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 国立Q大の女子学生はなぜ「邪馬台国はなかったんだよ」と言ったのだろうか。これこそまさに『「邪馬台国」はなかった』(1971年)で古田武彦氏が主張した第一のポイントであった。
 そもそも『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた。これまでの学者たちは皆、九州説・畿内説にかかわらず「壹(一)は臺(台)の誤りなり」とし、それを前提にして「邪馬台国」がどこにあったかを議論し合ってきた。だが、この「壹は臺の誤り」とする共同改定は正しいのだろうか。従来の邪馬台国論争で、ほとんど疑問を持たれなかったこの国名問題にまず切り込んだのが古田氏であった。
 古田氏は『三国志』全体から「壹」と「臺」を全てピックアップして完全調査を行った。『三国志』中には86の「壹」と58の「臺」が存在していた。これを拾い上げるだけでも大変な作業であるが、全数調査を行って、特定の文字がどのように使用されているかの傾向性をつかむということは統計的手法としては基本である。この方法論がその後の古田史学の方法論の基軸となっていった。また同時代の「壹」と「臺」の筆跡の比較検討をした。その結果として「壹」と「臺」の書き間違いの可能性はほぼゼロという結論に達した。本来の国名は「邪馬壹国」だったのである。
 また「臺」は「天子の宮殿及び天子直属の中央官庁」という特殊な意味を持つことを古田氏は
『「邪馬台国」はなかった』で指摘している「臺」を天子のシンボルとして尊崇した三世紀の、魏志中の表記としては、臣下の国名に「邪馬)国」と至高文字を使用することはありえないのだ。
 古田史学に共感を示す支持者に理系の人々が多いのは、この科学的手法によって導かれる合理的な結論にあると言えるかもしれない。現にQ大で開催された、とある理系の学会の席で、海外の研究者に対して古田説に触れたQ大教授がいたと聞く。
 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた――この結論だけでも古代史学会を覆す偉大な発見であった。本来ならば歴史の教科書も原文を尊重して「邪馬壹国」と書くべきところである。その上でなぜ「邪馬台国」と呼ばれるようになったかを説明しなければならない。それが学問的態度であろう。ところが現在もなお、小・中・高校の歴史教科書には「邪馬台国」と記述され続けている。半世紀前に出版された『「邪馬台国」はなかった』は古代史学会において“なかった”ことにされたのであった。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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