

 ギリシャ神話の中心をなしている『イリアス』『オデュッセイア』というホメロスの古代叙事詩があります。古典時代(紀元前600~300年)のギリシャ人たちは、叙事詩の多くは自分たちの正真正銘の歴史であると見なしていました。けれども19世紀までは歴史家たちが証拠として確認できるようなものは何一つ見つかりませんでした。それゆえ、神話は基本的に伝説に過ぎないという結論に至るのです。
 ところが、トロヤ遺跡の発掘がそれまでの定説を根底から覆したのです。“燃え上がるトロヤ城”の絵に心動かされたハインリッヒ・シュリーマンは、物語の舞台が実在すると信じ続け、ついに遺跡を掘り当ててしまったのです。その発見により、ギリシャ神話のトロヤ戦争が現実に起きた事件であったことが証明されたのです。
 聖書の物語についても、歴史をたどれば、かなりとらえ方が変化してきました。
 中世までは聖書は一字一句神の啓示として、そのごとくに信じられていました。しかし、聖書が研究の対象とされ始め、20世紀初頭に登場した「キリスト神話論」という説が、当時の西欧キリスト教世界に衝撃を与えました。「イエスは架空の人物、後から作りだしたもの」と断定したのです。しかし、その後の研究は、必ずしもこの結論を支持しませんでした。聖書が神話的要素を含むものの、イエスの実在性など、多くは事実に基づくことが証明されてきたのです。
 日本神話についても、太平洋戦争を前後して、その地位が大きく変化しました。
 戦前は軍国主義のイデオロギーを正当化するために神話が用いられました。『古事記』や『日本書紀』が絶対的なものとして、教育の中心となっていました。しかし、敗戦によって状況は一新します。「神話は作り話である」とする津田左右吉の学説が主流となったのです。この風潮は戦後長く支配的でしたが、遺跡の発掘や詳細な文献批判により、「古事記や日本書紀は荒唐無稽なものではない」と言われるようになってきています。

受け手のレベルで神話の意味は変わる

 このように見てくると、神話が真実か虚構かという論争が、もはや的外れであることが分かるでしょう。神話理解の3段階を通過して初めて、神話の本質が見えてくるのではないでしょうか。
 神話とは「歴史であって歴史でなく、啓示であって啓示でない。それらが統合されたもの」とぐらいに考えてもらったらいいでしょう。現代人にはとかく、一つの言葉に一つだけの意味を持たせたがりますが、神話という言語は受け手のレベルに応じて、理解の仕方が変わってきます。その一つ一つを段階的な真理として認めつつ、さらに深い意味を求めていくことが重要なのではないでしょうか。

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 これまでのブログの中で、岡豊別宮八幡宮の境内社として瓦ノ宮社があり岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した、物部川の西岸に川原神社があった(南国市の川原神社は高良神社だったのでは?ことを紹介した。丁度その中間地点、祈年神社(南国市東崎283)の境内にもう1つの「瓦の宮」があったことが判明した。
 『南国史談第13号』(南国史談会、平成4年)に掲載された「源希義」(山岡哲郎・吉本富雄)と題する論考の中に「瓦の宮」が紹介されている。源希義は源氏の義朝の五男で母は熱田の大宮司藤原季規の女、頼朝の同母弟である。永暦元年(1160)平氏のために捕縛され幼少(三歳位)の身を土佐に流され高知市介良の庄に配流されていた。
 希義は南国市の年越山で蓮池権頭家綱と平田太郎俊遠と血戦をまじえ奮戦したが衆寡敵せず愛馬を失い非業の死をとげる。希義の討死年齢は二十五才位と推定される。希義の死骸は南国市鳶ケ池中学校門の北方十五米位の流れに沿った樹林に放置されていたと云う。またこの樹林の中に瓦の宮と呼ばれる小さな祠があった。これは純朴な村民が希義の霊を慰めるために祀ったものとされ現在は昭和四十六年度鳶ケ池中学校移転改築工事の都合上、南国市東崎祈年神社の境内西北隅に移されている。
 瓦の宮の祠跡に「源希義討死伝承之地」と書かれた地上一・五米、巾十六糎、厚さ十二糎のコンクリートの白塗の柱が建っている。

▲瓦の宮(左)と佐婆為神社(右)

 さて、この瓦の宮は源希義の霊を慰めるために祀ったものとされているが、なぜ名前が「瓦の宮」なのだろうか。「希義はかねて香美郡夜須庄の荘官であった夜須行宗と平氏を討つ密約が出来ていた。亦、夜須庄は源氏にゆかりの石清水八幡宮の所領でもあった」という。

 石清水八幡宮の摂社に高良神社があることは、吉田兼好の『徒然草』にも書かれている。「ぐるりん関西」のホームページには次のように紹介されている。

 高良社(高良神社)は、京都府八幡市にある石清水八幡宮の摂社である。一の鳥居内頓宮の南西にあり、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀っている。
 豊前国(現大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚(ぎようきょうわじょう)が、貞観2年(860年)に社殿を建立したと伝えられる。
 社名は、貞観3年(861年)の行教夢記に「川原神」と記され、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記し、また「カハラ神社」と称したとする。
 また放生会が行われた川のそばに座したので、「河原社」と称し、のち極楽寺・頓宮等が建てられて河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので、同社をここに移したと考えられて、高良の字があてられたという。
 高良神社がかつては「瓦社」「川原社」などと呼ばれていたことが分かる。その名は放生会が行われた川のそばに座したことにも関連していたというのだ。
 実際に岡豊別宮八幡宮の境内社・瓦ノ宮社はもとは石清水川(現在の笠ノ川か?)と呼ばれた川のほとりにあり、放生会が行われていた記録がある。物部川西岸の川原神社や鳶ケ池中学校付近にあったという瓦の宮――鳶ケ池という池があったのだろうか――いずれも放生会には生きた魚を放つ川や池があることが必須条件である。かつて高良神社であったという仮説が成立する余地はありそうだ。
 そしてこれらの三社が国衙を中心として、東・西・南と三方にさほど遠くない距離にある。高良神社および放生会が国府と関係をもっていた可能性もある。それは土佐国府跡の内裏(通説では紀貫之が住んでいた場所)地名中に「コフラ」という塚があったとされることからも連想される。
 もともと筑後国一宮・高良大社はかつて倭の五王を祀る九州王朝の宗廟に位置付けられる神社ではなかったかという指摘がなされている。放生会については以前にも少し触れた。701年の政権交代によって権力を握るようになった近畿天皇家が、戊辰戦争ともいうべき隼人の反乱討伐(720年)以降、八幡宮が新たな宗廟としての地位を確立していく。宇佐神宮で行われた放生会には、滅ぼされた九州王朝に対する慰霊の意味がこめられているように感じられる。後に石清水八幡宮などでも放生会が恒例となっていき、謡曲『放生川』『弓八幡』では、あたかも高良の神が八幡神に仕える臣下のように描かれる。やがて高良の神は八幡神第一の伴神と解釈されるようになり、武神というイメージが定着していった。
 話を本筋に戻すが、源希義の霊を祀った神社の名がなぜ「瓦の宮」なのか。高知県の場合、江戸期であれば先祖を祀る社は若宮神社と相場が決まっている。時代は平安末期から鎌倉初期のことであるから、あまり参考になる事例は少ない。源希義を祀るために、新たに瓦の宮を作ったのだろうか。むしろ、既に存在していた瓦の宮に希義の霊を祀ったと考える方が自然なのではなかろうか。この時代(源平争乱期)には既に高良神が武神と考えられていたことから、源希義を祀ることは違和感なさそうである。
 2020年の初詣として足を運んだ南国市の祈年神社。祭神は「大年神」で、この地区の産土神である。長宗我部元親も毎年正月の元日に参拝し、その年の五穀豊穣を祈願した事が伝わっている。お年玉の語源はもともと「年神の魂」から来たものだというから、「高良神社の謎」を追い求めてきて、思わぬお年玉をもらったような気分になった。
 祈年神社の創建は、『続日本記』文武天皇慶雲三年(706)二月の記述「甲斐・信濃・越中・但島・土佐……の十九社に祈年の幣帛を行うことを決めた」を根拠に、706年鎮座とする。近くの祈念遺跡は「縄文時代から居住域となり、弥生時代の大規模集落や律令期前夜の古墳時代後期の集落、そして律令期に入ってからは道状遺構をはじめとする活発な土地活用がなされていた」(『祈年遺跡Ⅰ』(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター 2011.3)とあるように古代官道とされる遺構も見つかっており、時代的にも適合する。ちなみに、神社の中には「祈年神社」「諏方宮」「熊野神社」と書かれた扁額がかかっていた。

 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社の祭神、高良玉垂命の光が失われてしまって、今ではかろうじて「瓦の宮」として残されている。「高良神社の謎」を追い求める旅はまだまだ続く。「磨かぬ玉に光なし」である。


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 『さんSUN高知1月号』が唐人駄場遺跡(土佐清水市松尾977)を紹介しているのが目に入った。昔はほとんど見向きもされないような場所であったが、近年は観光案内のパンフレットなどにも掲載されるようになって、パワースポットとしても知られるようになってきた。
 古田史学を知るものにとっては、ここに鏡岩という縄文灯台が存在し、『魏志倭人伝』に登場する侏儒国の領域に比定される場所だということで関心を持つ方もいらっしゃるだろう。古田武彦氏は1993年に土佐清水市の協力を得て、足摺岬周辺の巨石遺構について調査を行っている。その調査結果については、昭和薬科大学文化史研究室による『足摺岬周辺の巨石遺構――唐人石・唐人駄場・佐田山を中心とする実験・調査・報告書』(土佐清水市教育委員会発行)としてまとめられている。
 『さんSUN高知1月号』の表紙の紹介文は次のような内容であった。
 足摺半島にある不思議な巨石群「唐人駄場」。この一帯は花崗岩からなり、6~7m級の石や、円形に連なったストーンサークルと思われる石の配列が見られ、まるでパワースポットです。この地から見上げる冬の星空はまた格別。近くには観光牧場やキャンプが楽しめる唐人駄場園地もあるので、神秘の謎を探りに行ってみませんか。
 花崗岩の密度は約2.5g/㎤であるから、ピラミッドの石が約1㎥(一辺が1mの立方体)としても2.5トンの重さになる。これに対して唐人駄場の巨石は小さく見積もって一辺が4mの立方体、すなわち64㎥としても約160トン以上の重さがあることになる。
 これが人工的に配置されたとすれば、どのようにして移動させたのか。イースター島のモアイにも匹敵するような作業になるだろう。「人長3、4尺」と記述された侏儒国の小人とは対照的な巨人のような人間(唐人)が持ち運んだとの想像が唐人駄場の地名由来になったとも言われている。
 ところで、巨石遺構群からやや下った場所に、英国のストーンヘンジに勝るとも劣らない世界最大級のストーンサークルがあったと言うと、驚かれるだろうか。戦前は列石が残っていたが、戦後公園にするために中の石を取り除いたのだという。紹介文中の「キャンプが楽しめる唐人駄場園地」がかつてのストーンサークル跡である。はりまや橋と肩を並べる“がっかり名所”となってしまった。

 また、この情報誌の表紙に北極星を中心とした北の星空を唐人駄場遺跡と共に撮影していることには、何か深い意味を感じる。
 韓国ドラマ『冬のソナタ』ではヨン様演じるチュンサンが、「山道で迷った時にはポラリスを探すといい」と語る。「星って時間が経つと動くじゃない?」とヒロインのユジンが疑問を投げかけると、チュンサンは「ポラリスだけは北の空にあって動かないんだ」と名ゼリフを伝える。
 お分かりかもしれないが、ポラリスとは北極星の事である。この冬ソナ効果でポラリスペンダントが飛ぶように売れたという。
 高知県には古代において天之御中主、北極星を祭神とする妙見信仰が根付いていた形跡があり、現在は星神社と名称変更して約61社が存在する。
 極めつけは、四万十市初崎の一宮神社に国内では珍しい北斗七星の象眼が埋め込まれた七星剣という太刀があることだ。橿原考古学研究所の調査では「古墳時代後期から飛鳥、奈良時代」の太刀と発表されている。
 『三国志』の「赤壁の戦い」で、諸葛亮孔明が「手前が東南の風を吹かせてみましょう」と周瑜に申し出る。南屏山に七星壇という祭壇を築いて剣舞をひたすら舞い、儀式を捧げて火計を成功に導く下りは有名である。北極星と北斗七星は古来より、航海する者にとっても欠かすことのできない知識であった。
 四万十市から足摺岬一帯が『魏志倭人伝』の侏儒国であり、黒潮に乗って裸国(チリ北部)・黒歯国(エクアドル)に向かう基点だったとすれば……。『さんSUN高知』の編集者がそこまで意識して表紙を作成したなら、七星剣だけにかなりの切れ者とお見それする。



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 「斎明六年棟札」問題に踏み込んでみようと思ったのは、『大豊史談第13号』(大豊史談会、昭和60年)に掲載されていた「棟札・大豊町を中心に」と題する松岡司氏の論考を目にしたことがきっかけであった。「上桃原の熊野十二所神社に、斉明云々と大宝二年の記載が見られる棟札がある。その記載どおりの時代のものなら大変だが、これは疑問が多すぎる」としていた。
 その一方で、高岡郡日高村の小村神社の棟札について、次のように紹介している。
小村神社・仁治元年(1240)の棟札 234、7cm
現存する高知県最古の棟札である。社の造替の経緯を伝える本文のなかに書き込まれ、後世ののように形式化した配置ではない。本県最古にふさわしい棟札といえよう。
 小村神社には「勝照二年(586)」という九州年号を伝える貞和三年(1347)の棟札が存在する。当ブログでも4回シリーズで“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1その2その3その4”と紹介した。土佐国の歴史を多元史観によって再構築する嚆矢(こうし)となった渾身の研究であった。同神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀が伝世されており、年に一度しか公開されないが、レプリカであれば日高村の道の駅に展示されている。



 話を棟札に戻そう。この時代頃までは、単に造替えの年代を記すだけでなく、創建年代をも伝える棟札がいくつか見られる。
 普通社寺には、棟札というものがある。造営・修造などの行われた年月・造営・修造にあたったものまたは大工の氏名などを記し、棟木に打ちつけて、後日の記念とするものであるが、「土佐國蠧簡集」巻二及び「南路志」閡国第十之六に収められた熊野神社の棟札は、その創建の由来を伝えている。それによると、建久元年(一一九〇)十一月田那部永旦というものゝ手で、紀州熊野神社より勧請して、この地に建立されたものとしるされている。(『土佐古代史之研究』創刊号、昭和39年、前田和男著「田野々の熊野さま――幡多郡大正町田野の熊野神社――」より)
 「斉明6年棟札」には意味不明な語句などがあり、棟札の文面が形式化する前の段階のようであり、サイズも小村神社の物に近い大型タイプである。斎明六年棟札の銘文をもう一度見ておこう。


奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、
白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)
 ▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札
 
 「元福嶋守定大都」とあり、福嶋姓は中世に見られる有力な氏族でもある。「定大都」は一見「大都を定む」といった意味にも取れそうだが、文脈および周辺の状況を鑑みると、「定福寺大僧都」の省略形であろうか。最後の行は不明だらけであり、いつ書かれたものか時代比定が難しいのもよく分かる。炭素年代測定法など、科学的な手法を取り入れて調査する必要があるかもしれない。
 もしも高知県最古の棟札と判定されれば、高知県の古代史を揺るがす大発見ということになる。そうでなかったとしても、後世において創建にまつわる記録を書き写した可能性もあり、史料的な価値がなくなるわけではない。とりわけ斉明六年(660)と大宝二年(702)というONライン(九州王朝と大和朝廷の政権交代)を前後する2つの年号をそれぞれ記す2枚の棟札が、長岡郡大豊町桃原の熊野十二所神社に存在するということは大変興味深いところである。今後の調査・研究を待ちたい。

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 最澄と空海、どっちがどっちだったか分からなくなることはありませんか? そんな時、判別する基準を持っていたいですね。こう覚えてください。「ひえー天才、ここ真空」と。それぞれ4点セットで覚えることができます。
 ひ え ー 天 才、
比叡山 延暦寺 天台宗 最澄

 こ こ 真 空
高野山 金剛峯寺 真言宗 空海


 ところで、四国に関係が深いのは弘法大師こと空海です。私も小さい頃、香川県の満濃池は空海が造ったと習った記憶があります。瀬戸内式気候は雨が少ないので、讃岐地方ではため池が多く造られているのです。

 また、四国には弘法大師による創建と伝えらる寺院も多く、様々な伝承が残っています。沓掛俊夫氏の「空海――地質家・鉱山師として」(『一般教育論集第32号』 愛知大学一般教育論集編集委員会、2007年)という論文に、真言宗の寺院の立地が中央構造線付近の水銀朱の産地と関連があるとの指摘がなされています。
 どんな名人や達人でも間違えることがあるという意味の「弘法にも筆の誤り」。ではその誤った文字は何? とのクイズに対して、現役東大生の大半はあっさり正解していました。『今昔物語』に載っている話で、京都の応天門の「応」の字を間違えたというのです。弘法大師はあろうことか、「応」の字の上の点を書き忘れて、そのまま額は門に掲げられることになりました。普通は素人でもしないような凡ミスです。弘法大師、この書き忘れた点を筆を投げつけて打って、見事に直しました。現代風に言うと書道パフォーマンスのようですね。

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 前回までに「長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①」と発表したところ、タイムリーなことに、ブログ“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”でも、斉明天皇が四国・愛媛県にいたという合田洋一説を紹介するようになった。ぜひ参考にしてほしい。


 もう一度、斎明六年棟札の銘文を見ておこう。



奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、
白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)
 ▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札


 これは長岡郡大豊町桃原(旧西豊永村桃原)の村社熊野十二社神社に現存する棟札で、「斎明六年」(660年)の年号がある。「参大妙見御社」という銘文からすると、熊野十二社神社に先立って妙見社が創建されたようである。


山本大氏は自ら判断しかねて、考古家沼田頼輔氏に教えを請い、「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし」との結論を出している。今回はこの批判について考えてみよう。
 藤原時代とは摂関藤原氏を中心として国風文化の進展した時代、すなわち平安時代の894年遣唐使廃止以後3世紀の期間に相当する。これに対して王朝時代とは通例894年以前の奈良時代・平安時代について言う時代区分であるが、ここでは斎明六年(660年)についての考察であるから、飛鳥時代をも含めた表現であろうか。


そもそも「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるもの」とした根拠が不明である。妙見信仰が日本に伝わったのは意外と古く、『日本霊異記』には称徳天皇の時代(764~769年)に妙見菩薩に灯明を献じた寺があったという記述があり、妙見信仰は奈良時代末期にはすでに民間に広まっていたことが分かる。


また、熊本県八代市の八代神社については、妙見上宮創建を延暦14年(795年)とするが、その淵源は推古19年(611年)琳聖太子(りんしょうたいし)が肥後の白木山に来て、妙見菩薩を伝えたのが妙見尊最古の霊跡(神宮寺)である(『密教占星法 上巻』)と伝えられる。
 琳聖太子は百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされ、大内氏の祖とされる人物でもある。この聖明王については「斎明王」と表記されたものもあり、「斎明六年」棟札の謎を解くカギが隠されているかもしれない。


妙見縁起を考るに社僧の説(古来の縁起は退轉因茲近世良任法師所作)に往日唐土白木神目深手長足早明州の津より白鳳9年来朝し竹原の津に着岸して3年假座す、本朝妙見の始也。


又云う妙見神は中國大内家の氏神なりと、大内家録云百濟國斎明王第3皇子来朝す。推古帝5年筑前國(イ周防國トス)多々良濱に着岸し、周防國主となりて代々武名あり中国を治め、妙見星を祀り守護神とす。是北辰星也。


或云、妙見神は百濟國王齋明来朝又は第3皇子琳聖太子トモ云。八代郡不知火崎に着す……



▲越知町今成の星神社




 結論として、妙見信仰が7世紀(飛鳥時代)頃に日本へ伝わったとするのは妥当であり、年代的な相違はなくなった。やはり斎明六年棟札は「信ずべき価値なし」とは言えないし、高知県の古代史をひもとく上で大変貴重な史料たり得る可能性さえ見えてきたのである。
 また、土佐国に妙見社(祭神:天御中主命)が数多く存在していたことからも、古代における妙見信仰の重要性を無視することはできない。棟札を信用するなら、熊野神社よりも古い歴史を持つことが推測される。妙見社は明治維新の達しで星神社に名称変更してしまったが、県内で61社ほど現存している。


 

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 松山市内には3つの高良神社がある。生石八幡神社(高岡町917)、高家八幡神社(北斎院町295)の境内社については、かつて「愛媛県の高良神社④⑤」で紹介した。そして今回は残る一社である伊佐爾波神社(桜谷町173)境内末社の高良玉垂社(祭神:武内宿禰)の登場である。と言っても、実は以前「高良神社にまつわる菊と蕨」というタイトルで少し触れてはいる。
 
 長野県の吉村八洲男氏の研究によると、筑後一宮・高良大社の御祭神「高良玉垂命」を祀る「高良社」が信州に濃密分布しており、蕨手文様も多く発見されている。そこに古代九州王朝(特に磐井の乱)と信濃国と繋がりを見出そうとしているようだ。詳しくは、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に掲載された"「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編"(2019/12/07)を参照してほしい。
 ただし、科野の「高良社」全ての祭神に「誉田別神」の影があり、九州とは異なるかーーとする吉村氏の分析についてはやや片手落ちと感じる。それは伊佐爾波神社を訪れたときにも明瞭になった。

▲回廊内の高良玉垂社と蕨手燈籠

 ここの高良神社は伊佐爾波神社の回廊内に鎮座しており、蕨手燈籠があるという情報をつかんでいたので、ぜひとも見ておきたいと願っていた。その内容について「松山市ホームページ」より抜粋しておこう。

「伊佐爾波神社、附 末社高良玉垂社本殿、末社常盤社新田霊社本殿、石燈籠、棟札」について

 ともに境内社で、廊下の左右に内に向かい合って建てられる。当社を造立した藩主松平定長や竹内宿祢ほかを祭る。建物は一間社流見世棚造り、桧皮葺。
 柱は土台の上に建ち、身舎が円柱で頭に粽(ちまき)を付け、向拝は方柱で、ともに出組斗きょうを置く。正面向拝の水引貫の上には板蟇股(いたかえるまた)が置かれる。木部の彩色は、前掲の社殿に準じる。
 石燈籠は、両末社の脇に建てられる。総高240cm余り、笠・火袋・中台・竿・基礎はいずれも四角形で、笠の四隅には蕨手を持ち、竿に「道後八幡宮神前・寛文七丁未年五月十五日」の刻銘がある。

 令和元年台風10号接近の前日の夕刻、隣接する道後温泉には目もくれず、裏の駐車場から伊佐爾波神社境内へとすべり込んだ。本来は正面から長い階段を登って参詣すべきところであるが、もう少し遅ければ門が閉まるところであった。

 カギをかけに来られた女性神職に質問すると「高良神社は八幡様とセットみたいなものですから……」といった話が聞けた。高良神社を調べ始めた時から感じていたこと(愛媛県の高良神社①参照)ではあったが、この認識は神職といえども、誰もが熟知しているわけではない。高良玉垂社を大切に祀っている伊佐爾波神社であればこその応対ではなかったか。残念ながら、いつ境内社として取り込まれたかまでは分からない様子だった。ということは、少なくとも明治期の神社整理等ではなく、もっと古い淵源を持つ可能性が高い。
 少しまとめてみよう。
①高良神社の多くは八幡宮の境内社として鎮座する。
②近年の神社整理によって合祀されたものは少ない。
③高良神は八幡第一の伴神と解釈されてきた。
④八幡宮の配神として応神天皇(誉田別神)とともに高良玉垂命が祀られている神社もある。

 これまでの調査から「高良神社の謎」が少しずつ解けてきそうである。高良神社は八幡宮勧請と同時、あるいはそれ以前から存在していた可能性がある。そして高良神社と八幡宮の地位の逆転が九州王朝から大和朝廷への政権交代と連動している……。まだ確証はないが、そのような仮説が浮上してきたのである。

        

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 長野県諏訪市と伊那市との境に守屋山(もりやさん、標高1,651m)という山がある。この山と『旧約聖書』の創世記に登場するモリヤ山との関連については、日ユ同祖論として以前から指摘されている。
 神は言われた「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。(創世記22章2節)
 イスラエルの信仰の祖とされるアブラハムのイサク献祭である。一度目の献祭に失敗したアブラハムは自分の命よりも大切なひとり息子を捧げることを通して、その信仰を試されたのである。モリヤ山はそれほど高い山ではなかったが、3日を要したとあることからアブラハムが悩み抜いた末に、ついに神に従う決断をしたことが想像される。
 み使いが言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。(創世記第22章12節)


 また、歴代志下にもモリアの山に神殿を建設する話が出てくる。
 ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所である。(歴代志下第3章1節)
 いずれにしても、ユダヤ民族にとって信仰の対象となる聖なる山といった位置づけである。後に救い主イエス・キリストは「神のひとり子」「神殿」にも喩えられる。
 一方、長野県の守屋山もまた、信仰の対象とされる山であった。かつては旧6月朔日に登山して、祠を拝した後に磐座を7回まわって諏訪上社へ参拝する「御七堂」という行事を行っていたという。イスラエルの民がエリコの町を7周回ると城壁が崩れ落ちたというエリコ城陥落の奇跡(ヨシュア記第6章)を連想させる。
 諏訪上社の神長(かんのおさ)という筆頭職に就いた守矢氏は、家伝によると物部守屋とのつながりがあるとされているが、遠くイスラエルとの関係はあるのだろうか。
 そこで、もう一つのカギとなるのが諏訪信仰の女神・多満留姫(たまるひめ)である。洩矢神の娘で、建御名方神の出速雄神に嫁いだとされる。たまーるか、旧約聖書にも「タマル」が出てくるちや。突然、土佐弁でごめんなさい。土佐弁の【たまるか】は驚いた時に使う言葉で「Oh,my God!」といったニュアンスだろうか。 
 旧約聖書にはタマルが2人登場する。登場箇所は創世記第38章およびサムエル記下第13章である。
①「創世記」の登場人物。ヤコブの子ユダの息子の嫁タマル。
②「サムエル記」の登場人物。ダビデの娘、アブサロムの同母妹タマル。

 多満留姫と姫が付くのだから王族、すなわち②のダビデ王の娘のことだろうか。可能性は無きにしもあらずであるが、むしろ①のヤコブの子ユダの息子の嫁タマルのことなのではないかとの印象を受ける。なぜなら、①のタマルは『新約聖書』のイエスの系図にも登場しているからだ。

 マタイ福音書冒頭の系図には、4人の女性たちの名が記されている。タマルとラハブとルツとウリヤの妻である。『新約聖書』を読み始める人にとって最初の挫折ポイントがこの系図。アイドルに関心がない人に乃木坂46のメンバーの名前を延々と並べられても困るのと同じで、『旧約聖書』の知識がなければ、誰が誰だか分からないような人物名が延々と続く。しかも4人の女性たちは皆、スキャンダラスな女性ばかりである。
 キリスト教会の説教では、罪悪の血統からでも神は無原罪のイエスを誕生せしめることができ、その救いは異邦人に対しても例外なくもたらされるーーそういったスタンスで語られる。本来ならば包み隠したくなるような部分をありのまま描くことで神の救いの恩賜の偉大さをことさらに強調した……。
 本当にそうだろうか。『創世記』第38章からタマルについてまとめると次のような話になる。
 タマルはユダの長男エルと結婚するが、死別。その後、長男の血筋を残すため、ユダは次男オナンをタマルと結婚させた。しかし、オナンはタマルと関係を持つたびに、子種を地に流したため、神により殺される。ユダは、タマルに、三男シラが成人するまで未亡人として実家に留まるよう命じた。
 その後、タマルはシラと再婚する見込みがないことを知って、娼婦の姿を装い、義父ユダと関係を持つ。この時、タマルの姦淫を密告する者があったが、代価の支払いの保証として、ユダの印と杖を預かっていたため、刑罰を免れる。タマルはペレツとゼラという双生児を出産した。(『創世記』第38章より要約)
 確かにキリスト教的な倫理観からも、現代的な感覚からも、良妻とはかけ離れた罪深い女性のように見える。また、人をだましたり画策したりといったことは信仰とは対極的なものとされる。礼拝説教のたびに罪の女と言われ続けてきた聖書の女性たちは、霊界でどれほど肩身の狭い思いをしてきたことだろうか。
 ユダヤの系図にタマルをはじめとする女性の名が残されているのは、やはりそれなりの功績を残したからではないのか。表面上は選民の血統をつなぐためのキーパーソンだったということもあろう。だが、それだけではなさそうだ。罪の血統から無原罪のイエス・キリストを誕生させるための血統転換の秘密がタマルの物語にあるというのだ。
 タマルはシラといわば婚約状態の時に身ごもった。それはあたかも無原罪の宿りとされるマリヤがヨセフと婚約状態の時にイエスを身ごもったことと相通ずる。そこには失楽園におけるエバの失敗を元がえし、将来メシアが誕生するための胎中聖別をもたらした秘話が隠されていた。



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朱儒国民
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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