以前から考えていたことだが、日本の神社には先例となるものがあったのではないだろうか。一般に神道考古学では、日本の神道は磐座(いわくら)や神木などの自然物を崇拝するところから自然発生的に誕生し、社殿や鳥居は後に造られたーーといった説明がなされる。
自然の中に神様を見出し、崇敬する心は誰しもが持つ感情であり、そういう信仰心を否定するつもりはない。問題は神社組織が形成された時、国家権力の関与があったかどうかという点である。
『古代中国の社 土地神信仰成立史』(E.シャヴァンヌ著・菊地章太訳注、2018年)を読むと、周〜漢代の「中国の社」に関する記述には、古代日本の統治制度と関係があるのではないかと思われる点が見られる。いくつか紹介しよう。
天子は封建諸侯に国を封じるとき社稷を設けさせた。小司徒という官吏がそれを補佐した。[『周礼』によれば]九畿のそれぞれに「社稷の土壇を築き、土地の神とあがめる樹木を植える。土地ごとにふさわしい樹木を選んだので、それぞれの国の社は樹木の名で呼ばれた」という。(P11)
神社には鎮守の森があり、神木が祀られていることもある。「杉尾神社」「松尾神社」など樹木の名で呼ばれる神社名が存在する。
「……州長が管轄する地域では、社がひとつ置かれたが、稷は置かれていない。これは州長が師団長の役目をはたしたことにつながっている。古代には軍隊が出動するとき、師団長は社をかたどった[主という]板をたずさえたが、稷の板はたずさえなかった」とある。(P11)
漢代には皇帝のもとでも、また諸侯の公国にあっても、社稷は周代の封建社会にすでに存在したのと同じ形態を示した。漢王朝の統治機構を採用したいくつもの王朝においても同様である。それは唐にいたるまでつづいた。(P12)
「漢委奴国王」の金印を授かった倭国も漢王朝の統治機構を採用した可能性が高い。
古い書物は社の土壇を冢土と記す。……
後漢の状況については蔡邑の『独断』の記述にあきらかである。すなわち「天子の社では五色の土によって壇が築かれた。……(P18)
境内に相撲の土俵がある神社も多い。壇に相当するものがあった神社や天子宮の存在。「段」や「壇」地名もあると聞く。
以上のことから、古代中国の影響を考えるべきであるが、神道は日本古来のものとされている建前上、認めたくない部分も多いだろう。けれども、日本は中国大陸との国交を通じて、政治や経済、文化など沢山の恩恵を受けてきた。倭国時代に「中国の社」の制度を取り入れて、統治システムの一環として神社制度を創り上げていったとしたら……。
里ごとに置かれた神社が、今に伝えられる産土(うぶすな)神につながるーーいわば古代における「一村一社(一里一社)」制である。
高知県のいくつかの住吉神社が浮かんだが、「資料を見てみないとはっきりは分かりません」と答えた。多いような、少ないような漠然としたイメージしかなかったが、『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)を開けば、神社数上位のランキング表があったので確認できると踏んでいた。
ところが、実際に表を見てびっくり。10社以上のランキング表に載っていない。一桁しかないということだろうか。そこまで少ないというのは意外な気がして、すぐに数え上げることにした。その結果22社が確認できた。多いというほどでもないが、妥当な線であろう。しかし、なぜこれほどポピュラーな住吉神社がランキング表から漏れたのであろうか。
『鎮守の森は今』は著者・竹内氏のフィールド・ワークと神社愛によって書かれた本なので、多少の漏れや間違いがあっても、文句を言う筋合いなどない。むしろ、県内の神社に関する基本資料を作っていただいて感謝するばかりである。
調査結果としては、県内にバランスよく分布しているという状況が掴めた。一覧表を作成したので、ご参考までに。
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『鯰考現学 その信仰と伝承を求めて』(細田博子著、2018年)によると、阿蘇神社の分霊をお祀りした神社は、全国に約500社あるという。内訳としては熊本県に461社、大分県に32社、福岡県に8社、宮崎県に5社、長崎県に4社と九州に大半が集中する。その他、青森県を北限とし本州に13社、そして四国では愛媛県に1社が鎮座している。
熊本県には球磨郡久米郷(現・多良木町)があり、愛媛県にも久米評(現・松山市)が存在していた。「久米評」と刻まれた6×7cm前後の須恵器の破片が発見され、評衙が松山平野に存在していたことが明らかとなったのである。伝承によると健磐龍命の第3子、健岩古命が伊予国へやってきて、久米部、山部小楯の遠祖になっていったと言われている。
二基の石人は、長い間野ざらしになっていたこともあり、だいぶ痛んでいますが、その表面からわずかながらも朱の痕跡を認めることができます。おそらく、これらがつくられた当初は全面に朱が施され、さぞかし鮮やかな武人像であったと想像されます。(https://www.kireilife.net/contents/area/history/1193852_1504.htmlより)
“臼杵石仏に刻まれた「正和四年」は九州年号か?”では古代にさかのぼる有力な根拠を示すことができなかったが、最新の情報から新たな可能性が見えてきた。結論から言うと、「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵に淵源を持つということである。
その約5km離れた加茂宮の前遺跡から、今度は縄文時代後期の水銀朱生産に関連する遺跡が見つかったのである。徳島新聞に次のように報道された。
徳島県阿南市加茂町の加茂宮ノ前遺跡で、古代の祭祀などに使われた赤色顔料「水銀朱」を生産したとみられる縄文時代後期(約4千~3千年前)の石臼や石きね300点以上や、水銀朱の原料の辰砂原石が大量に出土した。水銀朱に関連した遺物の出土量としては国内最多。生産拠点として国内最大、最古級だったことが明らかになった。県教委と県埋蔵文化財センターが18日、発表した。
調査面積は約1万平方メートル。祭祀に使っていたとみられる石を円形に並べた遺構14基や住居跡2基も見つかった。縄文後期の居住域と祭祀の遺構がまとまって確認できたのは西日本で初めて。
平安時代末期に阿波国那賀郡の南部が分立して海部(かいふ)郡ができた。高知県土佐市宇佐には海部(あまべ)郷、そして大分県臼杵市の海人部(あまべ)とくれば、これらの地域が海上交通でつながりをもっていたことが伺える。
また、臼杵市周辺に伝わる「朝日長者伝説」は金の鉱脈に関連深い説話であるが、水銀と金の鉱脈はほぼ重なっていると指摘されている。とすれば臼杵市も古代における水銀朱の一大生産地であった可能性が高い。「臼杵」の臼(うす)と杵(きね)は水銀朱を生産するための臼と杵だったのである。
昔はそれほど注目されなかった分野であるが、今となっては地震や災害の専門家は引っ張り凧である。元東大地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)氏は、四万十市における地震津波対策を推進するにあたってのアドバイザーであり、防災講演会を開いたりしている。高知新聞にも広告が出ている『歴史地震の話〜語り継がれた南海地震〜』(都司嘉宣著、2012年)を読むと、歴史文献に対する造詣の深さに驚かされる。
というのも、防災を考えるには日本で起きた昔の地震を知ることが大事であり、歴史時代の地震を知るには、各地の旧家や寺社に残された古文書が大きな手がかりとなる。地震学者の都司氏にとって、本来は専門外であった膨大な古文書のデータを集め、コツコツと解読作業を続けてきた。
その都司嘉宣氏が四万十市における防災講演会の中で、『魏志倭人伝』の話に触れたという。『魏志倭人伝』には女王・卑弥呼のいる邪馬壹国が記されており、「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」、つまり豊後水道を渡ると倭種の国がある。その南には「又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」と記されている。
もしかして都司氏は古田武彦説をご存じなのではないかと思って調べてみると、やはり接点があった。古田氏が立ち上げた「国際人間観察学会」の会報『Phonix』No.1(2007)に都司氏の寄稿があるようだ。題名は「Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon」。
さて、都司氏の「侏儒国=幡多国」説のポイントは、2004年、インドネシアのフローレス島から大人の身長1mほどの「こびとの人種」の化石(約1.8万年前、ホモ・サピエンスとは異人種)が見つかっており、このフローレス島人(ホモ・フローレシエンス)が海流に乗って幡多にやってきたという推論である。
侏儒国には身長三・四尺(90~120cm)の人が住んでいたと記されている。都司氏は自ら四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけたというのだ。
「猩々」とは中国の想像上の生き物で、少年の姿をして舞う赤い妖怪とも言われる。まさに「侏儒」(小人)あるいは「朱儒」(朱は赤あるいは南に通じる)の国である。
フローレス島人と結び付けられるかどうかは今後の研究課題であるが、「侏儒国の痕跡を沖の島(宿毛)に見た 」(『なかった 真実の歴史学』第六号、2009年)と題する合田洋一 氏の論稿にも「侏儒国=幡多国」説を補強する有力な論拠が示されている。
▲野見湾の中央に突き出した大長岬 |
①コウラ地名
▲野見湾の奥に大谷小浦、河原川の地名 |
②1300年前の伝承
③猫神社(須崎市多ノ郷乙)
④鳴無神社の由緒
鳴無神社(須崎市浦ノ内東分字鳴無3579)の祭神は一言主命(味耜高彦根神)とされているが、土佐神社の元宮とも考えられ、古くは「お船遊び」とも呼ばれていた志那禰(しなね)祭が毎年8月に行われている。『南路志』では祭神として「級長津彦命」「級長津姫命」を併記する。
由緒には大和朝廷一元史観の影響が見られるが、ONライン以前の5世紀の事跡であれば九州王朝を中心に再解釈する必要がある。鳴無神社は浦ノ内湾側にあり、大神は太平洋側に接岸している。ただし、半島のすぐ南側は船を停泊できそうな港がない。少し西になるが、須崎湾か野見湾あたりが九州方面からの船の停泊港として適しているようだ。
以上、①〜④の内容は野見湾に九州王朝の船団が来ていたことを示唆し、九州年号が地名として残された可能性も、まんざら否定できないと考えられる。須崎市の野見湾に突き出した「大長岬」は最後の九州年号「大長」を反映した地名なのだろうか。
白皇権現は、四国霊場38番札所「金剛福寺」の奥の院であり、金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。同時期に熊野三所権現や白山権現が勧請されている。すなわち、白皇山(標高433m)を対象とする真言系修験の山岳信仰と位置付けされる。後に神仏分離令により白皇神社となり、白山神社に合祀された。
これが幡多郡に集中する白皇神社の弘仁年間勧請の根拠だと当初は考えた。ところがよく精査してみると、いくつかの白皇神社は弘仁年中(810~824年)、宿毛市山田村からの勧請であり、その時点で既に勧請元となる本宮が存在していたことになる。すると金剛福寺の創建より若干早そうだ。
①白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市横瀬・久才川)
弘仁年間、宿毛市山田大物川の清陀神社を勧請。
②白皇神社(祭神:大巳貴命、四万十市具同字宮ノ下)
弘仁年中、宿毛市山田村大物川に坐す大巳貴神を勧請。
この山田村(現:宿毛市山奈町山田)は平安時代初期の幡多五郷の一つの山田郷や中世の山田郷の中心地であり、政治的にも重要な地域であった。平田古墳群の近くであり、芳奈遺跡や小島遺跡などのように弥生時代から古墳時代にかけての土器が多量に出土する。波多国造が治めた波多国の国庁近くの穀倉地帯の一つと考えられる。
山田八幡宮に幡多郡の社頭家が置かれたことから、宗教的にも中心であったのだろう。少なくとも2社、弘仁年中に山田村から白皇神社の勧請がなされたという伝承が残っているということは、実質はもっと多くの白皇神社がその当時、幡多郡の村々へ一斉に勧請された可能性が見えてくる。
そして『高知県神社明細帳』に次の記載のある白皇神社こそが、山田村の本宮あるいは奥宮的な位置づけではなかったかと推測する。
高知県土佐国幡多郡山田村字一生原宮ノコウラ鎮座
無格社
白皇神社
一祭神 大己貴命
一由緒 勧請年月縁起沿革等未詳
○神社牒云白皇権現(一曰白皇四社又白皇権現二座小宮)右弘仁年中勧請ト云伝記文無之不知宮床弐代御山方根居ニ不入無貢革室(へん革つくり室)谷八尺ニ一丈茅葺地下作事内ニ三尺四方板葺小宮有之、宮林長二十五間横拾五間南新田、西川、東北明所山限、鰐口一
一生原(いっちゅうばら)は山田から15kmほど山道を入った大物川の上流で、かつては森林鉄道も通っていたが、小学校も廃校となり、平成16年度の中筋川総合開発によるダム建設のため、一生原地区の氏神を八幡宮境内に遷座した。残された須多ノ舞神社では毎年宮司が通って神事が行われ続けているようだ。さらに注目すべきは、白皇神社の鎮座地の小字が「宮ノコウラ」となっていることだ。どう考えても高良(こうら)神社の宮跡としか思えない地名である。とすれば弘仁年間以前に高良神社が鎮座していたことになる。
中古以来、卜部(吉田)・白川の両家が各々その家法によって祭式を一般神職に伝授した。地方の神職は京都に上ってその伝授を受けて、神道裁許状を授けられ、あるいは受領位階の勅許を得て神道状を受ける。これを俗に「京官を受けに行く」と言っていた。
神祇伯であった白川家をしのいで神職の任免権を得、権勢に乗じた吉田兼倶はさらに神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられて、吉田家をほぼ全国の神社・神職をその勢力下に収めた神道の家元的な立場に押し上げていった。
くり返すが、幡多郡のみ社頭家による「吉田家直支配」がなされたことは、古来より幡多地方がいかに重要であったかが分かる。『南海通記』(香西資成著)にも「上古ハ御領ニシテ領主ニ属セス」と記されている。「上古」という表記は摂関家・一条教房公の幡多郡下向(1468年)より、もっと古い時代を指している。
どちらかというと無口であった父はかつて、そんな早口言葉を言っていた。
徳島県に新たな高良神社を発見! 鴨神社(三好郡東みよし町加茂字山ノ上3250)の境内社・国瑞彦(くにたまひこ)神社に合祀されている26社のうちの一つである。よって高良神社としての社殿や祠があるわけではない。
国瑞彦神社には、以下の26社が合祀されていると記されている。
鎮守神社・幸神社・宇賀比神社・八幡神社・若宮神社・八将神社・山塚神社・木神社・友與志神社・市坪神社・荒神社・高良神社・市杵島姫神社・熊丸鎮守神社・杉尾神社・松尾神社・毘沙門神社・古塚神社・稲荷神社・藤木神社・厳神社・若宮神社・奥森末神社・日吉神社・日之出神社・会川八幡神社。
確かに「高良神社」が含まれている。できれば旧鎮座地を知りたいところだ。また、隣りの境内社・天神地祇社には、以下の27社が合祀されている。
奥成山神社・熊丸山神社・谷奥山神社・秋葉神社・奈良神社・三島神社・愛宕神社・山神社・出雲神社・両皇神社・神通神社・神通龍神社・神通大山祇神社・神通愛宕神社・速大神社・妙見神社・榧森神社・天満宮・荒神社・蛭子神社・大谷山神社・井神社・境神社・金毘羅神社・伊勢神社・奥谷神社・奥森神社。
他の境内社として豊受大神宮社ほか3社が祀られている。
『式内社調査報告』には明治末の神社合併に際し天神地祇社に19社、国瑞彦神社に35社が合祀されたとある。数的なバランスをとったのだろうか。現在は国瑞彦神社に26社、天神地祇社に27社が合祀されている。
これまで徳島県における神社合祀の実態がなかなかつかめずにいたが、そのリストを見れば他県ではあまり聞かないような社名も多く、多元的に捉える必要がありそうだ。杉尾神社・松尾神社などは高知県にもあり、一見ありふれた名前だが意外と珍しい。神社には土地に合った木が植えられ、その木の名前で呼ばれたという「中国の社」に淵源を持つようにも思える。
いずれにしてもこれだけの数の神社が合祀されていたとなると、「一町村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情のあるものは合祀におよばず。云々」とする明治39年の神社合祀令が、この地域ではかなり忠実に実行されたと考えられる。ここでの「一町村一社」は古代における「一村一社」とは反対の性格を持ち、増え過ぎた神社を整理しようとするものである。南方熊楠らが反対運動を展開したことは以前
「神社合祀令に反対した南方熊楠」で紹介した。
合祀された時点では国瑞彦神社や天神地祇社は単立の神社であっただろうから、その後鴨神社の境内社に取り込まれるという2段階の神社整理があったのではないか。地元の史料を確認する必要があるかもしれない。
さて、阿波國美馬郡の延喜式内社に比定される鴨神社の祭神は別雷命・市杵島姫命・品陀和気命・天照皇大神。創建は不詳。社伝によると貞観2年(860年)以前、京都上賀茂神社より勧請。
「鴨祠、延喜式小祀と為す加茂村に在り旧事紀に所謂、事代主の神孫鴨王是也、延喜式大和高市、鴨事代主神あり白川氏、宮川河原氏世々祝と為る」(『阿波志』)
京都の賀茂社といえば、賀茂別雷神社(上賀茂神社)と賀茂御祖神社(下鴨神社)であるが、上賀茂神社の祭神は賀茂氏の祖・賀茂別雷大神 。『阿波志』の記述に白川伯王家の伯家神道が垣間見える。
▲那賀川沿いの阿南市「加茂宮ノ前遺跡」 |
個人的には高良神社の発見に浮かれていた頃、世の中では考古学界に激震が走るようなニュースが流れていた。2019年2月18日(月)、 縄文の「朱」の生産拠点、阿南・加茂宮ノ前遺跡で国内最大・最古級の祭祀と居住一体となった遺構が出土したことが翌日(2月19日)、徳島新聞朝刊の第1面に報じられたのである。
来たー。加茂宮ノ前遺跡というからてっきり、高良神社を合祀する国瑞彦神社を境内社に持つ鴨神社の前から出土したと思い込んでいた。新聞記事をよく確認したら、三好郡東みよし町ではなく反対側の阿南市の那賀川沿いの遺跡であった。古代阿波国(『古事記』では大宜都比売、オホゲツヒメ)が水銀朱の一大産地であったことが明らかとなる大発見だ。
私が「高良神社の謎」を追っているのは、高良神社マニア(そうなりかけている感もあるが……)だからではなく、一つには九州王朝の足取りをつかむ目的がある。では、これほど重要な場所に九州王朝は進出しなかったのか。ご心配なく。隣りの勝浦郡勝浦町(旧・森村)に高良神社があったことまでは確認している。那賀川の地名にも福岡県の那珂川に通じるものを感じさせる。こちらはまだ調査してから発表しようと思っていたが、時が急がれているようである。地元からの情報提供もぜひお願いしたい。
つい最近、大学時代以来の恩師が「支那の夜」という歌を愛唱しておられたことを知った。私が生まれる以前の時代であろうか。
「支那の夜」
1.支那の夜 支那の夜よ港のあかり むらさきの夜よ
のぼるジャンクの 夢の船
あゝあゝ忘られぬ 胡弓の音
支那の夜 夢の夜
2.支那の夜 支那の夜よ
柳の窓に ランタン揺れて
赤い鳥籠 支那娘
あゝあゝやるせない 愛の唄
支那の夜 夢の夜
3.支那の夜 支那の夜よ
君待つ宵は 欄干の雨に
花も散る散る 紅も散る
あゝあゝ別れても 忘らりょか
支那の夜 夢の夜
流行歌「支那の夜」のヒットを受けて、1940年に同じタイトルの日本映画が作られた。中国大陸での上映も行われたが、「支那」という言葉が問題となってタイトルを変えて上映されたりした。
国策プロパガンダとの批判も多かったが、恋愛シーンは検閲にもかかり、歴史学者の古川隆久は国策映画説を否定し、「典型的な娯楽映画」であると主張している。
かつては敬意をもって使われていた言葉が、権力者の交代によって蔑(さげす)まれて使用されるようになった例は多く見られる。「エミシ」や「クマソ」がそうである。「支那」も本来は輝かしい言葉であったものが、日中戦争による敵対感情によってゆがめられた言葉の一つではなかろうか。
中国大陸には固有の地名として支那が存在している。古代において中国大陸から海を渡って日本列島に移り住んだ人々もいるだろう。恩師はよく「中国は長男、韓国は次男、日本は三男」という話をしておられた。列島の倭人が支那の先進文化や支那人の技術に触れた時にどれほど驚き敬意を払ったことだろう。
「支那津彦という神様は、雲南省から日本にやって来た」との説もある。何らかの配慮(ワープロ変換で「支那」が一発で出ないのも配慮か?)があったのか、ある段階で「支那」が「志那」や「級長(しな)」になって、単に風の神様とされている。
徳島県では、天都賀佐比古神社(美馬市美馬町轟32)に級長津彦命・級長津姫命が、天都賀佐彦神社(美馬市美馬町西荒川48)に級長戸辺命が祀られている。高知県では主祭神として志那都比古命を祀る神社をあまり聞かないが、じつは土佐国の一宮・土佐神社の夏祭りで「志那ね様」と呼ばれる祭りが行われている。表記は「志那〜」だが、もしかすると支那にルーツ(根)を持っているのではないだろうか。
さて、橘氏のルーツを探すと言っても、まずは基礎知識を押さえておこう。高校の日本史Bの教科書『詳説日本史 改定版』(山川出版社)の50ページから、橘諸兄(たちばなのもろえ)についての記載がある。
不比等の子の武智麻呂・房前・宇合・麻呂の4兄弟は、729(天平元)年、策謀によって左大臣であった長屋王を自殺させ(長屋王の変)、光明子を皇后に立てることに成功した。しかし、737(天平九)年に流行した天然痘によって4兄弟はあいついで病死し、藤原氏の勢力は一時後退した。かわって皇族出身の橘諸兄が政権を握り、唐から帰国した吉備真備や玄昉が聖武天皇に信任されて活躍した。
……(中略)……
孝謙天皇の時代には、藤原仲麻呂が光明皇太后と結んで政界で勢力をのばした。橘諸兄の子の奈良麻呂は仲麻呂を倒そうとするが、逆に滅ぼされた(橘奈良麻呂の変)。
710年以降の政権の中心は藤原不比等→長屋王→藤原四兄弟→橘諸兄と移り変わる。橘諸兄は県犬養三千代と敏達天皇系皇親である美努王(みぬおう/みのおう)との間に生まれた。
三千代は天武天皇の代から仕えていることを称されて杯に浮かぶ橘とともに橘宿禰の姓を賜り、橘氏の実質上の祖となった。また、藤原宮跡からは大宝元年の年記を持つ「道代」木簡と大宝三年の年記を持つ木簡群に含まれる「三千代」木簡が出土しており、橘姓への改姓と同時に名も道代から三千代に改名したと考えられている。
橘氏の先祖をさかのぼると敏達天皇に繋がるというのは、簡単に言うと上記のような内容であった。
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。