長引くコロナ禍にあって、県や地域を越えた研究協力がより一層必要と痛感させられるこの頃である。そのような中にあって、弊ブログ『もう一つの歴史教科書問題』をご覧になった読者から、メッセージや情報提供などをいただくことは何よりも有り難く、研究の糧にもつながっている。直接、返信できない方々も多いので、この場を借りて感謝の意を表したい。
九州と科野のつながりを研究されている上田市の吉村八洲男氏によると、長野県には高良神社(合祀や境内社など含む)が23社見つかっている。一方、現在分かっている範囲で、滋賀県には6社、大阪府にも5社といった分布を示しており、「九州王朝系近江朝説」や「前期難波宮九州王朝副都説」との相関関係があるかどうかは今後の研究課題である。
高良神社の密集地帯である長野県と滋賀県に挟まれた岐阜県ではどうなのだろうかと疑問を持ったのがきっかけであった。壬申の乱(672年)では伊勢国や美濃国など東国の支援を受けた大海人皇子(のちの天武天皇)が、大友皇子の軍を破って勝利し、政権の座に就くことになる。天武天皇をバックアップした勢力が九州王朝系なのか、それとも反九州王朝勢力なのか。高良神社の有無が一つの目安になるのではないかと考えたのだ。
当初、美濃国は高良神社の空白地帯(“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”)と思われていた。ところが犬塚幹夫氏のご指摘のように、不破郡垂井町表佐(おさ)に高良玉垂命としてではなく、「筑後玉垂命」を祀る勝神社(“岐阜県の高良神社②ーー不破郡垂井町の勝神社(前編)”)があったのだ。この地域の軍隊が先んじて不破の関を押さえたことが、壬申の乱の勝因にもつながっており、その勢力の背景は天武天皇政権のアイデンティティーにも関わる意味を持つ。
室伏志畔氏は著書『伊勢神宮の向こう側』(1997年)で、伊勢神宮の「二十年式年祭」のルーツを壬申の乱から20年後となる持統天皇の692年の伊勢行幸に求めている。信州の穂高神社にも同じ「二十年式年祭」があり興味深いところであるが、さらに注目すべきは伊勢神宮にまつられている天照大神が、岐阜県瑞穂市居倉(いくら)の伊久良河宮に4年間鎮座していたとの伝承である。
『日本書記』や『倭姫命(やまとひめのみこと)世紀』等に、次のように書かれている。「垂仁天皇の時、倭姫命に命ぜられ、伊賀、近江を経て、美濃の居倉に四年間留まられ、伊勢に遷宮された」――瑞穂市の伊久良河宮跡は、いわゆる「元伊勢(もといせ)」と呼ばれている。その瑞穂市は「倭王(松野連)系図」に記載されている十世紀頃の「宅成」という人物の傍注に「左小史」「子孫在美濃国」とあり、倭王の流れを汲む後孫らしき松野姓の濃密分布地となっている。
また、古田史学の会・東海の竹内強会長は『東海の古代』第120号(2010年8月)「伊勢湾・三河湾への海人族の伝播(5世紀後半から6世紀)」の中で、①横穴式石室の分布 ②済州島の海女の風習 ③製塩土器などについて考察し、「こうしたいくつかの実証的例はこの地域(伊勢湾岸・三河湾岸)が5世紀頃から北部九州・玄界灘・朝鮮半島南岸と直接深く関わっていたことを証明している」と論じている。
『伊勢物語』で知られる在原業平が880年美濃権守に任じられ、美濃国府(現・垂井町府中)に赴任した際に、2kmほど離れた垂井町表佐に館を建立したと言われている。業平が亡くなったあと、天皇の勅願により館跡に開創された業平寺(現在の在原山薬師寺)は、「筑後玉垂命」を祀る勝神社のすぐ南の地にあった。
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川
からくれないに 水くくるとは
在原業平朝臣
紀貫之は『古今和歌集ー仮名序』において「在原業平は、その心あまりて言葉たらず。しぼめる花の、色なくてにほひ残れるがごとし」と評した。蕨(わらび)灯籠の立ち並ぶ勝神社境内の紅葉は、5月だというのに唐紅(からくれない)に染まっていた。しぼめる花(九州王朝)の色なくてにほひ(痕跡)残れるがごとしと言うべきか。歴史の真実を伝えたい心情のみが先立って、正しく理解してもらうための論理や表現の不足を感じる。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。