特集は「九州王朝の興亡」。大和朝廷以前の日本の代表王朝「倭国」は九州王朝と唱えた古田武彦氏の九州王朝説を受け継ぎ、研鑽を重ねてアップグレードさせた最新の研究精華を収録する。「倭国(九州王朝)略史」「古代日中交流史研究と『多元史観』」など。
この度、正一位二宮小村大天神の上棟、造営を行なった。大工は左兵衛尉藤原弘次、そして、鍛冶は権守の掃部員氏である。さて、当小村天神社は天平勝宝二年(七五〇)に土佐国に影向(ようごう)している。 影向は神の来現を云う。その後天平宝字三年(七五九)には、始めて御船遊びをされる。……(後略)……
ところが、それに続いて「同書曰 持統天皇朱鳥三年七月辛未、流偽兵衛、河内國澁川郡人、柏原廣山、于土左國」とある。配流に関する記事だ。この「朱鳥三年」とは何なのだろうか。
現在の『日本書紀』によるならば、天武天皇十五年(686年)に朱鳥元年となっており、朱鳥の元号はこの年限りで、翌年からは持統天皇元年になる。しかし、『万葉集』左注が引用した日本紀の記述に持統天皇の時代の記事に対してまで、朱鳥の元号(朱鳥四年、六~八年)が用いられているのである。
万葉集に引用された日本紀は、現存日本書紀そのものではなく、寧ろ年の干支や朱鳥の年号などが書かれてあった本ではなかったのか。あるいはまだ一部に整理整頓の残されていた未完成な草稿本のようなものであったのかもしれない。(並木宏衛氏 「万葉集巻雑歌と日本書紀」より)これに対し、『南路志』では「持統天皇朱鳥三年」として持統天皇三年の記事をそのまま引用していることから、編者は「朱鳥三年=持統天皇三年」つまり朱鳥は持統天皇の年号のようにとらえていることが判断できる。これは江戸時代における尊皇派の儒者の思想によるものだろうか。土佐南学派の谷秦山(重遠)が「勝照二年=用明天皇二年」と考えたこと(“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1~4”)と背景が似ている。すなわち、「天皇家以外に年号なし」という一元史観に基づく歴史認識である。
だが、問題はそれだけにとどまらない。“朱鳥二年の天満宮の宝刀はいずこへ①~③”で紹介したように、潮江天満宮の宝刀に「朱鳥二年」が刻まれていることが『皆山集①』に記録されている。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
『日本書紀』編者は隠そうと試みたかもしれないが、『万葉集』や『日本霊異記(にほんりょういき)』などいくつかの文献にその痕跡が残っており、抹消することはできなかったようである。近畿天皇家に先行する九州王朝による「九州年号」の痕跡を……。持統天皇、文武天皇は改元を行わず、通説では「大宝」建元(701年)までの15年にわたって元号は断絶したことになっている。
そしてその数少ない事例の一つが高知県にもあった。幕末に使用された私年号「天晴(てんせい)」である。『土佐史談』190号(土佐史談会、平成4年9月)に広谷喜十郎氏の「『天晴』私年号と幕末の世直し意識」と題する論考がある。私年号「天晴」が記録された石灯籠などの一覧が以下のように紹介されている。
(一)安芸郡安田町神峯山 神峰神社の石灯籠これらの記録から、天晴元年が慶応三年であることが判明する。「一夜空しき(1867年)江戸幕府」――大政奉還<慶応3年10月14日(1867年11月9日)>の年である。明治元年に改元されたのは、慶応四年9月8日のことであるから、一年以上さかのぼった前年5月から「天晴」という年号を使用していたことになる。坂本龍馬のみならず、土佐の民衆は日本の夜明けを予見し「慶応」年号をやめて、先取りして「天晴」の年号を勝手に使用していたようである。
奉献
常夜燈
天晴元丁卯
五月吉日
安芸土居村![]()
(二)安芸市土居 春日神社の石灯籠
奉献天晴元卯九月令日氏子中
(三)香美郡赤岡町 須留田神社の絵馬奉献天晴元丁卯年
五月吉祥日
丑之歳男
(四)吾川郡春野町西諸木 御山所宮の狛犬
天晴元卯九月令日
氏子中(五)吾川郡春野町西諸木 森神社の手水鉢
奉献天政元卯歳九月吉日 惣中
(六)吾川郡吾川村 鈴ヶ森の石灯籠
月燈
天晴元卯九月十八日
慶応から明治に移る間に天晴という年号が使われていたことたは「田口家の神祭帳」「須江高野家文書」などにも記録があることから間違いなさそうである。高知市広報『あかるいまち』2008年9月号で、次のように紹介されている。
幻の年号「天晴(てんせい)」
約三十年前、安芸市土居の知人から、同地の春日神社の境内に天晴元年九月の年号が刻記された石灯籠(とうろう)があると知らされた。調べてみると、安芸郡安田町の神峯(こうのみね)神社にも「天晴元年五月」と刻記された石灯籠があり、それには「安喜(あき)土居村」とも刻まれている。その後、民俗学者・坂本正夫氏らの調査により、東は田野町から西は越知町に至る範囲に「天晴(天政や天星)元年」と刻記された石灯籠や手水鉢があることが判明し、神社の絵馬や古文書にも記されていることが確認された。それらはいずれも「丁卯(ていぼう)」または「卯年(うどし)」と併記されている。『土佐山田町史』にも、田口家の神祭帳や高野家文書の記述を根拠として、慶応から明治に移る間に天晴年号が使用されていることが指摘されている。「丁卯」に当たるのは慶応三(一八六七)年で、翌慶応四年九月八日に明治元年に改元されている。判明している限りでは、天晴という年号が地域的に使われたのは、前年の五月から明治元年までということになる。また、石灯籠や手水鉢などには、「氏子中」や「惣中」と記されており、個人の寄進ではなく村の総意によって寄進されていることがわかる。石灯籠などの石造物を寄進する場合、早めに注文するはずであり、この年号を使用した地域が広範囲で、しかも短期間に普及していることから、単なる思いつきではないことは明らかである。このような動きは、全国的に見られるものだったのだろうか。年号の歴史に関する本を調べてみても、支配階級において天晴という年号が検討されたことは見当たらない。上意下達の厳しい封建体制が敷かれていた時代に、年号という絶対的な物に起こったこの現象は、民衆の世直し願望の一種と考えることも可能かもしれない。神峯神社にある石灯籠の年号について、明治末期に高村晴義氏は「慶応三年の事なり(略)京阪の言信(略)此頃の国内の不穏なるにつき年号を改めてこの妖気を攘(はら)ふの議朝廷におこり」と語っている。翌慶応四年に天晴への改元の動きがあることを見越して、年号が刻記されたことの証言である。
久保常晴著『日本私年号の研究』では「私年号」第一類として、「大化」以前の年号のなかった時代における「非公年号」を「古代年号」と呼んでいる。「令和」改元をきっかけとして年号に関する書籍が出版され、数多くの報道もなされた。ところが、「古代年号」に関してはアンタッチャブルとされているのか、誰も触れようとしないように見える。いわゆる「九州年号」と呼ばれる年号群である。
<九州年号一覧>
【継体】517~521年(5年間)【善記】522~525年(4年間)【正和】526~530年(5年間)【教到】531~535年(5年間)【僧聴】536~541年(5年間)【明要】541~551年(11年間)【貴楽】552~553年(2年間)【法清】554~557年(4年間)【兄弟】558年(1年間)【蔵和】559~563年(5年間)【師安】564年(1年間)【和僧】565~569年(5年間)【金光】570~575年(6年間)【賢接】576~580年(5年間)【鏡当】581~584年(4年間)【勝照】585~588年(4年間)【端政】589~593年(5年間)【告貴】594~600年(7年間)【願転】601~604年(4年間)【光元】605~610年(6年間)【定居】611~617年(7年間)【倭京】618~622年(5年間)【仁王】623~634年(12年間)【僧要】635~639年(5年間)【命長】640~646年(7年間)【常色】647~651年(5年間)【白雉】652~660年(9年間)【白鳳】661~683年(23年間)【朱雀】684~685年(2年間)【朱鳥】686~694年(9年間)【大化】695~703年(9年間)【大長】704~712年(9年間)※漢字表記や年代について一部異説あり
「朱鳥元年(686年)秋七月己亥朔(中略)戊午。改元曰朱鳥元年。朱鳥。此云阿訶美苔利。仍名宮曰飛鳥淨御原宮」(天武紀朱鳥元年七月条)
多少なりとも『日本書紀』の知識がある後世の人物であれば、「朱鳥二年」といった架空と思える年号を刀剣に刻むはずがない。にも関わらず、『皆山集①』によると潮江天満宮の宝刀には「朱鳥二年八月北」と刻まれていたのである。
一方、九州年号を記録した史料『二中歴』では、686〜694年まで九年間「朱鳥」が続いている。また、『万葉集』の中には「日本紀に曰く」という形でいくつか引用があり、それによれば「朱鳥」年号は少なくとも「七年」までは続いていたと考えられる。
似たような事例として、「鬼室集斯の墓碑」問題がある。滋賀県大津に鬼室集斯(「白村江の戦い」前後に活躍した百済の将軍「鬼室福信」の子息で、日本に亡命)の墓にも「朱鳥三年戊子十一月八日」という年号が彫られているという。
いや待てよ。『万葉集』では「右は日本紀に曰く朱鳥七年癸巳の秋」(巻一雑歌作三十四の左注)と書きながら、『日本書紀』の方に「朱鳥七年」は無いんですけど……。この矛盾どうするの?
当然の疑問である。『日本紀』=『日本書紀』かどうかは諸説あるようだが、書物というものは版を重ねるごとに間違いが訂正されたり、表現が洗練されたりするものである。『日本紀』の段階で朱鳥年号が実際に数年間用いられていたものが、『日本書紀』として校正される段階で、大和朝廷の正史として「九州年号」を用いるのはイデオロギーに合わないとし、カットされたと考えれば理解できる。
ではなぜ「朱鳥元年」だけ残されたのだろうか。直前に出された「徳政令」(借金の利息と元金とを免除する詔勅)の発布と朱鳥改元がセットだったからとする古賀達也氏の指摘(「朱鳥改元の史料批判」;古田史学論集『古代に真実を求めて』第四集、二〇〇一年)がある。「白鳳大地震」による被災者を救済するための「徳政令」を政権が変わったからと言って、なかったことにはできない。九州王朝の後を引き継いだ大和朝廷の政策上、消すことのできなかった「大化」「白雉」「朱鳥」は残さざるを得なかったというのだ。
天満宮ノ宝刀
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行(『皆山集①』P358)
装剣備考ニ云 万宝全書銘盡ニ神息上元明天皇御宇和銅の比豊前国宇佐宮社僧と云々鍛冶備考ニハ大同中と云「大同ハ平城天皇の御宇なり」又豊後国高田に文明比戯れに二字銘打しありと古刀銘集録に見ゆ
「ああ、やっぱり戦国時代頃に伝説上の刀工を模して偽造された物だったのか」と落胆されたかもしれない。しかし、即断するのは待ってほしい。
▲アニメ『刀剣乱舞-花丸-』より |
シュミレーションゲーム『刀剣乱舞』の流行により、世はまさに刀剣ブーム到来を告げ、「刀剣女子」という流行語まで生み出した。刀剣を展示するイベントも様々な場所で開催された。また、失われた名刀を復活させる事業にも多くの寄付金が寄せられたという。
だが、一般的に知られていることはある。「平身作り」というのは、平面で鎬(しのぎ)筋のない平造りのことだろうか。「直刀」とは、刀身に反りのない真っ直ぐな形のもので、平安時代中期以前のものはこの形となり、それ以降の刀身には鎬があり反りをもった形状になる。
▲国宝「金銅荘環頭大刀」レプリカ |
そうなると、朱鳥二年(687年)という年代に合致する。『皆山集①』の記述によると、潮江天満宮の宝刀は、古墳時代から平安初期にかけて造られていた刀剣と同じ形式だったのである。
「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)
「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀 土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有 匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)
この宝刀については、以前当ブログでも紹介し、潮江天満宮の宮司さんにも直接質問したことがある。菅原道真の遺品を長男高視に届けるために土佐国へ来たという白太夫(渡会春彦)について研究発表もされている方であったが、宝刀に関しては全くご存知ないようであった。てっきり潮江天満宮の御神体とばかり思い込んでいたが、勘違いだったのだろうか。『皆山集』に記載されている旨はお伝えしておいた。
宮地家については、ブログの大先輩であるひまわり乳業「今日のにっこりひまわり」から、関連する内容を少し引用させていただく。
太宰府で菅原道真公が失意のうちに亡くなり、その遺品を、白太夫さんが土佐まで運んできました。土佐に左遷されちょった嫡男、菅原高視さんに届けるべく。しかし、大津までやって来たところで急死。遺品は、高視さんのもとへ届けられました。
その遺品を祀って天満宮としたのが、地元の宮地さん。で、代々、宮地さんが、潮江天満宮の宮司さんをつとめるようになった、ということ。筒上山頂の説明板によりますれば、宮地家は、日本武尊の第四王子、建貝王からでた名門で、白雉年間(7世紀)に、宮地信勝が山城国から土佐へ移住。その子孫が、菅原道真公を祀った、ということ。(「今日のにっこりひまわり」2014/06/15より)
さらにその先祖とされる宮地信勝が山城国から土佐へ移住したのが白雉年間(7世紀)であれば、ほぼ同時代の「朱鳥二年」に造られた宝刀があったとしても、つじつまは合う。
しかし、家系図だけでは根拠としては不十分である。違った角度からの検証が必要となってくるだろう。
その一方で、高岡郡日高村の小村神社の棟札について、次のように紹介している。
小村神社・仁治元年(1240)の棟札 234、7cm小村神社には「勝照二年(586)」という九州年号を伝える貞和三年(1347)の棟札が存在する。当ブログでも4回シリーズで“小村神社の始鎮は「勝照二年」その1、その2、その3、その4”と紹介した。土佐国の歴史を多元史観によって再構築する嚆矢(こうし)となった渾身の研究であった。同神社には御神体として七世紀前半のものとされる国宝・金銅荘環頭大刀が伝世されており、年に一度しか公開されないが、レプリカであれば日高村の道の駅に展示されている。
現存する高知県最古の棟札である。社の造替の経緯を伝える本文のなかに書き込まれ、後世ののように形式化した配置ではない。本県最古にふさわしい棟札といえよう。
話を棟札に戻そう。この時代頃までは、単に造替えの年代を記すだけでなく、創建年代をも伝える棟札がいくつか見られる。
「斉明6年棟札」には意味不明な語句などがあり、棟札の文面が形式化する前の段階のようであり、サイズも小村神社の物に近い大型タイプである。斎明六年棟札の銘文をもう一度見ておこう。普通社寺には、棟札というものがある。造営・修造などの行われた年月・造営・修造にあたったものまたは大工の氏名などを記し、棟木に打ちつけて、後日の記念とするものであるが、「土佐國蠧簡集」巻二及び「南路志」閡国第十之六に収められた熊野神社の棟札は、その創建の由来を伝えている。それによると、建久元年(一一九〇)十一月田那部永旦というものゝ手で、紀州熊野神社より勧請して、この地に建立されたものとしるされている。(『土佐古代史之研究』創刊号、昭和39年、前田和男著「田野々の熊野さま――幡多郡大正町田野の熊野神社――」より)
奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、 白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明) |
▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札 |
前回までに「長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①、②」と発表したところ、タイムリーなことに、ブログ“うっちゃん先生の「古代史はおもろいで」”でも、斉明天皇が四国・愛媛県にいたという合田洋一説を紹介するようになった。ぜひ参考にしてほしい。
もう一度、斎明六年棟札の銘文を見ておこう。
奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、 白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明) |
▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札 |
これは長岡郡大豊町桃原(旧西豊永村桃原)の村社熊野十二社神社に現存する棟札で、「斎明六年」(660年)の年号がある。「参大妙見御社」という銘文からすると、熊野十二社神社に先立って妙見社が創建されたようである。
山本大氏は自ら判断しかねて、考古家沼田頼輔氏に教えを請い、「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし」との結論を出している。今回はこの批判について考えてみよう。
藤原時代とは摂関藤原氏を中心として国風文化の進展した時代、すなわち平安時代の894年遣唐使廃止以後3世紀の期間に相当する。これに対して王朝時代とは通例894年以前の奈良時代・平安時代について言う時代区分であるが、ここでは斎明六年(660年)についての考察であるから、飛鳥時代をも含めた表現であろうか。
そもそも「妙見の信仰は、藤原時代より起りたるもの」とした根拠が不明である。妙見信仰が日本に伝わったのは意外と古く、『日本霊異記』には称徳天皇の時代(764~769年)に妙見菩薩に灯明を献じた寺があったという記述があり、妙見信仰は奈良時代末期にはすでに民間に広まっていたことが分かる。
また、熊本県八代市の八代神社については、妙見上宮創建を延暦14年(795年)とするが、その淵源は推古19年(611年)琳聖太子(りんしょうたいし)が肥後の白木山に来て、妙見菩薩を伝えたのが妙見尊最古の霊跡(神宮寺)である(『密教占星法 上巻』)と伝えられる。
琳聖太子は百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子で武寧王の孫とされ、大内氏の祖とされる人物でもある。この聖明王については「斎明王」と表記されたものもあり、「斎明六年」棟札の謎を解くカギが隠されているかもしれない。
妙見縁起を考るに社僧の説(古来の縁起は退轉因茲近世良任法師所作)に往日唐土白木神目深手長足早明州の津より白鳳9年来朝し竹原の津に着岸して3年假座す、本朝妙見の始也。
又云う妙見神は中國大内家の氏神なりと、大内家録云百濟國斎明王第3皇子来朝す。推古帝5年筑前國(イ周防國トス)多々良濱に着岸し、周防國主となりて代々武名あり中国を治め、妙見星を祀り守護神とす。是北辰星也。
或云、妙見神は百濟國王齋明来朝又は第3皇子琳聖太子トモ云。八代郡不知火崎に着す……
▲越知町今成の星神社 |
結論として、妙見信仰が7世紀(飛鳥時代)頃に日本へ伝わったとするのは妥当であり、年代的な相違はなくなった。やはり斎明六年棟札は「信ずべき価値なし」とは言えないし、高知県の古代史をひもとく上で大変貴重な史料たり得る可能性さえ見えてきたのである。
また、土佐国に妙見社(祭神:天御中主命)が数多く存在していたことからも、古代における妙見信仰の重要性を無視することはできない。棟札を信用するなら、熊野神社よりも古い歴史を持つことが推測される。妙見社は明治維新の達しで星神社に名称変更してしまったが、県内で61社ほど現存している。
奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、 白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明) |
▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札 |
斉明六年といえば660年のことであり、そんなに古い棟札など存在するはずがない。普通ならば、後世の偽作であろうと考えるのが理性的な判断であろう。だが、本当に信頼すべき何ものも無いのだろうか。指摘された問題点について検証してみたい。
まず「斎明六年棟札」があった長岡郡大豊町の位置を確認しておこう。大豊町は愛媛県および徳島県の両方と境を接している高知県北部山間地域の町である。
平野部に立地する高知県の寺社のほとんどは、津波や戦乱などにより、古い史料が失わてしまっている。古代史を探求する者にとってはいつも残念に思うところである。山間部だからこそ古い棟札が残されていたといえるかもしれない。
ところで、伊予国(愛媛県)には斉明天皇に関する遺構や伝承が数多く残っている。『葬られた驚愕の古代史 越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや』(合田洋一著、2018年)によると、九州王朝の天子・斉明の行宮伝承地が越智国内に5か所、隣の宇摩国(現四国中央市)には「長津宮」跡(村山神社)がある。
そして大豊町は宇摩国と法皇山脈を隔てて隣接する場所なのである。ロケーションとしては申し分ない。「斎明六年棟札」はあるべくしてあったと言うべきか。一見、険しい四国山脈を越えて交流することは難しいという印象を持つかもしれない。しかし、縄文時代には香川県のサヌカイトが太平洋側へを運ばれ、弥生時代には瀬戸内の塩が高知へ運ばれた形跡がある。大豊町には古くから山越えの道があり、交通・交易の要所であったといえる。
最大の問題点は次の点である。
斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、
『高知県史考古資料編』(高知県、昭和48年)より
この矛盾点に関しても、『葬られた驚愕の古代史』に解決のヒントが書かれていた。「『紀』は後世の漢風諡号とされた近畿の舒明・斉明天皇として九州王朝の天子名をそのまま盗用し、はめ込んでしまった」というのだ。つまり「斉明」は皇極と同一人物ではなく九州王朝の天子であり、漢風諡号ではないとする。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。