今回は九州年号発見というわけではないが、それに匹敵する情報を公開しよう。「斎明六年棟札」についてである。
伊予国には斉明天皇に関する伝承が数多く残っており、合田洋一氏の説のように斉明天皇が伊予にいたのが事実であったとしたら、土佐国にも何らかの形跡が残っていてもいいはずである。それが長岡郡大豊町に現存するという「斎明六年棟札」なのではないだろうかと考えていた。その存在については情報をつかんでいたが、文面等については見ていなかったので、何とも言えずにいたが、実は『高知県史考古資料編』(高知県、昭和48年)に全文が掲載されていた。
この本は目を通しておかなければと思いつつも、7.5cmの分厚さに、今まで借りるのを躊躇していたのだ。関連する箇所を引用しておく。
又時代疑問とは、棟札の銘文が、其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきやの疑問あるものなり、本県にも斯様なるもの多少あるべしと思わるれども、予が調査せしものは四枚あり、予は自ら之が断定を下す能はずして、考古家沼田頼輔氏に教を請ひたり、今氏が報ぜられたる所のものにより、茲に摘記せんに、一は、長岡郡西豊永村桃原村社熊野十二社神社に、現存せる棟札にして、斎明六年(千二百五十六年前)の年号のある、左の銘文なりとす、
奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、
白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)
斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、又妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし、
二は、同神社に現存の大宝二年(千二百十六年前)の棟札にして、左の如し、
奉造立、三躰妙見熊野十二社権現、右意趣、宥爲國土安詮四海静謐持信心之、大願主長次上村源七良敬白、天長地久御願圓滿、一天大平風雨有之時、武運長久、子孫繁昌、別名内元事、道師權少僧都□喬、神主吉定祈所面所、大寶二壬寅三月廿五日
妙見社の此の時代にあらざること前述の如し、殊に上村源七良の如き氏名は、全く後世のものにして、此の時代に斯る称号なきことは、奈良時代の古文書に徴するも明かなりとす、
「長岡郡西豊永村桃原」は現在、大豊町桃原となっており、熊野十二社神社には足を運んだこともある。急峻な山道を登ったところながら、境内は広く、伝説の牡丹杉が存在している。また「百手の的打ち」神事でも知られる神社である。
この熊野十二社神社には、斎明六年および大寶二年という、きわめて古い年号が記された2枚の棟札が現存しているという。「其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきや」と否定しつつも、考古家に判断を仰いでいる。問題点を列挙すると、次の3点にまとめられるだろうか。
①斎明は天子の諡号であり年号ではない。しかも、この諡号は後世に定めたものであり、斎明を年号代りにすることもあり得ない。
②妙見信仰は藤原時代から始まったもので、王朝時代にあるのは疑わしい。
③名前や称号など後世のものである。
斎明6年といえば660年に相当する。もしその時代の棟札とすれば高知県最古のものとなるが、さすがにそれは無理があるだろうか。問題点の指摘も理にかなっている。だが、あえて疑問視されるような棟札を偽作する動機も見当たらない。
「信ずべき価値なし」と切り捨てるのは簡単だが、この斎明6年棟札の研究を通して、何らかの歴史的真実を見出すことはできないだろうか。じっくり検証するには時間がかかりそうなので、今回は「斎明6年棟札」の存在を報告するにとどめておこう。
この「端正」年号については、ホームページ『新古代学の扉』の九州年号総覧にも既に掲載されていた。あと追いになるが参考のために紹介しておこう。
『新古代学の扉』では伊都岐島神社縁起(棚守房顕覚書、一五八〇)「厳島神社推古天皇の御宇端正五年戊申十二月十三日厳島に来臨御座」(癸丑の誤りか)と引用されている。『二中歴』では「端政」という表記で、年号の使用期間は589〜593年の5年間。読みが異なるのではないかと気になるところだが、「摂政」のように「しょう」とも読めるので、同音異字を使用した可能性がある。ちなみに歴史の教科書には593年(端正五年)は聖徳太子が摂政となった年と書かれている。いつくしま縁起
元和八年(一六二二年)写本の『いつくしま縁起』というものは、室町時代伝写の『いつくしまの本地』と同じ内容のもので、次のように書かれてあります。
抑(そも)巌嶋大明神と申奉るは、我朝推古天皇の御代、たんしょう五年きのえさる、拾二月(いつくしま御本地では十一月)十三日、日本あきつしま、……
実はこの聖徳太子を巡って、"もう一つの歴史教科書問題"が展開していた。一番大きな問題点は遣隋使を送ったのが聖徳太子と教科書に書かれてきたこと。実際は九州王朝の天子・阿毎多利思北孤の事績であった。間違っても、摂政である聖徳太子が「日出ずる処の天子」を名乗るなどあり得ない。『日本書紀』には「小野臣妹子を大唐に遣わす」とあっても隋に派遣したとは書かれていない。ある高校の歴史教師もこの矛盾点を指摘しておられた。
『太宰管内志』によれば隋の煬帝が受戒した589年に、九州王朝の天子の系列とされる高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)が逝去し、九州年号は「端政」と改元されている。
ところで「端政」の前の九州年号は何かというと「勝照(しょうしょう)」である。「九州年号見つけた!」シリーズを読んでおられる方はご存知かもしれないが、"小村神社の始鎮は「勝照二年」その1〜4"で論証した勝照二年(586年)が土佐国の歴史に刻まれている。すなわち、高岡郡日高村の小村神社が鎮座したのは高良玉垂命の治世であったということになりそうだ。
『続日本紀』大宝元年(七〇一)三月甲午(二一日)条に「対馬嶋、金を貢ぐ、元を建てて大宝元年としたもう」と記されており、対馬からの貢金がきっかけとなって大宝の年号が定められた。
「大化」が当時、何と訓まれていたかは未詳であるが、『日本書紀』巻二五の現存最古写本である北野天満宮所蔵本(院政時代初期写、付訓も同時期と推定されている)では大化元年七月丁卯朔条に「タイクワ」との傍訓が振られている。
九州年号の痕跡は日本全国いたる所に見られる。もはや九州年号の存在を無視して古代史を構築することには無理がある。また九州王朝説を主張する側も九州年号に対する理解をさらに深め、九州年号についての啓蒙やデータ収集を進めていく必要があるだろう。
新元号「令和」発表の記者会見で、「1400年近い日本の歴史」と安倍首相は語っていた。645年大化の改新からの計算であろう。
しかし、大和朝廷における建元(元号の始まり)は701年の大宝元年であり、大化ではない。700年以前に白鳳や朱鳥もあるが、連続性がなく、大和朝廷による年号とするには疑問がある。もし、大化から始まったとすれば、大宝は改元と表現されなければならない。
【古田先生講演概要】
いわゆる「九州年号」については『二中歴』や『海東諸国紀』に連続的に記録されている。また寺社の縁起など、全国的に使用されていた形跡がある。高知県でも"小村神社の始鎮は「勝照二年(586年)」"と伝承されていた。わが国の年号の始まりについては通説を鵜呑みにせず、しっかりと検証していく必要があるだろう。
▲野見湾の中央に突き出した大長岬 |
①コウラ地名
▲野見湾の奥に大谷小浦、河原川の地名 |
②1300年前の伝承
③猫神社(須崎市多ノ郷乙)
④鳴無神社の由緒
鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)の祭神は一言主命(味耜高彦根神)とされているが、土佐神社の元宮とも考えられ、古くは「お船遊び」とも呼ばれていた志那禰(しなね)祭が毎年8月に行われている。『南路志』では祭神として「級長津彦命」「級長津姫命」を併記する。
由緒には大和朝廷一元史観の影響が見られるが、ONライン以前の5世紀の事跡であれば九州王朝を中心に再解釈する必要がある。鳴無神社は浦ノ内湾側にあり、大神は太平洋側に接岸している。ただし、半島のすぐ南側は船を停泊できそうな港がない。少し西になるが、須崎湾か野見湾あたりが九州方面からの船の停泊港として適しているようだ。
以上、①〜④の内容は野見湾に九州王朝の船団が来ていたことを示唆し、九州年号が地名として残された可能性も、まんざら否定できないと考えられる。須崎市の野見湾に突き出した「大長岬」は最後の九州年号「大長」を反映した地名なのだろうか。
「正和四年卯月五日」とする年号で、通説(大和朝廷一元史観)では鎌倉時代の年号とされ、1315年に当たる。一方、大和朝廷に先行する倭国・九州王朝が使用していた九州年号にも「正和」が存在していた。
大分県臼杵市の臼杵の石仏に「正和四年卯月五日」と年号が刻まれていたというのだが、もしこれが本当に九州年号の「正和」だとすれば、529年に相当し、6世紀には既に石仏が造られていたことになる。
学問においては論証が重要であり、鎌倉時代の「正和」でなく、九州年号の「正和」であるとする根拠が示されなければならない。その点では古田史学の会代表・古賀達也氏も慎重な姿勢を保っているようだ。
古賀達也の洛中洛外日記
たまたま読んでいた『邪馬台国は「朱の王国」だった』(蒲池明弘著、2018年)に臼杵石仏の由来にまつわる「真名野長者伝説」が取り上げられていた。ストーリー自体も面白いが、ポイントは娘の死を弔うために長者が岩崖に仏像を彫らせた。それが臼杵市の石仏群である。また、物語には欽明天皇の皇子ーー後の用明天皇が登場する。
そうすると時代背景は6世紀頃となり、鶴峯戊申が九州年号の「正和」と判断したこともうなずける。さらに有力な根拠が示されることを期待する。
「夜須村夜須川分ヲクタニ荒神小宮神社記云来歴不相知但大化二年御鎮座と申傳宝之曰昔ハ香我美長岡安喜郡惣鎮守ニテ……」(P120)
香我美郡夜須村の荒神の鎮座が「大化二年」と伝えられているというのだ。大化の改新が645年(虫殺し)であるから、普通に考えると大化二年は646年になりそうである。しかし『日本書紀』の大化の改新(乙巳の変)の記述には、専門家からも疑問ありと指摘されている。事実そのままではなく、何がしかの書き変えがなされているというのだ。
一方、九州年号の「大化」は695~703年の間使用されたことが分かってきた。そうすると夜須村の荒神の鎮座「大化二年」は696年なのだろうか。『日本書紀』の影響を受けていない本来的な伝承がそのまま伝えられていれば、そうかもしれない。茨城県の「大化五子年」篆刻土師器は7世紀末の九州年号との一致が見られる例である。
いずれにせよ、延喜式内社でもない荒神社が大宝元年(701年、ONライン)以前の鎮座ということは、本当であれば驚くべきことである。しかも昔は香美郡・長岡郡・安芸郡3郡の惣鎮守だったというのだ。この件については更に詳しく調べる必要がありそうだ。
『近世寺社伝資料『和州寺社記』・『伽藍開基記』』(神戸説話研究会、二〇一七年)という本を図書館で見つけて、中を開いてみると、「中宮寺は推古告貴三年、聖徳太子の御母間人皇后の御願所にて、〜」(頁三四)とあり、『和州寺社記』からの引用が出ていた。
しかし、その分布が全国的であり、連続性を持っていることから見ても、私的な年号とは考えにくい。大和朝廷以前の倭国・九州王朝によるものと考えてこそ、整合性があると言えよう。
また、同書464〜469ページに「一年少ない年数」に関する藤田琢司氏「『元亨釈書』について」の指摘を紹介している。いわゆる干支が通常より一年後のものになる問題に対する解決案である。
高知県においても『皆山集 第一巻』(松野尾章行編)に天満宮の宝刀「
実はこの年号が地名として残されたと思われる場所がある。大長(おおちょう)ミカンの産地として知られるようになった広島県呉市豊町大長である。現在は広島県となっているが、大崎下島もかつては伊予に属し大長(おおちよう)島と呼ばれた。島全体が急峻な山地であるが山頂まで段々畑として耕され,温暖少雨の典型的な瀬戸内式気候によって良質美味の大長ミカンを産する。南東部の御手洗(みたらい)港は帆船時代から内海航路の要所であった。
以上のアイデアは古田史学派のU氏から「私も九州年号を見つけましたよ」と大長地名を教えてもらったことを基に、調べてまとめたことを報告しておきたい。
「須崎市野見湾の戸島北側に断層活動によるくい違いを見いだした。ただし、堆積速度から判断すると、断層が動いた時期は今から三、四千年前と見積もられ、伝えられる約千三百年前の白鳳地震とは関係がありそうにない。」(「島は本当に沈んだか」)
現地の漁師さんに聞くと、野見湾には水深5メートル程度の台地状の地形があり、その縁から急に深くなっているという。断層による地形なのかも知れない。さらに海底に井戸があったとの証言もあり、石包丁などの弥生時代の遺物等の出土もあることから、弥生時代以降にも沈降があった可能性は十分考えられる。
さて、この野見湾に伸びる岬の地名が大長岬という。古賀達也氏の説によると「大長(704〜712年)」は九州王朝最後の年号とされる。「大正町」のように年号が地名になることは現代でもよくあることだが、この大長岬も年号に由来するものだろうか?
地名辞典によると「大長崎(おおながさき)」との読みが出ているが、現地の人は「大長岬(おながさき)」と呼んでいた。これはすぐ近くの「小長岬」と対となる地名のようである。
白鳳地震(684年)によって野見湾及び大長岬ができて、ニ十数年後の復興の時期である大長年間に地名がつけられたとすると……。
一方、大長みかんで有名な広島県呉市豊町大長(おおちょう)は王朝を連想させる読み方である。はたして、年号の「大長」は何と読むのか?
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。