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    神母神社が建っている場所は土佐市宇佐町の県道39号線が宇佐湾に出る直前の中央分離帯。道路が整備される時に信仰深い人々が神社をそのまま残そうとしたことが感じられる。
   高知県には、全国的に見られる稲荷神社はほとんど無く、その代わりに保食神(うけもちのかみ)を御祭神とする神母神社・通称おいげさんが多数祀られている。農業に関係の深い神様とされているものの、その実体ははっきりしない。
   朝倉神社(土佐の二宮、延喜式内社)の祭神が天津羽羽神(あまつははがみ)といい、こちらも『古事記』『日本書紀』に登場しない神様である。もしかすると何らかの関連性があるのかもしれない。

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  石岡八幡宮境内の右手奥、高良神社が祀られている。この裏側は椿の群生地であり、祭ヶ岡古墳がある。社地を古くは「橘の島」と言っていたことや神功皇后の伝承などが案内板に書かれている。

 「愛媛県の高良神社①ーー伊豫岡八幡宮 境内社」もそうであったが、古墳のある場所に立地していることから歴史の古さがうかがえる。さらにこの二社は高縄半島の付け根に相当し、重要な共通点がある。重信川河口付近と中山川河口付近という共に古代における港の立地条件に適した場所だということだ。石岡神社は熟田津の比定地にも近い。


  石岡神社の由緒として「孝元天皇の曾孫で、景行天皇から仁徳天皇までの五代帝の長臣で、とくに仲哀天皇薨去の後は神功皇后を支え、また応仁天皇(八幡神)を守り育てた大臣で、高良神社の主祭神である竹内宿祢の子孫紀氏玉井」が石岡の地で八幡宮を鎮座奉祀してきたことが案内板に書かれている。
 『古事記』『日本書紀』の記述を元にした表向きの説明はそうだとしても、その頃は九州王朝を中心とした倭国の時代だと考えられるので「盗まれた神話」(九州王朝の事績が日本書紀に取り込まれた)の原典が誰を主人公として描かれていたかの解明が必要なのだ。


  紀姓玉井氏の系図からの引用も紹介してあり、高良神社が八幡宮の摂社として祀られている表向きの理由は分かってきたが……。


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    宇佐大橋を渡ってすぐ右手に丹生神社(土佐市宇佐町井尻)がある。地名に詳しい人ほど「にゅう」と読みたくなるのではないだろうか。ここは「たんじょう神社」あるいは「たんじょう様」と呼ばれている。
   京都府には丹生(たんじょう)さんと読む名字の方もおられる。丹生地名は「あおによし奈良の都~」で知られる朱色の原料である丹砂(水銀)の産地と関連付けられることが多い。
   その他、詳しくは「南国土佐へ来てみいや」が参考になります。

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  NHKのクローズアップ現代
「予測できなかった超巨大地震 苦悩する地震学者たち」(2012年1月19日放送)の中で、高知大学の地質学者・岡村眞教授が2011年4月に高知県土佐市蟹ヶ池で地質調査をしたことが紹介されていた。

   
土佐おんちゃんの田舎暮らしによると、海から約400m入り込んだところにある蟹ヶ池の底に残された超巨大津波の堆積物は1707年宝永大地震の津波堆積物15cmも確認されたが、そのさらに下には約2000年前の50cmの堆積物があったという。
 50cmの厚さから推測するとマグニチュード9級で波高50m以上の津波だったと推測されている。

  この内容については数年前、科学雑誌『ニュートン』で見て、ずっと気にしていた。従来、弥生時代の高地性集落は『魏志倭人伝』の「倭国大乱」に対応して造られたとされてきた。その後の研究でいくつかの矛盾点も指摘されており、それを解決する1つが「高地性集落 巨大津波起源説」である。
  高知県では吾川郡いの町のバーガ森遺跡が高地性集落として知られている。
標高145m程度で、2000年前の炭化米、壺、甕(かめ)、石包丁、鏃(やじり)などなど一万点の遺物が出土したという。 



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   仁淀川に近い、高知市春野町の天皇という場所に建つ天皇神社。ほとんど何も分からない。昔は天皇村という住所だけで郵便物も届いたという。
   古戦場でもあり、椿の花が亡くなった武士たちの魂を思い起こさせた。

   天皇神社というには、あまりにも寂しげな境内。自動車で入り込むと溝にタイヤを落としそうなほど狭い道で、ナビに道が出てこない。やっとのことで元の道に戻ってくることができた。

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   県内大手の本屋さんで、「明石書店の『古代に真実を求めて 第21集』はいつ発売になりますか?」と聞いてみた。一生懸命調べてくれたが、ノー・インフォメーション。何も情報がないとのこと。
   もうすぐ発売ではないんかーい。出たとこ勝負ということか?
   県立図書館には『古代に真実を求めて 第20集』はあったが、第21集は置いてくれるだろうか? 移転のため7月まで休館中なので、微妙な感じである。

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左手の中指を電流の向きに、人差し指を磁界の向きに合わせると、親指の差す方向が力の向きを示す。理科の授業で習った「フレミングの左手の法則」である。
   ところが最近は手のひらで教えているところが増えた。左手の4本指を電流の向きに合わせ、磁石のN極からS極に向かう磁力線を手のひらで受けとめると、親指の差す方向が力の向きを示す。
   なぜそう教えるようになったかと言うと、3本指を使っている時に指がつったというので、教育委員会に苦情が行ったらしい。
   本当かどうかは確認していないが、生徒にも受ける話なので使わせてもらっている。考えてみれば、歴史の一側面をよく表している事例かもしれない。
   例えば、ある人が「そうじゃ、そうじゃ」と言ったので「蒼社川」と名前が付いたといった地名成立譚はいかにも後付けっぽいけれども、話として面白いければ独り歩きして広まっていくことがある。
   歴史を概観する時に、このようなフィルターをかけて真実を見きわめる資料批判の目を持ちたいものである。

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   「タイリ中ニツカアリ」と『長宗我部地検帳』(16世紀末)に記録されている。土佐国の国府は長岡郡にあり、現在、南国市の国分寺がある付近の東側と推定されている。その北の一角が「内裏」と呼ばれており、『土佐日記』で有名な紀貫之邸宅跡とされる。「タイリは大吏」とする研究者もいるが、朝倉慶景氏は「地元の伝承からしても内裏で間違いなし」とする。


   国司ともなれば地元の人々から神のように崇められたのであろうから、その居住地を内裏と呼ぶようになったとでも言うのだろうか? 天皇を頂点とする時代に、たかが国司ごときで天皇気取りとはあり得ない。それこそ中央に知れたら左遷どころではあるまい。
   内裏地名が間違いでなく、紀貫之が原因の地名でもないとすれば、考えられる結論はただ一つ。紀貫之以前、いや引田虫麿(740年)よりも前に、天皇以上の人物が内裏に住んでいた……。

   滋賀県の高良神社に重要な手がかりが隠されていた。古くは高良塚と呼ばれていた場所である。

高良神社 (コウラ)
滋賀県彦根市鳥居本町2462
祭神 武内宿禰命

御由緒
天保三年四月の創立という。『坂田郡志』に「此の地、古へより高良塚と称して一丘の高地なりしが、天保三年四月、この高地を穿ちしに、古鏡二面を発掘せり。依って祠を建て武内宿禰を祭神とす。祭日は五月五日なり。」と記している。

   先ほどの内裏地名の中に「コフラ」という区画がある。どうやら、そこが塚があった場所のようである。昔、菊の紋の入った瓦が出てきたという。その北隣が「宮ノ前」であることからも、かつて高良神社が存在したことがうかがえる。その祭神こそが天皇以上の存在ーーもちろん武内宿祢のことではない。
   菊紋の瓦と言えば……、四万十市蕨岡の高良神社の瓦も菊の紋であった。そもそも久留米市の高良大社自身が菊の紋を掲げていたではないか。



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 高良神社と書いて何と読むか? 漢字自体は簡単であるが意外と読めない。「こうら」それとも「たから」?
   インターネット上で、愛媛県のとある高良神社に「たからじんじゃ」とルビがふってあった。読み間違いか、それとも本当にそう読むのか? また、さる八幡宮の宮司さんが自社境内の高良神社をどう読むか分からなかったという話を聞いたこともある。
   さて、人名でも高良さんという方がいる。『南路志3』で高良神社探しをしていたら、突然次の記事が飛び込んできた。

   琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前である。久留米地名研究会の古川清久氏によると、沖縄県では「たから」、鹿児島県では9割方「こうら」であるという。そう言えば俳優の高良(こうら)健吾は熊本県の出身。NHKの『LIFE』というテレビ番組において、熊本弁でしゃべりまくり、天草のイルカウォッチングを紹介してくれていた。
   いずれにしても、高良という名前の淵源を探ってみる必要がありそうだ。


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 橘の洞門を越えて愛媛県に入った。どうしても確認しておきたいところがある。伊予市の伊予岡八幡神社の境内にある高良神社である。

 伊予岡八幡神社は伊予岡古墳群(6世紀~7世紀初頭)の上に建ち、多くの境内社が鎮座する。


  社殿に掲げられている絵を見ると、上吾川郡に鎮座する十二社を明治42年11月1日、官命によって合祀したと記録されている。その背景には明治39年の神社整理令がある。香川県でもそうであったが、この官命が出されて数年間のうちに、無各社はじめ存続の難しい小社は次々と境内社に取り込まれた。
 しかし、この時合祀された12社の中には高良神社の名前は見えない。多くの境内社が建ち並ぶ中でも、最も高い場所に鎮座しているのが高良神社である。

 何か格式の違いを表しているように見える。そもそも、なぜ高良神社は八幡宮の境内社となったのか? この謎は高良神社探しを始めた時からついて回った。逆に高良神社を探すには八幡宮の境内社を調べればよい……。こうして四国全体では20社以上の高良神社があることが分かってきた。


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塾講師
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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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