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 「もっと早く古田説に出逢えていたら……」
 古田史学に感動した人から聞いた素直な感想である。50年前に古田武彦氏は邪馬台国論争に明確な解答を示した。そこから日本の古代史は真実の歴史に急速に近づいていくかに思われた。
 ところが、現実はどうか。未だに邪馬台国論争は百家騒乱の状態が続き、専門家は正しい古代史像を示せずにいる。それどころか、学問的にも矛盾点を多く内包する邪馬台国近畿説などを主張してはばからない。

 『歴史研究685号』(2020年10月号)に、京都産業大学名誉教授・所功氏の「『ヤマト』という地名の発生と所在」と題する巻頭言が掲載されていた。その一部を引用する。
 ……誰しも思い付くのは『魏志』東夷伝・倭人条の記す「邪馬臺国」であろう。 この「邪馬臺」は三世紀当時でも「やまと」と訓める(橋本増吉氏の上代国語音韻表によれば、䑓はトの乙類)。それが北九州圏にあったか奈良近辺なのかは、今なお論争が続いている。ただ、私は田中卓博氏の説が最も納得しうるので、筑後川下流の旧山門郡あたりが有力と考えている。 田中説の特徴は、弥生中期から北九州(原ヤマト)にいた勢力が南九州へ移り、およそ一世紀初めころ今の宮崎から奈良まで「東征」して「磐余」(桜井・橿原)あたりに拠点を築かれたのが神武天皇であろう。それから十代目の崇神天皇が、三世紀半ころ「磯城の瑞籬宮」(纏向の宮殿)から四道各地の統合を進められたとみられる。……
 諸説あるだろうが、一元史観を代表するような説である。そもそも『魏志』東夷伝・倭人条(魏志倭人伝)の原文には「邪馬壹国」と書かれており、「邪馬臺国」でないことは古田武彦氏が指摘した通りである。三世紀当時でも「やまと」と訓めると主張するには、古田説に対する反証が必要となってくるはずだ。それも無しに、各自が銘々好き勝手なことを論じている。これが学問と言えるだろうか?
 アマチュアの歴史愛好家たちは興味を持って古代史の本を渉猟してきたことだろうが、読めば読むほど、核心から遠ざかるばかり。歳を重ねてから古田説に出逢った人は、なぜもっと早くに知ることができなかったのかと、無駄な時間を過ごしてきたことを残念がる。
 確かに、理系の学界においても新説がすぐに受け入れられないことは、ままある。私が習った大学のT・T先生もイギリスの気象学界で積乱雲の構造についての新説を発表した時に、猛烈な反対を受けたという。当時の常識や通説とは違っていたからである。受け入れられるまでに10年かかったと述懐しておられた。
 たとえ時間がかかったとしても、検証を重ね、整合性が認められれば、新たな通説となっていくのが学問の世界である。それに比して、日本の古代史学界はどうなっているのか。『「邪馬台国」はなかった』が世に出てから50年が経とうとしている。半世紀もの闇黒時代が続いたなどと、後世の歴史家たちが評価することのないよう願いたい。



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自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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