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 『熊野御幸記』に「下山の後、サカサマ王子に参る。水逆に流る。仍ってこの名ありと云々」とある。和歌山県有田郡湯浅町吉川字岩谷の逆川(さかさがわ)王子神社についての記述であるが、近くを流れる川が海のある西に向かって流れず、東に流れていることからこの名で呼ばれるという。現在の地名・吉川は、この「逆」の字を忌んで付けられたという。
 熊本県天草郡苓北町に「坂瀬川(さかせがわ)」という地名がある。その中心部を流れる松原川が逆流していることから坂瀬川と付けられたと語り聞かされてきたが、語源的にはもう一つの説明もできる。「枷(かせ)」が船を繋ぎ止めるものとして、船を繋留(けいりゅう)する川には「かせ川」「かさ川」等の地名が付けられることが多い。
 高知県南国市岡豊町「笠ノ川」、佐賀県の「嘉瀬川」など、「かさ」「かせ」を含む川地名は全国的に多く見られる。ぜひ船との関連で見てほしい。苓北町「坂瀬川」は島原・天草一揆における「天草四郎乗船ノ地」の碑も建てられている。




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『元号 年号から読み解く日本史』(文春新書、2018年3月刊)は少し前に読んでみたが、「九州年号」についての情報はほとんどないに等しかった。ところが「古賀達也の洛中洛外日記 第1705話 2018/07/14」によると、同書末尾に付されている「日本の年号候補・未採用文字案」(古代から現代までの改元時に提案された未採用年号候補の一覧)の中に「大長」があり、1回だけ候補に挙がっているとのこと。そのような資料が付いていたことは覚えているが、十分に目を通してはいなかった。古賀達也氏によると「大長」は704~712年に使用された最後の九州年号であるという。
 実はこの年号が地名として残されたと思われる場所がある。大長(おおちょう)ミカンの産地として知られるようになった広島県呉市豊町大長である。現在は広島県となっているが、大崎下島もかつては伊予に属し大長(おおちよう)島と呼ばれた。島全体が急峻な山地であるが山頂まで段々畑として耕され,温暖少雨の典型的な瀬戸内式気候によって良質美味の大長ミカンを産する。南東部の御手洗(みたらい)港は帆船時代から内海航路の要所であった。

 ここ豊町大長にある宇津神社(うつじんじゃ)は江戸時代の埋め立て前まで、入江の奥に鎮座し、もとは当社の鳥居が海に面していたと考えられている。
 社伝によれば、初代神武天皇の東征の際に宇津大神、八十禍津日神の先導で、この地に留まったとされている。第7代孝霊天皇の第三子の彦狭島王が勅命を奉じ、伊予に下向した際に、都の鎮守と瀬戸内海の安寧祈願のために大長に奉祀したとされている。また奈良時代の宝亀4年(773年)には、神託により越智七島に大山積の御子など十六王子を分祠したと伝わる。
 越智七島は、中世には生奈島、岩城島、大三島、大下島、岡村島、御手洗島、豊島で構成され、伊予国一宮である大山祇神社の社領を形成していた。この歴史の古さと立地条件を考えると九州年号と無縁であるはずがない。
 1941年大長村の読み方が「おおちょうそん」から「だいちょうそん」に変更されるが、1947年には再び「おおちょうそん」に戻される。年号の読み方を検討する際にこの地名は参考にする必要があるだろう。
 さらに大崎下島の北には帝を連想させる三角(みかど)島があり、三角島にある「美加登神社」は、福岡県の宗像神社の祭神「宗像三女神」を安芸の厳島神社へ勧請(かんじょう)する際、仮宮として創建されたと言われている。
  厳島神社の創建は593年とあることから、三角島の美加登神社もその頃の創建ということになるだろう。美加登神社の裏手には6世紀のものと思われる古墳が2基見つかっており、九州とのつながりが伺える。
 以上のアイデアは古田史学派のU氏から「私も九州年号を見つけましたよ」と大長地名を教えてもらったことを基に、調べてまとめたことを報告しておきたい。

 

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 『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)の中で岡村眞氏は次のように述べている。
 「須崎市野見湾の戸島北側に断層活動によるくい違いを見いだした。ただし、堆積速度から判断すると、断層が動いた時期は今から三、四千年前と見積もられ、伝えられる約千三百年前の白鳳地震とは関係がありそうにない。」(「島は本当に沈んだか」)
 現地の漁師さんに聞くと、野見湾には水深5メートル程度の台地状の地形があり、その縁から急に深くなっているという。断層による地形なのかも知れない。さらに海底に井戸があったとの証言もあり、石包丁などの弥生時代の遺物等の出土もあることから、弥生時代以降にも沈降があった可能性は十分考えられる。

 さて、この野見湾に伸びる岬の地名が大長岬という。古賀達也氏の説によると「大長(704〜712年)」は九州王朝最後の年号とされる。「大正町」のように年号が地名になることは現代でもよくあることだが、この大長岬も年号に由来するものだろうか?

 地名辞典によると「大長崎(おおながさき)」との読みが出ているが、現地の人は「大長岬(おながさき)」と呼んでいた。これはすぐ近くの「小長岬」と対となる地名のようである。
 白鳳地震(684年)によって野見湾及び大長岬ができて、ニ十数年後の復興の時期である大長年間に地名がつけられたとすると……。
 一方、大長みかんで有名な広島県呉市豊町大長(おおちょう)は王朝を連想させる読み方である。はたして、年号の「大長」は何と読むのか?

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 『黒潮のナゾを追う』(高知大学黒潮圏研究所、1991年)で山本大氏は次のように述べている。
 「鎌倉中期の文永十二年(1275)、幡多に船所職がおかれていたことが『金剛福寺文書』にみえるが、中村を中心とする幡多本郷には造船所があったようである。おそらく下田かその周辺であろう。
 古くから甲浦・浦戸・下田などは重要な港として栄えたが、中世においても要港であり、下田の造船はつづいていたようである。明国との貿易のため細川氏によって南海路が開けてからは特に重視された。」
 船所とは平安後期から鎌倉時代にかけての国衙在庁機構〈所(ところ)〉の一つとされ、文永十二年(1275)に慶心(金剛福寺の僧侶か)を幡多本郷の船所職(ふなどころしき)に任じているようだ。幡多地方が海上交通の要所であったことが伺える。

 足摺岬付近は縄文時代においては大分県姫島の黒曜石が入ってきており、中世においては補陀落渡海の出発地にもなっている。日本列島中でも黒潮がぶつかる地点で、海流を利用した航海の技術が蓄積されてきたと考えられる。
 この黒潮航海術は縄文時代以来のものかも知れない。というのも足摺岬には縄文灯台とも言われる鏡岩が存在する。そして魏志倭人伝の最後を飾る「裸国·黒歯国」への渡海、その起点となったのが「侏儒国」すなわち、高知県西部の幡多国であった。

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 昭和55年の第八次調査。『土佐の歴史を掘るーー高知県における発掘調査の成果ーー』(宅間一之著、昭和60年)によると、「「ダイリ」地点は地形的にも微高地であり、国府域が見渡せる地理的条件をもち、その中央部には古くから「国司館址」と伝承されてきた場所もある。~(略)~
かつて「国司館址」一帯は小高い丘であったと言われており、おそらく後世において削平されたものと考えなければならない。」としている。
 『長宗我部地検帳』に記された「タイリ中ニツカアリ」である。「コフラ」という地名もあることから高良塚、すなわち古墳だった可能性が見える。

 『皆山集』に比江村出土古瓦小片の拓本が残されているが、「得重菊全紋瓦」とされていたのは、今で言う「複弁八葉蓮華文軒丸瓦」のようである。また、もう一つは途中で絵が切れているものの「五七桐」の紋が見える。これは高良大社にも縁のある神紋であり、皇族や足利家の家紋にも用いられている。高知県では小村神社、荒倉神社、松尾神社などでも見かけたことがある。

 また「七世紀代の三基の長方形の竪穴住居址のうち二期は、北面の壁近くに、または壁に接して「カマド」を推定させたが、今回も同様「カマド」を推定させるものである。この段階での竪穴住居址内における「カマド」の存在は、南四国ではおそらく最古のものであろう。」といった生活の跡が伺える。

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 高知市朝倉と吾川郡いの町の境に咥内坂と呼ばれる、ゆるやかな坂道がある。古くは標高50メートル程の細長い峯で南と北は繋がっていて1つの山丘であった。国道施設のため切り取られ、今は標高20メートル前後の坂になっている。
 この付近に高良神社に関連する「コウラ」地名があるとにらんでいるのだが、正確な場所までは確定できていない。手掛かりは『長宗我部地検帳』に記録されているホノギ(小字)なのだが、「コウラ城ノ前道懸テ外池アリ」と記録されており、咥内坂を下った西浦、ウネ沢辺りはかつては湿田地帯であり、池があった可能性が見えてきた。


 では付近に城跡があるだろうか。琴平山の周囲には多くの石垣があり、もしかしたらかつて山城があったのではないかと想像させるが、地元の人に聞いても城跡ではないと言う。「コウラ」は東浦、西浦などと同様の「浦」地名に過ぎなかったのだろうか?

 一方「高良神社の分布と横穴式石室の分布が割合一致しているようだ」との指摘もある。特に愛媛県ではその傾向がよく見られる。高良神社は倭の五王との関係が深く、九州系の横穴式石室は年代的に倭の五王の活躍した時代に近い。そして琴平山南斜面には、1~3号墳の枝川古墳群があって、鉄鏃などが発見されている。

 結論を急がず、この問題はもう少し宿題としておこう。


枝川古墳群
琴平山の南斜面に築造された古墳群。

6世紀末~7世紀前半に築造された古墳3基が保存されている。1号墳は径10m前後の円墳で、両袖式の横穴式石室が南東に開口、人骨片のほか銀環や玉類、武具、須恵器などが出土している。2号墳・3号墳は墳形・規模不明。埋葬施設は1号墳と同じ両袖式の横穴式石室で、2号墳は南西、3号墳が南の方向に入口をもつ。出土遺物は鉄鏃や須恵器など。
町指定史跡。出土品も町の文化財に指定されている。

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  高知市を流れる鏡川。その南岸に鎮座する石立八幡宮(高知市石立町54)には武内大臣(武内宿禰:高良神社の祭神にされていることが多い)も祀られていた。高良神社としては見当たらないので、どこから合祀されたのかはっきりしたことは分からない。高知市から吾川郡·高岡郡にかけての県中央部は高良神社の空白地帯であるが、逆に「コウラ」地名遺称は数か所見つかっている。
 古代の海岸線(浦戸湾)はこの辺りまで入り込んでいたと考えられ、近くには弥生時代から中世にかけての遺跡も多く存在する。古くはこの付近に港があったとされる。

 説明板の文字が見えにくくなっているが、御祭神は以下の通り。

    応神天皇 人皇第15代
    神功皇后 応神天皇御母
    多岐理姫 大国主神の御妃
    水速女神 水の神
    玉依姫神 神武天皇の御母
    多岐都姫 恵美須神の御母
    金山彦神 金の神
    狭依姫神 宗像の神
    武内大臣 長寿?護の神
  先祖及び水子の祭壇


境内社:恵美須神社、竃戸神社、国津神社他
由緒:勧請年月は不明であるが、宇佐八幡宮からの勧請と思われる。
 『和漢三才図会巻79』に「正八幡宮在高知天正年中長宗我部元親建之」とあるが、おそらく再建であろう。
 地元で信仰を集めていた社であったが、戦国時代、長宗我部元親が岡豊城(おこうじょう)から大高坂山城(現高知城の山)に遷って来た際、この社が丁度大高坂城の裏鬼門(西南)に当たることから、居城鎮護の社として尊崇され、以来山内氏等の武士からも崇敬されるようになったと伝えられている。
 社殿は明治17年11月23日火災のため全焼、同18年再建したものである。村社西王子宮外十社を合祀。境内に竃戸神社、神母神社がある。

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 「輪抜け様 友の耳には イヤリング」

 かつて横浜中学校の生徒が詠んた俳句にとても感銘を受けた。毎年、6月30日には高知県下の主だった神社で輪抜け様というお祭りが行なわれる。境内に備えられた大きな茅(ちがや)の輪を左回り、右回り、左回り(女性は逆回り)とくぐり抜けて、半年間の穢れを祓いのけてもらうそうだ。
 これは古事記の上巻の天の御柱めぐりの段でイザナギの命は左より、イザナミの命は右から廻ったとの故事にならったとのこと。ただし、高知市内は男女とも左→右→左で統一しているようだ。

 輪抜け様の巨大な茅の輪と友の耳にぶら下がる小さな金属のイヤリングーーこのコントラストが絶妙だと思いませんか?
 さて、輪抜け様というのは高知県だけのことかと思っていたら「茅の輪神事」という名で、自らの罪穢れと社会の罪穢れを祓い去る大祓として、6月30日(夏越の大祓)と12月31日(年越の大祓)に全国の神社で斎行される行事で、歴史は古く、大宝元年(701)に撰修された大宝律令には正式な宮中の年中行事として定められている。
 現在でも宮中では、大祓の儀に先立ち、天皇御自ら「節折(よおり)の儀」により御身を清められるという。この儀式は、背丈をはじめ御身五か所の長さを測った9本の竹の節を折る、天皇ご自身のお祓いである。

高知市内の輪抜け様実施神社一覧

潮江天満宮  高知市天神町19-20

若宮八幡宮  高知市長浜6600
小津神社  高知市幸町9-1
薫的神社  高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社  高知市大津乙3199
高知大神宮  高知市帯屋町2丁目7−2
土佐神社  高知市一宮しなね2丁目16−1
出雲大社土佐分祠  高知市升形5-29
石立八幡宮  高知市石立町54
清川神社  高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮  高知市福井町917
本宮神社  高知市本宮町94
多賀神社  高知市宝永町8−36
仁井田神社  高知市仁井田3514
朝倉神社  高知市朝倉丙2100−イ
郡頭神社  高知市鴨部上町5−8

 土佐市在住の人に聞くと、土佐市では輪抜け様はやっていないとのこと。高知市以外では以下の神社などで行なわれる。今年はあいにくの雨。

椙本神社 吾川郡いの町大国町
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2
新宮神社 南国市十市新宮山



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  毎年6月になると、「あじさいまつり」でにぎわう六條八幡宮(高知市春野町西分3522)は別名「あじさい神社」とも呼ばれる。春野町あじさい愛好会の方々が世話をして下さり、平成12年には境内に一株であったものが、挿し木や奉納で種類と株数を増やし、平成28年には約80種類約1400株にもなって、参拝者を楽しませてくれている。
さて、案内パンフレットを見ると御祭神は次のようになっている。

御祭神
品陀和気尊(第十五代天皇 応神天皇)

※外に明治初年、西分地区にあった小宮の神々を合祀しています。

倉稲魂命(うがのたまのみこと)   
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
天穂日命(あまのほひのみこと)   
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと) 
熊野久須毗命(くまのくすびみこと)
多紀理毘咩命(たぎりびめのみこと) 
市杵島毘咩命(いちきしまびめのみこと)
多紀津毘咩命(たぎつびめのみこと)


  天忍穂耳尊以下は五男三女神に相当し、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれたとされ、八王子神社(春野町弘岡下)の祭神でもある。ここでは明治初年の廃仏毀釈及び神社名変更の達しの際に、西分地区の小宮が整理され、合祀されたことが分かる。
 『高知懸神社誌』(竹崎五郎、昭和6年)によると神母神社外一社を合祭してあるということから、倉稲魂命は神母神社の祭神と思われる。

由緒
  当社は、応永9年(1402年)10月15日に、京都六條左女牛(さめがい)八幡宮から御分霊を遷し迎えた社であり、高知県高知市(旧吾川郡)春野町西分地区の総氏神であります。
  六條左女牛八幡宮は、第70代御冷泉天皇の勅願により天喜元年(1053年)10月15日に京都六條左女牛の地に創建され、六条八幡とも左女牛八幡とも称されました。歴代天皇のご尊崇は申すまでもなく、源頼朝は、建久元年(1190年)に臨時の大祭を行うなど、弟の義経も祖先に倣って社地の近くに居館を構え、常に崇敬の誠を捧げました。御社は、元左女牛西洞院(現本願寺地)にあり、社伝によると、源頼義がその邸内に祀った八幡の若宮であったと云われています。
  土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由としては、文治元年(1185年)にはすでに吾川郡は京都六條左女牛八幡宮の領地として、源頼朝から寄進されていたということであり、同宮の荘園となっていたと云われています。八幡信仰は源氏の氏神であり武家の守護神として中世以降大いに尊信されるに至り、当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなったと思われます。
  土佐「南路志」の中に、吾南(現高知市長浜、春野町周辺)の八幡宮が抽出されており、「西分・東諸木・仁ノ・弘岡下・弘岡中・弘岡上・芳原・秋山・森山」の中で、西分の八幡宮は、六條八幡宮としてその由来が明らかにされています。昔から文武の神として崇敬され、近世では地区の産業の発展・氏子の家内安全・商売繁盛はもとよりでありますが、時には和歌、俳諧などの詠進もあるなど吾南地区の産業・経済・文化面の守護神ともなっています。
  神社境内地及び付近一帯の字名を「大寺」と総称していますが、昔時壮大な寺院が有ったところで、慶長年間に退転したと伝えられています。境内地の山を大寺山と呼び、社地の字名を奥屋敷と称し、続いて中屋敷と呼ぶ地名もあり、寺院の規模も相当大きな伽藍が存在したことが想像されます。
(以上、パンフレットより引用)
 
 土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由として、源頼朝が、大江広元の弟・季厳阿闍梨を別当職に任じ、文治元年(1185年)土佐国吾川郡の地を京都六條左女牛八幡宮領の荘園として寄進したことを根拠として挙げている。『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、集中していると言えなくもないが、他より抜きんでているという程でもない。「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」との指摘、鎌倉幕府と八幡宮の関係についてはさらに調査したいところである。
 東には縄文時代からの西分増井遺跡があり、この界隈は広大な弥生集落も営まれている。さらに、この六條八幡宮の近くは大寺廃寺跡。出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、七世紀頃の創建とされる県下で最古の寺院と考えられている。

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 「古記云、春時祭田之日、謂国郡郷里毎村在社神。人夫集聚祭。若放祈年祭歟也。行郷飲酒礼、謂令其郷家設備也。一云毎村私置社官。名称社首。……」
 古記は大宝令の注釈書で738年(天平十)ごろの成立とされる。『令集解』所引古記が引用する一云によれば、村ごとに神社があり、社首(しゃのおびと)という祭祀者がいて、あたかも地方自治の一翼を担う行政機関のようである。大和朝廷の神祇令によると一般的には祝(はふり)であり、社首は他に見られない。もしかしたら九州王朝時代の制度が、のぞき見えているのかも知れない。
 この一村一社とも言うべき制度は、古代中国の社に遠源を持つのではないかとさえ思われる。『古代中国の社―土地神信仰成立史』(エドゥアール・シャヴァンヌ著、菊地章太訳注、2018年)を読むと、古代中国の社と日本の神社との類似性が見えてくる。

 周・漢の時代に家25軒で里とし、一社を置いている。日本の律令制ではその倍の五十戸を里(さと)としている。いわゆる産土(うぶすな)神とされる村社のルーツが、単に自然発生的なものではなく、行政的な色彩が少なくなかったように思われる。


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朱儒国民
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非公開
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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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