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 『堤真一×アメリカ謎の古代遺跡~先住民3000年の記憶~』と題する番組が放映された。番組をチェックしていたわけではないが、縄文人とネイティブアメリカン(インディアン)との繋がりを考える上で、是非とも見ておきたい内容だった。
    まず、チャコキャニオン遺跡(850~1150年)のプエブロボニート(美しい家)。太陽の動きに合わせて造られた建造物。二階の窓から射し込む冬至の太陽の光が壁の角の部分にピッタリとそろうように出来ている。
    縄文時代の遺跡を見てもそうだが、三内丸山遺跡や大湯ストーンサークルなど、冬至の日没や日の出の方角を意識して造られている。アメリカの遺跡は比較的に新しいけれども、冬至を1年の基準とするところは縄文文化と通じるものがある。
    彼ら(プエブロ族)は電気や水道を使わず、民族の伝統を守り抜こうとしてきた。もしかすると日本から渡った縄文人の伝統が引き継がれていた可能性はないだろうか?

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    愛媛県南予郡愛南町御荘平城(ひらじょう)に所在する平城貝塚(県指定史跡)は、明治24(1891)年に高知県の地域史研究者・寺石正路氏によって発見され、早くから知られた縄文時代後期(約3500年前)の貝塚である。その後、昭和初年にかけては愛媛県内の研究者や中央の考古学者が平城貝塚を訪れ、発掘を行っている。本格的な調査は、昭和29(1954)年以降、平成8(1996)年まで5回にわたり、行われた。
    この貝塚は、縄文時代後期の磨消(すりけし)縄文という手法で製作された平城式土器の標識遺跡として著名である。この土器は対岸の東九州の小池原(こいけばる)式土器と類似しており、豊後水道を介した人々の交流がうかがえる。また、貝製の笛や貝製の腕輪、獣骨で作られた漁具、当時の人々が食べた貝殻など、約3500年前の暮らしに密着したた資料が多い。


    一方、九州姫島産黒曜石の分布に注目すると、西四国から石鏃(200本以上)、石錐、尖頭状石器、スクレイパーなど多数出土している。木村剛朗氏は「九州姫島産黒曜石よりみたる西四国縄文期の交易圏(中)」(『土佐史談125号』昭和45年3月)の中で、縄文時代早期の押型文期~前期前葉を黒曜石交易の最盛期とし、次に中期、最後に後期と順位付けしている。そして晩期以降の遺跡、入田弥生遺跡をはじめ弥生期の遺跡からは黒曜石製石器、剥片は発見されておらず、黒曜石交易の終末を示すとしている。
    いずれにしても、縄文人は豊後水道を渡った。

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 ラジオから「南国市の大利さんが幡多荘の研究で平尾学術奨励賞を受賞」というニュースが聞こえてきた。ネットニュースで確認すると以下のような内容であった。

平尾学術奨励賞に高知県南国市の大利さん  中世幡多荘研究で新説
(2018.4.28
  高知県の歴史や民俗などに関する優れた研究をたたえる「平尾学術奨励賞」の第39回受賞者が、仏教大学研究員の大利(おおり)恵子さん(63)=高知県南国市緑ケ丘1丁目=に決まり、公益財団法人高知新聞厚生文化事業団(宮田速雄理事長)が27日発表した。大利さんは、中世の土佐西南部に存在した荘園「幡多荘」の実態について史料から再検証。荘園の範囲や一条家との関係について新説を提示した。
  どのような研究内容なのか、気になっていて調べてみると論文が閲覧できた。その一部を紹介したい。幡多地方を研究する上で参考になることも多そうだ。

九条家領土佐国「幡多郡」の伝領とその特質
大利恵子
はじめに
  九条家領土佐国「幡多郡」は、建長二年(一二五〇)、九条道家が家領を子女に分配した際に、四男実経に分与した四十一ヶ所の内の一所である。処分状に載る家領の中では唯一郡名で挙げられる所領であり、土佐国「幡多郡」という記載に続き本庄、大方庄、山田庄、以南村、加納久礼別符の五ヶ所の荘園名が記されている。
  幡多郡は国造時代の波多国で波多・畑とも書かれ、大化改新によって成立した土佐国に併合されて幡多郡になったと言われ、東西に長い土佐国の西南部約四分の一を占める平野の少ない広大な地域であって、土佐七郡の中では国府があった長岡郡から最も遠い。そのような地に九条家領が形成された要因は何であろうか。

(中略)
②その「幡多郡」については、支証となる文書の類が見い出せないにも拘わらず、九条家一門の間では鎌倉幕府からの支給地であると認識され続けてきた。幕府が一郡を支給するという形で考えられるのは郡地頭職であるが、一方で道家の惣処分状には五ヶ所の荘園名が追記されて幕府給恩の預所の存在が知らされ、この家領の性質が国衙領であるのか荘園であるのか客観的に理解し難い。また惣処分状で追記された五ヶ所の荘園は幡多郡を五分割する単位ではなく、そのうち一ヶ所は高岡郡にあったと考えられる。このことから家領「幡多郡」は幡多郡の郡域と同一ではなく、荘園とその他を含み、加えて高岡郡の一部をも抱え込んだ範囲であり、それは漠然とした、且つ多分に「観念的」な認識であった可能性が高い。

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 古代史の世界で兄弟子と慕う合田洋一氏の5作目となる本が出版された。『葬られた驚愕の古代史』(合田洋一著、2018年5月28日発売 創風社出版)である。サブタイトルは「越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや」となっていることから、いよいよ「紫宸殿」問題に本格的に言及されているのだろう。このテーマは高知県の「内裏」問題とも関連性があるので見逃せない。
 目次は以下のようになっている。いずれも興味深い内容ばかりである。

第一編 伊予に在った古代王国「越智国」
第二編 「日出ずる処の天子・多利思北孤」の伊予行幸
第三編 万葉集を彩る九州王朝の天子・中皇命とは
第四編 九州王朝の天子・斉明と熟田津
第五編 永納山古代山城築造の背景
第六編 九州王朝存在の証―「評」による証言
第七編 越智国に「紫宸殿」あり 九州王朝の幻の首都だった
第八編 天武天皇の謎―「万世一系」系図作成の真相
第九編 「九州王朝」の終焉と新生「日本国」の成立
追編 「古代史の万華鏡」

 さて、合田洋一氏といえば、かつては「道後の敵」とまで呼ばれたことがあった。「道後温泉は日本最古の温泉ではない」「聖徳太子は来なかった」など、歯に衣着せぬ物言いで、地元の観光業界からは、大いに煙たがられたことであろう。しかし敢えて苦言を呈する動機は、「偽りの歴史を残しては、後世の笑い者となる。真実を明かさなくてはいけない」との一念であった。
 近年では「合田さんの言っていたことは正しかった」と地域の名士たちも認め出している。北海道出身の合田氏が古田武彦先生と出会って、還暦から始めた古代史研究が遂に実りを結ぼうとしている。まだまだ解明しなければならない課題は残されている。今後とも、古田史学を基軸とした合田洋一氏の歴史研究に期待したい。


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 『南路志』の高岡郡四万川村に朝日権現(タケウチ)、夕日権現(コウヤ)が並んで登場する。埋蔵金伝説を連想される方も多いだろう。
 『古瓦』(住田正一・内藤政恒著、昭和43年)によると「『朝日輝き夕日さす』という思想は、残された伝説の分布から考えてみると、奈良朝以前、建国の当初から、日本全国に行われていたものではなかろうか」という。多元史観の目で見れば、九州王朝・倭の五王時代にさかのぼれるのではないか。
 一説には倭の五王と関係があるとされる高良玉垂宮。神の系譜と縁起を書いた『高良玉垂宮神秘書』 という本の中に、高良大菩薩(高良玉垂命)には合わせて九人の御子がいて、九躰の皇子と言う、と出ている。久留米市の高良大社の右手にある摂社に、その名前が記されている。

1 斯礼賀志命(しれかし)
2 朝日豊盛命(あさひとよもり)
3 暮日豊盛命(ゆうひとよもり)
4 渕志命(ふちし)
5 谿上命(たにがみ)
6 那男美命(なをみ)
7 坂本命(さかもと)
8 安志奇命(あしき)
9 安楽應寳秘命(あらをほひ)

御祭神 高良玉垂命の御子神九柱(九躰王子)
由緒 阿志岐(山川町鎮座の王子宮(高良御子神社)を明治六年に勧請) 

 なんと「朝日(あさひ)豊盛命」「暮日(ゆうひ)豊盛命」のペアが登場するではないか。高知県といえば坂本龍馬が有名だが、もともと坂本姓は多く、坂本地名、そして坂本神社もある。「坂本(さかもと)命 」まで入れると3点セットが揃うことになる。何か九躰王子との繋がりがあるのだろうか?
 参拝者の中には、御神徳として「無敵の勝利」と書かれているところに、ご利益を感じた人もおられた。

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  『日本書紀』推古21年(613年)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠とすれば、7世紀初頭には既に、古代官道の整備が始まっているようである 。当然ながらこの時代であれば九州王朝の京(山口県の豊浦宮か?)が基点となって官道が造られていったはずである。九州王朝が東日本経営に乗り出す第一歩として、副都としての前期難波宮の建設と交通網としての山陽道の整備であった。
  当然ながら、それ以前は海上交通がメインであった。関西方面へは瀬戸内海の船による移動となるが、船の寄港地となる古代の津がどこにあったか?  それを調べることで、九州王朝が進出していった足取りが掴めるかも知れない。
  古代において、天然の良港とされるのはラグーンや大河の河口である。実は高良神社の分布と古代の津がよく一致していることに、最近気づいた。

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 高知県西部(幡多地方)には「白皇(しらおう)神社」が集中している。グーグルマップを見てもらえば、その異常なほどの密集ぶりに驚くだろう。何か原因があるはずである。もしかしたら神祇伯・白川伯王家との関連性があるのではという妄想から調査は始まった。



    高知県の主な白皇神社を次に挙げる。
  • 四万十市西土佐江川
  • 四万十市双海
  • 高岡郡四万十町八千数(はっせんずう)
  • 高岡郡四万十町宮内
  • 土佐清水市白皇山山頂に鎮座していた神社 ⇒ 白山神社 (土佐清水市)
  • 幡多郡黒潮町田野浦

 古代の幡多郡は高岡郡仁井田郷(現・四万十町)を含むと考えられており、「白皇神社」の分布とよく重なっている。『南路志』などを見ると、かつては「一村一白皇」と思われるほど、ほとんどの村に白皇神社(白皇権現)があった。こうなると統治者による政策の反映としか考えにくい。
    もちろん白川神道の影響は考察する必要があるが、むしろ白山神社の勧請による山岳信仰の繋がりが見えてきた。
    そもそも白皇権現は、四国霊場38番札所「金剛福寺」の奥の院であり、金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。同時期に熊野三所権現や白山権現が勧請されている。すなわち、白皇山(標高433m)を対象とする真言系修験の山岳信仰と位置付けされる。後に神仏分離令により白皇神社となり、白山神社に合祀された。
    白山神社の総本社は、白山比咩神社といい、加賀国の一宮である。現在の鎮座地は、石川県白山市三宮町で、創建は崇神天皇の頃とされている。現在の祭神は、菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀る。
    ところが、高知県西部の白皇神社の祭神はほとんど大巳貴命であり、山岳信仰の色彩は感じられない。弘仁年間の勧請としているところがいくつか見られるが、金剛福寺文書を根拠としているのだろうということが分かってきた。

    一方、愛媛県側では「白王神社」という表記になる。祭神は、菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀るところが多く、白山神社系にも見える。
    その分布はやはり愛媛県西部に集中するが、八幡浜市および宇和島市の海浜部に密集している。もしかすると鯨(いさな)漁など海との関連性があるように思われる。イザナギ・イザナミ信仰の原初的な姿がこの地域から始まっていった可能性も感じられる。
    いずれにしても、高知県の白皇神社分布域と合わせて、一大文化圏をなしているようでもあり、今後の研究課題としておきたい。


高知県西部の「白皇神社」再考①

高知県西部の「白皇神社」再考②


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    須崎市の野見湾を望む場所に鎮座する白王神社(須崎市大谷東勢井166-1)。高知県西部に集中する白皇神社とは一字違いで「皇」ではなく「王」の字を使う。この「白王神社」は愛媛県西部に集中し、高知県内では他に河内白王神社(高岡郡檮原町永野)がある。地図には出ないが、高野山大善寺の鎮守と思われる白王神社(須崎市西町1ー2)もわりと近くに存在する。



    この分布をどう見るか。まずは八幡浜と宇和島という豊後水道を横断する船の渡津地点。海浜部だけでなく県境付近の山地。そして1500年以上の歴史を持つ鳴無(おとなし)神社に近い港町でもある須崎市。古代官道の候補として提起した国道197号線の周辺に分布すると見ることができるのではないだろうか。
    須崎市の白王神社から見える野見湾の海底からは、井戸・階段・あぜ道の跡などの生活遺跡が見つかっており、対岸の戸島神社の周囲からは弥生式土器や茶碗等の陶器の破片も出土している。その昔「戸島千軒、野見千軒」と言われるほどの大集落があったという伝承も残されている。
    そして半島の先端付近には、なんと大長岬という地名が……。「大長」というのは最後の九州年号とも言われ、広島県にも「大長(おおちょう)みかん」で有名な呉市豊町大長という、辺境ではあるが歴史のある港町が存在する。もしかすると、九州王朝の残存勢力が逃げ伸びて、年号を地名として残したのではないかとの想像を巡らせてしまう。


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    浦ノ内湾に静かに鎮座する鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)。「おとなし」と聞くと、なぜか高橋留美子原作『めぞん一刻』の管理人(音無響子)さんを連想する。るーみっくワールドにはまり過ぎたか。
    鳴無神社は1550余年前に創建されたとされており、九州王朝と土佐国の関係を考える上で避けて通れない。地元でありながら、この日(2018/5/21)初めて足を踏み入れた。
    徳島県から二人組の女性が参詣に来られていたが、社務所に誰も居られないようで、御朱印ももらえず、うわさの水に溶ける(エコ素材)というおみくじも引けない。電話までしていたが、宮司さんは毎月1日と15日にしか見えられないようである。
    パワースポットと聞いて県外から足を運んで下さったのに、「ガッカリ名所」になってしまい気の毒であった。少しでも旅を楽しんでほしいと思い、いくつかのスポットを紹介してあげた。「ここのご利益は何ですか?」と質問されて、すぐに思い出せなかったが、そう言えば縁結びの神様でもあった。あまりお役に立てなかったかもしれないが、これも何かの御縁かもしれない。

    さて、味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、別名一言主命(ひとことぬしのみこと)は土佐国一宮土佐神社と同じ祭神であるが、土佐神社は当神社の別宮であったとされている。畿内中心の視点では、一宮である土佐神社が別宮で、西寄りのへんぴな場所にある鳴無神社のほうが本宮というのは理解し難いだろう。
    しかし、九州王朝の使者は豊後水道を船で渡って西からやって来たはずだ。ここは土佐の宮島とも呼ばれる。御由緒にもそのことが伺えるような伝承がある。大神は太平洋岸に上陸されたという。
夏の大祭はお船遊びと称し、大量旗をなびかせた漁船の海上パレードが勇壮に行われ、秋の大祭では神の子の結婚式(チリヘッポ)が厳かに行われる




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 『土佐史談189号』(土佐史談会、平成4年3月)に出原惠三氏の「比江廃寺」という論考がある。

    1990年までの発掘調査の成果、および出土した瓦当文様の分析がとても参考になった。単弁蓮花文(7世紀後半)と複弁蓮花文(8世紀)の軒丸瓦は出土しているが、素弁蓮花文は無し。国分寺跡の出土瓦と同笵があり、出土状況も似ている。国分寺研究サークルのデータ通りである。
    岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、塔礎石の東側に金堂があったとし、法隆寺式の伽藍と推定されている。発掘調査では南方から大量の瓦が出土したものの法隆寺式を肯定する証拠も否定する証拠も確認できなかったようだ。
    そして何より刮目すべき点は「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」との指摘である。土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、まだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかったとの結論は一考の価値あり。
    ちなみに高知県で素弁蓮花文瓦が全く出土していないわけではない。秦泉寺廃寺と大寺廃寺の跡から「有稜線素弁八葉蓮花文軒丸瓦」が見つかっている。高知県では最も古い寺であったと推測される。



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朱儒国民
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非公開
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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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