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 ホワイトデー(3/14)に佐賀嬉野温泉日帰りの旅をしてきた。と言っても、のんびり温泉に浸かったり、観光を楽しむためではない。のっぴきならない急用ができたためだ。
 もし、許されるものなら、研究テーマとなっていた太良町(淑人がいた「多良」はどこか?)や河上神社(佐賀県「與止姫伝説」の分析)など、寄りたいところは山のようにあった。ただ、嘉瀬川や脊振山系を見ることはできたので、ブログに書いてきたことが単なる妄想ではなかったと手応えは感じられた。また、折しもこの日に、佐賀県でも弥生時代の硯(すずり)が発見されていたことが報道されていた。

 さて、佐賀市大和町、嘉瀬川の上流に鎮座する肥前国一宮・與止日女(よどひめ)神社(別名・河上神社)には「鯰(なまず)」に由来する伝説が残っているという。『肥前国風土記』に、以下の記述がある。
 「此の川上に石神あり、名を世田姫といふ。海の神鰐魚を謂ふ年常に、流れに逆ひて潜り上り、此の神の所に到るに、海の底の小魚多に相従ふ。或は、人、其の魚を畏めば殃なく、或は、人、捕り食へば死ぬることあり。凡て、此の魚等、二三日住まり、還りて海に入る」

 この魚がナマズと考えられており、祭神の使いであるナマズを土地の人は食べないという話を聞いていたので、本当にそうなのか、地元の人に質問してみた。
 「ああ、淀姫さんですね。長年地元に住んどりますけど、あんまり知らんとです。元々、ナマズを食べる風習自体なかけんですね」
 そう言われればそうだ。好んでナマズを食べている日本人が一体どれくらいいるだろうか? それよりは河上神社のことを本当に地元の人は「淀姫さん」と呼んでいるという事実を知ることができたのが新鮮だった。
 ナマズと言えば、後漢(一世紀前葉)の班固の書いた『漢書』地理志に、「倭人」と「東鯷人(とうていじん)」のことが対句のように記述されている。「鯷」は鯰(なまず)を意味する漢字である。

 「樂浪海中有倭人分為百餘國以歲時來獻見云」(楽浪海中に倭人有り。分かれて百余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 「會稽海外有東鯷人分爲二十餘國以歳時來獻見云」(会稽海外に東鯷人有り。分かれて二十余国を為す。歳時を以て来り献見す、と云う。)

 古田武彦氏も「東鯷人」問題ではかなり悩み考えた跡が伺える。『邪馬壹国の論理 古代に真実を求めて』(2010年)に、次のような考察があった。
 第二字「鯷」が難関だった。“東のなまずの人”では何とも奇妙だ。……「東鯷人」とは“東の一番はしっこの人”という意味になるではないか。
 ……(中略)……
 “倭人の、さらに東の一番はしっこに当たる、とされる「東鯷人」とは何者か”――その答えは、もはや疑う余地もない――“銅鐸圏の人々”である。(P249)

 古田氏は「東鯷人」の「鯷」について、第一義的な鯰との関連を否定してしまった。意味が通じないと考えたためであろう。しかし、意外にも鯰を祀る人々は肥前・肥後を中心にかなりの広がりがあった。
 民俗学の谷川健一氏も「この東鯷人はナマズをトーテムとする人種と解することが出来る」としてこの記事に注目。「それらの住む国がどこであるか不明とされているが、強いてそれをわが列島の中に求めるとするならば、九州の阿蘇山の周辺をおいて他にはない」と『古代史ノオト』(1975年) のなかで述べている。
 阿蘇には大鯰(なまず)の逸話が伝わっていて、阿蘇神社の祭神、健磐龍(たけいわたつ)命の「蹴破り神話」とも呼ばれる。昔、阿蘇は外輪山に囲まれた大きな湖であったとされ、健磐龍命は湖水を流して田畑を拓くため、外輪山を蹴破る。そして湖の水は流れ出したが、大鯰が横たわり水をせき止める。健磐龍命はこの大鯰を退治し、湖の水を流すことに成功した。
 この大鯰の霊は、阿蘇の北宮と呼ばれる「国造神社」の鯰宮に祀られ、国造神社では鯰を眷属としている。『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)を見ると、阿蘇信仰をはじめとして、九州を中心に鯰をトーテムとした信仰の広がりがあることがよく分かる。


 東鯷人についての記載は「呉地条」の最後にある。この東鯷人は会稽郡治(今の蘇州付近)を通して貢献していることから、呉国との関係が強かったことは容易に想像できる。
 古く、呉人の風俗が提冠提縫とされる。提も鯷と同様、鯰の意。すなわち呉人は鯰の冠を被るという。BC473年、呉が滅亡したことで東シナ海を渡って九州方面に逃れた人々もいたようだ。中国では倭人を「呉の太伯の子孫」とする説がある。
 『漢書』地理志の記述は、呉地において「鯰」をトーテムにする人々がいることを周知の事実としながら、海の向こうにも、鯰を祀る「東鯷人」がいることを伝え、読者もそのように解釈することを予測した表記に思える。
 東鯷人を“銅鐸圏の人々”と結びつける古田説も魅力的ではあるが、「呉」との関係の深さを検討した上で、再考証を要する問題なのではなかろうか。


 

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 春分の日(3月21日)に『扶桑略記』を見ていたら「六十九年己丑四月,天皇春秋百歲,崩」のように「天皇春秋○○歳、崩」という記述がいくつかあった。昔の天皇は百歳も生きたのか。長生きだったんだなあ。なんてことを思う人もいるかもしれないが、この記述に遭遇して、これは「二倍年暦」なのではないかと考えた。
 『魏志倭人伝』に裴松之の注として「其俗不知正歳四節但計春耕秋収爲年紀」(その俗正歳四節を知らず、ただ春耕秋収をはかり年紀となす) とある。これが古代における「二倍年暦」を示唆する文献的な根拠として、古田史学では「短里説」と並ぶ一つの柱となっている。


 古田史学の会・関西例会(2019年3月16日)が大阪市中央区のエル大坂で開かれた。「『扶桑国』はどこにあったか?」「古事記を歴史書として読む」など、NHKカルチャーの講師としても名高い神戸市の谷本茂氏から「二倍年暦」モデル想定案がいくつか発表された。その中でも蓋然性の高いモデルとして、次の計算式が示されている。

「二倍年暦」モデル

基本の1年*=180日(=15日×12)[1年*=12カ月*]
5年*に1回の閏月*(=15日)を置く。
180×5+15×1=915日/年* →平均183日/年*[366日/年]
*印は「二倍年暦」における年や月

 これは一月を15日とし、一年を12か月とするモデルで、春に1才歳をとり、秋にも1才歳をとるので、今の暦と比べると2倍の年齢になる。日本の伝統行事(お盆と正月)や風習(1日、15日の月次祭)などと照らし合わせても、あまり矛盾がなさそうである。有力な考えと言えそうだ。
 三内丸山遺跡(青森県)や大湯環状列石(秋田県)など、縄文時代の遺跡は冬至や夏至に合わせて造られた建造物が多い(「縄文人はカレンダーを持っていたか?」)。その点から考察すると、二倍年暦では‘春一年’の始まりは冬至、‘秋一年’の始まりが夏至だったのではないか。そうだとすると「春分の日」は単に彼岸の中日となるだけでなく、冬至から夏至までの‘春一年’を真ん中で分ける日、まさに「春分の日」という言葉がピッタリなのではなかろうか。

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 以前から考えていたことだが、日本の神社には先例となるものがあったのではないだろうか。一般に神道考古学では、日本の神道は磐座(いわくら)や神木などの自然物を崇拝するところから自然発生的に誕生し、社殿や鳥居は後に造られたーーといった説明がなされる。

 自然の中に神様を見出し、崇敬する心は誰しもが持つ感情であり、そういう信仰心を否定するつもりはない。問題は神社組織が形成された時、国家権力の関与があったかどうかという点である。

 『古代中国の社 土地神信仰成立史』(E.シャヴァンヌ著・菊地章太訳注、2018年)を読むと、周〜漢代の「中国の社」に関する記述には、古代日本の統治制度と関係があるのではないかと思われる点が見られる。いくつか紹介しよう。
 里は二十五家からなり、そこにひとつの社がある。里には春二月の吉日に土地の社をまつることが義務づけられていた。(P10)

 古代日本では2倍の五十戸を里(さと)としていた。神社では春の大祭が行われる。

 天子は封建諸侯に国を封じるとき社稷を設けさせた。小司徒という官吏がそれを補佐した。[『周礼』によれば]九畿のそれぞれに「社稷の土壇を築き、土地の神とあがめる樹木を植える。土地ごとにふさわしい樹木を選んだので、それぞれの国の社は樹木の名で呼ばれた」という。(P11)


 神社には鎮守の森があり、神木が祀られていることもある。「杉尾神社」「松尾神社」など樹木の名で呼ばれる神社名が存在する。


 「……州長が管轄する地域では、社がひとつ置かれたが、稷は置かれていない。これは州長が師団長の役目をはたしたことにつながっている。古代には軍隊が出動するとき、師団長は社をかたどった[主という]板をたずさえたが、稷の板はたずさえなかった」とある。(P11)

 ご神幸やおなばれのルーツとも考えられる。お神輿は軍隊が出動する際に、神様を伴って行くための社をかたどった板に相当する。

 漢代には皇帝のもとでも、また諸侯の公国にあっても、社稷は周代の封建社会にすでに存在したのと同じ形態を示した。漢王朝の統治機構を採用したいくつもの王朝においても同様である。それは唐にいたるまでつづいた。(P12)

 「漢委奴国王」の金印を授かった倭国も漢王朝の統治機構を採用した可能性が高い。
 社のある場所には土壇が築かれた。(P15)

 古い書物は社の土壇を冢土と記す。……
 漢代に宮廷に置かれた社、すなわち太社は五十歩四方の土壇を有した。壇の四方にそれぞれの方角に対応する色の土が盛ってある。東は青、南は赤、西は白、北は黒、壇の上部は黄色い土である。諸侯の社はその半分の二十五歩四方の土壇を有した。その壇には領地の方角に対応するいずれかの色の土が盛ってあった。(P16)

 後漢の状況については蔡邑の『独断』の記述にあきらかである。すなわち「天子の社では五色の土によって壇が築かれた。……(P18)

 境内に相撲の土俵がある神社も多い。壇に相当するものがあった神社や天子宮の存在。「段」や「壇」地名もあると聞く。

 以上のことから、古代中国の影響を考えるべきであるが、神道は日本古来のものとされている建前上、認めたくない部分も多いだろう。けれども、日本は中国大陸との国交を通じて、政治や経済、文化など沢山の恩恵を受けてきた。
倭国時代に「中国の社」の制度を取り入れて、統治システムの一環として神社制度を創り上げていったとしたら……。
 里ごとに置かれた神社が、今に伝えられる産土(うぶすな)神につながるーーいわば古代における「一村一社(一里一社)」制である。


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 最新の「四国の高良神社分布図」(2019年2月現在)を発表したところ、「住吉神社についてはどうですか?」との質問を受けた。『古田史学会報』144号で「住吉神社は一大率であった」とする奈良市の原幸子さんの論稿がある。近畿は「住吉神社」を設置した時点から九州王朝の治世下にあったとする考察で、一見突拍子もないが、『住吉大社神代記』の分析による論拠は、一笑に付すことのできない内容がある。『魏志倭人伝』には、次のように書かれている。
 「自女王國以北 特置一大率 検察諸國 諸國畏揮之 常治伊都國 於國中有如刺史」
 すなわち、女王国の北側には、特別に一大率(いちだいそつ)を置いて諸国を監察させており、諸国は畏(おそ)れている。女王は常に伊都国で治めており、中国(漢、魏)の刺史(しし、監察官)のようだというのである。

 筑後国の一宮・高良大社の祭神に住吉大神が含まれており、九州王朝の水軍と関連があるのではないかというイメージは以前から持っていた。その住吉神社の分布が高知県ではどうですかとの質問の意図であろう。
 高知県のいくつかの住吉神社が浮かんだが、「資料を見てみないとはっきりは分かりません」と答えた。多いような、少ないような漠然としたイメージしかなかったが、『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)を開けば、神社数上位のランキング表があったので確認できると踏んでいた。


 ところが、実際に表を見てびっくり。10社以上のランキング表に載っていない。一桁しかないということだろうか。そこまで少ないというのは意外な気がして、すぐに数え上げることにした。その結果22社が確認できた。多いというほどでもないが、妥当な線であろう。しかし、なぜこれほどポピュラーな住吉神社がランキング表から漏れたのであろうか。
 『鎮守の森は今』は著者・竹内氏のフィールド・ワークと神社愛によって書かれた本なので、多少の漏れや間違いがあっても、文句を言う筋合いなどない。むしろ、県内の神社に関する基本資料を作っていただいて感謝するばかりである。
 調査結果としては、県内にバランスよく分布しているという状況が掴めた。一覧表を作成したので、ご
参考までに。


神社名現住所祭神
住吉神社香南市吉川町吉原住吉大神
住吉神社香南市夜須町手結底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社室戸市浮津町三筒男命
住吉神社安芸郡奈半利町横町底筒男命、中筒男命、表筒男命
住吉神社安芸市本町一丁目不明
四社住吉神社香南市吉川町吉原三筒男命、級津彦神
住吉神社南国市前浜不明
住吉神社南国市大埇船岡山底筒男命外三神
住吉神社高知市春野町甲殿上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、応神天皇
住吉神社高知市長浜三筒男命
住吉神社高知市池三筒男命
住吉神社高知市浦戸・桂浜三筒男命
住吉神社吾川郡いの町勝賀瀬三筒男命
住吉神社須崎市浜町一町目不明
住吉神社四万十市下田三筒男命
住吉神社高岡郡津野町水野筒男三柱命
住吉神社高岡郡中土佐町久礼底筒男命外四神
住吉神社須崎市上分乙樽三筒男命
住吉神社幡多郡大月町大浦三筒男大神
住吉神社土佐清水市下ノ加江三筒男神
住吉神社宿毛市山奈町山田三筒男命、神功皇后
住吉神社宿毛市小筑紫町小浦三筒男命


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 『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)によると、阿蘇神社の分霊をお祀りした神社は、全国に約500社あるという。内訳としては熊本県に461社、大分県に32社、福岡県に8社、宮崎県に5社、長崎県に4社と九州に大半が集中する。その他、青森県を北限とし本州に13社、そして四国では愛媛県に1社が鎮座している。
 そしてこの1社がどこかというと、愛媛県松山市に九州阿蘇系の神社があることを既に過去のブログで取り上げていた。「愛媛県の高良神社⑤ーー高家八幡神社 境内社」で紹介した高家八幡神社(松山市北斎院町295)である。祭神は健磐龍命(たけいわたつのみこと)、應神天皇、仲哀天皇、神功皇后、三女神となっている。神武天皇の孫・健盤龍命(たけいわたつのみこと)を祀り、かつては阿蘇宮といい、大徳寺の南西(現津田中近く)にあったという。
 高家八幡神社を訪れるまでは、恥ずかしながら阿蘇神社(熊本県阿蘇市)の祭神が健磐龍命(たけいわたつのみこと)であることを知らなかった。そもそも四国では他に健磐龍命を祀っているところを聞かない。それもそのはず、『鯰考現学』では四国で1社だけとなっている。
 阿蘇山には何度も登り、熊本地震の前も後も阿蘇神社の前を通過した。けれどもその重要性に気付かず素通りしてしまっていた。『隋書俀国伝』にも「阿蘇山あり」と書かれているように、「日出ずる処の天子」を自称した阿毎多利思北孤(あまたりしほこ、聖徳太子ではない)の治める国は阿蘇山と深い関係がある。
 健磐龍命は阿蘇神社が奉斎する阿蘇山の神としての性格を持つほか、阿蘇神社では神八井耳命(神武天皇の子)の子と伝える。その阿蘇神社と愛媛県松山市の高家八幡神社(旧阿蘇宮)とどのようなつながりがあったのだろうか。
 松山市には古代において「久米評」があった。かつて「郡評論争」と呼ばれる議論があり、結論として、大宝律令の施行(701年)以前に「郡」に先立つ「評」という行政単位が存在していたことが立証された。大和朝廷が評制を制定したという記録はないなので、一元史観の学者たちは評の存在を認めたくなかったが、700年以前の「〜評」と記された木簡が出土しており、701年以後は「〜郡」に変わる。「評」は大和朝廷以前の王朝、すなわち九州王朝によって制定された行政単位だったと考えられる。
 熊本県には球磨郡久米郷(現・多良木町)があり、愛媛県にも久米評(現・松山市)が存在していた。「久米評」と刻まれた6×7cm前後の須恵器の破片が発見され、評衙が松山平野に存在していたことが明らかとなったのである。伝承によると健磐龍命の第3子、健岩古命が伊予国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったと言われている。

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 臼杵の市内には、いたるところに古い歴史と文化を物語る石造物があります。なかでも、稲田にある臼杵神社の境内には、県内でも珍しい石造物があります。その形が、甲冑に身を固めた武人(頭部はつくられていない)に似ているところから、石甲(せっこう)とも短甲型石人(たんこうがたせきじん)とも呼ばれ、国の重要文化財に指定されています。
 この神社がある小高い丘のようなところは、今から千五百年以上前の古墳時代に築かれた全長87mの前方後円墳で、古代このあたり一帯を支配していた豪族「海人部(あまべ)」の墳墓にあたります。そして、この墳墓の上に立てられた石人は、ここに葬られたものを守衛する番兵としての武人の役割を果たしていたと考えられます。また、この石人について、このあたり一帯では昔から語り伝えられていることがあります。それは、この石人を臼(うす)と杵(きね)に見立て、「臼杵」という地名はこの石人から起こったものであるというものです。

 二基の石人は、長い間野ざらしになっていたこともあり、だいぶ痛んでいますが、その表面からわずかながらも朱の痕跡を認めることができます。おそらく、これらがつくられた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。
(https://www.kireilife.net/contents/area/history/1193852_1504.htmlより)


 “臼杵石仏に刻まれた「正和四年」は九州年号か?”では古代にさかのぼる有力な根拠を示すことができなかったが、最新の情報から新たな可能性が見えてきた。結論から言うと、「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵に淵源を持つということである。

 
 昨年、徳島県で赤色顔料「水銀朱」の原料となる辰砂(しんしゃ)を採掘していた坑道が見つかった。弥生時代後期から古墳時代初頭にかけ、辰砂が採掘されていた若杉山遺跡(阿南市水井町)で、入り口付近から辰砂の原石が22点、石杵が10点、内部から石杵が12点が見つかったという。これは日本最古の坑道として注目された。
 その約5km離れた加茂宮の前遺跡から、今度は縄文時代後期の水銀朱生産に関連する遺跡が見つかったのである。徳島新聞に次のように報道された。

 徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
 
 石臼の大きいものは直径約30センチ、石きねは同約10センチ。生産した水銀朱を貯める土器、表面に水銀朱を塗った土器の破片や耳飾りが多く見つかり、関連した遺物の出土数は1000点に上った。水銀朱生産の一大拠点とされる三重県度会町の森添遺跡などでも縄文後期の石臼や石きねが見つかっているが、数十点にとどまる。
 

 調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
 
  センターによると、辰砂原石は約5キロ離れた若杉山周辺から採取された可能性が高いとみられる。土器の模様には九州の土器に類似した特徴があり、「当時から地域交流をしていたことがうかがえる」としている。
 
 県教委などは2016年度から加茂宮ノ前遺跡を調査しており、弥生時代中期末-後期初頭(約2千年前)の層から、鉄器や水銀朱の生産拠点とみられる集落跡を確認。今回の発見で水銀朱の生産、利用時期は約1500年以上さかのぼることが明らかになった。

 平安時代末期に阿波国那賀郡の南部が分立して海部(かいふ)郡ができた。高知県土佐市宇佐には海部(あまべ)郷、そして大分県臼杵市の海人部(あまべ)とくれば、これらの地域が海上交通でつながりをもっていたことが伺える。

 また、臼杵市周辺に伝わる「朝日長者伝説」は金の鉱脈に関連深い説話であるが、水銀と金の鉱脈はほぼ重なっていると指摘されている。とすれば臼杵市も古代における水銀朱の一大生産地であった可能性が高い。「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵だったのである。


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 ホーキング博士の宇宙論がブームであった大学時代、理学部物理学科で人気の研究室は量子力学と宇宙物理学であった。どの研究室に進むべきかと迷っていたが、敢えて誰も行こうとしなかった地震学の研究室へと進んだ。


 昔はそれほど注目されなかった分野であるが、今となっては地震や災害の専門家は引っ張り凧である。元東大地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)氏は、四万十市における地震津波対策を推進するにあたってのアドバイザーであり、防災講演会を開いたりしている。高知新聞にも広告が出ている『歴史地震の話〜語り継がれた南海地震〜』(都司嘉宣著、2012年)を読むと、歴史文献に対する造詣の深さに驚かされる。

 というのも、防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事であり、歴史時代の地震を知るには、各地の旧家や寺社に残された古文書が大きな手がかりとなる。地震学者の都司氏にとって、本来は専門外であった膨大な古文書のデータを集め、コツコツと解読作業を続けてきた。

 その都司嘉宣氏が四万十市における防災講演会の中で、『魏志倭人伝』の話に触れたという。『魏志倭人伝』には女王・卑弥呼のいる邪馬壹国が記されており、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」、つまり豊後水道を渡ると倭種の国がある。その南には「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と記されている。
 都司氏は「邪馬台国=北九州」説に立ち、そこから方角、距離の記述を解き、侏儒国は幡多にあたると語った。すなわち「侏儒国=幡多国」説である。
 もしかして都司氏は古田武彦説をご存じなのではないかと思って調べてみると、やはり接点があった。古田氏が立ち上げた「国際人間観察学会」の会報『Phonix』No.1(2007)に都司氏の寄稿があるようだ。題名は「Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon」。

 さて、都司氏の「侏儒国=幡多国」説のポイントは、2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長1mほどの「こびとの人種」の化石(約1.8万年前、ホモ・サピエンスとは異人種)が見つかっており、このフローレス島人(ホモ・フローレシエンス)が海流に乗って幡多にやってきたという推論である。
 侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の人が住んでいたと記されている。都司氏は自ら四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけたというのだ。
 「猩々」とは中国の想像上の生き物で、少年の姿をして舞う赤い妖怪とも言われる。まさに「侏儒」(小人)あるいは「朱儒」(朱は赤あるいは南に通じる)の国である。


 フローレス島人と結び付けられるかどうかは今後の研究課題であるが、「侏儒国の痕跡を沖の島(宿毛)に見た 」(『なかった 真実の歴史学』第六号、2009年)と題する合田洋一 氏の論稿にも「侏儒国=幡多国」説を補強する有力な論拠が示されている。

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 今回は大長(おおちょう)ミカンの産地として知られる広島県呉市豊町大長ではなく、再び高知県須崎市の「大長岬(おながさき)」について。“地名として残された最後の九州年号「大長」①”を書いた当初は、これを年号由来地名(大正市場で有名な大正町など)とするのは無理筋と感じていた。ところがその後、九州王朝とつながるいくつかの根拠が見つかってきた。


▲野見湾の中央に突き出した大長岬

①コウラ地名

 大谷から、久通に通ずる坂道を法印坂とよぶ。絵のように美しい野見湾を眼下に見るこの坂の中腹に「法印さん」と呼ぶ石碑がある。昔からこの法印さんは平家の落人ではないかといわれている。法印さんが坂の麓に立っているところを船小浦(ふなこおら)というところから弓で射た。(『須崎市史』P1306より)

 現在も大谷小浦という地名が野見湾の奥にあり、河原川という川が流れている。単独なら地形由来であろうが、複数隣接することから、高良神社由来地名の可能性あり。大長岬とも近い。「小浦の聖さま」の昔話も伝わる。
▲野見湾の奥に大谷小浦、河原川の地名


②1300年前の伝承

 今から約1300年前に人魚を食べて、八百年も長生きた八百比久尼の話が伝えられている。内容の真実はともかく、ONライン(701年)前後の伝承が残る。最後の九州年号「大長」は704~712年の間、使用された。

③猫神社(須崎市多ノ郷乙)

 現在は猫を祀る隠れスポットとなっているが、最初から猫を祭神とするだろうか。本来は稚倭根子彦(ワカヤマトネコヒコ、開化天皇)あたりを祀っていたものかもしれない。

④鳴無神社の由緒

 旧記によれば、この大神此の地に鎮座したのは、今より一五五〇年余(西暦四六〇年)の昔、雄略天皇の四年十二月晦です。大神は天皇との間に諸事有って京の葛城山を出られ、船に乗って海に浮び浦ノ内南半島の太平洋岸にご上陸。海水煮き火食せられ、その立ち上る煙を見た里人が行って見ると、現人神であられたので、尊び敬って大神と御船(金剛丸)を担ぎ、山を越え玉島(現社殿地)に迎えた。そして宮殿を建て大神を奉安し、御船は社殿右脇の山に封じ、御船山として注連縄を張り、大切にしている。(パンフレットの御由緒より)


 鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)の祭神は一言主命(味耜高彦根神)とされているが、土佐神社の元宮とも考えられ、古くは「お船遊び」とも呼ばれていた志那禰(しなね)祭が毎年8月に行われている。『南路志』では祭神として「級長津彦命」「級長津姫命」を併記する。

 由緒には大和朝廷一元史観の影響が見られるが、ONライン以前の5世紀の事跡であれば九州王朝を中心に再解釈する必要がある。鳴無神社は浦ノ内湾側にあり、大神は太平洋側に接岸している。ただし、半島のすぐ南側は船を停泊できそうな港がない。少し西になるが、須崎湾か野見湾あたりが九州方面からの船の停泊港として適しているようだ。

 以上、①〜④の内容は野見湾に九州王朝の船団が来ていたことを示唆し、九州年号が地名として残された可能性も、まんざら否定できないと考えられる。須崎市の野見湾に突き出した「大長岬」は最後の九州年号「大長」を反映した地名なのだろうか。


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 土佐清水市足摺岬の白皇神社について、「高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社」のところで、次のように説明した。


 白皇権現は、四国霊場38番札所「金剛福寺」の奥の院であり、金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。同時期に熊野三所権現や白山権現が勧請されている。すなわち、白皇山(標高433m)を対象とする真言系修験の山岳信仰と位置付けされる。後に神仏分離令により白皇神社となり、白山神社に合祀された。

 これが幡多郡に集中する白皇神社の弘仁年間勧請の根拠だと当初は考えた。ところがよく精査してみると、いくつかの白皇神社は弘仁年中(810~824年)、宿毛市山田村からの勧請であり、その時点で既に勧請元となる本宮が存在していたことになる。すると金剛福寺の創建より若干早そうだ。
①白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市横瀬・久才川)
弘仁年間、宿毛市山田大物川の清陀神社を勧請。

②白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市具同字宮ノ下)
弘仁年中、宿毛市山田村大物川に坐す大巳貴神を勧請。



 この山田村(現:宿毛市山奈町山田)は平安時代初期の幡多五郷の一つの山田郷や中世の山田郷の中心地であり、政治的にも重要な地域であった。平田古墳群の近くであり、芳奈遺跡や小島遺跡などのように弥生時代から古墳時代にかけての土器が多量に出土する。波多国造が治めた波多国の国庁近くの穀倉地帯の一つと考えられる。
 山田八幡宮に幡多郡の社頭家が置かれたことから、宗教的にも中心であったのだろう。少なくとも2社、弘仁年中に山田村から白皇神社の勧請がなされたという伝承が残っているということは、実質はもっと多くの白皇神社がその当時、幡多郡の村々へ一斉に勧請された可能性が見えてくる。
 そして『高知県神社明細帳』に次の記載のある白皇神社こそが、山田村の本宮あるいは奥宮的な位置づけではなかったかと推測する。

高知県土佐国幡多郡山田村字一生原宮ノコウラ鎮座
無格社
白皇神社
一祭神 大己貴命
一由緒 勧請年月縁起沿革等未詳
○神社牒云白皇権現(一曰白皇四社又白皇権現二座小宮)右弘仁年中勧請ト云伝記文無之不知宮床弐代御山方根居ニ不入無貢革室(へん革つくり室)谷八尺ニ一丈茅葺地下作事内ニ三尺四方板葺小宮有之、宮林長二十五間横拾五間南新田、西川、東北明所山限、鰐口一


 一生原(いっちゅうばら)は山田から15kmほど山道を入った大物川の上流で、かつては森林鉄道も通っていたが、小学校も廃校となり、平成16年度の中筋川総合開発によるダム建設のため、一生原地区の氏神を八幡宮境内に遷座した。残された須多ノ舞神社では毎年宮司が通って神事が行われ続けているようだ。さらに注目すべきは、白皇神社の鎮座地の小字が「宮ノコウラ」となっていることだ。どう考えても高良(こうら)神社の宮跡としか思えない地名である。とすれば弘仁年間以前に高良神社が鎮座していたことになる。


 中古以来、卜部(吉田)・白川の両家が各々その家法によって祭式を一般神職に伝授した。地方の神職は京都に上ってその伝授を受けて、神道裁許状を授けられ、あるいは受領位階の勅許を得て神道状を受ける。これを俗に「京官を受けに行く」と言っていた。
 神祇伯であった白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた吉田兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
 くり返すが、幡多郡のみ社頭家による「吉田家直支配」がなされたことは、古来より幡多地方がいかに重要であったかが分かる。
『南海通記』(香西資成著)にも「上古ハ御領ニシテ領主ニ属セス」と記されている。「上古」という表記は摂関家・一条教房公の幡多郡下向(1468年)より、もっと古い時代を指している。


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 「裏の小山の小池に子鴨が200羽、小米1俵。子鴨小米かむ、鴨米かむ」
 どちらかというと無口であった父はかつて、そんな早口言葉を言っていた。

 徳島県に新たな高良神社を発見! 鴨神社(三好郡東みよし町加茂字山ノ上3250)の境内社・国瑞彦(くにたまひこ)神社に合祀されている26社のうちの一つである。よって高良神社としての社殿や祠があるわけではない。
 国瑞彦神社には、以下の26社が合祀されていると記されている。
 鎮守神社・幸神社・宇賀比神社・八幡神社・若宮神社・八将神社・山塚神社・木神社・友與志神社・市坪神社・荒神社・高良神社・市杵島姫神社・熊丸鎮守神社・杉尾神社・松尾神社・毘沙門神社・古塚神社・稲荷神社・藤木神社・厳神社・若宮神社・奥森末神社・日吉神社・日之出神社・会川八幡神社。

 確かに「高良神社」が含まれている。できれば旧鎮座地を知りたいところだ。また、隣りの境内社・天神地祇社には、以下の27社が合祀されている。
 奥成山神社・熊丸山神社・谷奥山神社・秋葉神社・奈良神社・三島神社・愛宕神社・山神社・出雲神社・両皇神社・神通神社・神通龍神社・神通大山祇神社・神通愛宕神社・速大神社・妙見神社・榧森神社・天満宮・荒神社・蛭子神社・大谷山神社・井神社・境神社・金毘羅神社・伊勢神社・奥谷神社・奥森神社。

 他の境内社として豊受大神宮社ほか3社が祀られている。

 『式内社調査報告』には明治末の神社合併に際し天神地祇社に19社、国瑞彦神社に35社が合祀されたとある。数的なバランスをとったのだろうか。現在は国瑞彦神社に26社、天神地祇社に27社が合祀されている。
 これまで徳島県における神社合祀の実態がなかなかつかめずにいたが、そのリストを見れば他県ではあまり聞かないような社名も多く、多元的に捉える必要がありそうだ。杉尾神社・松尾神社などは高知県にもあり、一見ありふれた名前だが意外と珍しい。神社には土地に合った木が植えられ、その木の名前で呼ばれたという「中国の社」に淵源を持つようにも思える。
 いずれにしてもこれだけの数の神社が合祀されていたとなると、「一町村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情のあるものは合祀におよばず。云々」とする明治39年の神社合祀令が、この地域ではかなり忠実に実行されたと考えられる。ここでの「一町村一社」は古代における「一村一社」とは反対の性格を持ち、増え過ぎた神社を整理しようとするものである。南方熊楠らが反対運動を展開したことは以前
神社合祀令に反対した南方熊楠」で紹介した。
 合祀された時点では国瑞彦神社や天神地祇社は単立の神社であっただろうから、その後鴨神社の境内社に取り込まれるという2段階の神社整理があったのではないか。地元の史料を確認する必要があるかもしれない。
 さて、阿波國美馬郡の延喜式内社に比定される鴨神社の祭神は別雷命・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神。創建は不詳。社伝によると貞観2年(860年)以前、京都上賀茂神社より勧請。

 「鴨祠、延喜式小祀と為す加茂村に在り旧事紀に所謂、事代主の神孫鴨王是也、延喜式大和高市、鴨事代主神あり白川氏、宮川河原氏世々祝と為る」(『阿波志』)

 京都の賀茂社といえば、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)であるが、上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖・賀茂別雷大神 。『阿波志』の記述に白川伯王家の伯家神道が垣間見える。


▲那賀川沿いの阿南市「加茂宮ノ前遺跡」

 個人的には高良神社の発見に浮かれていた頃、世の中では考古学界に激震が走るようなニュースが流れていた。2019年2月18日(月)、 縄文の「朱」の生産拠点、阿南・加茂宮ノ前遺跡で国内最大・最古級の祭祀と居住一体となった遺構が出土したことが翌日(2月19日)、徳島新聞朝刊の第1面に報じられたのである。


 来たー。加茂宮ノ前遺跡というからてっきり、高良神社を合祀する国瑞彦神社を境内社に持つ鴨神社の前から出土したと思い込んでいた。新聞記事をよく確認したら、三好郡東みよし町ではなく反対側の阿南市の那賀川沿いの遺跡であった。古代阿波国(『古事記』では大宜都比売、オホゲツヒメ)が水銀朱の一大産地であったことが明らかとなる大発見だ。
 私が「高良神社の謎」を追っているのは、高良神社マニア(そうなりかけている感もあるが……)だからではなく、一つには九州王朝の足取りをつかむ目的がある。では、これほど重要な場所に九州王朝は進出しなかったのか。ご心配なく。隣りの勝浦郡勝浦町(旧・森村)に高良神社があったことまでは確認している。那賀川の地名にも福岡県の那珂川に通じるものを感じさせる。こちらはまだ調査してから発表しようと思っていたが、時が急がれているようである。地元からの情報提供もぜひお願いしたい。



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朱儒国民
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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