大化の改新は虫殺しで なかなか いそがしい
645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏
大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。
大化改新
充実した国家体制を整えた唐が7世紀半ばに高句麗への侵攻を始めると、国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では、蘇我入鹿が厩戸王 (聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中太兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。そして皇極天皇の譲位を受けて、王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた。646(大化2)年正月には、「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策方針が示されたという。全国的な人民田地の調査、統一的税制の施行がめざされ、地方行政組織の「評」が各地に設置されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波宮が営まれた。王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大する中で、中央集化が進められた。こうした孝徳天皇時代の諸改革は、大化の改新といわれる。
『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。
21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。
第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。
国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。
方形板石硯が出土した遺跡
(1) 古津賀遺跡群(四万十市)
古津賀遺跡群は後川左岸に広がる沖積低地 丘陵部に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。弥生時代の集落跡、古墳時代後期の祭祀跡等が確認されている。また、古津賀古墳が築造されること、大規模な水辺の祭祀跡がみつかっていることなど当地域が古墳時代に政治的な拠点を形成していた。方形板石硯が確認された東ナルザキ地区は、丘陵尾根の先端部に位置し、弥生時代中期末〜後期初頭にかけての竪穴建物跡5棟が検出され、弥生土器(甕・高杯)、石鏃、砥石等が出土している。 方形 板石硯は、いずれも竪穴建物跡 (竪穴住居1) から出土している。 (『古津賀遺跡群』 2006年 四万十市教育委員会)(2) 祈年遺跡(南国市)祈年遺跡は南国市の長岡台地西端部に立地する縄文時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代後期~古墳時代初頭の集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構等が確認されている。 国分川を挟んだ北側には土佐国衙跡・国分寺等の古代における中枢地域に隣接する。弥生時代後期後半から古墳時代初頭の竪穴建物跡が34棟検出されている。方形板石硯は弥生時代後期末の竪穴建物跡(VII区ST10)から出土している。この遺構からは他に弥生土器(壺・甕・鉢・台付鉢・高杯)、土製支脚、線刻土器、土製円盤、磨石が出土している。(『祈年遺跡Ⅲ』2012年(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター)(3)伏原遺跡(香美市)伏原遺跡は香美市の長岡台地に立地する弥生時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代中期末〜古墳時代前期にかけての集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構が確認されている。 遺跡に近接して県内最大規模の方墳である伏原大塚古墳が築かれている。弥生時代中期末から古墳時代初頭にかけての竪穴建物跡が31検出されている。方形板石硯は弥生時代後期後半〜古墳時代初頭の土坑 (SK-13) から出土している。この遺構からは他に弥生土器 (甕・高杯)が出土している。(『伏原遺跡Ⅰ』2010年 文化財団文化財センター)
『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。
「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」
諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。
高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。
鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。
古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。
弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。
古田史学論集第25集
<目次>
ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―
―石井公成氏に問う―
◆「鴻朧寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について
ー盗まれた伊勢王の即位と常色の改革ー
ー伊勢王の評制施行と難波宮造営ー
―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
―称制と禅譲ー
ー薬師寺は九州王朝の寺ー
コラム②小野妹子と冠位十二階の謎
コラム③教科書から聖徳太子は消えるのか?
コラム④北部九州から出土したカットグラスと分銅
裏表紙のキャッチコピーは次のような内容になっている。
奴国とされた場所に邪馬壹国はあった
聖徳太子は二人実在した
倭国改革の立役者その名は伊勢王
なぜ薬師寺は二つあったのか?
古代史の争点を多元論で読み解く
よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。
壬申の乱(六七二)で左大臣蘇我赤兄が土佐国安芸に配流されたということが、伝説のままに昔からあまねく知られている。……(中略)……吉野に隠遁した大海人を警戒し蘇我赤兄、中臣金が兵備を整えていたのを中傷するものがあり、大海人はこれに激して大伴吹負や河内の国司などの応援を得て兵を挙げ、吉野を出て伊勢、美濃の兵を募り不破の一線で天皇の兵を撃破、天皇は瀬田に敗れて山崎で崩御、大海人が皇位を継いだ。これが天武天皇である。大海人に抵抗した中臣金は斬に処せられ、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢巨比は流刑になったが、この時赤兄が流されたのが土佐国だと伝えられたのである。蘇我赤兄の土佐流謫は国史に明記されたものでなく、あくまでも伝説であるが、この伝説の因となったものは安芸家系図(土佐国名家系譜所蔵)である。すなわち赤兄について「左大臣、天武天皇白鳳元年八月土佐国に配流さる。裔孫是より代々安芸に住み、安芸一円並びに夜須大忍庄を領す」とあるのがそれであって、そのことが後代にあまねく伝えられたものらしい。(P14~15)
だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。
蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。
屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。
蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
▲安芸城跡から安芸平野を臨む |
安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。
蘇我氏は崇仏派であり、古代寺院の存在と後に延喜式内社として記載されるような歴史の古い神社が安芸市にないことも理解できる。渡来人の技術集団による条里制水田の開発と屯倉の管理。『平家物語』にも「ここに土佐の国の住人安芸郡を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて、およそ30人が力頭たる大力の剛の者、われに劣らぬつわもの一人具したりける、弟の次郎も普通には勝れたるもののふなり」とあるように、安芸郡家の大領が蘇我氏を先祖とする有力豪族の流れを汲んでいたとすることは理にかなっている。
ところで、「倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)」と日本史の教科書にもあるように、蘇我氏は『日本書紀』では悪役として描かれている。
『日本書紀』は大和朝廷の正当性を主張する性格の歴史書でもあるので、大和朝廷と対峙・敵対する勢力について悪く描かれることが随所に見られる。倭とは当時九州を中心とした国家であり、多元史観の研究者からは蘇我氏は九州王朝の重臣であったとする指摘がなされている。これまでの考察から、安芸条里を開拓した九州王朝系の勢力こそが蘇我氏一族の流れを汲むものであった。
安芸川左岸の郡衙比定地の北には蘇我神社が鎮座する。付近の安芸市川北小字横田には「厩尻」という地名も残っていて、須恵器・土師器・勾玉・杭列などを多く発見する遺物包蔵地でもある。また、安芸川上流の畑山地区には「水波女命 、敏達天皇 、蘇我赤兄 、蘇我乙麻呂」を祭神とする水ロ神社も存在し、古くから雨乞いの神として信仰されている。
家系図や伝承のみを根拠とするのは危険であると言ったが、周囲の遺物・遺構の出土状況と歴史的経緯などを踏まえると、それらが荒唐無稽ではなかったことが判明してくる。いやむしろ、九州王朝系蘇我氏の安芸地方への進出は、蘇我赤兄よりも古かったのではないかとの印象さえ受ける。公式的な見解よりもかなり先走った内容を発表しているので、さらに今後の研究の積み重ねが必要となってきそうだ。
『土佐日記』の原文とともに縁の地名の写真や、関係する資料も掲載されており、さまざまな角度から読み解かれていて、『土佐日記』の新たな一面が楽しめる。
『南路志』『皆山集』に代表されるように、土佐の歴史家は伝統的に史料収集に徹して、私見を交えず、後世の歴史家にバトンを託してきた偉人たちが多い。その伝統に違わず、原田氏の取り組みは現代の武藤致和・松野尾章行に喩えられる業績であり、平尾賞受賞は妥当であり、むしろ遅すぎたくらいかもしれない。
718年の南海道の新官道開設は、高知では野根山街道しか研究されていない。徳島では鳴門の撫養(むや)港から「中みなと」「奥みなと」という南部海岸の水駅(港)の研究しかない。徳島南部の海路と高知東部の陸路をドッキングさせるのが、私の役目だろうか。……まだまだ道は遠い。全てをまとめ終わるまでに、果たして寿命が足りるだろうか。
原田氏の運営する東洋町の歴史のHP
▲本能寺の変(1582年6月2日) |
高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には、次のように書かれている。
このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。
『麒麟がくる』では、明智光秀が堺にいた徳川家康への手紙を、岡村隆史演じる菊丸に託す。光秀は「200年、300年も穏やかな世が続くまつりごとを行のうてみたいのじゃ」と麒麟がくる世の中を思い描きつつ、それが叶わぬ時には家康殿に託したい旨を伝える。
1603年、ヒーローおっさん徳川家康結果的には、265年続く江戸時代をもって“麒麟が来た”平和な世の中と視聴者に連想させた最終回であった。謀反人の娘であった春日の局のみならず、長宗我部元親の客人であった蜷川道標(旧室町幕府政所代)をも、家康は召し抱えている。明智光秀の志は家康へと引き継がれていったと見るべきだろうか。
1867年、一夜むなしき江戸幕府
元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」
確かに、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」は有名になった。それを『東日流外三郡誌』がまねて書いたとすれば、後世の偽書と見なされても仕方がない。
しかし、これを否定する根拠は十分にある。
①『学問のすすめ』では「〜と云へり」と引用表記をしていること。
②福沢諭吉は平等思想の持ち主ではないこと。
③『東日流外三郡誌』の寛政原本が発見されたこと。
②については、大学の部落解放教育という授業の中で「賀川豊彦と福沢諭吉は差別論者であった」との説を聞かされたことがある。賀川豊彦を差別論者と批判する時点で、「木を見て森を見ず」ーー揚げ足取りも甚だしいところだが、教職免許取得には必要な科目だったので、受講せざるを得なかった。
ただ、福沢諭吉のエピソードとして自分の母親が貧しい人々に良くしてあげていたことに対して、あまり快く思っていなかったという話は、「脱亜入欧」を主張した諭吉本来の思想に合致しているように感じて、妙に納得するものがあった。その福沢がなぜ突然「天は人の上に人を造らず〜」と語り出したのか。
『学問のすすめ』が300万部を超えるベストセラーになったのも、実は『東日流外三郡誌』の底流に貫かれた万民平等の思想を背景としていたからこそだったわけだ。
そして『東日流外三郡誌』寛政原本の発見によって一連の事実は立証されたと言えるだろう。「天は人の上に人を造らず〜」の思想は福沢諭吉の『学問のすすめ』に先行して、『東日流外三郡誌』の底流に流れており、随所に書き綴られていたのである。
『東日流外三郡誌』の思想は江戸時代以前においては表に出すことのはばかられるものだった。福沢諭吉はその崇高な精神を世に知らしめるために筆をとった。それが『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」だったわけである。彼こそ『東日流外三郡誌』の精神に魅了され感化を受けた一人だったのかも知れない。
開口一番、「社会の教科書ですか?」と聞かれた。どうして分かったのだろう。「そう、歴史の教科書です」と答えておいた。他教科については記述がどうのこうのといった問題点を指摘されることはほとんどないのだろう。いつも話題になるのは歴史教科書である。
当ブログのタイトルにもなっている『もう一つの歴史教科書問題』について言及しておかなければなるまい。従来の歴史教科書問題と言えば、「自虐史観」か「自由主義史観」かといった論点であった。これに対して『もう一つの歴史教科書問題』と銘打ったのは、「一元史観」か「多元史観」かという視点を導入したかったからである。
中学校『社会(歴史的分野)』の教科書については、7つの出版社の見本が並べられていた。東京書籍 ・教育出版 ・帝国書院 ・山川出版 ・日本文教出版 ・育鵬社 ・学び舎である。
あまり期待してはいなかったが、やはり全ての教科書で「邪馬台国」という表記。『魏志倭人伝』の原文通りなら「邪馬壹国」でなければならない。原文改定がまかり通っているのだ。
そして、もう一点「聖徳太子」がどうなっているかが気になっていた。一時期、「聖徳太子が教科書から消える」と騒がれていたからだ。ところが、どうしたことか6つの教科書までがそろって「聖徳太子(厩戸皇子)」という表記であった。そんな中で唯一、異なる表現をしていたのが学び舎の教科書『ともに学ぶ人間の歴史』である。「厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)」との書き方は最先端の歴史研究の成果を取り入れた好感が持てるものであった。
はじめに
第一章 多利思北孤は倭の天子
一 歴史を学ぶ大切さ
二 小説は歴史の本ではない
三 歴史の区分
四 中国の史書の大切さ
五 中国の史書は古くから、日本の史書は八世紀から
六 西暦701年まで日本の中心王朝は九州にあった倭国
七 九州王朝の倭国は西暦663年に白村江で唐に完敗
八 白村江の戦いで完敗した倭国のその後
九 倭国の天子・多利思北孤と近畿天皇家
十 現在学校で教えない九州王朝・倭国
十一 学ぶ姿勢の真髄第二章 聖徳太子と多利思北孤
一 聖徳太子に関する通説
1 聖徳太子と日本人
2 聖徳太子の出自
3 聖徳太子と蘇我・物部の戦い
4 摂政・聖徳太子の斑鳩宮での政治
5 聖徳太子没後の政治
6 聖徳太子一家の滅亡
7 聖徳太子に関する現在の教科書二 多利思北孤1 『隋書・【タイ】国伝』
2 『隋書・【タイ】国伝』はいつ、誰が作ったか
3 『日本書紀』と『隋書・【タイ】国伝』の関係
三 聖徳太子をめぐる謎について
1 聖徳太子の没年日の謎
2 法隆寺再建をめぐる謎
3 憲法十七条制定の謎
4 冠位十二階制定の謎
5 天寿国曼荼羅繡帳銘の謎
6 法起寺塔婆露盤銘の謎
7 『上宮聖徳法王帝説』の謎
8 聖徳太子が小野妹子を遣隋使としたか、の謎
9 「聖徳太子をめぐる謎」に共通する根因は何か
四 阿毎・多利思北孤は聖徳太子ではない第三章 金印・卑弥呼・倭の五王
一 金印
二 卑弥呼(ヒミコでなくヒミカと呼ぶ)
1 『魏志・倭人伝』
2 「邪馬壹国」は北部九州の博多湾岸
イ、『三国志』の位置づけロ、『三国志』は「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」
ハ、部分の総和が「邪馬壹国」までの距離(里)
ニ、「邪馬壹国」は「博多湾岸」
ホ、『三国志』の距離(里単位)は「短里」
ヘ、卑弥呼の時代の倭国は「二倍年暦」
ト、謎の世紀が始まる三 倭の五王
1 『宋書』の「倭の五王」記事
2 『古事記』の雄略天皇の項の概略
3 倭の五王は天皇たちではない
4 倭王武を雄略天皇とした場合の矛盾等
イ、在位期間の矛盾
ロ、名前比定の矛盾
ハ、系譜と在位の矛盾
ニ、倭の五王は緊迫治世、仁徳〜雄略はのんびり治世
5 埼玉稲荷山古墳鉄剣と熊本江田船山古墳鉄刀
6 「七支刀の銘文」と「高句麗の好太王碑文」第四章 継体と磐井
一 継体の出自と即位
二 継体と磐井の戦い
三 『日本書紀』が記す継体天皇崩御年と磐井の関係
四 磐井は日本の天皇
五 継体と磐井の没後
六 磐井の乱はなかった?第五章 乙巳の変・白村江の戦い・壬申大乱
一 乙巳の変
1 乙巳とは
2 「乙巳の変」のいきさつ
3 「大化という年号」の謎
4 天皇家年号に先立つ「九州年号」の存在
二 白村江の戦い
1 「白村江の戦い」に敗れ、衰亡した九州王朝
2 九州王朝と神籠石山城群
3 柿本人麻呂と九州王朝
三 壬申大乱
1 「壬申大乱」は天武の吉野入りが始まりか?
2 九州佐賀の吉野
3 「壬申大乱」後の天武朝
4 唐の則天武后と持統天皇
イ、則天武后
ロ、持統天皇
i)持統の出自と意義
ⅱ)父・天智の「日本国」の創設
ⅲ)夫・天武の「日本国」の再構築
ⅳ)持統天皇自身が成し遂げた統一「日本国」の成立
v)「倭国」を「日本国」に統合させたのは唐の意向第六章 「倭国」から「日本国」へ
一 「倭国」の山
1 三笠山
2 天の香具山
3 雷山
二 「倭国」の人
三 唐と近畿天皇家
四 九州王朝「倭国」はなぜ滅んだか
五 新生「日本国」のその後おわりに
この本を、お薦めいただいたご両親様方へ
『学問論「日出ずる処の天子」−憲法論−』…古田武彦附録
年表
系図
古田武彦主要著作
『日本書紀』αβリスト
[β] 巻01/神代上[β] 巻02/神代下
[α] 巻19/欽明天皇(539-571年)
例えば、『肥さんの夢ブログ』で紹介された「蝦夷」検索結果にαβを付けてみたら、次のような感じになる。α群・β群で大きく違いが出るのか、あるいはほとんど影響が見られないのか。
「蝦夷」検索結果
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。