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 古代における最大の事件といえば、やはり「大化の改新」(645年)であろうか。小・中学生でもだいたい覚えている重要事項の一つである。覚え方はいろいろあるが、次のようなものはいかがだろうか。4項目を一文に盛り込んでみた。

  大化の改新は虫殺しで なかなか そがし
  645年 中大兄皇子 中臣鎌足 蘇我氏

 大化の改新についての理解は以前とは随分変わってきている。現在の高校の歴史教科書『詳説 日本史』には、次のように記されている。

 大化改新

 充実した国家体制を整えた唐が7世紀半ばに高句麗への侵攻を始めると、国際的緊張の中で周辺諸国は中央集権の確立と国内統一の必要にせまられた。倭では、蘇我入鹿が厩戸王 (聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中太兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)。そして皇極天皇の譲位を受けて、王族の軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子を皇太子、また阿倍内麻呂・蘇我倉山田石川麻呂を左・右大臣、中臣鎌足を内臣、旻と高向玄理を国博士とする新政権が成立し、大王宮を飛鳥から難波に移して政治改革を進めた。
 646(大化2)年正月には、「改新の詔」が出され、豪族の田荘・部曲を廃止して公地公民制への移行をめざす政策方針が示されたという。全国的な人民田地の調査、統一的税制の施行がめざされ、地方行政組織の「評」が各地に設置されるとともに、中央の官制も整備されて大規模な難波宮が営まれた。王権や中大兄皇子の権力が急速に拡大する中で、中央集化が進められた。こうした孝徳天皇時代の諸改革は、大化の改新といわれる。
 問題は「改新の詔」其の二に登場する「郡」制度が7世紀末でもまだなく、「評」だったことが木簡で明らかになったことだ。坂本太郎と井上光貞との間で行われた、いわゆる「郡評論争」である。それゆえ「大化の改新」、特に「改新の詔」は虚構という説が一時期有力となっていた。
 教科書でも「『日本書紀』が伝える詔の文章にはのちの大宝令などによる潤色が多くみられ、この段階で具体的にどのような改革がめざされたかについては慎重な検討が求められる」としながらも、「藤原宮木簡などの7世紀代の木簡や金石文に各地の「評」の記載がみられる。また、地方豪族たちの申請により「評」(郡)を設けた経緯が、『常陸国風土記』などに記されている」との注記をしている。
 『日本書紀』に従えば「改新の詔」は646年(大化二年)とされるが、九州王朝説の立場から藤原宮で696年(九州年号の大化二年)に出されたとする説もある。「大化の改新」の成立時点について、古田武彦氏は701年(大宝元年)としている。これは「郡制」への移行についてみた場合の視点なのだろう。
 21世紀になると、改新の詔を批判的に捉えながらも、7世紀半ば(大化・白雉期)の政治的な変革を認める「新肯定論」が主流となっている。これは難波宮における「天下立評」という評制開始などの画期を認める立場である。事実として、7世紀後半には評が存在していた。それなのに『日本書紀』の編者はなぜ、「評」を「郡」と書き換えたのだろうか。おそらく「評制」を施行したのが大和朝廷でなかったためだろう。いつ、誰が「評制」を施行したか、多元的視点も交えて考える必要がありそうだ。

 


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 南国市篠原の埋蔵文化財センターで、弥生時代の硯(方形板石硯)6点が期間限定で公開された。「百聞は一見に如かず」――本当に硯として使われたのか、直接見てみることにした。

 第一印象はとても小さいということ。現代人が書道で使っている海(墨汁を溜める部分)付きの重量感あふれる硯のイメージとは似ても似つかない。こんな物で墨を摺って文字を書くのに役立つのだろうか。ちょっと使いづらいのではないかと思われた。中には厚さ3mmという超薄型の物もあるのだ。
 従来は刃物を研ぐ砥石(といし)と考えられてきた出土物(石の破片)が、弥生時代の硯と再評価される事例が九州北部を中心に相次いでいる。砥石でなく硯と判断した根拠はどこにあるのだろうか。福岡県朝倉市にある弥生時代の遺跡 「下原遺跡」 で見つかった石の破片に関しては、次の3つの理由が示されている。
 ①漢時代の硯と似た形――中国の漢の時代に使われていた古代の硯は現代の硯と違い、墨を入れるくぼみがなく板状になっている。下原遺跡で見つかった石の破片も平らで細長く、漢の時代の硯と形がよく似ている。
 ②黒い付着物――石の側面に黒い付着物が付いていた。これを表面から垂れた墨と見なした。
 ③表面のくぼみ―― 刃物を研いだ場合、石の表面の全体が緩やかなカー ブを描いてすり減っていく。しかし石の表面は、中央あたりだけにくぼみがあることが分かった。

 国学院大学の柳田康雄客員教授らはこれまでにも、九州北部を中心に、弥生時代から古墳時代にかけての砥石と見られていた石を再調査。その結果、130点に上る硯を発見している。高知県の場合についても、それらの事例を参考に、柳田さんが同様の鑑定を行ったようである。その結果、次の3遺跡の出土物の中から方形板石硯が見つかった。

 方形板石硯が出土した遺跡

 (1) 古津賀遺跡群(四万十市)
 古津賀遺跡群は後川左岸に広がる沖積低地 丘陵部に立地する弥生時代から中世にかけての複合遺跡である。弥生時代の集落跡、古墳時代後期の祭祀跡等が確認されている。また、古津賀古墳が築造されること、大規模な水辺の祭祀跡がみつかっていることなど当地域が古墳時代に政治的な拠点を形成していた。
 方形板石硯が確認された東ナルザキ地区は、丘陵尾根の先端部に位置し、弥生時代中期末〜後期初頭にかけての竪穴建物跡5棟が検出され、弥生土器(甕・高杯)、石鏃、砥石等が出土している。 方形 板石硯は、いずれも竪穴建物跡 (竪穴住居1) から出土している。 (『古津賀遺跡群』 2006年 四万十市教育委員会)
 (2) 祈年遺跡(南国市)
 祈年遺跡は南国市の長岡台地西端部に立地する縄文時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代後期~古墳時代初頭の集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構等が確認されている。 国分川を挟んだ北側には土佐国衙跡・国分寺等の古代における中枢地域に隣接する。
 弥生時代後期後半から古墳時代初頭の竪穴建物跡が34棟検出されている。方形板石硯は弥生時代後期末の竪穴建物跡(VII区ST10)から出土している。この遺構からは他に弥生土器(壺・甕・鉢・台付鉢・高杯)、土製支脚、線刻土器、土製円盤、磨石が出土している。(『祈年遺跡Ⅲ』2012年(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター)
 (3)伏原遺跡(香美市)
 伏原遺跡は香美市の長岡台地に立地する弥生時代から近世にかけての複合遺跡である。弥生時代中期末〜古墳時代前期にかけての集落、古墳時代後期の集落、古代の官衙関連遺構が確認されている。 遺跡に近接して県内最大規模の方墳である伏原大塚古墳が築かれている。
 弥生時代中期末から古墳時代初頭にかけての竪穴建物跡が31検出されている。方形板石硯は弥生時代後期後半〜古墳時代初頭の土坑 (SK-13) から出土している。この遺構からは他に弥生土器 (甕・高杯)が出土している。(『伏原遺跡Ⅰ』2010年 文化財団文化財センター)
 高知県内で弥生時代の方形板石硯が確認されたのは今回が初めてだ。とりわけ古津賀遺跡群(四万十市)出土の方形板石が最古と見られ、最多の4点が見つかったことから、「弥生時代の後期の初め頃(紀元前後)高知県の一部の地域で文字を理解していた人がいた可能性」について公式発表した。また、祈年遺跡と伏原遺跡から各一点見つかっており、「弥生時代後期末(3世紀後半)には高知県の中央部の2ヵ所の遺跡で方形板石が確認され、後期の初め頃よりも文字が浸透していた可能性」についても言及している。
 『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」について、古田説では足摺岬付近としている。縄文時代においては、足摺岬の台地上にある唐人駄馬遺跡を中心に石鏃(せきぞく)等の遺物が数多く出土していることから、その妥当性は高いであろう。けれども、弥生時代の遺跡の分布は四万十川流域に集中していることから、その時代における中心は四万十川流域に移っていると考えられる。
 『魏志倭人伝』に国名が登場するということは、北部九州に比定される邪馬壹国の中枢部と文化的交流があった可能性は高い。文字使用の形跡はその状況証拠の一つになるものだ。その意味でも弥生時代の硯、とりわけ古津賀遺跡群出土の厚さ3mmという方形板石硯は福岡県糸島市の御床松原遺跡以外では見つかっていない薄型で規格性の高いものである。
 「日本列島で文字が使われたのはいつからか?」
 諸説あるが5世紀頃には確実に使われていただろうと考えられてきた。しかし、5世紀よりも前の弥生時代や古墳時代の遺跡から出土した「石の破片」が歴史教科書の記述に変化をもたらすことになりそうだ。最新の研究成果や知見に基づいて報告済みの資料を見直すことで、新たな価値の発見につながる。いわゆる「弥生時代の硯」の登場によって、文字使用の時期が大きくさかのぼるかもしれない。それだけでなく、高知県の古代史についても稲作開始だけでなく、文字使用においても北部九州に次いで早い時期に始まった可能性をも検証していく必要がありそうだ。
 今回発見された弥生時代の硯(方形板石硯)は現在、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示中である。


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 「高知の弥生時代、文字使用? 県内3遺跡で『すずり』」
 1年以上待ち続けていたニュースが飛び込んできた。福岡県に始まり、山陰・近畿など全国的に弥生時代の硯(すずり)が数多く見つかってきている。その大半は「砥石(といし)」を再鑑定して、実際は硯と判明したものだ。

 高知県内でも2000~2008年に3つの遺跡で出土していた板状の石6点が、弥生時代に墨をすりつぶすために使った硯と推測されることが確認された。とりわけ注目されるのは四万十市の古津賀遺跡群における紀元前後の竪穴住居跡から出土した遺物4点。このうち厚さ3mmと極端に薄い1点は、弥生時代の石器工房・国際貿易港と考えられている御床松原遺跡(福岡県糸島市)の出土品と類似しているという。一方、伏原遺跡(香美市)と祈年遺跡(南国市)の各1点は、3世紀後半の遺構から出土していたもの。
 鑑定にあたった国学院大学の柳田康雄客員教授は「御床松原遺跡以外で、5ミリ以下の板石が見つかったのも初めて。今回の硯が発見されたことで、一定の文字文化を前提とした交流が(北部九州と)あった」と話している。

 古田武彦氏によれば、足摺岬付近の四万十市一帯は『魏志倭人伝』に登場する「侏儒国」に比定される場所である。紀元前後という古い段階から九州北部とのつながりを示す超薄型「方形板石硯」の発見は、今さらながらに古田説の先見性を物語っている。それよりやや遅れて、県中央部の伏原遺跡と祈年遺跡の硯のほうは3世紀後半の遺構から出土しているとのこと。この事実は高知県西部の波多国造(崇神天皇の治世)が、都佐国造(成務天皇の治世)よりも先に置かれたとする『国造本紀』の記述ともよく一致している。
 高知県立埋蔵文化財センターと南国市教育委員会が、調査結果を発表したのは4月26日。その2日前、「発掘速報展 西野々遺跡」初日(24日)のギャラリートークの時点では、本物の砥石についての展示と解説はあったものの、硯の発見については、まだ極秘にされていたということか。
 弥生時代の始まりについて、従来の歴史教科書では2300年前、あるいは紀元前4世紀などと記述していた。ところが最近の研究で、稲作開始の時期がもっと早まることが分かってきた。それに合わせて埋蔵文化財センターの年表も弥生時代の始まりを2800年前、すなわち500年さかのぼらせている。
 今後は文字の伝来や文字使用についても、これまでの教科書の記述を大きく改める必要性が出てきそうだ。そもそも建武中元二年(57年)に後漢の光武帝から賜った金印の印文漢委奴國王」が読めていなかったとしたらナンセンスである。
 今回確認された硯は、南国市篠原の埋蔵文化財センターで4月28日~5月8日(土曜休館)、四万十市中村の市郷土博物館で5月10日~29日(水曜休館)に特別展示される。本当の意味での「速報展」になりそうだ。



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 毎年3月下旬に刊行される「古代に真実を求めて」シリーズの最新刊・古田史学論集第25集『古代史の争点』がついにお目見えした。期待していたイメージとはやや異なっていたが、その内容を簡単に紹介しておこう。追って『新・古代史の扉』や明石書店のホームページ等でも取り上げられることだろう。
古代に真実を求めて
古田史学論集第25集
『古代史の争点 ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―』

<目次>
【特集】
古代史の争点
ー「邪馬台国」、倭の五王、聖徳太子、 大化の改新、藤原京と王朝交代―
◆「邪馬台国」大和説の終焉を告げる
 ー関川尚功著『考古学から見た邪馬台国大和説』 の気概ー
◆「邪馬台国」が行方不明になった理由
◆伸弥呼・壹與から倭の五王へ
◆二人の聖徳太子「多利思北孤と利歌彌多弗利」
◆聖徳太子と仏教
 ―石井公成氏に問う―
◆「鴻朧寺掌客・裴世清=隋・煬帝の遣使」説の妥当性について
 ―『日本書紀』に於ける所謂「推古朝の遣隋使」の史料批判ー
◆九州王朝と大化の改新
 ー盗まれた伊勢王の即位と常色の改革ー
◆九州王朝の全盛期
 ー伊勢王の評制施行と難波宮造営ー
◆王朝統合と交代の新・古代史
 ―文武・元明「即位の宣命」の史料批判―
◆王朝交代の真実
 ―称制と禅譲ー
◆中宮天皇
 ー薬師寺は九州王朝の寺ー
コラム①『鬼滅の刃』ブームと竈門神社
コラム②小野妹子と冠位十二階の謎
コラム③教科書から聖徳太子は消えるのか?
コラム④北部九州から出土したカットグラスと分銅



 裏表紙のキャッチコピーは次のような内容になっている。
奴国とされた場所に邪馬壹国はあった
聖徳太子は二人実在した
倭国改革の立役者その名は伊勢王
なぜ薬師寺は二つあったのか?
古代史の争点を多元論で読み解く
 あえて各論考のタイトルのみを記すにとどめておいたが、今回の第25集『古代史の争点』は「古田史学の会・関西」の四天王による共著という色合いが強い。古田史学の中心テーマに絞ったため、バラエティー感には欠けるが、「邪馬台国大和説」の矛盾点を明確に指摘し、「多元史観・九州王朝説」という歴史観を明示し、学術的にはレベルの高いものになっている。

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 よく飽きもせず、また安芸市の話題である。高知県安芸市と蘇我氏と何の関わりあらんやと思われるかもしれないが、『安芸市史 概説編』(安芸市史編纂委員会、昭和51年)に、次のように書かれている。

 壬申の乱(六七二)で左大臣蘇我赤兄が土佐国安芸に配流されたということが、伝説のままに昔からあまねく知られている。……(中略)……吉野に隠遁した大海人を警戒し蘇我赤兄、中臣金が兵備を整えていたのを中傷するものがあり、大海人はこれに激して大伴吹負や河内の国司などの応援を得て兵を挙げ、吉野を出て伊勢、美濃の兵を募り不破の一線で天皇の兵を撃破、天皇は瀬田に敗れて山崎で崩御、大海人が皇位を継いだ。これが天武天皇である。大海人に抵抗した中臣金は斬に処せられ、蘇我赤兄、蘇我果安、巨勢巨比は流刑になったが、この時赤兄が流されたのが土佐国だと伝えられたのである。
 蘇我赤兄の土佐流謫は国史に明記されたものでなく、あくまでも伝説であるが、この伝説の因となったものは安芸家系図(土佐国名家系譜所蔵)である。すなわち赤兄について「左大臣、天武天皇白鳳元年八月土佐国に配流さる。裔孫是より代々安芸に住み、安芸一円並びに夜須大忍庄を領す」とあるのがそれであって、そのことが後代にあまねく伝えられたものらしい。(P14~15)
 ここに登場する安芸家とは、戦国時代に長宗我部元親と覇権を争って敗れた安芸国虎の家系(“ 橘系安芸氏と蘇我氏との関係”参照)である。居城とした安芸城は、今注目されている瓜尻遺跡の東方にある。蘇我氏を先祖とする安芸氏に関する伝承があることは知っていたが、これまであえて触れることはしなかった。家系図や伝承といった類は史料としては信頼度が低く、それを論証の中心に据えることは危険なのである。

 だが、これまで見てきたように、瓜尻遺跡をはじめとする発掘データと安芸条里の存在や地名遺称、周辺寺社の由緒、先人による郡家比定の論文などを検討していくと、一つのイメージが浮き彫りになってくる。蘇我氏を先祖とする安芸氏の伝承が歴史的事実を反映したものであるということだ。蘇我馬子の孫である蘇我赤兄個人につながるかどうかまでは特定できないものの、蘇我氏系の勢力が安芸地方に入ってきていたとすれば、これまで疑問とされていたことがよく説明できるのである。
 蘇我氏について、高校の日本史教科書『詳説日本史 改訂版』(山川出版社、2017年)には「6世紀中頃には、物部氏と蘇我氏とが対立するようになった。蘇我氏は渡来人と結んで朝廷の財政権を握り、政治機構の整備や仏教の受容を積極的に進めた」と記述されている。また「斎蔵(いみくら)・内蔵(うちつくら)・大蔵(おおくら)の三蔵(みつのくら)を管理し、屯倉の経営にも関与したと伝えられる」との注釈もある。
 屯倉(みやけ)とは朝廷の直轄地であり、朝廷の重臣・蘇我氏は西日本から中部地方にかけての屯倉の経営に関わっていたことが、『日本書紀』の記述からもうかがえる。倉本一宏氏は『蘇我氏—古代豪族の興亡』(2015年)の中で、次のように説明している。
 蘇我氏は「文字」を読み書きする技術、鉄の生産技術、大規模灌漑水路工事の技術、乾田、須恵器、綿、馬の飼育の技術など大陸の新しい文化と技術を伝えた渡来人の集団を支配下に置いて組織し、倭王権の実務を管掌することによって政治を主導することになった。
▲安芸城跡から安芸平野を臨む

 安芸川右岸の安芸平野には広大な条里制水田が出現し、条里の中央付近に「ミヤケダ」という地名遺称がある。『和名類聚抄』に見える丹生郷・布師郷・玉造郷・黒鳥郷などが現在の安芸市に比定され、人口が集中していたと考えられる。安芸条里の北辺には水路や護岸施設とともに、最大級の古代井戸の存在が瓜尻遺跡(7世紀)の発掘によって明らかになった。また、近くには古代寺院があったことも推定されており、出土した素弁蓮華文軒丸瓦が、やはり7世紀ごろの創建を示している。西隣りの地名は「井ノ口」であり7世紀後期の一ノ宮古墳が存在する。

 蘇我氏は崇仏派であり、古代寺院の存在と後に延喜式内社として記載されるような歴史の古い神社が安芸市にないことも理解できる。渡来人の技術集団による条里制水田の開発と屯倉の管理。『平家物語』にも「ここに土佐の国の住人安芸郡を知行しける安芸大領実康が子に安芸太郎実光とて、およそ30人が力頭たる大力の剛の者、われに劣らぬつわもの一人具したりける、弟の次郎も普通には勝れたるもののふなり」とあるように、安芸郡家の大領が蘇我氏を先祖とする有力豪族の流れを汲んでいたとすることは理にかなっている。
 ところで、「倭では、蘇我入鹿が厩戸王(聖徳太子)の子の山背大兄王を滅ぼして権力集中をはかったが、中大兄皇子は、蘇我倉山田石川麻呂や中臣鎌足の協力を得て、王族中心の中央集権をめざし、645(大化元)年に蘇我蝦夷・入鹿を滅ぼした(乙巳の変)」と日本史の教科書にもあるように、蘇我氏は『日本書紀』では悪役として描かれている。
 『日本書紀』は大和朝廷の正当性を主張する性格の歴史書でもあるので、大和朝廷と対峙・敵対する勢力について悪く描かれることが随所に見られる。
倭とは当時九州を中心とした国家であり、多元史観の研究者からは蘇我氏は九州王朝の重臣であったとする指摘がなされている。これまでの考察から、安芸条里を開拓した九州王朝系の勢力こそが蘇我氏一族の流れを汲むものであった。
 安芸川左岸の郡衙比定地の北には蘇我神社が鎮座する。付近の安芸市川北小字横田には「厩尻」という地名も残っていて、須恵器・土師器・勾玉・杭列などを多く発見する遺物包蔵地でもある。また、安芸川上流の畑山地区には「水波女命 、敏達天皇 、蘇我赤兄 、蘇我乙麻呂」を祭神とする水ロ神社も存在し、古くから雨乞いの神として信仰されている。
 家系図や伝承のみを根拠とするのは危険であると言ったが、周囲の遺物・遺構の出土状況と歴史的経緯などを踏まえると、それらが荒唐無稽ではなかったことが判明してくる。いやむしろ、九州王朝系蘇我氏の安芸地方への進出は、蘇我赤兄よりも古かったのではないかとの印象さえ受ける。公式的な見解よりもかなり先走った内容を発表しているので、さらに今後の研究の積み重ねが必要となってきそうだ。



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 昨年(2020年)、『東洋町の神社と祭り』(東洋町資料集・第7集)で原田英祐氏が第41回平尾学術奨励賞を受賞した。東洋町神社の由来や資料集・年中行事・歴史文化を刊行・文化財保護に力を注いだことなどが評価されものだ。原田氏は高知県安芸郡東洋町野根の郷土史家。1977年、31歳のころから野根史談会の一員として活動。半世紀近く高知県東部の歴史文化を丹念に掘り起こしてきた。「郷土史の火種になる知識を残そう」と、資料集の発行を進め、現在までにすでに7集を発行している。
 第6集『土佐日記・歴史と地理探訪』については興味深く読ませていただき、資料としても大変参考になるものであった。「土佐日記は過去の教科書や参考書を読んでも、さほど面白くない。これを郷土史の立場で深読みをすると、断然面白い」と著者・原田氏は言う。
 「紀貫之は名家・紀氏の復活を目指したが、天皇・上皇の交代で新派閥から外れ、遠国土佐へ左遷された。国司の任を終えて帰京したが、貫之には冷淡な官界となり、帰り着いたわが家はボロボロに荒れ果てていた。このようなストレスを発散するため、帰京して半年後に『土佐日記』を書いた。日記文の中からストレス発散部分を探り当てる人は読みの達人である」とも。
 『土佐日記』の原文とともに縁の地名の写真や、関係する資料も掲載されており、さまざまな角度から読み解かれていて、『土佐日記』の新たな一面が楽しめる。
 そして、待望の第7集『東洋町の神社と祭り』ーー遅まきながら、やっとを手に取ってみて驚いた。知りたかった情報が満載である。まず、東洋町における高良神社の情報が網羅されている。その他、神社研究には欠かせない史料・文献など、よく収集されている。
 『南路志』『皆山集』に代表されるように、土佐の歴史家は伝統的に史料収集に徹して、私見を交えず、後世の歴史家にバトンを託してきた偉人たちが多い。その伝統に違わず、原田氏の取り組みは現代の武藤致和・松野尾章行に喩えられる業績であり、平尾賞受賞は妥当であり、むしろ遅すぎたくらいかもしれない。
 高知新聞(2020年5月29日)に「平尾学術賞を受賞して」と題して、原田英祐氏のコメントが掲載されている。もう少し早く紹介したいと思いつつ、年を越してしまった。その一部を引用しつつ、氏の研究の発展を祈りたい。
 718年の南海道の新官道開設は、高知では野根山街道しか研究されていない。徳島では鳴門の撫養(むや)港から「中みなと」「奥みなと」という南部海岸の水駅(港)の研究しかない。徳島南部の海路と高知東部の陸路をドッキングさせるのが、私の役目だろうか。……まだまだ道は遠い。全てをまとめ終わるまでに、果たして寿命が足りるだろうか。

原田氏の運営する東洋町の歴史のHP

https://toyotown-historic-spots.blogspot.com/p/blog-page_5.html

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 日本史上最大のクーデターともいわれる「本能寺の変」(1582年)を起こした明智光秀を通して描かれたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が、いよいよ最終回を迎えた。
 なぜ、明智光秀は謀反を起こしてまで、主君・織田信長を討とうとしたのか。背後の動機などをドラマでどのように描くか注目していたところだったが、従来説+鞆幕府説を背景としながら、明智光秀には「この戦はしょせん、己ひとりの戦」と語らせた。近年注目されるようになった四国説は、あくまでも付け足しといった描かれ方であった。

▲本能寺の変(1582年6月2日)

 高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には、次のように書かれている。
 このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。
 新たに浮上した四国説というのは、長宗我部元親と関係の深い光秀が、信長の四国征伐を回避するために信長を討ったというものである。美濃国守護土岐氏の一派とされる石谷孫三郎光政の娘が長宗我部元親の長男・信親と結婚。斎藤利三とも姻戚関係にあり、明智光秀もまた土岐源氏の流れをくむと考えられている。
 当初、長宗我部元親と信長は友好関係にあり、「四国は切り取り次第、所領として良い」と認められていたものが、三好氏を巡る処遇の変化によって方針は撤回され、阿波の占領地を上表(返還)するよう迫られたのである。元親はこれを不服としたため、信長の四国征伐が始まったとされる。光秀は元親および親戚縁者を助けるためにやむを得ず、「本能寺の変」を起こすようになったというのだ。
 斎藤利三については「謀反第一」、すなわち本能寺の変の首謀者と公家の日記に記録されている。その娘が春日の局であり、三代将軍・徳川家光の乳母にあたる。
 『麒麟がくる』では、明智光秀が堺にいた徳川家康への手紙を、岡村隆史演じる菊丸に託す。光秀は「200年、300年も穏やかな世が続くまつりごとを行のうてみたいのじゃ」と麒麟がくる世の中を思い描きつつ、それが叶わぬ時には家康殿に託したい旨を伝える。
1603年、ヒーローおっさん徳川家康
1867年、一夜むなしき江戸幕府
 結果的には、265年続く江戸時代をもって“麒麟が来た”平和な世の中と視聴者に連想させた最終回であった。謀反人の娘であった春日の局のみならず、長宗我部元親の客人であった蜷川道標(旧室町幕府政所代)をも、家康は召し抱えている。明智光秀の志は家康へと引き継がれていったと見るべきだろうか。


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 民俗学者の谷川健一氏は『白鳥伝説』(1986年)のなかで、『東日流外三郡誌』について次のように述べている。
 「アラハバキの神が注目されるようになったのは、『東日流外三郡誌』という奇怪な書物が青森県北津軽郡の『市浦村史資料編』として戦後出版されて以来のことである。その書には荒吐族が登場して活躍する。
 いかなるところからこのアラハバキをもち出してきたかは不審な点である。それには興味がなくもない。しかしながら『東日流外三郡誌』は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。」
 このように、谷川氏は『東日流外三郡誌』偽書説の立場に立ち、『学問のすすめ』(1872年)の著者でもある福沢諭吉との関係についても言及している。

 「また『東日流外三郡誌』次の文章がある。
 『依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし……』
 元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」

 唖然とするのはどっちだろうか。民族学者・谷川健一ともあろう人が、『学問のすすめ』→『東日流外三郡誌』の影響関係を決めつけ、その逆は全く考えなかったのだろうか。
 確かに、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」は有名になった。それを『東日流外三郡誌』がまねて書いたとすれば、後世の偽書と見なされても仕方がない。
 しかし、これを否定する根拠は十分にある。
 ①『学問のすすめ』では「〜と云へり」と引用表記をしていること。
 ②福沢諭吉は平等思想の持ち主ではないこと。
 ③『東日流外三郡誌』の寛政原本が発見されたこと。

 ②については、大学の部落解放教育という授業の中で「賀川豊彦と福沢諭吉は差別論者であった」との説を聞かされたことがある。賀川豊彦を差別論者と批判する時点で、「木を見て森を見ず」ーー揚げ足取りも甚だしいところだが、教職免許取得には必要な科目だったので、受講せざるを得なかった。

 ただ、福沢諭吉のエピソードとして自分の母親が貧しい人々に良くしてあげていたことに対して、あまり快く思っていなかったという話は、「脱亜入欧」を主張した諭吉本来の思想に合致しているように感じて、妙に納得するものがあった。その福沢がなぜ突然「天は人の上に人を造らず〜」と語り出したのか。
 この言葉は福沢諭吉の言葉ではなく、アメリカ合衆国の独立宣言からの翻案であるとするのが最も有力な説(高木八尺、木村毅ほか)であった。しかし、いかなる名翻訳家が訳しても「天は人の上に人を造らず〜」の一文にはなりそうもない。その点、『東日流外三郡誌』からの引用であればストレートだ。もちろん、その場合は『東日流外三郡誌』→『学問のすすめ』の影響関係になる。
 『学問のすすめ』が300万部を超えるベストセラーになったのも、実は『東日流外三郡誌』の底流に貫かれた万民平等の思想を背景としていたからこそだったわけだ。
 そして『東日流外三郡誌』寛政原本の発見によって一連の事実は立証されたと言えるだろう。「天は人の上に人を造らず〜」の思想は福沢諭吉の『学問のすすめ』に先行して、『東日流外三郡誌』の底流に流れており、随所に書き綴られていたのである。
 『東日流外三郡誌』の思想は江戸時代以前においては表に出すことのはばかられるものだった。福沢諭吉はその崇高な精神を世に知らしめるために筆をとった。それが『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」だったわけである。彼こそ『東日流外三郡誌』の精神に魅了され感化を受けた一人だったのかも知れない。


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 令和2年度教科書展示会を見に行ってきた。
 教科書展示会は、昭和23年の検定教科書制度の実施に伴い、教科書の適正な採択に資するため、教科書発行法により設けられた制度。令和2年度は、6月12日から7月31日までの任意の14日間を中心として、全国で開催されている。
 会場に行ってみると、案内の掲示等もなく、部屋には電気もついていない。すぐに職員が出てきて、簡単に案内してくれた。
 開口一番、「社会の教科書ですか?」と聞かれた。どうして分かったのだろう。「そう、歴史の教科書です」と答えておいた。他教科については記述がどうのこうのといった問題点を指摘されることはほとんどないのだろう。いつも話題になるのは歴史教科書である。
 当ブログのタイトルにもなっている『もう一つの歴史教科書問題』について言及しておかなければなるまい。従来の歴史教科書問題と言えば、「自虐史観」か「自由主義史観」かといった論点であった。これに対して『もう一つの歴史教科書問題』と銘打ったのは、「一元史観」か「多元史観」かという視点を導入したかったからである。

 中学校『社会(歴史的分野)』の教科書については、7つの出版社の見本が並べられていた。東京書籍 ・教育出版 ・帝国書院 ・山川出版 ・日本文教出版 ・育鵬社 ・学び舎である。
 あまり期待してはいなかったが、やはり全ての教科書で「邪馬台国」という表記。『魏志倭人伝』の原文通りなら「邪馬壹国」でなければならない。原文改定がまかり通っているのだ。
 そして、もう一点「聖徳太子」がどうなっているかが気になっていた。一時期、「聖徳太子が教科書から消える」と騒がれていたからだ。ところが、どうしたことか6つの教科書までがそろって「聖徳太子(厩戸皇子)」という表記であった。そんな中で唯一、異なる表現をしていたのが学び舎の教科書『ともに学ぶ人間の歴史』である。「厩戸皇子(のちに聖徳太子とよばれる)」との書き方は最先端の歴史研究の成果を取り入れた好感が持てるものであった。
 本来、聖徳太子が行ったとされる遣隋使・十七条憲法・冠位十ニ階の制度など、その多くは九州王朝の天子「阿毎多利思北孤」の業績とすべき内容であることが分かってきている。『―日出ずる処の天子―阿毎・多利思北孤』(文化創造倶楽部・古代史&歴史塾 編、2014年)を読んでいただくと、よく理解できるだろう。多元史観の立場から分かりやすく説明されている。歴史の副読本として活用してほしい一冊である。目次についても以下に紹介しておこう。
rekishi1007

はじめに

第一章 多利思北孤は倭の天子

一 歴史を学ぶ大切さ
二 小説は歴史の本ではない
三 歴史の区分
四 中国の史書の大切さ
五 中国の史書は古くから、日本の史書は八世紀から
六 西暦701年まで日本の中心王朝は九州にあった倭国
七 九州王朝の倭国は西暦663年に白村江で唐に完敗
八 白村江の戦いで完敗した倭国のその後
九 倭国の天子・多利思北孤と近畿天皇家
十 現在学校で教えない九州王朝・倭国
十一 学ぶ姿勢の真髄

第二章 聖徳太子と多利思北孤

一 聖徳太子に関する通説

1 聖徳太子と日本人
2 聖徳太子の出自
3 聖徳太子と蘇我・物部の戦い
4 摂政・聖徳太子の斑鳩宮での政治
5 聖徳太子没後の政治
6 聖徳太子一家の滅亡
7 聖徳太子に関する現在の教科書
二 多利思北孤

1 『隋書・【タイ】国伝』
2 『隋書・【タイ】国伝』はいつ、誰が作ったか
3 『日本書紀』と『隋書・【タイ】国伝』の関係

三 聖徳太子をめぐる謎について

1 聖徳太子の没年日の謎
2 法隆寺再建をめぐる謎
3 憲法十七条制定の謎
4 冠位十二階制定の謎
5 天寿国曼荼羅繡帳銘の謎
6 法起寺塔婆露盤銘の謎
7 『上宮聖徳法王帝説』の謎
8 聖徳太子が小野妹子を遣隋使としたか、の謎
9 「聖徳太子をめぐる謎」に共通する根因は何か

四 阿毎・多利思北孤は聖徳太子ではない

第三章 金印・卑弥呼・倭の五王

一 金印

二 卑弥呼(ヒミコでなくヒミカと呼ぶ)

1 『魏志・倭人伝』
2 「邪馬壹国」は北部九州の博多湾岸

イ、『三国志』の位置づけロ、『三国志』は「邪馬臺国」ではなく「邪馬壹国」
ハ、部分の総和が「邪馬壹国」までの距離(里)
ニ、「邪馬壹国」は「博多湾岸」
ホ、『三国志』の距離(里単位)は「短里」
ヘ、卑弥呼の時代の倭国は「二倍年暦」
ト、謎の世紀が始まる三 倭の五王

1 『宋書』の「倭の五王」記事
2 『古事記』の雄略天皇の項の概略
3 倭の五王は天皇たちではない
4 倭王武を雄略天皇とした場合の矛盾等

イ、在位期間の矛盾
ロ、名前比定の矛盾
ハ、系譜と在位の矛盾
ニ、倭の五王は緊迫治世、仁徳〜雄略はのんびり治世

5 埼玉稲荷山古墳鉄剣と熊本江田船山古墳鉄刀
6 「七支刀の銘文」と「高句麗の好太王碑文」

第四章 継体と磐井

一 継体の出自と即位

二 継体と磐井の戦い

三 『日本書紀』が記す継体天皇崩御年と磐井の関係

四 磐井は日本の天皇

五 継体と磐井の没後

六 磐井の乱はなかった?

第五章 乙巳の変・白村江の戦い・壬申大乱

一 乙巳の変

1 乙巳とは
2 「乙巳の変」のいきさつ
3 「大化という年号」の謎
4 天皇家年号に先立つ「九州年号」の存在

二 白村江の戦い

1 「白村江の戦い」に敗れ、衰亡した九州王朝
2 九州王朝と神籠石山城群
3 柿本人麻呂と九州王朝

三 壬申大乱

1 「壬申大乱」は天武の吉野入りが始まりか?
2 九州佐賀の吉野
3 「壬申大乱」後の天武朝
4 唐の則天武后と持統天皇

イ、則天武后
ロ、持統天皇

i)持統の出自と意義
ⅱ)父・天智の「日本国」の創設
ⅲ)夫・天武の「日本国」の再構築
ⅳ)持統天皇自身が成し遂げた統一「日本国」の成立
v)「倭国」を「日本国」に統合させたのは唐の意向

第六章 「倭国」から「日本国」へ

一 「倭国」の山

1 三笠山
2 天の香具山
3 雷山

二 「倭国」の人

三 唐と近畿天皇家

四 九州王朝「倭国」はなぜ滅んだか

五 新生「日本国」のその後

おわりに

この本を、お薦めいただいたご両親様方へ
『学問論「日出ずる処の天子」−憲法論−』…古田武彦附録
年表
系図
古田武彦主要著作

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 『日本書紀』の各巻には、①正格漢文で書かれたα群(巻14~21、24~27)、②倭習漢文で書かれたβ群(巻1~13、22~23、28~29)、③それ以外(巻30)があることが最近の研究で分かってきている。とりあえず、巻ごとに[α][β]を付けてみた。

『日本書紀』αβリスト

[β] 巻01/神代上
[β] 巻02/神代下
[β] 巻03/神武天皇(50年ごろか)
[β] 巻04/綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇
[β] 巻05/崇神天皇(210年ごろか)
[β] 巻06/垂仁天皇(250年ごろか)
[β] 巻07/景行天皇(300年ごろか)、成務天皇
[β] 巻08/仲哀天皇
[β] 巻09/神功皇后(350年ごろか)
[β] 巻10/応神天皇(400年ごろか)
[β] 巻11/仁徳天皇(420年ごろか)
[β] 巻12/履中、反正天皇
[β] 巻13/允恭、安康天皇
[α] 巻14/雄略天皇(480年ごろか)
[α] 巻15/清寧、顕宗、仁賢天皇
[α] 巻16/武烈天皇(500年ごろか)
[α] 巻17/継体天皇(507-531年)
[α] 巻18/安閑(531-535年)、宣化天皇(535-539年)
[α] 巻19/欽明天皇(539-571年)
[α] 巻20/敏達天皇(572-585年)
[α] 巻21/用明(585-587年)、崇峻天皇(587-592年)
[β] 巻22/推古天皇(592-628年)
[β] 巻23/舒明天皇(629-641年)
[α] 巻24/皇極天皇(642-645年)
[α] 巻25/孝徳天皇(645-654年)
[α] 巻26/斉明天皇(655-661年)
[α] 巻27/天智天皇(661-671年)
[β] 巻28/天武天皇(673-686年)
[β] 巻29/同上
他 巻30/持統天皇(686-697年)

 ▲タイトルや各天皇の即位年代は、「日本書紀、全文検索」のサイトを参照しており、「継体天皇以降は通常のものですが、それ以前については、イメージをつかむために便宜的に設定したものに過ぎません(根拠なし)」とのこと。 
 
 様々な検索結果等をグラフにしてみることは大変有益であるが、今後αβ付きのデータにしてもらえると、より参考になるのではないかと感じる。α群とβ群では作者が違うとされているので、最先端の『日本書紀』研究において、α群・β群の差異を考慮しないのは片手落ちになる可能性大だ。

 例えば、『肥さんの夢ブログ』で紹介された「蝦夷」検索結果にαβを付けてみたら、次のような感じになる。α群・β群で大きく違いが出るのか、あるいはほとんど影響が見られないのか。

「蝦夷」検索結果

β 神武
β 綏靖
β 安寧
β 懿徳
β 孝昭
β 孝安
β 孝霊
β 孝元
β 開化
β 崇神
β 垂仁
β 景行・成務 ●●●●●●●●●● ●●●● 14
β 仲哀 0
β 神功 0
β 応神 ●● 2
β 仁徳 ●●●● 4
β 履中・反正 0
β 允恭・安康 0
α 雄略 ●●● 3
α 清寧・顕宗・仁賢 0
α 武烈 0
α 継体 ●●● 3
α 安康・宣化 ● 1
α 欽明 ● 1
α 敏達 ●●● 3
α 用明 ● 1
α 崇峻 0
β 推古 0
β 舒明 ●●●●●● 6
α 皇極 ●●●●●●●●●● ● 11
α 孝徳 ●●● 3
α 斉明 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●● 32
α 天智 ●● 2
β 天武 ●● 2
他 持統 ●●●●●●●● 8 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「蝦夷」という言葉はα群に60件、β群に28件、その他8件であった。このようなデータを集めることで、α群・β群の史料としての特徴が浮かび上がってくるのではないだろうか。
 とりわけ、α群ーー地群の人々(大和朝廷)によるもの、β群ーー天群の人々(九州王朝)によるものとする谷川清隆氏の仮説が成立するのか、どうなのか。検証を深めていく必要がありそうだ。


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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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