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   「タイリ中ニツカアリ」と『長宗我部地検帳』(16世紀末)に記録されている。土佐国の国府は長岡郡にあり、現在、南国市の国分寺がある付近の東側と推定されている。その北の一角が「内裏」と呼ばれており、『土佐日記』で有名な紀貫之邸宅跡とされる。「タイリは大吏」とする研究者もいるが、朝倉慶景氏は「地元の伝承からしても内裏で間違いなし」とする。


   国司ともなれば地元の人々から神のように崇められたのであろうから、その居住地を内裏と呼ぶようになったとでも言うのだろうか? 天皇を頂点とする時代に、たかが国司ごときで天皇気取りとはあり得ない。それこそ中央に知れたら左遷どころではあるまい。
   内裏地名が間違いでなく、紀貫之が原因の地名でもないとすれば、考えられる結論はただ一つ。紀貫之以前、いや引田虫麿(740年)よりも前に、天皇以上の人物が内裏に住んでいた……。

   滋賀県の高良神社に重要な手がかりが隠されていた。古くは高良塚と呼ばれていた場所である。

高良神社 (コウラ)
滋賀県彦根市鳥居本町2462
祭神 武内宿禰命

御由緒
天保三年四月の創立という。『坂田郡志』に「此の地、古へより高良塚と称して一丘の高地なりしが、天保三年四月、この高地を穿ちしに、古鏡二面を発掘せり。依って祠を建て武内宿禰を祭神とす。祭日は五月五日なり。」と記している。

   先ほどの内裏地名の中に「コフラ」という区画がある。どうやら、そこが塚があった場所のようである。昔、菊の紋の入った瓦が出てきたという。その北隣が「宮ノ前」であることからも、かつて高良神社が存在したことがうかがえる。その祭神こそが天皇以上の存在ーーもちろん武内宿祢のことではない。
   菊紋の瓦と言えば……、四万十市蕨岡の高良神社の瓦も菊の紋であった。そもそも久留米市の高良大社自身が菊の紋を掲げていたではないか。



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 高良神社と書いて何と読むか? 漢字自体は簡単であるが意外と読めない。「こうら」それとも「たから」?
   インターネット上で、愛媛県のとある高良神社に「たからじんじゃ」とルビがふってあった。読み間違いか、それとも本当にそう読むのか? また、さる八幡宮の宮司さんが自社境内の高良神社をどう読むか分からなかったという話を聞いたこともある。
   さて、人名でも高良さんという方がいる。『南路志3』で高良神社探しをしていたら、突然次の記事が飛び込んできた。

   琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前である。久留米地名研究会の古川清久氏によると、沖縄県では「たから」、鹿児島県では9割方「こうら」であるという。そう言えば俳優の高良(こうら)健吾は熊本県の出身。NHKの『LIFE』というテレビ番組において、熊本弁でしゃべりまくり、天草のイルカウォッチングを紹介してくれていた。
   いずれにしても、高良という名前の淵源を探ってみる必要がありそうだ。


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 橘の洞門を越えて愛媛県に入った。どうしても確認しておきたいところがある。伊予市の伊予岡八幡神社の境内にある高良神社である。

 伊予岡八幡神社は伊予岡古墳群(6世紀~7世紀初頭)の上に建ち、多くの境内社が鎮座する。


  社殿に掲げられている絵を見ると、上吾川郡に鎮座する十二社を明治42年11月1日、官命によって合祀したと記録されている。その背景には明治39年の神社整理令がある。香川県でもそうであったが、この官命が出されて数年間のうちに、無各社はじめ存続の難しい小社は次々と境内社に取り込まれた。
 しかし、この時合祀された12社の中には高良神社の名前は見えない。多くの境内社が建ち並ぶ中でも、最も高い場所に鎮座しているのが高良神社である。

 何か格式の違いを表しているように見える。そもそも、なぜ高良神社は八幡宮の境内社となったのか? この謎は高良神社探しを始めた時からついて回った。逆に高良神社を探すには八幡宮の境内社を調べればよい……。こうして四国全体では20社以上の高良神社があることが分かってきた。


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  「肥沼さんの夢ブログは時々読ませてもらっています。古代史研究のアプローチや分析もさることながら、教育に携わる者としても、大いに参考にさせていただいています。
 さて、高知県にも九州年号(倭国年号)は存在するか? 以前、肥沼さんが「九州年号を探そう!」と提起されたことに連動して検討してみたいと思います。近いうちに研究発表できたらと思います。
 以下は「肥沼さんの夢ブログ」からの引用です。


  • 九州年号を探そう!

    2013/11/24 0:04:162

歴史上「九州年号」と呼ばれる古代の年号群がある。6世紀前半から8世紀初頭にかけて作られたもので,主に神社や寺の縁起などに登場する。


干支で並べると隙間なく並べることができるので,統一権力による年号と考えるのが正当な評価だと思う。(明治以降,私年号や偽年号といった差別的な扱いを受けたが,江戸時代にはそうではなかったとのこと。どちらが学問的か)


古代史研究というと,何か難しいことのように思えるが,この九州年号が寺社縁起に登場するかどうか探すという方法で,古代史研究を楽しむというやり方もあると思う。縁起はたいていその寺社がいかに長い歴史を持つのかという観点で書かれているので,その冒頭に九州年号が使われることがあるのだ。


「続日本紀」によると,701年には大宝年号が建元される。つまり大和年号(近畿天皇家の作った年号)がここでスタートしたのだ。聖武天皇も詔勅の中で,「白鳳以来,朱雀以前」という形で,九州年号の存在を語ってくれている。


だから,それ以前に建てられた寺社は,
九州年号を使っている可能性が高いか,
または「日本書紀」の影響で書き換えられた。いずれにしても,「九州年号を探そう!」という観点は,古代史入門にとってもいいきっかけを作ってくれると思う。


最後に,「九州年号の一覧」をどうぞ!


継体・・・517~521年(5年間)
善記・・・522~525年(4年間)
正和・・・526~530年(5年間)
教到・・・531~535年(5年間)
僧聴・・・536~541年(5年間)
明要・・・541~551年(11年間)
貴楽・・・552~553年(2年間)
法清・・・554~557年(4年間)
兄弟・・・558年(1年間)
蔵和・・・559~563年(5年間)


師安・・・564年(1年間)
和僧・・・565~569年(5年間)
金光・・・570~575年(6年間)
賢接・・・576~580年(5年間)
鏡当・・・581~584年(4年間)
勝照・・・585~588年(4年間)
端政・・・589~593年(5年間)
告貴・・・594~600年(7年間)
願転・・・601~604年(4年間)
光元・・・605~610年(6年間)


定居・・・611~617年(7年間)
倭京・・・618~622年(5年間)
仁王・・・623~634年(12年間)
僧要・・・635~639年(5年間)
命長・・・640~646年(7年間)
常色・・・647~651年(5年間)
白雉・・・652~660年(9年間)◆
白鳳・・・661~683年(23年間)
朱雀・・・684~685年(2年間)
朱鳥・・・686~694年(9年間)◆


大化・・・695~703年(9年間)◆
大長・・・704~712年(9年間)


日本書紀によると,年号は大化(645)から始まり,飛び石的に白雉や朱鳥があり,大宝(701)につながるというのだがおよそ年号というものは「すき間なく続いている」ことに意義があるのであり,それでこそ年代のモノサシ足りうるのだ。その点,日本書紀に出てくる3つの年号はそもそも「年号」としてのテイをなしていないのである。


なお,712年という年号は「古事記」の作られた年だ。大和中心の歴史がまとめられた年に九州年号も終わる。


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 高知市春野町弘岡中1113に鎮座する荒倉神社は、約1300年前に吉野の丹生川上神社から天闇靇大神を勧請したと言い伝えられている。後に春日大社および諏訪大社からも併せて四柱の神様を勧請している。

 周辺には横手古墳、後田遺跡がある。しかも後田遺跡から川の神を祀(まつ)る祭器である古墳時代の土器などが多数出土しているので、六~七世紀頃には古代村落が成立していたと推測できる。

 1300年前というと丁度、大宝年間(701~704年)前後に当たり、「コウラ」という場所に建つ八坂神社でも触れた九州王朝から大和朝廷への政権交代の節目である。全国的に見ても大宝年間の勧請とされる神社は多く、同時多発的に広範囲でなされた出来事は政治権力による政策の反映と見るべきだろう。


 竹崎五郎著『高知県神社誌』には、「戦国時代に本山茂辰に、江戸時代に二代藩主山内忠義以降の歴代藩主に篤く信仰され神殿の造営や社領の寄付などがあって保護されていた」とある。
 裏山が山内家の狩場とされ、境内で煮炊きをした際に、残り火で神社が全焼し、古い資料が焼失してしまったことが実に残念でならない。



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 高良神社の謎を解くには、筑後国一宮の高良大社(福岡県久留米市御井町1)について考える必要がある。古くは高良玉垂命神社、高良玉垂宮などとも呼ばれた。古代から筑後国の国魂と仰がれ、筑後一円はもとより肥前にも有明海に近い地域を中心に信仰が見られる。


 本体の鳥居の柱を支える形で稚児柱(稚児鳥居)があり、その笠木の上に屋根がある両部鳥居は、神仏習合の名残とされ、四万十市蕨岡の高良神社もやはり両部鳥居であった。

  • 正殿:高良玉垂命 - 神紋は「横木瓜」
  • 左殿:八幡大神 - 神紋は「右三巴」
  • 右殿:住吉大神 - 神紋は「五七桐」
 祭神に関しては古くから論争があり、上記のほか武内宿禰説・藤大臣説・神説など諸説がある。さらに倭の五王と深い関係があることを古賀達也氏が『新古代学 第4集』で指摘している。

 以下、「ウィキペディア」から一部引用。
 仁徳天皇
55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる。『延喜式神名』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。現在もともとの氏神だった高木神は麓の二の鳥居の手前の高樹神社に鎮座する。なお、久留米市御井町にある久留米市役所の支所の名前「高牟礼市民センター」や、久留米市内のいくつかの小中学校の校名や校歌の歌詞に「高牟礼」の名前が残っている。


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 スマートフォンの地図を追いながら、「この辺りのはずだが……」。神社が見当たらない。こんな時は地元の人に聞くのが一番。「この近くに高良神社はありませんか?」「そこです。と言ってもお旅所ですけどね」と少し気の毒そうな返答。


 鳥居はあるがただの駐車場では? 画面上のマップには確かに高良神社と出ている。高松市香西南町の高良神社は同本町にある宇佐八幡神社のお旅所(境外末社)となっていた。
 200メートルほど離れた宇佐八幡神社の境内社に白峯神社があるが、そこに高良神社を含む五社が合祀されている。明治39年の神社整理令により、近隣の無格社が明治40年に境内社として取り込まれ、大正12年に白峯神社に合祀されたいきさつが読み取れる。


 香川県にはこの他にもいくつかの高良神社が存在するが、ほとんどは八幡宮の境内社となっている。
 尚、香川県の高良神社を調べる際に、ブログ「伝える会」さんがとても参考になり、この場を借りてお礼を申し上げます。

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 「母の守り神は聖姫大神でした。その名前や柔らかい話し方からして、てっきり女性神と思っていました。~聖姫大神に『あなたは男性だったのですか?』と尋ねたところ、『そうです』という答えが返ってきて、驚いたことがありました」。


 今回は学問的な話ではないので、楽に聞いて下さい。最近発売された『死んだらわかるけど、それでは遅い』(北谷真雄著)という本を「先に読んでみて」と妻に言われ、読み始めました。
 すると、冒頭の体験談です。丁度、ブログ「ひぼろぎ逍遙」で姫大神は男性神という話題を目にしていたところだったので、不思議な引き合わせを感じたのです。
 父親の事故をきっかけに、霊通するようになったお母さん。自宅を神道の教会にして人助けし、著者自身も小学生のころから霊的な体験を重ねてきた、そのいきさつなどが書かれていました。

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 高岡郡佐川町庄田、古来深尾領佐川郷総鎮守。『八幡荘伝承記』によれば、高北開拓の元祖別府経基が承平2(932)年、別府の本領安芸郡鯨坂八幡を勧請したという。年次不詳火災焼失、明治34年再建。大鳥居は昭和46年に撤去されたという。



 この鯨坂八幡宮は「本宮に品陀別命(応神天皇)を祀り、左右二社に息長帯日売命(神功后皇) 高良玉多礼日子命(竹内宿禰)の三神を祀り」と『土佐太平記』(明神健太郎著)に書かれている。それが本当なら、高知県における高良神社の空白地帯であった高岡郡に風穴があくことなる。
 現在の祭神は一般には応神天皇とのみ紹介されている。神功皇后と高良玉垂命はどうなったのだろうか? 
 右側に摂社らしきものが2つあるので、 行ってみると「橘姓楠氏 正勝公奥城」と記された石碑が……。先ほどの『土佐太平記』には「父正勝は学問にふかく、才智に秀れた信仰の人だったので、中山信政は河間代官河添宗綱を尾川郷の代官として改めた後に、正勝を河間、中野郷の代官とし、鯨坂八幡宮の宮司を兼職させ、子の正顕も下代官兼書留役とした。そしてここに橘(たちばな)氏を名乗るようになった」と楠木父子が代官橘氏となったいきさつが紹介されている。


 さて、本領安芸郡にあったとされる鯨坂八幡宮は現存しないとされているが、もしかしたらと思うところが1つある。“安芸郡田野町淌涛にある八幡宮”である。その昔、大野豊前守が勧請したとされ、応神天皇、神功皇后、高良玉垂命の三神が祭られている。佐川町の鯨坂八幡宮と同じタイプなのだ。
 東の端、安芸郡は高知県における“高良神社の密集地”でもある。摂社として高良神社が祭られている八幡宮がいくつか存在する。それらについてはまた、別の機会に。


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 「大坊(宝)天王社、梅木村に在り」
 『土佐州郡志』という分厚い本に書かれた江戸時代の記述(読み下し)である。この梅木村とは、かつての鏡村梅木。現在は市町村合併によって高知市に取り込まれた。
 明治維新の際、神仏分離と名称変更の通達が出され、大宝天王社は八坂神社になった。名称変更には具体的な指示があり、その一例が「牛頭天王→八坂神社」である。大宝天王もこれに倣ったと思われる。
 ところで大宝天王とは何だろうか? 滋賀県栗東市に大宝神社(旧:大宝天王宮)というところがある。701年の勧請で、元々は追来(オフキ)神社であったところに主祭神が置き換えられ、地主神は若宮として境内社の位置付けになったと推測されている。

 高知市鏡の八坂神社も戦国時代までは確実にさかのぼる歴史がある。もしかしたら大宝年間(701~704年)に勧請されたので、大宝天王と呼ばれていたのかも知れない。

 実はこの場所、「コウラ」という地名で地元の人もそう呼んでいたことを秋の大祭の時に聞いてきた。『高知県神社明細帳』には、一説には「コウラ天王」という記載があり、本来は高良神社が祭られていた可能性が非常に高いということが分かってきた。それに加え、大宝年間の祭神置き換えが事実であったとしたら、701年の九州王朝から大和朝廷への政権交代を裏付けるものとなりそうだ。


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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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