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 2020年、今年も6月30日がやって来た。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日である。梅雨時期でもあり、この日は雨になることが多い(“椙本神社と八角形ーー輪抜け様2019”)。今日も本格的な雨となり、電車(高知県民は「汽車」と呼ぶ)も一部運休するほどであった。
 2年前のブログ(“6月30日は輪抜け様”)で「土佐市では輪抜け様はやっていない」という情報を土佐市在住の人からの伝聞として紹介したことがあったが、最近ある人から土佐市でも輪抜け様を行なっている神社があるとの情報をゲットした。土佐市高岡町丁天神の三島神社(祭神:大山祇神)である。扁額には「三島神社・厳島神社」と併記してあり、相殿に祀られている市杵島姫神が厳島神社の御祭神だろう。


 そして、何と四万十市不破の不破八幡宮でも輪抜け様が復活したという報道がなされた。

不破八幡宮 輪抜けさま復活

80年ぶり風物詩
来月5日まで四万十市
(6月29日付高知新聞より)

 「神様の結婚式」で知られる不破八幡宮は境内に高良神社があることでも注目してきた神社である。戦前は行われていたという「輪抜け様」が約80年ぶりに復活し、このほど、無病息災を願うカヤの輪がお目見えした。直径1.9メートルの大きな輪である。

 「輪抜け様」は、半年間の厄などをはらい、次の半年を健やかに過ごせるよう祈る夏の風物詩。とりわけ今年はコロナ渦にあって自粛ムードもありながら、夏越大祓によって災いを払い清めたいという人々の願いもひとしおだろう。
 一方の「神様の結婚式」は毎年、秋季大祭で行われており、八幡宮の男神に四万十川の対岸に位置する一宮神社(同市初崎)の女神が嫁入りする。奈良県の高良神社で行われる結婚神事と似ていること(“瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚”)は以前指摘した通りである。
▲高知市北秦泉寺の仁井田神社の案内

 茅(ちがや)の輪を通り抜ける方法は高知市内では男女とも左→右→左回りと統一されており、土佐市の三島神社、四万十市の不破八幡宮も同様であるが、吾川郡いの町の椙本(すぎもと)神社だけは他社とは違うスタイルを貫いている。男性は左→右→左回りであるが、女性は右→左→右回りと逆に茅の輪をくぐることになっている。「これは古事記上巻の天の御柱めぐりの段で、男性であるイザナギの命は左より廻りはじめ、女性であるイザナミの命は右から廻っています。おそらく、この故事にならって男は左右左と廻り女は右左右と廻る神事が行われるようになったと思われます」と椙本神社は説明している。




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 令和2年度教科書展示会を見に行ってきた。
 教科書展示会は、昭和23年の検定教科書制度の実施に伴い、教科書の適正な採択に資するため、教科書発行法により設けられた制度。令和2年度は、6月12日から7月31日までの任意の14日間を中心として、全国で開催されている。
 会場に行ってみると、案内の掲示等もなく、部屋には電気もついていない。すぐに職員が出てきて、簡単に案内してくれた。
 開口一番、「社会の教科書ですか?」と聞かれた。どうして分かったのだろう。「そう、歴史の教科書です」と答えておいた。他教科については記述がどうのこうのといった問題点を指摘されることはほとんどないのだろう。いつも話題になるのは歴史教科書である。
 当ブログのタイトルにもなっている『もう一つの歴史教科書問題』について言及しておかなければなるまい。従来の歴史教科書問題と言えば、「自虐史観」か「自由主義史観」かといった論点であった。これに対して『もう一つの歴史教科書問題』と銘打ったのは、「一元史観」か「多元史観」かという視点を導入したかったからである。

 中学校『社会(歴史的分野)』の教科書については、7つの出版社の見本が並べられていた。東京書籍 ・教育出版 ・帝国書院 ・山川出版 ・日本文教出版 ・育鵬社 ・学び舎である。
 あまり期待してはいなかったが、やはり全ての教科書で「邪馬台国」という表記。『魏志倭人伝』の原文通りなら「邪馬壹国」でなければならない。原文改定がまかり通っているのだ。
 そして、もう一点「聖徳太子」がどうなっているかが気になっていた。一時期、「聖徳太子が教科書から消える」と騒がれていたからだ。ところが、どうしたことか6つの教科書までがそろって「聖徳太子(厩戸皇子)」という表記であった。そんな中で唯一、異なる表現をしていたのが学び舎の教科書『ともに学ぶ人間の歴史』である。「厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)」との書き方は最先端の歴史研究の成果を取り入れた好感が持てるものであった。
 本来、聖徳太子が行ったとされる遣隋使・十七条憲法・冠位十ニ階の制度など、その多くは九州王朝の天子「阿毎多利思北孤」の業績とすべき内容であることが分かってきている。『―日出ずる処の天子―阿毎・多利思北孤』(文化創造倶楽部・古代史&歴史塾 編、2014年)を読んでいただくと、よく理解できるだろう。多元史観の立場から分かりやすく説明されている。歴史の副読本として活用してほしい一冊である。目次についても以下に紹介しておこう。
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はじめに

第一章 多利思北孤は倭の天子

一 歴史を学ぶ大切さ
二 小説は歴史の本ではない
三 歴史の区分
四 中国の史書の大切さ
五 中国の史書は古くから、日本の史書は八世紀から
六 西暦701年まで日本の中心王朝は九州にあった倭国
七 九州王朝の倭国は西暦663年に白村江で唐に完敗
八 白村江の戦いで完敗した倭国のその後
九 倭国の天子・多利思北孤と近畿天皇家
十 現在学校で教えない九州王朝・倭国
十一 学ぶ姿勢の真髄

第二章 聖徳太子と多利思北孤

一 聖徳太子に関する通説

1 聖徳太子と日本人
2 聖徳太子の出自
3 聖徳太子と蘇我・物部の戦い
4 摂政・聖徳太子の斑鳩宮での政治
5 聖徳太子没後の政治
6 聖徳太子一家の滅亡
7 聖徳太子に関する現在の教科書
二 多利思北孤

1 『隋書・【タイ】国伝』
2 『隋書・【タイ】国伝』はいつ、誰が作ったか
3 『日本書紀』と『隋書・【タイ】国伝』の関係

三 聖徳太子をめぐる謎について

1 聖徳太子の没年日の謎
2 法隆寺再建をめぐる謎
3 憲法十七条制定の謎
4 冠位十二階制定の謎
5 天寿国曼荼羅繡帳銘の謎
6 法起寺塔婆露盤銘の謎
7 『上宮聖徳法王帝説』の謎
8 聖徳太子が小野妹子を遣隋使としたか、の謎
9 「聖徳太子をめぐる謎」に共通する根因は何か

四 阿毎・多利思北孤は聖徳太子ではない

第三章 金印・卑弥呼・倭の五王

一 金印

二 卑弥呼(ヒミコでなくヒミカと呼ぶ)

1 『魏志・倭人伝』
2 「邪馬壹国」は北部九州の博多湾岸

イ、『三国志』の位置づけロ、『三国志』は「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」
ハ、部分の総和が「邪馬壹国」までの距離(里)
ニ、「邪馬壹国」は「博多湾岸」
ホ、『三国志』の距離(里単位)は「短里」
ヘ、卑弥呼の時代の倭国は「二倍年暦」
ト、謎の世紀が始まる三 倭の五王

1 『宋書』の「倭の五王」記事
2 『古事記』の雄略天皇の項の概略
3 倭の五王は天皇たちではない
4 倭王武を雄略天皇とした場合の矛盾等

イ、在位期間の矛盾
ロ、名前比定の矛盾
ハ、系譜と在位の矛盾
ニ、倭の五王は緊迫治世、仁徳〜雄略はのんびり治世

5 埼玉稲荷山古墳鉄剣と熊本江田船山古墳鉄刀
6 「七支刀の銘文」と「高句麗の好太王碑文」

第四章 継体と磐井

一 継体の出自と即位

二 継体と磐井の戦い

三 『日本書紀』が記す継体天皇崩御年と磐井の関係

四 磐井は日本の天皇

五 継体と磐井の没後

六 磐井の乱はなかった?

第五章 乙巳の変・白村江の戦い・壬申大乱

一 乙巳の変

1 乙巳とは
2 「乙巳の変」のいきさつ
3 「大化という年号」の謎
4 天皇家年号に先立つ「九州年号」の存在

二 白村江の戦い

1 「白村江の戦い」に敗れ、衰亡した九州王朝
2 九州王朝と神籠石山城群
3 柿本人麻呂と九州王朝

三 壬申大乱

1 「壬申大乱」は天武の吉野入りが始まりか?
2 九州佐賀の吉野
3 「壬申大乱」後の天武朝
4 唐の則天武后と持統天皇

イ、則天武后
ロ、持統天皇

i)持統の出自と意義
ⅱ)父・天智の「日本国」の創設
ⅲ)夫・天武の「日本国」の再構築
ⅳ)持統天皇自身が成し遂げた統一「日本国」の成立
v)「倭国」を「日本国」に統合させたのは唐の意向

第六章 「倭国」から「日本国」へ

一 「倭国」の山

1 三笠山
2 天の香具山
3 雷山

二 「倭国」の人

三 唐と近畿天皇家

四 九州王朝「倭国」はなぜ滅んだか

五 新生「日本国」のその後

おわりに

この本を、お薦めいただいたご両親様方へ
『学問論「日出ずる処の天子」−憲法論−』…古田武彦附録
年表
系図
古田武彦主要著作

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 田道間守(たじまもり)が常世国から持ちかえった「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」を橘とするにはあまりにも矛盾点が多すぎる。荒唐無稽な作り話と切り捨ててしまうのは簡単だが、意外にもこの話には事実を反映したドキュメンタリー的な要素が含まれている。
 前回紹介した3つのポイントを振り返ってみよう。
 ①田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰った。常世国は「海外の国」とされ、『日本書紀』神代上に少彦名(スクナヒコナ)命は大己貴(オホナムチ)命との国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」に帰っていったとされる。
 ②田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰るのに10年もの年月を要した。垂仁天皇の年齢(140歳で崩御)からしても二倍年暦の時間軸で描かれた物語と考えられることから、今の暦では5年間に相当する。
 ③「常世国」「非時香菓」の語義から連想されるのは、常夏の国や一年中果実が実る赤道直下の国といったイメージだろうか。

 ①について、熊野の御崎といえば、和歌山県の熊野詣でで有名な「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」「熊野那智大社」の3社と「那智山青岸渡寺」の1寺の熊野三山があるところである。その熊野那智には「補陀落渡海」という南の海の彼方にあるという観音の補陀落浄土を目指して、小船に乗って渡ろうとする捨身行があった。平安時代から江戸時代頃まで28例。単なる捨身行であれば、食料を大量に準備する必要もなさそうだが、1~3か月分の食料を積みこんだと記録されていることから、太平洋横断(ヨットで約3か月を要する)の成功こそが本来目指す目的地であったと考えられる。また、高知の足摺岬や室戸岬、茨城県の那珂湊などでも補陀落渡海が行われたとの記録がある。いずれも黒潮に乗るのに適した場所であり、黒潮の流れが向かう先はアメリカ大陸になる。常世国=補陀落浄土=太平洋の向こうの国だったのではないだろうか。
 ②について、田道間守が非時香菓を常世国から持ち帰るのに10年(今の暦で5年)もの年月を要した。『魏志倭人伝』において、裸国・黒歯国へは東南方向に船で一年かかると記述されている。これも二倍年暦なので、現代の暦では半年に相当する。最短でも往復1年は必要であり、道中のトラブルや現地での滞在期間、帰国の準備などを考えても、帰り着くのに5年を要したことは海外渡航とすればかなり現実的なスケジュールであり、国内や近隣諸国であったら長すぎる期間である。
 ③について、「裸国・黒歯国」を南米大陸のエクアドル付近と比定する古田説に従うと、そこは赤道直下の国であり常世国と呼ぶのに違和感はない。縄文土器とよく似た土器が出土したバルディビア遺跡(前 3000~2400頃)があり、バナナの世界的な輸出国となっている。非時香菓に関する「縵八縵矛八矛」という描写表現はバナナの形状にピッタリ適合するとした西江碓児説が現実味を帯びてくる。ただし、エクアドルバナナについては後世ヨーロッパ経由で入ってきたとされることや半年かけてバナナの実を持ちかえると腐るので、裸国・黒歯国からバナナの実そのものを持ちかえったとするのは疑問である。

 魏使による実地見聞

 ところで、古田武彦氏は『「邪馬台国」はなかった』において「魏使は倭地の実地において、その当地の〝倭人の知識〟を聞き、これを正確に報告した、と思われる個所が倭人伝中に幾多存在する」(P389)とし、足摺岬付近を出発点とし黒潮に乗って半年かけてアメリカ大陸を経て、南米エクアドルへ向かう航路については侏儒国における実地見聞に基づくとの考えを表明していた。
 近代の歴史学者たちはこの部分は荒唐無稽な話としてまともに取り扱うことはなかったが、『日本書紀』の編者はむしろ事実として受け止めたのかもしれない。「人長三・四尺」の侏儒国の人々を少彦名(スクナヒコナ)命に、「裸国・黒歯国」を常世国に置き換えたように見える。そして侏儒国の人々の中には実際に黒潮に乗って太平洋を航海し、帰国した人の体験談が伝承されていたのであろう。魏使は実地見聞に基づいた情報を『魏志倭人伝』に盛り込んだ。
 それならば日本側にも同様の内容が伝承されていなければならない。そんな疑問を持ち続けていたところ、思い当たることがあった。それがまさしく、田道間守が常世国から非時香菓を持ちかえる話である。『日本書紀』によると、常世国は「遠くより絶域に往(まか)る。萬里浪を踏みて遙に弱水を渡る」ところにあったと伝える。「弱水」は通常、川の水などと訳される。この「弱水」の意味がよく分からずにいた。「裸国・黒歯国」をエクアドル付近とすると、北アメリカ大陸の西海岸までは黒潮に乗って運ばれる。黒潮の幅は、日本近海では100km程度で、最大流速は4ノット(約7.4km/h)にもなる。この強力な流れに対し、カリフォルニア州から赤道方面へ南下するカリフォルニア海流の流速は遅く、約0.5ノット程度。このカリフォルニア海流を「弱水」と呼んだのだ。そして遥かに弱水を渡った先に常世国(裸国・黒歯国)があったのである。
 意外にも『日本書紀』に橘だけでなく、南米への渡航というリアルな話が取り込まれていたのである。

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 『日本書紀』の編者は『魏志倭人伝』に登場する卑弥呼や壹與の業績を神功皇后の手柄として取り込もうとした(“高良玉垂命の業績が神功皇后紀に取り込まれていた”)。『日本書紀』の編者は海外の史書などにもよく目を通していたようである。そして倭人伝に「橘有り」と記述されていることも知っていた。

 邪馬壹国が北部九州であるならば、このとき魏の使いが見た橘は、当然九州に自生していたものであろう。勝手な推測かもしれないが、弥生時代には奈良盆地をはじめとする畿内の内陸部には、タチバナは自生していなかったのではないか。古来中国と外交関係を持っていたと主張したい大和朝廷にとっては、どうしてもこの矛盾を埋める必要があったという。

 『日本書紀を批判する――記紀成立の真相』(古田武彦/澁谷雅男【共著】、1994年)によると、垂仁天皇の時代である「一世紀の半ばに田道間守は橘を採りに行って持って帰っているわけです。だから倭人伝のいう通り、三世紀には橘があります、という話になっている」とうまく時代設定しているというわけだ。
 しかし、全くの無から話を創造することは難しい。もともとあった話をベースとしながら、ただ「時じくの香の木の実は今の橘なり(今謂橘是也)」と解説を入れるだけで、見事に『魏志倭人伝』との整合性を取り持とうとした。では本来の話はどのような内容であったのだろうか。
 ①田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰った。常世国は「海外の国」とされ、『日本書紀』神代上に少彦名(スクナヒコナ)命は大己貴(オホナムチ)命との国作りの後、熊野の御崎から「常世郷」に帰っていったとされる。
 ②田道間守は非時香菓を常世国から持ち帰るのに10年もの年月を要した。垂仁天皇の年齢(140歳で崩御)からしても二倍年暦の時間軸で描かれた物語と考えられることから、今の暦では5年間に相当する。
 ③「常世国」「非時香菓」の語義から連想されるのは、常夏の国や一年中果実が実る赤道直下の国といったイメージだろうか。
 ①~③の条件によく適合する話が『魏志倭人伝』の中にある。
 「又有裸国・黒歯国、復在其東南。船行一年可至」(又裸国・黒歯国有り、復た其の東南に在り。船行一年にして至る可し)
 『魏志倭人伝』の最後を飾る文章である。倭人伝に記述された一年は二倍年暦であり、現代の暦では半年に相当するものとし、古田武彦氏は「裸国・黒歯国」を南米大陸のエクアドル付近と比定。その基点となる「侏儒国」を四国の西南端、足摺岬(高知県)の周辺とみなしている。
 田道間守が常世国から「非時香菓」を持ちかえった話が、この『魏志倭人伝』の記述と何か関連があるのだろうか。それとも単なる荒唐無稽な作り話だったのか。さらに踏み込んで考えてみることにしたい。


 

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 「十三弁花紋は九州王朝の家紋」とする仮説(古賀説)が正しいかどうかはまだ検証の必要があるが、九州北部に多く見られる紋であることは確認されている。とすると、土佐で見つかった十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦は何を意味するのか。九州王朝との関係があるのだろうか。
 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は北部九州の中でも、とりわけ太宰府市に集中して分布しているようだ。
太宰府史跡(太宰府市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
 ということは、太宰府と土佐国府の共通点の有無を調べることによって、土佐国における十三弁菊紋軒丸瓦の存在が、必然であったか偶然であったかを知ることができるかもしれない。次の4項目の類似点について紹介して、識者の判断を仰ぎたい。

①大裏と内裏

 太宰府条坊の北方に「大裏」地名があり、土佐国府の北方にも紀貫之の国司館跡とされる場所に「内裏」地名がある。
【名称】旧小字標石 大裏(だいり・おおうら)
【所在場所】観世音寺3丁目 都府楼跡北辺
【文化遺産情報】住居表示により古い地名が失われるため、平成5年(1993)8月に太宰府市が旧小字名を石標に刻して建立したもの。地名「大裏」は内裏、紫宸殿ともいわれ、天智天皇の内裏跡や安徳帝の行宮があった場所だという謂われが残っている。大宰府政庁の政庁域全体がこの地名である。

②観世音寺と観音寺

 太宰府北東部(鬼門)に観世音寺(観音寺と呼ばれたこともある)があった。土佐国府北東部には比江廃寺跡がある。現在、土佐国府跡北方に「永源寺」(えいげんじ)があり、かつては、曹洞宗大本山永平寺の直末で「観音寺」といって鬼門除けのお寺であった。『長宗我部地検帳』にも「タイリ中ニツカアリ……同(観音寺分)」とある。

③都府楼礎石と比江廃寺礎石

 比江廃寺跡の礎石について、凹凸の違いはあるものの、太宰府都府楼の礎石に似ているとの指摘がある。

④大宰府の廃止と土佐国司の派遣 

 天平十四(742)年正月に大宰府が廃止された、と『続日本紀』は伝えている。土佐の国司は、天平十五(743)年六月三十日に任命された土佐守・引田虫麻呂が記録に見える姓名の明らかな国司の始めである。それ以前に国司が派遣されていたかもしれないが、九州王朝滅亡(700年)後も、742年頃まで大宰府の管轄下にあったか、何らかのつながりを維持していた可能性も考えられる。

 以上、①~④の4点をピックアップしてみたが、土佐国に
十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦が存在することは、やはり何らかの意味があるようにも思えるが、いかがであろうか。







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 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は、次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているという。
鴻臚館跡(福岡市)
筑後国分寺跡(久留米市)
堂ヶ平遺跡(八女郡広川町)
太宰府史跡(太宰府市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)
豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)
 古田史学の会代表・古賀達也氏は「十三弁花紋は九州王朝の家紋」ではないかと推定している。その根拠として、高良玉垂命の家系の一つ、稲員(いなかず)家の家紋が菊だったと伝えられ、皇室の十六弁の菊とは異なり、十三弁の菊だったとのこと。
 実はこの十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦が高知県からも出土している。何かつながりがあるのだろうか。江戸時代の国学者・鹿持雅澄(1791‐1858年)の『土佐日記地理弁』に、次のように書かれている。
 和名抄ニ、土佐ノ国国府在長岡ノ郡ト見ユ、コノ長岡ノ郡日吉村ニアリ、其日吉村ハ、イニシヘハ、江村ノ郷ニ属タルナルベシ、和名抄ニ、長岡ノ郡江村〔衣牟良〕トアリ、土佐ノ郡今ノ高智城ヲ東ニ距ルコト、今道二里余ナリ、国府ノアリシ跡ヲ、里俗内裏屋敷ト称リ、又ソコニ、内裏グロト云伝フル所アリ、紀子旧跡ノ碑ソコニ建リ、コノ内裏グロノ西ヲ瓦畑ト云、ムカシ古瓦多ク出ケルニヨリテ、カク云リ、今ニ瓦ノ小片、マゝ出ルコトアリ、其中ニ菊紋ノ瓦甚稀也、イヅレモ布目アリテ、今ノ製ニ異ナリ、ソコヨリ東一丁余ニ、御門前ト云処アリテ、当昔国府ノ門、ソコニアリシト、(下略)
 土佐国府跡の紀貫之が住んでいたとされる場所が内裏と呼ばれ、記念碑が建っている。『土佐日記地理弁』によると、内裏ぐろの西を瓦畑といい、そこから古瓦が多く出土している。その中に十三弁菊紋瓦があったと記録されているのだ。
 「ぐろ」というのは土を盛り上げたところで、『長宗我部地検帳』の「長岡郡廿枝郷衙府中・国分地検帳」には、
タイリ中ニツカアリ   二郎三郎作
一所壱反 出六代四分中 同(観音寺分)
 と書かれており、「ツカアリ(塚あり)」との表現に対応している。内裏という区画の中に「コフラ」という地名も見える。ここが「内裏グロ」あるいは「ツカ(塚)」があった場所に相当するのではないかと推測する。
 正確な出土地点ははっきりとしないが、『皆山集』にも「其瓦一枚ハ丸ニシテ菊花アリ 〜 辨十三アリ」と記録され、土佐国分寺付近から出たものと考えられている。いずれにしても国府近辺であることには相違ない。土佐国府付近から出土した十三弁菊紋軒丸瓦は九州王朝との関係があるのだろうか。それとも単なる偶然なのだろうか。さらに検証してみたいところである。


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「等身大の秀吉坐像発見
 大阪・大宮神社 高さ81センチ、最大級」
 2020年5月22日付の高知新聞の記事の見出しである。国内最大級となる木造の豊臣秀吉坐像が発見されたことが報じられた。江戸時代に制作されたとみられ、「徳川家康が天下人となり、秀吉信仰がはばかられていた時代でも大阪でひそかに祭られていたことを示す貴重な資料」との見解のようだ。
 この発見自体大きなニュースではあるが、私は別のところに注目していた。この秀吉像が隠されていた場所が大宮神社本殿とは別の社殿「高良社」に祭られていた点である。社殿の扉はくぎ止めされ、像の存在は長く秘密にされていた。高知新聞では「大宮神社内にある摂社・高良社」との表記であったが、高知県内で一般的に見られる境内摂社のごとき小さな祠ではない。高良社の鳥居や灯籠もあり、巨大な秀吉像を隠してあったことからも格式のある社殿であることが想像できる。
 まずは大宮神社の祭神や摂社、由緒などを見ておこう。

祭神

應神天皇、神功皇后、姫大神
 配祀 鬼門守護大神、菅原道眞、天御中主神
 合祀 大國主神、事代主神、速素盞男神、十五社大神、應神天皇、菅原道眞

摂社

稲荷社「宇迦之御魂神」
高良社「武内宿禰命」
若宮八幡宮「仁徳天皇」
北斗社「北斗大神」
楠社「楠大神」
春日社「廣渕善直」
いぼ大神社「いぼ大神」
行者社「役小角」

由緒

 大宮神社の創建は、今から約八百年昔、文治元年二月、源義経が平氏追討の為下向の際この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢をみ、目覚めてみれば一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。 義経は吾に神助ありと勇気百倍、その鏡を奉じて平家を討ち滅ぼし、後鳥羽上皇に奏上して神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称したと伝えられます。(『平成祭礼データ』大宮神社由緒より)
 大宮神社は大阪市旭区大宮に鎮座しており、応神天皇・神功皇后・姫大神は八幡宮のスタンダードな御祭神である。大国主神・事代主神・速素盞男神(二座)・十五社大神・応神天皇(二座)・菅原道眞公をお祀りしているのは、神社合祀令により明治40年9月に、産土神社外六社を合祀したものであろうか。十五社大神は長野県や熊本県天草に多いとされる十五社と関係があるかもしれない。
 社名に「八幡宮」と出ていないのは、明治45年4月に大宮八幡宮から大宮神社へと名称変更したもの。相殿に鬼門守護神(鬼門守護大神)・天満神社(菅原道眞公)・天御中主社(天御中主神)をお祀りしているのが注目すべきところで、天正十一年、豊臣秀吉が大阪城を築くに当り、当社を「鬼門守護神」と崇めたと伝えられている。
 しかし創建自体は大阪城が築城されるよりもずっと古く、源平合戦の頃(1185年)にさかのぼる歴史を持っているようだ。若宮八幡宮と高良社がセットで摂社としてあることから、大宮八幡宮の創建と同時に置かれたものとするのが妥当かもしれないが、さらにさかのぼる可能性すらある。
 『摂津国風土記』に比売許曽の神が比売島に来たとの伝承がある。西淀川区姫島に鎮座する姫島神社に比定する説があるが、そこは近世まで海中であったとされる。 『摂津国風土記』にいう難波の日女島(比売島、姫島)は旧名を南島といわれた旭区森小路付近との考えも有力である。淀川の河口津に当たり、九州方面からの船団が停泊した船泊りでもあったと推測できる。この立地は難波宮との関連も考慮する必要がありそうだ。もともと難波宮の鬼門の位置に鎮座していたとも考えられるからだ。

 大坂府には現在の社名からは想像もつかないが、茨木市春日5-6-1の倍賀春日(へかかすが)神社や寝屋川市打上元町38−1の打上神社など旧高良神社とされる神社がいくつか存在している。また、岸和田市西ノ内町1番地の兵主(ひょうず)神社や河内長野市長野町8-19の長野神社など、高良神社を摂社として持つ神社群もある。
 調べれば大阪府にも高良神社(高良社、高良宮)がかなり存在しているようだ。「前期難波宮九州王朝副都説」(この説には宮都跡からの九州系の遺物出土が少ないという弱点あり)を主張される方々は、このような周辺的状況を調査しているのだろうか。大阪の高良神社の歴史は意外に古そうである。難波宮を取り巻く高良神社群の調査という新たなアプローチによって、九州と畿内とのつながりを研究することができるのではないかとの期待が持たれる。
 徳川家が天下人となった江戸時代、豊臣秀吉像は高良社に隠されて信仰された。なぜ高良社に祀られたかはいくつかの理由が考えられるが、大和朝廷以前の九州王朝歴代の王を祀った宗廟が高良神社であったとすれば、前政権の主権者の像がそこに秘蔵されたのはうなずける。当時の宮司さんもその意味を十分に理解していたのかもしれない。



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 『古事記』や『日本書紀』に第11代垂仁天皇が田道間守(たじまもり)を常世国に遣わして、「非時香菓」(ときじくのかくのこのみ)を求めさせ、10年もの歳月をかけて持ち帰るが、その間に天皇は崩御したという話が出てくる。そしてその「非時香菓」は今の橘(タチバナ)のことであると説明してある。「非時香菓」は本当に橘のことだったのだろうか?

〔時じくの香の木の実〕

 また天皇、三宅の連等が祖、名は多遅摩毛理を、常世の国に遣して、時じくの香の木の実を求めしめたまひき。かれ多遅摩毛理、遂にその国に到りて、その木の実を採りて、縵八縵(かげやかげ)矛八矛(ほこやほこ)を將(も)ち来つる間に、天皇既に崩りましき。ここに多遅摩毛理、縵四縵(かげよかげ)矛四矛(ほこよほこ)を分けて、大后に献り、縵四縵矛四矛を、天皇の御陵の戸に献り置きて、その木の実を擎(ささ)げて叫び哭(おら)びて白さく、「常世の国の時じくの香の木の実を持ちまゐ上りて侍ふ」とまをして遂に叫び哭びて死にき。その時じくの香の木の実は今の橘なり。(『古事記』)
 日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類とされるタチバナが最も多く群生している場所は、高知県土佐市甲原の松尾山(標高271m)だということを前回紹介した(“日本最大規模「土佐市のタチバナ群落」”)。約200本ものタチバナが群生しているのは他に類例がなく、日本最大規模とされる。

 もしかして田道間守はかつての土佐国(高知県)からタチバナ(非時香菓)を持ち帰ったのではないかとの想像もしてみたが、あまりにも疑問点が多すぎる。問題点を列記してみよう。

①もともとタチバナは日本に自生しているにも関わらず、常世国(海外の国)から持ち帰ったとされている。
②『魏志倭人伝』にも「橘有り」と記述され、古くから日本に自生していることを裏付ける。
③柑橘類の結実は季節の影響を受け、季節によらないという意の「非時(ときじく)」という表現には適さない。
④「縵八縵矛八矛」という表現も橘ではなく、バナナの形状にピッタリ適合するとの指摘(西江碓児説)あり。

 客観的に見ると矛盾点を多く内包しながらも、この話がお菓子のルーツとされたり、畿内の寺社に植えられた橘の木の由来につながっていたりする。もしかして『古事記』『日本書紀』の編者は「時じくの香の木の実は今の橘なり」としなければならない事情があったのだろうか。それとも本当に橘のことを指していたのだろうか。掘り下げて考えてみたいところだ。


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 「歩こー、歩こー、私は元気♪」
 懐かしのジブリアニメ『となりのトトロ』の替え歌で「アルコール、アルコール、ヒドロキシル基♪」。何、古い? 最近の教科書では「ヒドロキシ基」と書かれているようですね。

 今回は有機化合物の分野で、アルコールの分類について勉強します。

①価数による分類

 まず、ヒドロキシ基(-OH)の数による分類があります。ヒドロキシ基が1つならば1価アルコール(エタノールなど)、2つならば2価アルコール(エチレングリコールなど)、3つならば3価アルコール(グリセリンなど)と呼びます。

②級数による分類

 次に炭化水素基の数による分類があります。ヒドロキシ基(-OH)が結合しているC(炭素原子)が何個の炭化水素基と結合しているかで分類します。0~1個ならば第一級アルコール、2個ならば第二級アルコール、3個ならば第三級アルコールと呼びます。

 第一級アルコールは二クロム酸カリウムなどにより二段階に酸化され、アルデヒドを経てカルボン酸になります。こう覚えましょう。
「一休さんか? 出家もあるで、毛を刈る坊(ぼん)さん」
第一級アルコール酸化 アルデヒド カルボン酸
 そこの君、鳩が豆鉄砲食らったような顔をしていますね。
「授業に参加してキョトンとなるのは二級あるよ」
   酸化してケトン   第二級アルコール
 ということで、第二級アルコールは酸化されてケトンになると覚えてください。
 第三級アルコールは酸化されません。
 新型コロナウイルスが流行し始めた頃、こんな話がありました。ある人が友達からカラオケに誘われ、参加するのを断ると、「そんなにコロナが怖いがかや」となじられたそうです。
 友達とのお付き合いも大事ですが、勇気(有機)を持って、感謝の気持ちを表しつつ、やんわりと断りましょう。
「参加しないよ、サンキュー」
 酸化しない  第三級アルコール

 最後に、おまけとして鎖式炭化水素(脂肪族炭化水素)のうち飽和炭化水素アルカンの構造異性体の種類数を与える数列を紹介しておきましょう。えっ、そんなものないはずだって? まあ、当てはまるかどうか、確かめてみてください。
1=1
2≦n≦9のとき
n=2Cn-1―1(n≠4k)
n=2Cn-1(n=4k)



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 橘氏のルーツを探し求めるときに欠かせない視点がある。植物としての「タチバナ」の分布である。タチバナの生息せぬ場所に橘姓の生ずることは考えにくい。
 タチバナは別名「ニッポンタチバナ」「ヤマトタチバナ」というように、実は日本固有の柑橘である。
伊豆半島を東限とし、和歌山・三重・山口など、太平洋岸の暖地に今でもごくわずか自生しており絶滅危惧種に指定されている。
 もちろん、県犬養三千代がその功績を称えられて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となったことはよく知られているところである。その起源譚にしてもまた、植物のタチバナが関係していることは無視できない。
橘は 実さへ 花さへ その葉さへ 枝に霜ふれど いや常葉の樹
 この歌は天平八年(736年)十一月に葛城王(かづらぎのおほきみ)や佐為王(さゐのおほきみ)らが橘(たちばな)の姓を賜って皇族から臣下に下ったときに賜られた御製歌とされている。
 『万葉集』では66首もの歌がタチバナを詠んでおり、花は文化勲章のモチーフとしても知られている。タチバナは古くから日本人に親しまれてきた植物なのだ。
 では、日本に古くから自生してきた唯一の柑橘類とされるタチバナが最も多く群生している場所はどこにあるのだろうか。それが実は、高知県土佐市甲原の松尾山(標高271m)なのだという。東面の尾根上に樹齢300年超の古木を含む約200本が自生し、2008年には国の天然記念物に指定されている。
 今なお、これほどのタチバナの群落が残っているのは大変貴重なもので、学術的にも価値が高いと評価されており、地元住民組織の「タチバナを守る会」等により保護活動が展開されている。なぜ、このような形で残ったかというと、石灰岩が露出した急傾斜の岩角地であるため人工的な栽培活動にも利用されず、また、他の植物の進入も少なかったことからタチバナが生き残ることができたと考えられている。
 土佐市甲原松尾山の日本最大規模のタチバナ群落と橘氏のルーツには何か関係が有るのか、無いのか。違った角度からアプローチしてみるのも面白いかもしれない。
 
 

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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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