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 前回、“玉垂命を武内宿禰としたいきさつ(大善寺玉垂宮の事例)”について紹介した。大善寺玉垂宮は久留米市役所から南西に約6kmの福岡県久留米市大善寺町宮本という場所にある。この神社の創建は古く、およそ1900年前の創祀とも伝えられており、筑後国一宮・高良大社に先行する古社であったことは宮本の地名からも伺える。
 昔は大善寺と玉垂宮という神仏習合であったようだ。それが明治の初期に起きた廃仏毀釈運動で、神仏混淆(しんぶつこんこう)の廃止、神体に仏像の使用禁止などが叫ばれて、神社から仏教的要素の払拭などが行われた。その時に、寺であった大善寺はなくなり玉垂宮だけになったようだ。その際、ご祭神の玉垂命を武内宿禰としたいきさつを伝える史料が残されていた。詳細が、『俾弥呼の真実』(古田武彦著、2013年)に書かれていたので、お伝えしておきたい。
 二〇〇三年(平成十五)の八~九月、久留米市におもむき、その所蔵文書を長時間、調査させていただいたことがある。「東京古田会(古田武彦と古代史を研究する会)」「多元的古代研究会」「古田史学の会」等の合同調査であった。
 そのとき、刮目した史料群があった。そこには江戸時代末、戊辰戦争直後、大善寺玉垂宮の宮司「御祭神を取り換える」旨の決意がしたためられていた。従来の「玉垂命」に換えて、天皇家に“由縁”のある「武内宿禰」を以って、今後の「御祭神」にしたい、という、その決意が「文書」として明記されていた。
 そして明治初年に至り、社中の各村の各責任者を招集し、右の決意に対する「承認」を求め、賛成の署名の記された文書である。
 この「新祭神」としての武内宿禰の存在は、近年(戦後)までつづいていたようであるが、ようやくこれを廃し、もとの「玉垂命」へと“返った”ようである(光山利雄氏による)。
 「吉山旧記」(B)の場合、「昭和二十九年一月」の「第二序文」があり、「第八十三代薬師寺 悟、謹誌」となっているけれども、右の経緯はしるされてはいない。「公の立場」を継承したからであろう。
 この祭の本質への探究、それは当然「鬼面尊」と「玉垂命」との関係、そしてそれらの悠久なる起源へと向けられることであろう。(P57~58)
 「高良神社の謎」シリーズで追い求めてきた高良玉垂命の正体は何者か? 大善寺玉垂宮の祭神は『福岡県神社誌』(昭和20年)では竹内宿禰・八幡大神・住吉大神となっていて、『飛簾起風』(大正12年)では高良玉垂命(江戸時代の記録の反映か)となっている。表面的に見ただけでは、従来から根強く流布していた「高良玉垂命=武内宿禰」説が正しいのではないかと誤解されそうだ。これを非とする根拠はいくつかあったものの、全国的に高良神社の祭神を武内宿禰とするところが多いという事実もあって、完全には否定できずにいた。
 その長きにわたる論争も、この大善寺玉垂宮に関する史料によって一区切りつけることができたのではなかろうか。祭神を天皇家に由縁(ゆかり)のある武内宿禰としたのは、あくまでも時の政権に対する忖度であった。なぜそうしなければならなかったかというと、やはり近畿天皇家に先立つ倭国の中心権力者に関わる内容が秘められていたからであろう。
 日本三大火祭りの一つに数えられている鬼夜(おによ)の由来については『吉山旧記』に記されている。仁徳天皇五六年(368年)1月7日、藤大臣(玉垂命)が勅命により当地を荒し、人民を苦しめていた賊徒・肥前国水上の桜桃沈輪(ゆすらちんりん)を闇夜に松明を照らして探し出し、首を討ち取り焼却したのが始まりだと言われている。 毎年1月7日の夜に行う追儺の祭事で、1600年余りの伝統があり、松明6本が境内を巡る火祭りである。
 この『吉山旧記』の内容についてもそれが書かれた当時の権力者、江戸幕府の顔色を伺いながら編纂された内容であり、表向きには書けなかった内容も多かったことであろう。
 「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」といった記述からの“書き換え”である。そういう可能性の高いこと、特に注意しておきたい(あるいは「壹与」か)。
 また問題の「桜桃沈淪(ゆすらんちんりん)討伐」譚において、討伐側の主体として登場する「籐大臣」もまた、近畿天皇家の人物ではなく、「倭国(九州王朝)」の人物である点も当然ながら、わたしたちの視野に入れておかねばならぬ。
 この事件自体は、「倭国(九州王朝)」が大陸側(朝鮮半島)で高句麗・新羅と激戦していた「四~六世紀間」の歴史事実の反映なのではあるまいか。この事件は、仁徳五十三年(三七六)、第六代の葦連(あしのつら)の時とされている(古事記、日本書紀の方には「桜桃沈淪」の名は出現しない。「倭国」が百済と盟友関係にあったこと、高句麗好太王碑の記す通りであるが、これに対し、「桜桃沈淪」は、高句麗・新羅側と提携しようとしたのであろう(もちろん、歴史事実の反映とみられる)。(『俾弥呼の真実』P55)
 福岡県に多く祀られる「神功皇后―武内(宿禰)臣」の両者も、本来は「倭国(九州王朝)」の「卑弥呼―難升米」の事績が『日本書紀』に取り込まれ、表向きは近畿天皇家の業績とされ、伝承されてきたものであろうか。
 約2年前(2019年1月)、徳島県のN氏より「やはり、高良玉垂命と武内宿禰は別人(神?)なんですか? このテーマはどのあたりに投稿されてますか?」という質問があった。心苦しいことに、その時点ではまだ、明確な回答はできずにいた。今回の内容で十分ということではないかもしれないが、一定の解答を示すことができたとすれば幸いである。



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 古田武彦氏は四国南西部の足摺岬付近を『魏志倭人伝』に書かれている侏儒国と比定した。『歴史地震の話―語り継がれた南海地震』(2012年)の著者で地震学者の都司嘉宣氏などは古田説を支持する立場のようである。一方、古田史学の会・東海の石田泉城氏からは侏儒国を種子島に比定する説が出されており、足摺岬付近を侏儒国とする古田説は誤りと考えているようだ。足摺岬付近を侏儒国とするのは是だろうか、それとも非とすべきだろうか?

 侏儒国を足摺岬付近に比定した古田説の出発点は『魏志倭人伝』の記述に従ったところにある。さらには「裸国・黒歯国」すなわち南米への渡航との関連から、いくつかのデータを積み重ねている。『真実に悔いなし』(古田武彦著、2013年)には「唐人石実験」(P228)について、次のように書かれている。
 もう一つの実験があった。唐人駄場は、中心の広場である。その唐人駄場の一画、海を“見おろす”ような位置に「唐人石」がある。この中心列石は、黒潮に乗って北上してきた人々の「目」に反射して「見える」のではないか、という「?」だった。
 いち早く、黒潮が断崖に衝突する前に、その存在を確認するか否か。それが彼らの「生死」を分けるのである。言うなれば、「縄文灯台」としての役割だ。その可能性を、船上実験したのである。予備実験と本番と、二回とも成功だった。明らかに、縄文期に、この地域は「黒潮と日本列島との結節点」だった。それを確認したのである。

 「~駄場」という地名は四国南西部に分布しており、「山頂や山腹の平らな場所」を指す。多くの場合、縄文遺跡が出土することが指摘されている。唐人駄場もやはり足摺岬の台地上にあり、縄文時代の石鏃出土においては群を抜いている。やや南に下った場所には世界最大級(直径150m以上)のストーンサークル(現在は公園)があったとされる。

唐人駄馬
▲唐人駄場遺跡の巨石群

 足摺岬付近から太平洋を横断して南米大陸へ。遺伝子の研究などでも現在のインディオから採取した遺伝子と現在の日本の太平洋岸の日本人の遺伝子が一致するという。現在だけでなく千何百年前のチリのミイラの示す遺伝子とも一致しているのだ。
 果たして、足摺岬付近の縄文人と南米との交流があったのだろうか。期待は高まる。地元の土佐清水市も唐人駄場遺跡をはじめとして観光のスポットにしたいとの思惑もあったかもしれない。ベティー・J・メガーズ博士を招請したときの話である。
 メガーズ夫人をお呼びしたときのこと。高知県の土佐清水市が(わたしを通じて)招請したのである。足摺岬近辺の縄文土器を夫人に観察してもらい、南米のものとの「共通性」の有無を判定してもらったのだ。だが、運ばれてくる(足摺岬近辺の)縄文土器に対して、夫人はいずれも「否(ノウ)」だった。せっかくの(土佐清水側の)期待を“裏切った”のである。(同著P247)
 自説に不利な情報であっても隠すことなく、公開している。この一点を見ても古田武彦氏の真実に対する姿勢や学問的良心を感じ取ることができる。
 南米エクアドルのバルディビア遺跡からは縄文土器によく似た土器が出土している。それは漂流によってもたらされたものではなく、火山の噴火により被害を受けた地域からの集団移民によるものとの説が有力である。「熊本県、中心の一派」が、黒潮に乗じて「南米への大移住」を図ったと古田氏は考察している。
 少なくとも足摺岬付近の縄文人は「裸国・黒歯国」への移民の中心勢力ではなかったということだろう。遺跡の分布から判断すると、この地域では弥生時代になると四万十川流域に文化の中心がスライドし、そのまま古墳文化へと連続しているように見える。民族大移動までは必要なかったのかもしれない。ただし、四万十市西土佐の大宮・宮崎遺跡から出土した線刻礫については、バルディビア遺跡の線刻礫との共通性および同時代性が指摘されており、交流がなかったわけでなさそうである。


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 前回、香川県観音寺市の琴弾八幡宮摂社・高良社が明治維新を契機として武内神社に変わったということ("香川県の高良神社⑦ーー観音寺市原町野田")をブログで紹介した。そんなことが本当にあるのかと疑問に思われる方がおられるかもしれない。実は古田武彦氏もそのような事例を語っていたことをつい最近知った。福岡県久留米市の大善寺玉垂宮で、祭神を玉垂命から武内宿禰としたいきさつが文書に残っているというのだ。
 大善寺玉垂宮のもう一つの祭神は玉垂命。江戸時代の終り頃、天皇の世の中になりそうだというので、宮司さんが氏子から了解を取って祭神を武内宿禰(注=『古事記』では竹内宿禰であるが『日本書紀』の用法に統一した)に変更した。戦後また玉垂命に戻したという歴史があります。そういう歴史の文書が残っていることが貴重だと思います。(『古田武彦の古代史百問百答』古田武彦著、2015年)
 この話によると、古田氏はそのいきさつを記した史料を確認したということだろうか。
 確かに明治維新の際の神仏分離令のために、寺院だけでなく神社も仏教色を排除することを余儀なくされた。江戸時代までの神仏習合において、高良大明神は本地・ 大勢至菩薩とされており、仏教色を残したまま神社の縁起等の差出しを行えば、存続が危ぶまれる怖れもある。具体策として神社名変更あるいは祭神の変更などを行ったところもあるようだ。
 福岡県や愛媛県をはじめとして、応神天皇・神功皇后・武内宿禰を祭神とする八幡宮が多くみられるのは、高良玉垂命から武内宿禰への祭神名変更が行われた可能性を示唆する。もちろん筑前地方においては、三韓征伐の神功皇后を補佐した武内宿禰が共に祀られているのはあり得るところであるが、その神功皇后の業績には卑弥呼・壹與ひいては九州王朝の倭王の事績が取り込まれているということが『日本書紀』の史料批判によって浮かび上がってきた。
 古田武彦氏は神功皇后が祀られている福岡市の香椎宮あたりが本来、卑弥呼の廟なのではないかとの考えも持っていたようである。そうすると、それに付随する武内宿禰の伝承も後付けの感があり、倭の五王に前後する九州王朝による半島進出こそが本来の歴史的事実だったのではなかったか。
 

▲夜須大宮八幡宮・境内社の武内神社
 高知県において注目されるのは、香南市にある夜須大宮八幡宮・境内社の武内神社。碑文には「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)は、通常は長寿の神として祀られることが多いが、ここでは「武内宿祢王」と書かれ武内神社に祀られている。
 また、土佐市高岡町乙に鎮座する松尾八幡宮の境内社として武内(たけのうち)神社が高良玉垂命を祭神としていることは以前にも紹介した(”土佐市の松尾八幡宮摂社・武内神社に高良玉垂命”)。
『高知近代宗教史』(廣江清著、昭和53年)によると「廃仏の盛んな諸藩をみると、その事に当たった者が、国学者や水戸学派であったことが、一つの特徴である。土佐藩もその例にもれない」とあるように、約3分の2の寺院が廃寺に追い込まれるほど、高知県における神仏分離令の影響は大きかったようである。

▲松尾八幡宮境内社・武内神社

 福岡県の大善寺玉垂宮で玉垂命を武内宿禰としたいきさつはリアルであった。同様のことは、他県でも行われたようであり、明確な史料が残るケースは少ないが、武内宿禰命を祭神とする神社で違和感があれば、その過去(江戸時代以前)にさかのぼって祭祀形態を調べることで、本来は高良玉垂命あるいは高良明神などの本来の姿が見出せるかもしれない。

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 昔、当たり前体操ではなく、アブラハム体操という踊りが流行った。「アブラハムには7人の子、一人はノッポであとはチビ。みんな仲良く暮らしてる。さあ踊りましょう。右手……」といった歌詞で、同時に複数の動作を累積していくような内容だったように覚えている。
 アブラハム、イサク、ヤコブの3代はイスラエルの信仰の祖であり、ヤコブの子孫からイスラエルの12部族が増え広がっていった。「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と神様が祝福されたことが実現されていったのである。ところが、その後のイスラエル民族の歴史は不信仰の歴史でもある。預言者を通じて真の神に立ち返るよう摂理される(内的刷新)が、それがなされなかった場合には外敵により国が滅ぶ(外的粛清)こともしばしばであった。その亡国の民(ディアスポラ)はどこへ行ったのか。
 イスラエルの失われた10部族(ルベン族、シメオン族、ダン族、ナフタリ族、ガド族、アシェル族、イッサカル族、ゼブルン族、マナセ族、エフライム族)については、以前聞かされたことがあった。ダン族が韓国にやって来て檀君神話になったとか、ガド族が日本に来て帝(みかど)になったとか……。

 学問的にはどうかと思っていたが、近年、このことに正面から取り組んだ研究がある。『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』(田中英道著、2019年)という本が出されていることを知り、実際に読んでみた。古墳の分布と出土埴輪についての考察といった物証を背景とした内容にはうなずける部分も多かった。
 1956(昭和31)年、千葉県にある芝山古墳群から大陸系の出土品と共に、たくさんの埴輪が出土した。中でも有名なのは、顎髭を蓄えて帽子をかぶる一連の人物埴輪である。古代ユダヤ教徒の装いは、これらの埴輪に驚くほど似ているという。耳の前の髪を伸ばしてカールさせる「ペイオト」という独特の髪型、顎髭などである。
 また、関東地方からは埴輪の琴や埴輪弾琴像も出土している。日本でも古墳時代にはすでに琴が楽器として使用されていたようだ。琴といえばイスラエルの王ダビデのことが思い出される。
 「神から出る悪霊がサウルに臨む時、ダビデは琴をとり、手でそれをひくと、サウルは気が静まり、良くなって、悪霊は彼を離れた。」(サムエル記上16章23節)
 古代ユダヤでも琴が演奏されていることが伺える。
 ユダヤ民族が集団的に日本にやってきたのは、イスラエルがローマに滅ぼされた紀元後のことであろうか。田中英道氏は著書の中で「そうした人々の中に、ユダヤ人原始キリスト教徒のエルサレム教団がいて、大秦国(ローマ帝国)から来た秦氏と名乗ってい」たという。九州大学名誉教授・北村泰一氏も当時のシルクロードは緑豊かな、旅の素人でも移動しやすい環境だったと論じている(「タマラカン砂漠の幻の海――変わるシルクロード)。
 だとしても、極東と言われる日本に遠路はるばるやって来た、その動機はどこにあるのだろうか。『発見! ユダヤ人埴輪の謎を解く』では太陽信仰と述べられていたが、それだけでは不十分だと感じた。ヨハネ黙示録7章2~8節に次のような記述がある。
 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。 
ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、ルベンの部族のうち、一万二千人、ガドの部族のうち、一万二千人、
アセルの部族のうち、一万二千人、ナフタリ部族のうち、一万二千人、マナセの部族のうち、一万二千人、 
シメオンの部族のうち、一万二千人、レビの部族のうち、一万二千人、イサカルの部族のうち、一万二千人、 
ゼブルンの部族のうち、一万二千人、ヨセフの部族のうち、一万二千人、ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
 キリストの再臨は日出ずる方、すなわち東方の国であるというのが聖書の結論である。さらにヨハネ黙示録14 章では、次のように預言されている。
 なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。
 埼玉県行田市の稲荷山古墳からは、115の黄金文字の銘文が刻され、「辛亥年」(四七一年か)の干支を持つ鉄剣と、四絃の埴輪の琴が出土している。この鉄剣に「……今獲加多支(カタシロ)大王大王寺、在斯鬼宮時……」と刻まれた「大王」は、雄略天皇などではなく、栃木県下都賀郡藤岡町字磯城宮に所在する大前神社(延喜式以前の名称を磯城宮という)の地に君臨していたと考えられる(『関東に大王あり ー稲荷山鉄剣の密室ー』古田武彦、1979年)。
 関東地方は前方後円墳の数においても、近畿地方よりはるかに多い。古墳時代における先進地において、ユダヤ人埴輪と埴輪弾琴像が多数出土している事実をどう考えるべきか。祖国を追われたイスラエル民族が東を目指し、たどり着いた地で新しい国家作りの一端を担っていたとしたら……。彼らは日の出る方角に何を見たのだろうか。


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 香川県観音寺市といえば琴弾八幡宮・境内社として高良神社があることを以前紹介した(“香川県の高良神社③――観音寺市の琴弾八幡宮・境内社”)。その時点では触れなかったが、四国遍路八十八箇所の第六十八番札所・琴弾山神恵院はかつて琴弾八幡宮の神宮寺として創建された。江戸時代以前の神仏習合の時代に刊行された『金比羅参詣名所図絵巻之三』(1847年)に描かれた琴弾宮の絵および説明を見ると、現在とは違った姿を知ることができる。
琴弾八幡宮
本社 応神天皇 大宝三年豊前国宇佐より遷座
高良社 武内大臣 本社の右に並ぶ
住吉社 住吉三神 本社の左に列(つらな)る
若宮権現社 住吉の社の南に在り

 現在は参道の階段途中に、小さな境内社として祀られている高良神社(祭神:高良玉垂神)が、かつては山頂に大きく祀られていたことが分かる。いや、もしかしたら今の高良神社とは別なのかもしれない。山頂に現在祀られているのは住吉神社・若宮・武内神社(祭神:武内宿禰命)である。どうやら江戸時代まで高良社と呼ばれていたものが、明治以降に武内神社と名前を変えたことが推察される。

 筑後の一宮・高良大社(福岡県久留米市)の両部鳥居から連想されるように、高良神社は神仏習合の色合いが強い。明治維新直後の神仏分離令に対して、神社側も極力仏教色を排することを余儀なくされた。社名変更もその一貫である。高知県土佐市の松尾八幡宮に境内社として武内神社(祭神:高良玉垂命)が鎮座しているが、同じような理由から本来は高良社であったかもしれない。
 余談が長くなってしまったが、実は観音寺市にはもう一つの高良神社がある。『観音寺市誌 資料編』(観音寺市誌増補改訂版編集委員会、昭和六十年)によると、菅生神社の末社として原町野田の二社が次のように併記してある。
荒魂神社(大物主命)
高良神社(武内宿祢)
菅生神社の末社
野田が開拓されたのは、一五九二年(文禄元)で(郡史)、その当時氏神として奉斎されたものと思われる。
 地図上では野田自治会場の隣に荒魂神社と地神宮の名前が書かれているだけ。現地でも高良神社かどうかは判断できなかった。おそらく三豊市山本町辻の菅生神社(“香川県の高良神社②――山本町辻の菅生神社・境内社”)の末社として高良神社が合祀されているということだろう。距離的には1キロメートル以内の場所である。

 観音寺市には2基の古墳が知られている。一つは原町の青塚古墳で、帆立貝形の前方後円墳で、墳丘の長さは約43メートルで周濠をめぐらしている。もう一つは室本町(琴弾八幡宮の北)の丸山古墳で、径約35メートルの円墳である。前者は竪穴式石室、後者は横穴式石室を持ち、共に刳(く)り抜き式舟形石棺で、石材に阿蘇の凝灰岩を使用している。
 この2基の古墳と2つの高良神社のロケーションとが見事に一致する。これまでは倭の五王時代に対応する5世紀頃の横穴式石室古墳の分布に注目してきたが、竪穴式石室古墳となるとさらに古くなる。しかも石材が阿蘇の凝灰岩ということであるから、その産地である熊本県宇土市辺りとの交流があったことは、まず間違いない。5世紀の段階で讃岐地方に九州王朝が進出していたことの根拠となるのではないだろうか。銅矛などの分布を見ても、それは弥生時代からの歴史の継続性があると見てとれる。
 香川県にはまだ紹介できていない高良神社がいくつかあり、とりわけ県西部は高良神社の密集地帯であることがよく分かる。調べることはまだ多くあるが、高良神社の分布を追うことによって、九州王朝とのつながりが見えてくるようである。


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 数年前(2013年)、北海道から高知へ鶴が渡ってきて、かもめが鶴に変わったと囁かれた。何の話かというと、ドラッグストアの「かもめ薬局」が「ツルハドラッグ」にとって変わられたことを喩えたものである。
 ツルハホールディングスの経営者は鶴羽さん。『名字由来net』によると、「鶴羽」姓は現香川県である讃岐国寒川郡鶴羽庄が起源(ルーツ)とされる。近年、北海道、徳島県をはじめ九州や四国に多数みられる。
 また「津留」姓は現福岡県南部である筑後国山門郡津留村が起源(ルーツ)である。現宮崎県である日向、現大分県中南部である豊後にもみられる。近年、九州に多数みられる。関連姓は鶴。清和天皇の子孫で源姓を賜った氏(清和源氏)新田氏流、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)秀郷流窪田氏族などにみられる。
 ところで、全国には鶴に関する地名が数多くある。ツルという語については、柳田国男が何度か言及し、鶴・釣・津留などの字が当てられているが、ツルとは水流すなわち、水がたたえられているところを指すとも考えられている。
 このことに関連して、『戦国・織豊期の社会と文化』(下村效著、昭和57年)の中に「ツルイ考――古代・中世村落考察のための一作業――」という論文が収録されている。『広辞苑』などでは「ツルイ」とは「ふかい竪(たて)井戸。吊井(つりい)。釣川。坪川(つぼかわ)」と説明されているが、地名に見られる「ツルイ」が実際は何を指しているのか。下村氏は、『長宗我部地検帳』に出てくる「ツルイ」地名を須崎市で悉皆調査をしている。その結果をまとめたのが次の四型類型である。

 ▽第一型 谷のツルイ

 小渓の淀みに石などで足場を構え、上部を水汲み場、下部を洗い場とする、最も素朴な水場

 ▽第二型 山清水のツルイ

 崖の際に湧出する泉を石で囲った水場

 ▽第三型 泉井戸のツルイ

 崖から少し離れたところに石で囲んだ井筒がある。

 ▽第四型 派生型

  掛樋で簡便に導水し、水槽・水瓶の設えをする。

 つまり、①小渓流に近く ②ツルイの水位は低く、深い竪井戸(釣瓶井戸)ではない ③個々の屋敷外にあり共同井として利用ーーの3点が当時のツルイである。
 言われてみれば、さもありなんである。昔は水道などなく、深い竪井戸が普及するのは近世以降である。けれどもライフラインとして生活用水の確保は村落の形成のためには絶対不可欠であり、県下に広く「ツルイ」地名が分布していることが、そのことを示している。

■四万十町の採取地

 四万十町の字一覧から、「ツルイ」地名を抽出すると次の26カ所となる。
 ウスツル井(宮内)、ツルイガスソ(家地川)、ツルイガ谷(七里・柳瀬)、ツル井ノモト(七里・西影山)、鶴居ノ原(七里・小野川)、ツルイガ谷(七里・志和分)、鶴井谷・鶴井ノ平(上秋丸)、ツルイノクボ(市生原)、下ツルイ(上宮)、ツルイノ谷(弘瀬)、ツルイノ谷(大正北ノ川)、ツルイ谷(相去)、柳ノツルイ(江師)、ツルイノ本(大正中津川)、カミツルイ・クボツルイ(下道)、ツルイノ谷(津賀)、ツルイノ谷・ツルイノ奥(昭和)、ツルイ本(河内)、奥釣井・釣井ノ口(地吉)、シモツルイ(十和川口)、ツルイ畑(広瀬)、ツル井ノヒタ(井﨑)

■四万十町外の採取地

 上ツルイ(いの町池ノ内)、ツルイノ上(いの町大内)、ツルイ(宿毛市押ノ川)、鶴井・鶴井ヶ谷(宿毛市小筑紫町湊)、ツルイヤシキ(宿毛市橋上町橋上)、鶴井ヶ谷(宿毛市平田町戸内)、ツルイ・ツルイダバ・ツルイ山(宿毛市平田町黒川)
(『四万十町地名辞典』より引用)
 下村效氏は「地検帳で中世・近世の村落を分析しようとすれば、まず、その景観の復元作業が必須となるが、そのためにはこの”ツルイ”とは一体、どのようなものであるかを見極めなくてはならない」(『土佐史談194号』「長宗我部地検帳のツルイ」)とし、須崎市の「ツルイ」地名をくまなく踏査し、土地の人々から聞き取り調査を行った。その結果、戦国期の土佐の山間部、山麓部農村では、さきのツルイ三態を「ツルイ」と呼んでおり、それは通念のような深い竪井戸ではなかったという事実を確かめ得た。「ツルイは井の原初的形態」であり、天正期に確かめられたツルイという水場の形態とその呼称が、近い過去までそのまま残った地域と、近世の釣瓶井戸に接して、それが古くからのツルイと音義において相通ずるところがあった為に、ツルイの概念に転移と混乱が生じた地域があったことを指摘している。
 「風呂」「釘抜き」地名など、現代人がイメージするものと、古代・中世における意味が異なってしまった地名群がいくつかありそうだ。それらの地名を理解する上で、下村氏の研究は良い参考例となっている。地名研究においては、言葉の印象や通説だけに頼らず、地道な調査が必要なようである。


 

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 『古賀達也の洛中洛外日記』第2238話(2020/09/22)に「天智天皇を祀る神社の分布」として、次のリストが紹介された。

○県社 村山神社(愛媛県宇摩郡津根村)
○郷社 鉾八幡神社(香川県三豊郡財田村)
○郷社 恵蘇八幡宮(福岡県朝倉郡朝倉村)
○郷社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町)
○村社 山宮神社(鹿児島県曽於郡志布志町田之浦)
○村社 石座神社(滋賀県滋賀郡膳所町大字錦)
○村社 皇小津神社(滋賀県野洲郡河西村)
○村社 早鈴神社(鹿児島県姶良郡隼人町)
○無格社 葛城神社(鹿児島県日置郡西市来村)
○無格社 新宮神社(鹿児島県伊佐郡羽目村)※「伝天智天皇」と称する。
○無格社 山口神社(鹿児島県曽於郡末吉町南之郷)
○無格社 多羅神社(鹿児島県揖宿郡揖宿村)
 これらを県別に見ると、次の様な分布数になる。

□滋賀県  2社
□香川県  1社
□愛媛県  1社
□福岡県  1社
□鹿児島県 7社

 近江神宮を含めると滋賀県は3社。鹿児島県の7社は他にお任せするとして、四国で天智天皇を祀る神社3社について分かる範囲で紹介してみたい。

①愛媛県の村山神社

 合田洋一氏が『葬られた驚愕の古代史』等の著書で、伊予国に残る斉明天皇行宮伝承地の一つとして紹介したことから、古田史学派の間では有名になった神社である。現在は四国中央市。『愛媛県神社誌』の記述を抜粋する。
村山神社(旧県社)
宇摩郡土居町津根一八六五番地
〔主祭神〕天照皇大神
〔配神〕斎明天皇、天智天皇
〔由緒沿革〕天照大神御鎮座は年代未詳。斎明天皇御鎮座は社伝記に詳らかで、天智天皇御鎮座は白鳳八年三月という。木像七〇余体は斎明天皇近侍の生像と云われている。
 当社は天皇行幸の旧跡に鎮座といい、社前の堀の中に周囲一〇余丈の小高き丘あり、郷人これを宝の丘と呼ぶ。天皇の御陵所と云われている。又、天智天皇行幸には天神地祇斎庭の御遺跡あり。文徳実録、三代実録に神位受賜の記載がある。延喜式の名神祭に預り、大社二八五座の内村山神社伊予国とあり。宇摩郡宗廟の神一群の鎮守として国守河野の崇敬篤く、又、西条藩社となり、松平家の祈願所であった。

②香川県の鉾八幡宮

 かつて“香川県の高良神社⑤ーー財田町財田上の鉾八幡宮・境内末社”で紹介したことがある。八幡宮が天智天皇を祀っているというのは不思議だと思って、もう一度確認してみた。するとやはり、明治42、43年に近隣の神社を多数合祀している。 合祀されたのは「大物主命 天智天皇 菅原道眞 奧津彦神 奧津姫神 火産靈神 大己貴神 阿須波大神 稻倉魂神 天御中主神 大山祇神 五十猛命 素盞嗚命 市杵嶋姫命 宇賀大神 久久能知神 豐受比賣神 水分神 少彦名神 」とそうそうたるもの。推測した通り、神社合祀令によるもののようだ。


 政府の政策により、明治四二と四三年の二回、神社整理が行われた。これは全国的なもので、当時の内務大臣の指示によると、
「……格別の由緒なく小規模の神社で、神職も常置せず、氏子崇敬者が維持を困難とし、崇敬の実をあげることができない神社は合併して神社将来の発展を期すように……」
とされている。鉾八幡宮でも二八社が合祀されたが、大正四(一九一五)年から同七年にかけて約半数が氏子等の強い希望により旧社地に社殿を再建復興した。

③高知県の大森神社

大森神社(旧村社)
所在地 高知県吾川郡いの町中野川126番
祭神未詳(伝天智天皇)
勧請年月縁起沿革等未詳。
古来当地域の産土神で、もと大宝天皇と称した。道路がヘアピンカーブする間の大木の茂る林内に鎮座。

 “「大宝天皇」は政権交代の礎を築いた天智天皇をさしていた!”で紹介したように、天智天皇を祀る神社が高知県内に存在していることは早くから知っていた。しかし、古老の話によるものであり、現在は祭神未詳となっている。何かの差出しの時に祭神を伏せるようにとの配慮があったことが、ある史料に出ていたように記憶している。
 はじめはなぜこのような険しい山中に天智天皇を祀っているのかと不思議に思っていたが、村山神社との位置関係を見てもらえば、むしろ愛媛県との県境に近いからこそというもっともな理由が見えてくる。そこは長沢という地名もあり、もしかしたら無量寺『両足山安養院無量寺由来』「聖帝山十方寺由来之事」に記載されている「長沢天皇」との関連があるのではとの連想も浮かぶ。
 伊予国は合田氏が言うように斉明天皇の伝承が色濃く残る場所であり、天智天皇とも関連が深いわけである。鉾八幡宮にしても、大森神社にしても、伊予国を中心とする伝承の辺縁部という位置づけになる。

 さらに“長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①”で言及したように、愛媛県と徳島県との県境の町である大豊町に「斉明6年棟札」が存在していた。もっと言えば、高知市の朝倉神社周辺にも斉明天皇および天智天皇の伝承(『愛媛県神社誌』に天智天皇の土佐国朝倉行幸)は数多くあり、秦泉寺廃寺近くに天智天皇のミササギ伝承地も存在している。

 それらはあたかも天智天皇が近江朝を築く前に、四国に滞在していたことを指し示すかのようでもある。多元史観による考察が求められるところだ。


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 2008年10月19日、古田武彦氏は愛知教育大学で「日本思想史学批判 ―『万世一系』論と現代メディア―」と題する講演を行なっている。その中で、日本を代表するT大、K大、Q大の学生新聞がこぞって古田説を取り上げていることを語っている。3大学のうちでも、とりわけ「Q大が一番早かったかな」とも。
 「あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない。むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照させるのである」(マタイによる福音書5章15節)とあるが如く、一度灯された真理の光を覆いかくすことはできないという意味で語られたものと受け止める。
 学生新聞というメディアを通して学生及び大学関係者に古田説を広めることに貢献した一人が、“『「邪馬台国」はなかった』発刊50周年記念エッセイ①”で紹介したM氏であろう。古田史学に傾倒する歴女のQ大生から『「邪馬台国」はなかった』の存在を教えられたM氏は、初期3部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)をはじめ、手に入る古田武彦氏の著書を買い集めた。
 やがてM氏の「東アジア共同体の胎動 ー歴史的土台を探るー」という連載記事がいくつかの大学の学生新聞に掲載されるようになる。氏はICSAという団体で日本と韓国の学生交流に携わった経験から、両国間の歴史認識の違いを肌で感じていたようである。記事中における古代史の部分に関しては、大幅に古田説を取り入れた内容になっており、古田史学の影響を受けたことが読み取れる。

 手元にある1997年1月の『T大新報』(月3回発行)に、第30回目の連載記事があることから、T大学では1996年頃から連載が始まったと推察する。正確な資料はないが、母校のK大学や古田史学と出合ったQ大学では、さらに早い段階から学生新聞上での執筆活動をしていたようである。古田説を支持するQ大名誉教授と古田武彦氏の対談が実現するよりも少し前の頃ではなかっただろうか。
 大学は真理探究の府であり、学生新聞は大学界のオピニオンリーダーを自負していた当時である。古代史学会で古田説がいくら無視されたとしても、真理を求める者たちの目を覆うことは出来なかった。このようにして、真理を愛する人々の中に古田史学の種が蒔かれていったのである。




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 謎解きでおなじみの松丸亮吾さんではないが、はじめにクイズを一問。家庭教師のトライといえばアルプスの少女ハイジだが、土佐国最古の廃寺トライアングルといえば何?

 答えは、①旧土佐郡の秦泉寺廃寺(高知市中秦泉寺)、②旧吾川郡の大寺廃寺(高知市春野町西分)、そして③旧高岡郡の野田廃寺(土佐市高岡丙野田)である。中でも最古とされるのは秦泉寺廃寺であり、「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」をはじめとする出土物がそのことを裏付けている。
 秦泉寺廃寺の創建瓦の時期は、畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば飛鳥時代後半の七世紀後葉~末葉以降と考えられる。各次の調査で出土した軒平瓦の文様が重孤文のみとみられることと併せると、その時期を大きく下ることはないと思われる。そして大寺廃寺、野田廃寺の軒丸瓦は本類より後出するとみられることや平瓦においては秦泉寺廃寺、野田廃寺ともに凹面に模骨痕がみられるものが普遍的にあり、基本的に桶巻作りである可能性が高いことも、この年代観と齟齬はないといえる。(『遺跡が語る高知市の歩み 高知市史 考古編』高知市史編さん委員会考古部会、平成31年)
 「畿内の瓦の変化との時間差も考慮すれば」としていることから、一元史観の影響でやや遅めの年代比定となっている感がある。ONライン(700年)以前の創建ということは間違いなさそうであるから、多元史観の視点に立てば、実際はさらに七世紀前半にさかのぼる可能性さえ見えてくる。

 春野町・大寺廃寺と土佐市・野田廃寺跡出土の軒丸瓦の文様は同型であり、秦泉寺廃寺に後続する同系瓦と見られている。一元史観の影響からか、創建年代を奈良時代と比定する向きもあるが、軒丸瓦の形式のみから判断すると、やはり七世紀の創建と推定できる。また「土佐国分寺や比江廃寺との関連を積極的に示す瓦は見当たらない」とされていることからも、長岡郡の国府跡付近(南国市)に建てられた土佐国分寺とは時代や背景を大きく分かつ。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在し、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。
 これら3つの廃寺は通説では郡寺的な役割とされるが、そもそも土佐国はもとは4郡(安芸・土佐・吾川・幡多)しかなく、国府が置かれた長岡郡は後に分郡されたとの説もある。すなわち、元来(ONライン以前=九州王朝時代)は土佐国の中心は土佐郡だったのではないかとの見方もできる。
 野田廃寺も創建当時は吾川郡内であり、吾川郡から高岡郡が分郡されたのが9世紀であるから、同郡内に2つの古代寺院が存在したことになる。瓦の文様等に類似性が見られるのも当然かもしれない。
 大寺廃寺跡では発掘調査は行われていないが、『長宗我部地検帳』に「大寺寺中」とあることから、16世紀まではその存在が確認できる。一方、野田廃寺のほうは早くにその姿を消してしまったようで、所在地の「字白石」周辺には寺院跡らしき地名遺称が見当たらない。

 他方、秦泉寺廃寺については「秦泉寺」や「カネツキ堂」という地名遺称がその存在を現在に伝えている。それ以外にも県下には、比江廃寺やコゴロク廃寺といった古代寺院跡が確認されている。
 近年の研究によると、地方寺院は七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。土佐国にもその1%程度の古代寺院がかつて存在しており、多元史観によってその役割や位置付けの解明が求められているのかもしれない。

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 “非時香菓(ときじくのかくのこのみ)は本当に橘なのか①”と題して、田道間守(たじまもり)が常世国から持ち帰ったとされる「非時香果」が本当に今の橘(タチバナ)のことであるのかどうかを考察してきた。とかく人は結論を自説に結び付けたがる傾向があるもの。その論証が正しければ、周辺の事情までピタリと合うようになってくるものであるが、そうでない場合は、矛盾を解決するために次から次へと継ぎあてをしなくてはならない状況に陥る。屋上屋を重ねるようなものである。
 そこで独善を避けるために、今回は最近発刊された『探訪』第十四号(仁淀川歴史会、令和二年六月)の中から、「たちばなの源流を探る」と題する石元清士氏の論考を紹介しておきたい。
 実に21ページにわたる力作であるが、まとめの部分から要旨となる部分を引用し、解説を加えたい。
 私の疑問は、多くの国語辞書が「歴史上の橘(コミカン様のもの、以下Aと略称)と、現存する野生タチバナ(以下Bと略称)は全く別物亅と云う事から始まった。そうした記述の根拠は、牧野富太郎博士の見解にあり、その詳しい考え方も分かった。
 見解の要は、Bが「食うに耐えない劣悪な代物」と見る点にあるから、公的機関にBの糖度と酸度を測定してもらった。結果は三月頃には、味の点では生食に充分適した値になることが証明された。
 続いて、Bは「タジマモリ」以前から国内にあった事を文献で確かめ、「トキジクノカクノコノミ」は、食用として期待されたものではなく、不老不死を希求する、信仰上の仙果であったことを浮彫りにした。
 以上の点をふまえ乍ら、おもな歴史上の作品・記録の中の橘について、それはAかBかの判別を試みた。幸いなことにAとBは、「種子繁殖の可否」、「食品としての優劣」、「熟期の差」などに、明確な差異があり、それを尺度にすれば、その判別はさして困難ではなかった。
 その結果、私の見た限りでは、それらの橘はAであるという確かな証は見つからず、AとBは別物ではなく、歴史上の橘は野生タチバナそのものという、私なりの結論を得た次第である。
 従って、万葉人の愛した花橘は、松尾山のタチバナ群落の遠祖であり、栽培にまで広がる戸田(へだ・沼津市)の野生タチバナも、「菓子の長上」と讃えられた古代の橘と同一種であることが確かめられた。
 一番のポイントだけを簡潔にまとめると、論旨は次の①~③のようになる。
①国語辞典は歴史上の橘と現存する野生タチバナは別物と記している。
②その根拠は牧野富太郎博士の見解にあった。
③しかし著者は調査研究の末、歴史上の橘は野生タチバナそのものという結論を得た。

 辞典の類は研究の初めには必須なものであるが、新説を出す際にはむしろ通説を代弁する大きな壁となる。辞典の種類がいかに多くとも、そのほとんどは学界の権威者が発表した見解が踏襲され、一斉に右へ倣いをしていることが往々にしてある。この橘問題において、その権威となっていたのが、高知県が誇る世界的な植物学者・牧野富太郎博士だったとは少々意外でもあった。
 『牧野日本植物図鑑』(北陸館、昭和十五年)は、「野生タチバナは紀州みかん即ち小みかん様のものとし、現在西日本海岸地帯に稀に点在する野生『タチバナとは別のもの」との見解を示している。その根拠は「菓子の長上」と讃えられた古代の橘が「食うに耐えない劣悪な代物」であるはずがないとの牧野博士の独断にあった。
 そこで石元清士氏は、本当に野生タチバナは食用に耐えないものなのかどうか、自らタチバナの木を育ててその実を食してみたという。確かに12月下旬頃のタチバナの果実は通説に違わずすっぱかったのだが、面白いことに3月下旬頃には生食可能なおいしさになるという事実が証明された。このことは中央西農業振興センターに依頼して、糖度や酸度などについても測定調査済みだという。
 牧野博士は小学校中退という学歴のため苦労も多かったようだが、学界に縛られない独自の研究スタイルで一躍世界に通用する植物学者となっていった。常に貧苦に苦しめられながら、実家の酒造会社を潰してでも後世のために充実した植物図鑑を残そうとした精神は尊敬に値する。その博士がいつしか学界の権威として君臨していたとは……。
 石元氏はイザナギ・イザナミの神話の時代から「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」といった「橘」地名が存在し、『魏志倭人伝』に橘が登場することにも言及。さらに「種子繁殖の可否」の点からの考察など、多方面からのアプローチで③の結論を導いている。自らの経験に基づき、実に実証的で、示唆に富んだ論考であった。
 だが疑問は残る。「非時香果」が本当に今のタチバナであったとすれば、田道間守がわざわざ常世国(海外)から持ち帰る必要はないことになる。もう一歩踏み込んだ考察が求められているのかもしれない。



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『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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朱儒国民
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非公開
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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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