これまで『皆山集1』に九州年号(倭国年号)を3例見い出した。月山神社の「白鳳年間」、菅原道真の刀剣「朱鳥二年八月北」、小村神社の「勝照二年」である。それに加えて新たに4例目を発見した。
「夜須村夜須川分ヲクタニ荒神小宮神社記云来歴不相知但大化二年御鎮座と申傳宝之曰昔ハ香我美長岡安喜郡惣鎮守ニテ……」(P120)
香我美郡夜須村の荒神の鎮座が「大化二年」と伝えられているというのだ。大化の改新が645年(虫殺し)であるから、普通に考えると大化二年は646年になりそうである。しかし『日本書紀』の大化の改新(乙巳の変)の記述には、専門家からも疑問ありと指摘されている。事実そのままではなく、何がしかの書き変えがなされているというのだ。
一方、九州年号の「大化」は695~703年の間使用されたことが分かってきた。そうすると夜須村の荒神の鎮座「大化二年」は696年なのだろうか。『日本書紀』の影響を受けていない本来的な伝承がそのまま伝えられていれば、そうかもしれない。茨城県の「大化五子年」篆刻土師器は7世紀末の九州年号との一致が見られる例である。
いずれにせよ、延喜式内社でもない荒神社が大宝元年(701年、ONライン)以前の鎮座ということは、本当であれば驚くべきことである。しかも昔は香美郡・長岡郡・安芸郡3郡の惣鎮守だったというのだ。この件については更に詳しく調べる必要がありそうだ。
「夜須村夜須川分ヲクタニ荒神小宮神社記云来歴不相知但大化二年御鎮座と申傳宝之曰昔ハ香我美長岡安喜郡惣鎮守ニテ……」(P120)
香我美郡夜須村の荒神の鎮座が「大化二年」と伝えられているというのだ。大化の改新が645年(虫殺し)であるから、普通に考えると大化二年は646年になりそうである。しかし『日本書紀』の大化の改新(乙巳の変)の記述には、専門家からも疑問ありと指摘されている。事実そのままではなく、何がしかの書き変えがなされているというのだ。
一方、九州年号の「大化」は695~703年の間使用されたことが分かってきた。そうすると夜須村の荒神の鎮座「大化二年」は696年なのだろうか。『日本書紀』の影響を受けていない本来的な伝承がそのまま伝えられていれば、そうかもしれない。茨城県の「大化五子年」篆刻土師器は7世紀末の九州年号との一致が見られる例である。
いずれにせよ、延喜式内社でもない荒神社が大宝元年(701年、ONライン)以前の鎮座ということは、本当であれば驚くべきことである。しかも昔は香美郡・長岡郡・安芸郡3郡の惣鎮守だったというのだ。この件については更に詳しく調べる必要がありそうだ。
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龍口刑場跡に建立された龍口寺(神奈川県藤沢市片瀬3−13−37)のホームページによると、次のように説明されており、これが日蓮上人の「龍ノ口の法難」に関する一般的な伝承とされる。
鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。
しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。
翌13日子丑の刻(午前2時前後)、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。
「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。
龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。
<http://ryukoji.jp/>
▲『うちのお寺は日蓮宗』(藤井正雄監修、1997年)
一方、『北鑑』第46巻によると、
それより地頭東條景信に請はれ、鎌倉に庵居し、日夜、法華經を誦し、辻に説法して巡り、文應元年、立正安国論を北條時賴に請上して忿怒を招き、伊豆伊東に流罪されしも、同三年、赦され鎌倉に歸りて諸宗の否を罵りて、土牢に幽せられ、文永八年、龍ノ口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり、斬首を免じ、佐渡に配流さる。
徳のある僧を斬首すれば、船出にあたって不吉であると思い、船乗り達が刑の免除を願い出たというのだ。この話は古田武彦氏が講演中で語られており、東京古田会の副会長に確認したもので、その出典が上記の内容と思われる。
どちらの話がより原初的であるかは、一概には判断しかねる。普通に考えると『北鑑』の記述が事実に近く、後に奇跡譚として語り伝えられるようになったのではないかと思われる。
もちろん、そうであったとしても、決して日蓮の偉大さが損なわれるものではない。いずれにしても、この奇跡が日蓮自身の手紙に書かれているからには、何がしかの事実を反映したものということを否定し難いのではないか。
『北鑑』第39巻には、同じ事件が次のように記されている。2つの伝承があり、先入観をもって安易に判断せず、両方を書き残し後世に判断を委ねたと見るべきであろうか?
文永八年、龍ノ口に断罪となり斬首されんとするに、天日にわかに曇り、稲妻雷音は天の怒るが如く天切りて、刑執行の武士の振りあげたる太刀に落雷して三段に折られたり。
鎌倉時代後期、日本は内乱や蒙古襲来、飢餓や疫病の蔓延など、様々な脅威に包まれていました。それらを憂えた日蓮聖人(1222~1282)は、『立正安国論』を著し、幕府に奏上しました。
しかし、幕府はこれを政策への中傷であると受け止め、文永8年(1272)9月12日、鎌倉松葉谷の草庵におられた日蓮聖人を捕らえ、斬首するために、刑場であったこの地、龍ノ口へ連行したのです。
翌13日子丑の刻(午前2時前後)、土牢から引き出された日蓮聖人は、敷皮石(座布団状の石に皮を敷く)に坐らされ、評定の使者も待たず、あわや斬首になるときでした。
「江ノ島の方より満月のような光ものが飛び来たって首斬り役人の目がくらみ、畏れおののき倒れ」(日蓮聖人の手紙より)、斬首の刑は中止となりました。
龍ノ口刑場で処刑中止となったのは日蓮聖人をおいておらず、爾来、この出来事を「龍ノ口法難」と呼び習わしています。
<http://ryukoji.jp/>
▲『うちのお寺は日蓮宗』(藤井正雄監修、1997年)
一方、『北鑑』第46巻によると、
それより地頭東條景信に請はれ、鎌倉に庵居し、日夜、法華經を誦し、辻に説法して巡り、文應元年、立正安国論を北條時賴に請上して忿怒を招き、伊豆伊東に流罪されしも、同三年、赦され鎌倉に歸りて諸宗の否を罵りて、土牢に幽せられ、文永八年、龍ノ口にて斬首の刑に蒙らんとせるも、陸奥の安東船なる龍飛十郎兼季の船出に不吉とて願ひあり、斬首を免じ、佐渡に配流さる。
徳のある僧を斬首すれば、船出にあたって不吉であると思い、船乗り達が刑の免除を願い出たというのだ。この話は古田武彦氏が講演中で語られており、東京古田会の副会長に確認したもので、その出典が上記の内容と思われる。
どちらの話がより原初的であるかは、一概には判断しかねる。普通に考えると『北鑑』の記述が事実に近く、後に奇跡譚として語り伝えられるようになったのではないかと思われる。
もちろん、そうであったとしても、決して日蓮の偉大さが損なわれるものではない。いずれにしても、この奇跡が日蓮自身の手紙に書かれているからには、何がしかの事実を反映したものということを否定し難いのではないか。
『北鑑』第39巻には、同じ事件が次のように記されている。2つの伝承があり、先入観をもって安易に判断せず、両方を書き残し後世に判断を委ねたと見るべきであろうか?
文永八年、龍ノ口に断罪となり斬首されんとするに、天日にわかに曇り、稲妻雷音は天の怒るが如く天切りて、刑執行の武士の振りあげたる太刀に落雷して三段に折られたり。
安芸郡安田町安田2170の安田八幡宮は安田町役場の道路を隔てた西側にあった。安田川の河口付近で、かなり海に近い場所である。『南路志』に「正八幡宮」と記され、単なる「八幡宮」よりは歴史が古く、九州との関係が深いとする指摘もある。
弥生土器の出土や8世紀に写経された大般若経が保存されていることからも、歴史の古さがうかがえる。高良神社がある可能性が高いと見ていたが、境内社を探しても社名や祭神が分からない。御祭神三柱は「足伴津彦命」「気長足姫命」「応神天皇」。
最初の「足伴津彦命」とは「足仲彦天皇」のことで、『古事記』や『日本書紀』に記される第14代仲哀(ちゅうあい)天皇である。「気長足姫命」は、『日本書紀』に記されている「神功皇后」で、仲哀天皇の皇后であり、応神天皇の母に当たる。何でも御神体は三つの厨子に納められ、社記には「古(いにしえ)よりこれを開かず」とある。
この親子(父神・母神・子神)が祀られている
形態は宇佐神宮などとはやや異なる。通常の八幡宮では仲哀天皇の代わりに比売大神が祀られている。どちらがより原初的な姿なのか、いずれ深く掘り下げていく必要があるかもしれない。
さて、右手奥の摂社が気になったが、現地では何の情報も得られなかった。『新安田文化史』(安田町、1975年)を開いてみると、「境内社若宮神社には、高良玉垂命、息長帯姫命、仁徳天皇を祀る」とある。高良玉垂命が祀られていたこと自体驚きであるが、この並びは高良玉垂命と息長帯姫命(神功皇后)があたかも夫婦であることを暗示しているかのようである。
ついに開けてはならない箱が開きかけてきたといったところか。その他、公式的に発表していることは、以下の案内板からの引用をご参考に。
安田八幡宮 国登録有形文化財
○玉垣 藩政期築:石造
創建は安田領主安田三河守と伝えられ、鎌倉時代に安田に移住した、惟宗氏が安田を領有し、安田の地名から安田氏を名乗り、領地の鎮守として安田八幡宮を造営しました。八幡宮は安田家代々の鎮守として特に信仰が厚く、度々神殿の新築や改築を行い、社領を寄進しました。
足伴津彦命、気長足姫命、応神天皇を祭神としていて、昔から安田・西島・唐浜・東島・中山・馬路の総鎮守として崇敬されてきました。
参道の玉垣を構成する石柱には八幡宮に信仰を寄せる寄進者の名や、天明(1815)年、天保(1843)年、嘉永元(1848)年などの寄進年月、山形屋、久保屋、松屋、加茂屋、福枡屋、北方屋、浦吉屋などの屋号の彫られた石柱が並んで、廻船や林業がもたらせた安田の繁栄ぶりが偲ばれます。
【参道入り口の説明板より】
安田八幡宮 (旧郷社)
県指定文化財 大般若経所蔵
弥生式土器 出土地
安田八幡宮は、太古より安田川流域の総鎮守として敬われ、足伴津彦命、神功皇后、応神天皇を祭神している。
創建は明らかではないが領土惟宗(これむね)朝臣安田三河守と伝えられ、古記により文永10年(1273年)以前と推定される。
神宝の大般若経は、神亀4年(727年)当時の、名もなく貧しい一般民衆財物を出しあって、安田庄内の智識(信仰集団)により、600巻が経写された。
この大般若経は、天地異変、流行病の退散祈願、五穀豊穣、あるいは出陣のとき戦争を祈る等、大きな行事のとき社殿に籠って、僧侶が何日もかかって600巻を称えたものである。
永正10年(1513年)時の領主安田三河守親信から当社に奉納されたもので、昭和45年(1970年)高知県文化財に指定された。(現存541巻)
弥生式土器(つぼ)は、昭和7年(1932年)当社境内地より出土。
古代より、この地に人の生活の営みがあったことを立証する貴重財である。
【参道玉垣の傍にある説明板より】
『古代国府の成立と国郡制』(大橋泰夫著、2018年)の目次は以下の通り。
序章 国府成立をめぐる諸問題/各地における国府の検討(東海道/東山道/北陸道/山陰道/山陽道/南海道/西海道)/国庁の構造(政庁と長舎/長舎を用いた政庁の成立/7世紀以降の大極殿院・朝堂院/長舎を多用した政庁から定型化国庁へ/国庁・郡庁の祖型/長舎の出現と政庁建物の構造/国庁と駅家)/国府事例の検討(出雲国府成立と出雲国の形成/常陸国府と台渡里官衙遺跡群の成立/下野国府成立と下野国の形成)/国府成立の総括的検討(国庁・国衙の成立と存続期間/郡衙代用説・国司館代用説の検討/国庁の成立/瓦葺建物からみた国府の整備/国府成立と前身官衙/文献・出土文字資料と国府成立)以下細目略/付論1 地方官衙と方位/付論2 地方官衙成立期の瓦葺建物/結語 国府成立と国郡制
「著者は国府の成立を7世紀末~8世紀初めと考えて、国郡制形成の中で大きな意義を認めている。しかし、このように考える意見は少なく、全国的に国府が独立した官衙施設として設置されるのは8世紀第2四半世紀以降であるという説が有力である」としており、山中敏史氏の研究によると「構造の違いや所在地において断絶を示す例(筑後国古宮Ⅱ期官衙、仙台市郡山遺跡Ⅱ期官衙)がある点から、8世紀前半以降の国府との間に質的な大きな違いを考えた」とあるように、7世紀と8世紀の間に第一の画期があることを指摘している。
文献的には『日本書紀』の記述を根拠に、7世紀以前にさかのぼらせたい説もあるようだが、発掘調査が示す大和朝廷による中央集権的国府成立の画期は、やはり大宝律令前後であったと見るべきだろう。
それを裏付ける内容が「付論1 地方官衙と方位」にデータとして紹介されている。地方官衙や国府に正方位が採用されたのが、ほぼ一律に8世紀以降となっている。7世紀後半の評衙とされる遺跡の多くは正方位を採用せず、規格性が乏しいとされる。ここに九州王朝と大和朝廷との統治体制の差異が表れているように見える。
やはり701年を旧王朝(old:九州王朝)と新王朝(new:大和朝廷)との画期である「ONライン」とする古田武彦氏の指摘が妥当であったことが分かる。
『近世寺社伝資料『和州寺社記』・『伽藍開基記』』(神戸説話研究会、二〇一七年)という本を図書館で見つけて、中を開いてみると、「中宮寺は推古告貴三年、聖徳太子の御母間人皇后の御願所にて、〜」(頁三四)とあり、『和州寺社記』からの引用が出ていた。
また、橘寺の「推古光充二年<丙寅>皇居を以って寺とし給う」(頁七五)についてはホームページ「新・古代学の扉」に出ているものと同文のようだ。
その他、「白鳳」「大化」なども出てきおり、九州年号が満載である。そもそも寺社の縁起等に九州年号がよく残されているため、僧侶の手による私年号との説もあるくらいだ。
しかし、その分布が全国的であり、連続性を持っていることから見ても、私的な年号とは考えにくい。大和朝廷以前の倭国・九州王朝によるものと考えてこそ、整合性があると言えよう。
また、同書464〜469ページに「一年少ない年数」に関する藤田琢司氏「『元亨釈書』について」の指摘を紹介している。いわゆる干支が通常より一年後のものになる問題に対する解決案である。
高知県においても『皆山集 第一巻』(松野尾章行編)に天満宮の宝刀「 御剣銘に朱鳥二年八月北」(三五六頁)があり、「北=子」の意味で使用されているとすれば、ここでも“干支ずれ”の問題が生じていることになる。もしかしたら藤田氏の論考が解決の糸口になるかもしれない。
しかし、その分布が全国的であり、連続性を持っていることから見ても、私的な年号とは考えにくい。大和朝廷以前の倭国・九州王朝によるものと考えてこそ、整合性があると言えよう。
また、同書464〜469ページに「一年少ない年数」に関する藤田琢司氏「『元亨釈書』について」の指摘を紹介している。いわゆる干支が通常より一年後のものになる問題に対する解決案である。
高知県においても『皆山集 第一巻』(松野尾章行編)に天満宮の宝刀「
高良神社の祭神は八幡神の叔母に相当し、より格上の存在であるーー安芸郡の高良神社調査の最後に驚くべき話を聞いた。高良神社の祭神・高良玉垂命に関しては諸説あるが、未だにはっきりとしたことは分かっていない。“高良神社の謎”を追い求める長旅の末に、謎の扉にやっと手がかかったような手応えを感じた。
そもそも男性神なのか、女性神なのか。実はこれすらも結論は出ていない。高良神社の祭神を武内宿禰命と紹介しているところもあるが、ここ甲浦八幡宮では女性神ととらえ、「高良玉垂命=武内宿禰命」説を否定していることになる。
①八幡宮の祭神は一般的には「応神天皇、神功皇后、比売大神」であり、同じ安芸郡の田野八幡宮では比売大神の位置に高良玉垂命が祀られていた。②室戸市では石清水八幡宮(京都府)から勧請された八幡宮が多いが、安芸郡では宇佐八幡宮(大分県)から勧請されたものが多い。③大分県の宇佐八幡宮では比売大神を中央に祀り、応神天皇と神功皇后は両脇に祀られている。④応神天皇の叔母になるのは神功皇后の姉妹。虚空津比売命(そらつひめのみこと)と與止日女命(よどひめのみこと)の二人の妹が知られている。⑤肥前国一ノ宮である與止日女神社(佐賀県佐賀市大和町川上1ー1)の主祭神・與止日女命は「八幡宗廟之叔母、神功皇后之妹」にます尊い神様であり、一説に豊玉姫命(竜宮城の乙姫様で、神武天皇の御祖母にます)とも伝えられている。 これらは『肥前国風土記』の「神名帳頭注」に"神功皇后の妹で與止姫神(またの名を豊姫・淀姫)"とあることを根拠としているようだ。
以上の考察から、甲浦八幡宮境外摂社・高良神社の祭神・高良玉垂命を與止日女命に比定しているのだろう。ぜひとも小野宮司さんに一度、お話をお聞きしたいものである。それにしても、高良神社のお祭りの日に合わせたかのごとく台風24号が襲来するとは……。
今回の調査の最終目的は何と言っても高知県最東端の高良神社である安芸郡東洋町河内662-1の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社にあった。八幡宮から東へ50メートルほどの場所に向かい合うように高良神社が鎮座する。
当初はそれほど重要視していなかったが、実見して分かることもあった。甲浦港は室戸岬の東側にあって重要な港である。台風が多い地方において深く入り込んだ湾が風避けの港として適している。
高良神社が鎮座する場所に関して、大きく2つのグループに分けられるように思う。1つは九州王朝の水軍が拠点とした河口津など、大きい川や港に近接する地域(海彦型)。特に古墳地帯と重なっていれば歴史の古さが裏付けられ、倭の五王が勢力を拡大していった際の足跡を反映するのではないかと思われる。
もう1つは内陸の山間部に鎮座する高良神社群(山彦型)である。はじめは例外的なものかと思っていたら、長野県にも見られるように、数的にも多いことが判明してきた。こちらは「神稲(くましね)」「神代(くましろ)」などの地名との関連が指摘される(淡路国三原郡神稲郷、現在の兵庫県南あわじ市の高良神社など)。
さて、日没も近づいてきたので帰途に向かおうとしたが、ふと引き返して、洗車中の男性に質問してみた。
「お取り込み中のところすいません。高良神社のお祭りなどは行われていますか?」
「今月(9月)の29、30日がそうです。29日が宵宮ですから、聞きたいことがあったら八幡宮の小野宮司さんに聞かれたらいいですよ。なんでも高良神社の神様は八幡の神様より格が上だと聞いています」
「そうなんですか!」
驚いたように相づちを打ったが、内心では「我が意を得たり」という心境である。聞くところによると、高良神社の祭神は八幡神の叔母に当たるそうなのだ。これはどういうことだろう。誰のこと指しているのか。もちろん、古い史料など残っていないだろうから、人間的な解釈や判断による部分もあることを想定して考えなければならない。
(後編に続く)
室戸市吉良川町甲2413の御田八幡宮(祭神:誉田天皇、神功皇后)、室戸市佐喜浜町5621の佐喜浜八幡宮(祭神:応神天皇)にも寄ってみたが、高良神社は見つからなかった。この二社は旧郷社で、いずれも京都男体山の石清水八幡宮を勧請したものとされている。
野根八幡宮の脇宮として高良玉垂神社が存在しているという情報は以前から掴んでいて、リストにも加えていた。東洋町ホームページに以下のように紹介させている。
1 野根八幡宮の概説
高知県安芸郡東洋町野根小字中ノ坂に鎮座する野根八幡宮は、九州宇佐八幡宮の分社で祭神は応神天皇。鎌倉時代、野根宗惟氏の創建と伝承され、昔は八幡宮付近は野根川の川尻だったと言われています。古い棟礼記録には、室町時代・長享2年(1488)に若狭了泉、長亮3年(1489)に推宗兵庫亮長親、永禄9年(1566)に地頭惟宗右衛門助国長。江戸時代初期の慶長6年(1601)に富永頼母(甲浦・野根・佐喜浜代官)まどがあります。
ついに現地にやって来た。ホームページの記載によると野根八幡宮は九州宇佐八幡宮の分社であり、右に若宮神社、左に高良玉垂神社が祀られているのは、先に調査した羽根八幡宮(もと石清水八幡)とよく似ている。にも関わらず、勧請先が異なるのはやや疑問が残る。
境内に足を踏み入れてまず目にしたのは皇太神宮鳥居が残念なことになっていたことだ。つい最近のことだろうか。過去の写真では折れていない状態で撮影されている。本殿右横の脇宮が若宮神社、そして左の脇宮が高良玉垂神社のはずであるが……。
何ということだろうか。土台と屋根だけが残された状態で、見るも無惨な姿であった。なぜこんなことになったのか? そういえば先日の台風21号、高知市をそれて東側を通過してくれたので、ほとんど被害もなく助かったと思った。ところが室戸を直撃したため、室戸市や安芸郡近辺では甚大な被害が出たようだ。
とかく人間は、自分及び自分の身の回りのことしか考えられないエゴイスティックな存在なのかも知れない。現地の惨状を見聞して、改めて隣人への思いやりの欠如を恥じ入った。一日も早い復旧を願うばかりである。
野根八幡宮の脇宮として高良玉垂神社が存在しているという情報は以前から掴んでいて、リストにも加えていた。東洋町ホームページに以下のように紹介させている。
1 野根八幡宮の概説
高知県安芸郡東洋町野根小字中ノ坂に鎮座する野根八幡宮は、九州宇佐八幡宮の分社で祭神は応神天皇。鎌倉時代、野根宗惟氏の創建と伝承され、昔は八幡宮付近は野根川の川尻だったと言われています。古い棟礼記録には、室町時代・長享2年(1488)に若狭了泉、長亮3年(1489)に推宗兵庫亮長親、永禄9年(1566)に地頭惟宗右衛門助国長。江戸時代初期の慶長6年(1601)に富永頼母(甲浦・野根・佐喜浜代官)まどがあります。
社格は旧郷社、すなわち野根全域の氏神ですが、現代の氏子は、もと野根浦四町の在籍者(転出者も含む)が主体です。明治6年12月12日の火災で、本殿拝殿はじめ古記録すべてが焼失。翌年に再建。現在は、本殿・拝殿・通夜堂・御輿倉・脇宮二社(左側が高良玉垂神社・右側が若宮神社)のほか、境内社として皇太神宮、金比羅神社、琴平神社があります。また皇太神宮鳥居の元に力石2基(38㎏と61.5㎏)があります。
ついに現地にやって来た。ホームページの記載によると野根八幡宮は九州宇佐八幡宮の分社であり、右に若宮神社、左に高良玉垂神社が祀られているのは、先に調査した羽根八幡宮(もと石清水八幡)とよく似ている。にも関わらず、勧請先が異なるのはやや疑問が残る。
境内に足を踏み入れてまず目にしたのは皇太神宮鳥居が残念なことになっていたことだ。つい最近のことだろうか。過去の写真では折れていない状態で撮影されている。本殿右横の脇宮が若宮神社、そして左の脇宮が高良玉垂神社のはずであるが……。
何ということだろうか。土台と屋根だけが残された状態で、見るも無惨な姿であった。なぜこんなことになったのか? そういえば先日の台風21号、高知市をそれて東側を通過してくれたので、ほとんど被害もなく助かったと思った。ところが室戸を直撃したため、室戸市や安芸郡近辺では甚大な被害が出たようだ。
とかく人間は、自分及び自分の身の回りのことしか考えられないエゴイスティックな存在なのかも知れない。現地の惨状を見聞して、改めて隣人への思いやりの欠如を恥じ入った。一日も早い復旧を願うばかりである。
当初は野根山街道越え(国道493号線)で甲浦行きを計画し、途中まで行ったものの、土砂崩れで通行止め。国道55号線に引き返すことになった。秋分の日も過ぎて日の入りも早くなってきた。どこまで行けるか分からないが、行けるところまで行ってみよう。
室戸岬へ向かう海岸通り。室戸市羽根町乙戎町1318の羽根八幡宮(祭神:神功皇后、誉田別尊、玉依姫尊)に到着した。もと石清水八幡と称したが、明治元年3月の達しにより改称。県東部には石清水八幡系(京都府)の八幡宮が多いのは確かだが、宇佐八幡宮(大分県)から勧請された八幡宮も混在している。
羽根八幡宮も旧郷社で、多くの境内社が存在する。本殿の右手には稲荷神社(祭神:宇賀能魂神)と若宮八幡宮(祭神:大鷦鷯天皇)、左手にも境内社が二社ある。その右側、本殿寄りの境内社が高良玉垂神社であることが判明した。祭神は高良玉垂命とし、「武内宿禰命、武内大臣とも云」と補足説明を加えている。
しかし、京都の石清水八幡宮では本殿内に武内宿禰命を祀り、高良神社は麓(ふもと)の摂社として存在するので、「高良玉垂命=武内宿禰命」説を否定している。高良明神と武内大臣を並列して描いた七社御影もこの二神が別神であることを裏付ける。
いくらか予想はつけていたものの、新たな高良玉垂神社の発見は、高知県の高良神社分布図を塗り変えることになりそうだ。
田野八幡宮(安芸郡田野町淌涛2851)の御祭神は「応神天皇、神功皇后、高良玉垂命」ーー後で確認したところ、確かに『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)に出ている。高良神社の祭神「高良玉垂命」がそのまま八幡宮の祭神として祀られていたのである。八幡宮の祭神は「応神天皇、神功皇后、比売大神」とするのが一般的であり、比売大神は通説では宗像三女神と解釈されているようだ。どうした訳か、その比売大神の位置に高良玉垂命が置き換わっているのである。
実はこの田野八幡宮については以前のブログ記事で一度触れたことがある。佐川町の鯨坂八幡宮に関する記事である。「乃木坂46」「欅坂46」など、今では人気のネーミングであるが、どうして海のない佐川町の山の中に鯨坂なのか? それはかつて鯨漁が盛んであった安芸郡から勧請されたからだ。
『土佐太平記』(明神健太郎著)による鯨坂八幡宮の祭神と田野八幡宮の祭神形態がほぼ一致する。そして何より、田野八幡宮一の鳥居から歩いてすぐ南は土佐湾。太平洋に面しているのである。地図上でも調べることはできるが、現地に来てみなければ、この実感は得られない。
もしかしたら田野八幡宮はかつて鯨坂八幡宮と呼ばれ、ここから佐川町の鯨坂八幡宮が勧請されたのかも知れない……。妄想は海原のごとく広がっていく。

実はこの田野八幡宮については以前のブログ記事で一度触れたことがある。佐川町の鯨坂八幡宮に関する記事である。「乃木坂46」「欅坂46」など、今では人気のネーミングであるが、どうして海のない佐川町の山の中に鯨坂なのか? それはかつて鯨漁が盛んであった安芸郡から勧請されたからだ。
『土佐太平記』(明神健太郎著)による鯨坂八幡宮の祭神と田野八幡宮の祭神形態がほぼ一致する。そして何より、田野八幡宮一の鳥居から歩いてすぐ南は土佐湾。太平洋に面しているのである。地図上でも調べることはできるが、現地に来てみなければ、この実感は得られない。
もしかしたら田野八幡宮はかつて鯨坂八幡宮と呼ばれ、ここから佐川町の鯨坂八幡宮が勧請されたのかも知れない……。妄想は海原のごとく広がっていく。
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『探訪―土左の歴史』第20号
(仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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