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 これまで通説とされてきた土器編年には、一元史観による判断が入り込んでいる場合がある。つまり畿内で始まった文化が地方に伝達して普及するまでに、都からの距離に応じて50年や100年流行が遅れる。それを考慮して編年をずらすのが妥当だと判断しているわけである。
 そんな事例が『高知県史 考古資料編』(高知県, 1973年)  所収の論考「土佐国分寺古瓦に就て」(田所眉東)の中に典型的に見られる。該当する箇所を引用してみる。
◎図版番号⑹⑺は瓦当同様、それは本紙六十二号の「土佐国府址」に出した。今若し之れが畿内地方にてあれば飛鳥時代のものと見られるが、流布の時間を考へると白鳳期とせなければならん。

◎図版番号⑴
此の瓦当は却々優れたもので、之が畿内地方にあれば白鳳期であるが、土佐丈けに奈良朝とするがよいか。
……
国府小学校所蔵蓮弁古瓦は畿内地方なれば飛鳥時代のものと見られるが、流布の時間を考へても白鳳時代のものとなる。
……
土佐両国分寺は堂塔配置は不明とせなければならんが、古瓦の文様よりせば四天王寺式位か少し値下げして薬師寺式位は見て差支えないかと思ふ。土佐国分寺皷瓦に白鳳期若しくば奈良前紀の瓦が現存する。何分土佐の仏教文化は頗る古い。之れは余りに穿鑿し過ぎるが、私の知れる範囲に於ては、伊予も阿波も朝鮮式の文様が奈良末期や平安初期に散見するに、土佐は平安中期に現出して居る。一期遅れた国分寺の衰頽も平安期に萌して居る故に、以前程に其の刺戟も僅少であるから、その結果と考へば茲に交通不便といふ其の影響を認められまいか。而して土佐の仏教文化考察する場合は、伊予小松の法安寺を等閑に附せられん。更に土佐の古代文化を石器時代=金石併用時代=古墳時代と仏教文化と見合せば特別の事情のなき限りは、郷土研究も地理的考察を第一条件に置かなければならんかと考へる。(土佐史談第六拾五号)

編者注
徳島県の学者田所眉東氏の土佐国分寺および尼寺説である。面白い立論をされているが、瓦の編年に問題がある。

 物証だけを見れば飛鳥時代とされるようなものが、流布の時間を考えて白鳳期と判断されている。同じ様式のものでも、地方であるから畿内より50年程度繰り下げて評価をしているわけである。九州に至っては100年のずれを当てはめる場合さえあるようだ。それがさも正当に見えて、実際は土器編年のずれによって、編年の空白が生じる事例も見られる。南九州の成川式土器などはその典型的な例で、編年の空白を埋めるために修正案が出されたりもしている。


 烏古瓦〔和名フルカワラ〕について、『本草紀聞』は次のように述べている。「筑前太宰府ノ都府楼ノ瓦古キ也。其レヲ後世地中ヨリ掘出スコトアリテ、硯ナトニスル也。至テ瓦堅ク瓦モ大也。日本ニテモ此太宰府ノ瓦第一ニ古シ。次に大和ノ奈良橘寺・元興寺ナトノ瓦、凡千有余年ニナルト云。其形布目、又ハ一々字アルモアリ」と。一番古いのは太宰府の瓦だと言っているのだ。これが先入観なしの率直な判断であろう。
 とりわけ700年以前においては、九州王朝が倭国の主権を握っていたとすれば、九州から近畿へという文化のベクトルを考えるのが自然であり、その時代に一元史観による近畿から九州へという逆のベクトルを当てはめようとすると相当のゆがみが生じてくるのは当然だ。
 高知県における空白の5世紀問題も実
は、"一元史観による地方の編年50年ずれ"が大きく影響しているのではないかと以前から考えている。



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 讃岐・伊予・阿波の三か所の国分尼寺は確定され、国や県の史跡となっているが、土佐国分尼寺は未だに確定されていない。最新の説も含めてその候補地を検討してみよう。これまで最も有力とされてきたのは比江廃寺であるが、他に野中廃寺、谷地山法華寺、そして新たな候補地として笠ノ川西村が比定地に挙げられている。

①比江廃寺説(南国市比江字土居屋敷)

 塔の心礎だけしか残っていないが、白鳳時代(645~710年)の古瓦も出土する廃寺。出土の鐙瓦は、複弁蓮花文、単弁蓮花文の両種、宇瓦は、忍冬唐草文、重弧文などの文様がある。その他鬼瓦、鴟尾の断片も発見されており、伽藍配置は法隆寺式と考えられ、古瓦の散布状況から廻廊はなかったと推測されている。 塔の心礎の穴の直径81センチ。「柱の直径を四十倍すると塔の高さが出る」という考古学の定説に従うと、32.4メートルほどの五重の塔であったと推定される。
 塔以外の建造物の礎石は、藩政期に国分川の改修に用いられ残っていない。国分寺ができる以前の白鳳時代の寺院であるが、『長宗我部検地帳』に記載のある「アマシヵウチ」という小字名が寺域内にあることから、国分尼寺として代用された可能性があるという。


②野中廃寺説(南国市野中字仁尾603)

 『南路志第二巻』に「篠原村 鐘楼堂跡 坂折前田中 寺號不知。此所より古瓦出る、礎石も有る也。龍按ニ、此所国分尼寺の跡成へし」(P326)とある。また、P345では国分尼寺について、次のように考察している。
國分尼寺〔古跡未知 續日本紀曰、天平十一年己卯、天皇ノ后光明皇后、六十余州ニ國分尼寺建立。〕
龍按に、當郡篠原村〔坂折山前〕里人鐘楼堂といふ跡有、大成礎石残れり。寺号不知、唯鐘楼堂の跡也と云傳。此大成礎石を、文化四年土人砕きて皆田地に開きし也。此所より古瓦出る。予も拾いて藏めたり。其形國分寺并比江村より出る瓦と同し。按ニ、此鐘楼堂跡ハ古ヘの國分尼寺成へし。幽考に、高岡郡谷地山法華寺を宛て國分尼寺とする説、恐ハ不足。如何となれハ、其国府に建る故俗國府寺とも唱ふ、諸國も又同し。此國ハ長岡郡其國府也。篠原村ハ國分寺より南纔に一里を隔て、供に府たるへし。又淵岳志に云、國分村のホノキに今鐘楼堂・本堂なと云所あり、國分尼寺ならんや矣。此の説も又不審し。今篠原村を指スハ、田字を鐘楼堂と云、又古瓦を出〔国分寺よりも古瓦出る〕、郡も長岡なれハ國分尼寺の跡とすへきか、尚可考。
 野中廃寺跡は国府から南方に伸びる古代官道の東側に位置し、国分尼寺比定地として有力であったが、平安時代以降の寺院跡とされ、説としてはやや廃れている。

③谷地山法華寺説(土佐市谷地)

 谷秦山の門人である安養寺禾麿は『土佐幽考』で、土佐の国分尼寺に現土佐市谷地にあった千手院法華寺を当てている。聖武天皇の詔(741年)で、僧寺を「金光明四天王護国之寺」、尼寺を「法華滅罪之寺」といい、奈良の東大寺を総国分寺、法華寺を総国分尼寺としたことからの推測だろう。説としては面白いが、禾麿自身も言っているように、国分寺との距離が余りにもありすぎるし、また寺院そのものが山岳仏教系のものである。そういう点で、土佐国分尼寺に比定するには難点がある。現在残っている仁王門の金剛力士は、県の文化財に指定されている。

④笠ノ川西村説(南国市岡豊町笠ノ川)

 『土佐史談269号』(土佐史談会、2018年11月)で「土佐国における国分尼寺ー建立地の歴史地理学的考察ー」と題する論考が朝倉慶景氏によって発表された。土佐国分尼寺比定地の最新説である。
 他県における国分尼寺の立地条件を検討した結果、共通して山際で川に囲まれたような場所であり、国府域から適当な距離の範囲であることが類推される。高知県でこの条件に合致する可能性の高い場所を探ったところ、土佐国分寺よりも西方の南国市岡豊町笠ノ川西村に辿りついた。地名遺称として「尼寺村」→「西村」との関連も見られる。
 高知新聞の楠瀬記者からも指摘があったように、筑後国分尼寺跡も僧寺跡の北約200mの西村地区に推定されており、「西」は「尼寺」の転訛ともいわれる。今後、国分尼寺比定地から古瓦が出土するかどうかが注目点となる。

 以上、土佐国分尼寺について4つの説を紹介した。ところで、741年に出された聖武天皇のいわゆる「国分寺建立の詔」には「国分寺」という言葉が1回も出てこない。それは詔が出された時点において、既に国府寺のような先行する寺院が多く存在したためではないかと考えられる。大半はそのような古代寺院が国分寺や国分尼寺に転用された可能性も見過ごせない。土佐における国分尼寺研究もそういった視点を持って、再度考察していく必要があるかもしれない。
 

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 前回「長岡郡大豊町に斎明6年棟札があった①」と題して、高知県に存在する「斎明六年棟札」を紹介した。文面は次のような内容である。


奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、
白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)
 ▲熊野十二所神社(長岡郡大豊町桃原)に現存する棟札

 斉明六年といえば660年のことであり、そんなに古い棟札など存在するはずがない。普通ならば、後世の偽作であろうと考えるのが理性的な判断であろう。だが、本当に信頼すべき何ものも無いのだろうか。指摘された問題点について検証してみたい。



 まず「斎明六年棟札」があった長岡郡大豊町の位置を確認しておこう。大豊町は愛媛県および徳島県の両方と境を接している高知県北部山間地域の町である。

 平野部に立地する高知県の寺社のほとんどは、津波や戦乱などにより、古い史料が失わてしまっている。古代史を探求する者にとってはいつも残念に思うところである。山間部だからこそ古い棟札が残されていたといえるかもしれない。
 ところで、伊予国(愛媛県)には斉明天皇に関する遺構や伝承が数多く残っている。『葬られた驚愕の古代史 越智国に“九州王朝の首都”紫宸殿ありや』(合田洋一著、2018年)によると、九州王朝の天子・斉明の行宮伝承地が越智国内に5か所、隣の宇摩国(現四国中央市)には「長津宮」跡(村山神社)がある。
 そして大豊町は宇摩国と法皇山脈を隔てて隣接する場所なのである。ロケーションとしては申し分ない。「斎明六年棟札」はあるべくしてあったと言うべきか。一見、険しい四国山脈を越えて交流することは難しいという印象を持つかもしれない。しかし、縄文時代には香川県のサヌカイトが太平洋側へを運ばれ、弥生時代には瀬戸内の塩が高知へ運ばれた形跡がある。大豊町には古くから山越えの道があり、交通・交易の要所であったといえる。


 最大の問題点は次の点である。
斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、
『高知県史考古資料編』(高知県、昭和48年)より
 斉明天皇(594~661年)は『日本書紀』によると第37代天皇(在位655~661年)の漢風諡号(しごう)で、和風諡号は「天豊財重日足姫天皇」。第35代皇極天皇の重祚(ちようそ)とされる。すなわち、「斉明」は後に贈られたもので、同時代に年号として使用されるはずはないとの指摘である。
 この矛盾点に関しても、『葬られた驚愕の古代史』に解決のヒントが書かれていた。「『紀』は後世の漢風諡号とされた近畿の舒明・斉明天皇として九州王朝の天子名をそのまま盗用し、はめ込んでしまった」というのだ。つまり「斉明」は皇極と同一人物ではなく九州王朝の天子であり、漢風諡号ではないとする。
 この説については賛否両論あるかもしれないが、最大のハードルをクリアできる可能姓は見つかった。「斎明六年棟札」が全くの荒唐無稽という批判は回避できそうである。しかし、まだ問題点は多い。引き続き検証を重ねていきたい。



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 「肥さんの夢ブログ」で、高知県の「内裏」地名にスポットが当てられ、注目が集まっている。最近のブログでも「『小字 内裏』は,他にもあるか?」と題して、ネット検索の結果がリストアップされていたが、やや物足りない印象を受けた。インターネットは便利であるが、検索にかからないものもある。
 合田洋一氏からも前に「内裏地名はいくつかあります」という話を聞いていた。その時点では、京都や奈良、太宰府はあって当然としても、高知以外に「内裏」地名があるのだろうかとやや疑問も持っていた。そこで『地名辞典』で拾ったところ、いくつか見つかった。
①京都市「内裏」、②奈良県「内裏」、③滋賀県甲賀市「内裏野」、④福岡県北九州市「旧・内裏村」(後に大里町)、⑤長崎県佐世保市「内裏山城」、⑥熊本県菊池市「内裏尾」、⑦千葉県富津市「内裏塚」、⑧東京都八王子市「内裏谷戸」、⑨高知県南国市「内裏」
 ①~③は大和朝廷に関係するもの。④~⑥は九州王朝との関連があるのではないかと予想される。その他⑦~⑨についても、多元史観に立って調査する必要があるかもしれない。上記には「大裏」地名は別扱いとしたため、太宰府および静岡県の「大裏」は含めていない。実際に高知県以外にも「内裏」地名は存在した。合田氏のおっしゃる通りであった。

 氏は著書『地名が解き明かす古代日本―錯覚された北海道・東北―』(2012年)の中で、一章を割いて、「渡」地名遺称についての調査結果を示しておられる。同書における「渡嶋は北海道ではない」という論証は見事なものであったが、古田武彦氏より「合田さん、やることが一つ残っていますよ」とアドバイスされたのだという。それは『角川日本地名大辞典』を使って、全国の「渡」地名を全数調査することである。もし「渡嶋は北海道ではない」とすれば、「渡」地名の分布にその傾向が現れるはずである。「言うは易し。行うは難し」だが、古田氏自ら『三国志』中の「壹」「䑓」の全数調査を行って「壹は䑓の誤りではない」ということを論証している。これこそが古田史学の方法論である。
 合田氏は何度も図書館に通いつつ、各県ごとの地名一覧のページをコピーしては、日本全国の「渡」地名を拾い上げた。その結果、北海道には一例を除いて「渡」地名は見当たらず、むしろ青森県をはじめとする東北地方に多く存在していたのである。(全国的に見ると鹿児島県をはじめとする九州周辺に最も集中しているようだ。)


 さて、問題は高知県南国市の国府跡に存在する「内裏」地名である。実は『長宗我部地検帳』に「タイリ」として2か所出てきている。国府域の紀貫之が住んだとされる「内裏」は有名であるが、もう一か所は国分川の南岸にある。菅原道真の息子、高視が居所とした場所ではないかとの新説が「菅原高視の居所について」と題し、『土佐史談268号』(土佐史談会、2018年7月)に発表された。その居所として比定された場所が高知県における「もう一つの内裏」である。
 これまでにも「内裏」に関する記事をいくつか書いてきたが、完全な結論には至っていない。「多元的『国分寺』研究サークル」でも高知県の遺跡を精査し、データ化して下さったことで研究の材料も増え、新しい視点も与えられた。また、他県における「内裏」地名の研究と比較対照することも必要になってくるかもしれない。今後とも研究ネットワークを広げ、有益な情報交換を進めつつ、未解決の課題に踏み込んでいきたいところである。
 最後に土佐国府跡に関するこれまでの記事をリストアップしておく。

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 今回は九州年号発見というわけではないが、それに匹敵する情報を公開しよう。「斎明六年棟札」についてである。
 伊予国には斉明天皇に関する伝承が数多く残っており、合田洋一氏の説のように斉明天皇が伊予にいたのが事実であったとしたら、土佐国にも何らかの形跡が残っていてもいいはずである。それが長岡郡大豊町に現存するという
「斎明六年棟札」なのではないだろうかと考えていた。その存在については情報をつかんでいたが、文面等については見ていなかったので、何とも言えずにいたが、実は『高知県史考古資料編』(高知県、昭和48年)に全文が掲載されていた。
 この本は目を通しておかなければと思いつつも、7.5cmの分
厚さに、今まで借りるのを躊躇していたのだ。関連する箇所を引用しておく。


又時代疑問とは、棟札の銘文が、其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきやの疑問あるものなり、本県にも斯様なるもの多少あるべしと思わるれども、予が調査せしものは四枚あり、予は自ら之が断定を下す能はずして、考古家沼田頼輔氏に教を請ひたり、今氏が報ぜられたる所のものにより、茲に摘記せんに、一は、長岡郡西豊永村桃原村社熊野十二社神社に、現存せる棟札にして、斎明六年(千二百五十六年前)の年号のある、左の銘文なりとす、


奉上棟、参大妙見御社、五穀豊饒處福貴村社祭、元福嶋守定大都、干時斎明六庚申霜月十五日、大願主敬白、敬右志音所祈所、


白勢宮拾滿等也(不明)、大施主日哭處命(不明)、大工櫻(不明)、新兵(不明)


斎明は天子の諡号にして、年号にはあらず、斎明天皇の御代は無年号なれば、之を年号に代用したりと思へるは、大なる誤謬なるのみならず、而も此の諡号は、後世桓武天皇の御代に、淡海三船が定めたるものなれば、其の以前既にこれを用ふることなきは云ふまでもなし、又妙見の信仰は、藤原時代より起りたるものにして、王朝時代にこれあるは疑わし、何れの点より見るも信ずべき価値なし、


二は、同神社に現存の大宝二年(千二百十六年前)の棟札にして、左の如し、


奉造立、三躰妙見熊野十二社権現、右意趣、宥爲國土安詮四海静謐持信心之、大願主長次上村源七良敬白、天長地久御願圓滿、一天大平風雨有之時、武運長久、子孫繁昌、別名内元事、道師權少僧都□喬、神主吉定祈所面所、大寶二壬寅三月廿五日


妙見社の此の時代にあらざること前述の如し、殊に上村源七良の如き氏名は、全く後世のものにして、此の時代に斯る称号なきことは、奈良時代の古文書に徴するも明かなりとす、


 「長岡郡西豊永村桃原」は現在、大豊町桃原となっており、熊野十二社神社には足を運んだこともある。急峻な山道を登ったところながら、境内は広く、伝説の牡丹杉が存在している。また「百手の的打ち」神事でも知られる神社である。


 
 この熊野十二社神社には、斎明六年および大寶二年という、きわめて古い年号が記された2枚の棟札が現存しているという。「其の時代のものにあらざるは無論なりと決定しても、果たして何れの時代に入るべきや」と否定しつつも、考古家に判断を仰いでいる。問題点を列挙すると、次の3点にまとめられるだろうか。

①斎明は天子の諡号であり年号ではない。しかも、この
諡号は後世に定めたものであり、斎明を年号代りにすることもあり得ない。
妙見信仰は藤原時代から始まったもので、王朝時代にあるのは疑わしい。
③名前や称号など後世のものである。

 斎明6年といえば660年に相当する。もしその時代の棟札とすれば高知県最古のものとなるが、さすがにそれは無理があるだろうか。問題点の指摘も理にかなっている。だが、あえて疑問視されるような棟札を偽作する動機も見当たらない。
 「信ずべき価値なし」と切り捨てるのは簡単だが、この
斎明6年棟札の研究を通して、何らかの歴史的真実を見出すことはできないだろうか。じっくり検証するには時間がかかりそうなので、今回は「斎明6年棟札」の存在を報告するにとどめておこう。


 

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 父方の祖母は田尻姓で、学歴についてはよく知らないが、祖母を知る人は一様に「学のある人であった」と言っていた。筑後の一宮・高良大社の宮司家の一つが田尻家なのだと聞いたことがある。つながりがあるかどうかは定かではないが、私がこれほど「高良神社の謎」を追いかけるようになったのも、何かの縁かもしれない。さらに漢の高祖劉邦に連なるとする大蔵姓田尻氏正統系譜(肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜)の登場によって、ルーツ探しのほうも新たな展開を見せることになった。ただし、家系図は単独では史料的根拠にすることは難しいとされているので、その扱いは慎重を要する。
 さて、前回「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した」というタイトルで境内社の一つ「瓦ノ宮社」が高良神社であったことを報告した。その岡豊別宮八幡宮から東へ6kmほど行ったところ、物部川の西岸に川原神社(南国市福船字寺屋敷)が鎮座する。ずっと気になっていた神社である。一般的には川原近くにあるから川原神社とされてきたが、あまりにも安易すぎないだろうか? 

川原神社

 旧岩村郷福船村舟渡、戸板島村、京田村の一部、蔵福寺島村の産土神で、旧村社。祭礼時當家に決まった節数のおはけ竹を立てる。現在のおなばれは一の鳥居(御旅所)間を往復する。台輪鳥居、狛犬、手水石鉢、石燈籠、百度石、中世石仏、五輪塔残欠がある。北側の墓地内にも中世石造物が見られる。
 今年(令和元年度)の「川原神社秋祭り神事」のお知らせが拝殿に貼り出してあった。11月1日(金)午後1時30分~となっている。『南路志 第二巻』には香美郡の福田村(岩村郷)のところに「川原大明神 川原宮 本地決主菩薩 祭礼九月九日」と出ている。

 川原宮(かわらのみや)と言えば、斉明天皇の板蓋宮が火災に遭ったので一時的に遷居した宮が川原宮であった。翌年、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を設けてそこに移っており、川原宮跡が川原寺になったとされる。
 これに対して、斉明天皇は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子であり、伊予に行宮があったとするのが合田洋一氏の説である。詳しくは著書『葬られた驚愕の古代史 越智国に"九州王朝の首都"紫宸殿ありや』を参考にしてほしい。
 もとより、高知県の川原神社を斉明天皇に結びつけるつもりはない。県外にも川原神社という名の神社が複数存在しているようだが、かつて高良神社は「瓦ノ宮」「川原社」などと呼ばれていたことがあった。多くはその名残りであろうと推測する。
 田尻の祖母が時折言っていた。「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社(祭神:高良玉垂命)としての由緒が失われてしまった川原社は、土佐弁風に言えば「瓦にかあらん」(瓦と大差ない)ということになってしまったのではないだろうか。


参考:南国市福船周辺
https://youtu.be/A_5R8dWLKCA

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 多元的「国分寺」研究サークルや方位の考古学などで知られる「肥さんの夢ブログ」で、高知県の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の素弁蓮華文軒丸瓦が紹介された。ついに四国に研究の手が伸びてきたというところだろうか。

 大寺廃寺跡の軒丸瓦については現在、高知市春野郷土資料館に展示されていて、年代は「8世紀」と紹介されている。同資料館のホームページには次のように説明されている。
軒丸瓦

軒丸瓦(のきまるがわら)

古代寺院跡である大寺廃寺跡〔おおでらはいじあと〕より採集されたもので、有稜線素弁八葉蓮華文〔ゆうりょうせんそべんはちようれんげもん〕がほどこされています。こうした瓦の出土事例は、高知県でも数少ないものです。
<高知県立歴史民俗資料館所蔵> 
 本来なら素弁蓮華文軒丸瓦は単弁や複弁よりも古く、7世紀とするのが通例である。それをあえて8世紀とした根拠はどこにあるのだろうか。おそらく『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)P61の記述によるものと推察する。
岡本健児氏は、仲村郷の西分付近を郡衙所在地と考えられているようである。同氏著『高知県史考古編』には、西分の大寺廃寺すなわち『長宗我部地検帳』時代なお存在した左の、
 大寺寺中
      同村 大寺寺中
 一所参代 下薬師堂床三間四面ヤシキニ取 喜津賀分
を取りあげ、この大寺が「和名抄」の中村郷を伝える地域にあるうえ、さらに発見された古瓦には、単弁蓮華文の鐙瓦があり、また平瓦には凸面に縄目文、凹面に布目を付けたものがある。丸瓦は有段式の玉縁式であるが、これら「その発見された古瓦類から、その年代をだいたい奈良時代、それも国分寺ができて以降と考えたい」とされる。なお右の大寺廃寺を安芸郡奈半利町コゴロク廃寺、高知市秦泉寺廃寺とともに「郡衙関係の寺院と考えてよいのではないだろうか」と推定され、国分寺と国衙関係同様に、「郡衙と密接な関係を持つ寺院であろう」と結ばれる。
 しかし、『春野町史』の記述は単弁蓮華文の鐙瓦や布目瓦などについての考察であり、昭和50年代という段階ではまだ研究も進んでおらず、国分寺建立以前とする判断はできなかったのだろう。ところが、『ものがたり考古学―土佐国辺路五十年―』(岡本健児著、1994年)の説明には、その後の研究の成果が反映されているように見える。

秦泉寺廃寺と大寺廃寺

 両方の軒丸瓦の蓮華文様には、花びらの中に線が入っています。そして子葉が描かれていません。このタイプの蓮華文様の入った軒丸瓦を、考古学の専門用語で「有稜線素弁八葉蓮華文軒丸瓦」といいます。
 こうした瓦の文様は百済(四世紀前半から663年の朝鮮古代の国)から日本に入ってきたものです。ところが、飛鳥寺とか四天王寺、焼失した法隆寺にみられる典型的な百済様式とは文様が少し違っています。百済様式のものには花びらに線が入ってないのです。
 「有稜線…」は六六三年に朝鮮半島で百済が滅び、高句麗の時代に一般化します。高知の秦泉寺廃寺と大寺廃寺の瓦の文様は百済の時代の終わりごろに、高句麗の影響を受けて作られたものだと思われるのです。作ったのは百済が滅んで国を追われた朝鮮の人たちだったのでしょう。瓦の分析により、この二寺院はいまのところ、高知県下では最も古い寺ではなかったかと推測できます。
 近年、地方寺院研究が大きく進展してきた。地方寺院の成立は、七世紀後半のいわゆる白鳳期に爆発的に増加する。『扶桑略記』には持統朝には545寺あったと記されており、全国のこの時期の寺院遺跡数はその数をはるかに上回っている。秦泉寺廃寺と大寺廃寺はその中に含まれる、いわゆる国分寺に先行する古代寺院であったことが分かる。それらは当然ながら、聖武天皇の詔(741年)以前から存在していたことになる。
 多元史観に立ったときに、これほどの多くの古代寺院群がどのような目的で建てられたのか。果たして九州王朝と何らかの関係があったのか。大和朝廷一元史観に縛られない今後の研究の進展が期待されるところである。


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 10月13日、高知県立歴史民俗資料館で土佐史談会理事の朝倉慶景氏による「本能寺の変と斎藤津戸右衛門の居所について」と題する講演会が開かれた。その内容についても紹介したいところだが、講演会後に向かったのは歴民館のある岡豊山とは県道を隔てた北側の岡豊別宮八幡宮(南国市岡豊町八幡)。以前に「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は存在するか?」というタイトルで記事を書いた。その時点では、『皆山集①』に登場する豊岡八幡宮について、高良神社を含む摂社十数社が記載されていることから「岡豊別宮八幡宮の境内社の1つが高良神社である可能性は高い」とした。

 前回は東側から車で登り、神社の裏側の広場についたが、今回は南側の一の鳥居から徒歩で正面突破を目指す。石段途中の恵比須神社や大山祇大神などを確認する目的もあった。参道の石段には実った栗の実が落ち、はじめはゆるやかだが次第に傾斜を増す。登りきったときには足もガクガク。息を切らしながら参拝を済まし、現地を実見する。
 本殿の西側には竹氏宮、岩清水宮など境内社7社が並べられている。本殿の北東に1社+3社の境内社。龍王宮、若宮社、瓦ノ宮社などが祀られている。この「瓦ノ宮社」こそが高良神社のことであった。

 『南路志 第八巻』所収、寛永十三年(1636年)八月十五日付けの「長岡郡別宮八幡宮之記」に、次のように記録されている。

○長岡郡別宮八幡宮之記

一御宝殿ハ三間四面 舞殿長床
一同東之方若宮有、五尺間ニ三間四面
一末社之事 戌亥之方ニ稲荷之社、其東ニ竹氏之社、其東鎮守、其東丑ノ方ニ松尾春堂二社ヲ一棟ニ立、寅ノ方ニ岩清水社、卯ノ方ニ龍王、其南桜田ノ社、辰巳ノ方ニ鐘楼堂有。南ノ坂本ニ鳥居、東ニ御幸門、関杖有。其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ。又東ノ川ノ渡上國分ノ分ニ神輿休社、大木ノ本有。
放生會御幸之事 右二所社ニテ、神輿ヲ舁居、神楽ヲ備也。
 この記録は江戸時代初期のことであるから、境内の配置などは現在とは大きく異なっている。火災を経験し、再建されているだろうから、境内社もまとめられて合社となったのだろう。かつては東側に御幸門があり、「其東道ヨリ北ノ上ニ瓦ノ宮アリ」とされ、その場所で放生会の神楽を舞ったと読み取れることから、「瓦ノ宮」が数ある境内社の中でも特別な位置づけにあると考えられる。
 そして『皆山集①』との比較により、この「瓦ノ宮」こそがイコール「高良神社」であることが判明する。かつて高良神社は「瓦ノ宮」あるいは「川原社」などと呼ばれていたことがあったのだ。1年半越しの宿題にやっと答えを出すことができた。岡豊別宮八幡宮の境内社として、間違いなく高良神社(瓦ノ宮社)が実在していたのである。
 そうなると、次に問題となるのは川原神社(南国市福船字寺屋敷)である。一般的には物部川の近く、川原に鎮座しているから川原神社と考えられていたが、それは神社の名称としてはあまりに安直すぎないだろうか。
 「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」
 高良玉垂命を祀る高良神社の輝きも忘れ去られて、瓦や川原の如くに扱われてしまっているとしたら……。本来の光を取り戻すことはできるのだろうか。



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 『古事記』『日本書紀』に木花之佐久夜毘売(このはなさくやひめ)と石長比売(いわながひめ)の姉妹の話が出てくる。妹の木花之佐久夜毘売は美人で見染められ求婚されたが、姉の石長比売は醜く追い返される。天皇の寿命が短くなった原因譚ともされている。実質は二倍年暦から一倍年暦に暦が切り替わることによって、百歳を超えていた寿命が急に短くなったように見えたということだろうか。二倍年暦以前には二十四倍年暦のようなさらに異なる暦が用いられていた可能性がある。
 天孫邇邇芸命が日向の高千穂峯に天降りされた後、吾田(あた)の笠紗(かささ)の岬で絶世の美人に出会った。
 「誰れの娘か」と問われると、大山津見神の娘で名は神阿多都比売、またの名を木花之佐久夜毘売」と答えられた。
 邇邇芸命が、「結婚したいと思うがいかに」と申されると、「私からは申し上げられません。父の大山津見神がお答え申し上げましょう」と答えた。
 大山津見神は喜んで、姉の醜い石長比売を副え、多くの献上物とともに邇邇芸命の許に奉った。 しかし命は醜い石長比売を見るなり送り返され、妹だけを止められて婚姻された。
 大山津見神は「娘二人を奉ったのは理由がある。 石長比売を奉ったのは、その間に生れた御子は石のように永久に生命があるようにと。 木花之佐久夜比売を奉ったのは、木の花の栄ゆるが如く御子も栄えるようにとの理由からだ。 だが、今、石長比売を返され、木花之佐久夜比売一人を止められたから、 天つ神の御子の寿命は木の花のようにはかないものになるだろう」と申された。
 今でも天皇の御寿命が短いのはそのためである。
 それはさておき、聖書の中に似たような話がある。レアとラケルの姉妹の物語である。『旧約聖書』の「創世記」には多くの話が盛り込まれているが、その半ばあたりに書かれている。イサクとリベカの双子の弟ヤコブは兄エサウに与えられるはずの祝福を、母リベカの知略によって奪い取り、エサウの恨みを買って、伯父ラバンのもとへ逃れる。そこでヤコブはラバンの娘ラケルを好きになった。

創世記第29章16~32節

16 ラバンにはふたりの娘があった。姉の名はレア、妹の名はラケルであった。
17 レアの目は弱々しかったが、ラケルは姿も顔だちも美しかった。
18 ヤコブはラケルを愛していた。それで、「私はあなたの下の娘ラケルのために七年間あなたに仕えましょう。」と言った。
19 するとラバンは、「娘を他人にやるよりは、あなたにあげるほうが良い。私のところにとどまっていなさい。」と言った。
20 ヤコブはラケルのために七年間仕えた。ヤコブは彼女を愛していたので、それもほんの数日のように思われた。
21 ヤコブはラバンに申し出た。「私の妻を下さい。期間も満了したのですから。私は彼女のところにはいりたいのです。」
22 そこでラバンは、その所の人々をみな集めて祝宴を催した。
23 夕方になって、ラバンはその娘レアをとり、彼女をヤコブのところに行かせたので、ヤコブは彼女のところにはいった。
24 ラバンはまた、娘のレアに自分の女奴隷ジルパを彼女の女奴隷として与えた。
25 朝になって、見ると、それはレアであった。それで彼はラバンに言った。「何ということを私になさったのですか。私があなたに仕えたのは、ラケルのためではなかったのですか。なぜ、私をだましたのですか。」
26 ラバンは答えた。「われわれのところでは、長女より先に下の娘をとつがせるようなことはしないのです。
27 それで、この婚礼の週を過ごしなさい。そうすれば、あの娘もあなたにあげましょう。その代わり、あなたはもう七年間、私に仕えなければなりません。」
28 ヤコブはそのようにした。すなわち、その婚礼の週を過ごした。それでラバンはその娘ラケルを彼に妻として与えた。
29 ラバンは娘ラケルに、自分の女奴隷ビルハを彼女の女奴隷として与えた。
30 ヤコブはこうして、ラケルのところにもはいった。ヤコブはレアよりも、実はラケルを愛していた。それで、もう七年間ラバンに仕えた。
31 主はレアがきらわれているのをご覧になって、彼女の胎を開かれた。しかしラケルは不妊の女であった。
32 レアはみごもって、男の子を産み、その子をルベンと名づけた。それは彼女が、「主が私の悩みをご覧になった。今こそ夫は私を愛するであろう。」と言ったからである。
 日本神話「木花之佐久夜毘売と石長比売」と聖書の物語「レアとラケル」、とても似ていると思いませんか? 「何が」って、できの悪い娘を思う父親の心が、である。もちろん話の設定やストーリー展開など、差異も見られるが、よく似通っていると感じるのは私だけだろうか。
 心理学者カール・ユングは、異文化間の神話に見られる類似性から、すべての人間は生まれながらの心理的な力を無意識に共有する(集合的無意識)と主張し、これを「元型」と名づけた。
 身体的に劣等感を感じている姉といつも人々からチヤホヤされる可愛いらしい妹。そこには誰もが共通に陥りやすい葛藤を生じさせる状況であり、神話のストーリーとしてはうってつけだろう。
 しかし、集合的無意識を持ち出さなくても、神話の時代から人々の東西交流が行われていたとしたら、神話の内容が相互に影響し合うことは有り得るだろう。ちなみに福岡県出身の木花(きばな)さんという人に会ったこともある。
 私はかつて、「神話理解の三段階」という文章を書いたことがある。
①神話をその如く信じる段階
②神話は作り話であると否定する段階
③神話には歴史的事実が反映されていると高次元的に解釈する段階
 実際に『聖書』や『日本書紀』、ギリシャ神話などが、一度は「全くの創作にすぎない」と批判されながらも、歴史的事実を反映した内容を含んでいたことが明らかになってきている。そのような理解に立って神話研究を進めていくことで、新たな歴史的事実を解明するきっかけになることもあるのだ。



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 「長野県の高良神社②――千曲川流域に分布」のところで紹介した吉村八洲男氏が、以前からブログ『sanmaoの暦歴徒然草』で「科野からの便り」を連載されている。最新ニュース「中国河南省安陽市安陽県の曹操(155~220年)墓出土の鏡が、大分県日田市から出土していた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)に酷似している」との報道に関して、すぐさま「科野からの便り――真田編(四)」として論考が出された。
 この鏡は、日田市で戦前に見つかっていて、その装飾の巧みさと中国でも稀な鏡である事から、1964年に「重要文化財」に指定されている。紹介したのは梅原末治博士で、同市の「ダンワラ古墳」から発掘したものと推定されている。
 「ダンワラ」とは不思議な地名だと思いつつ、天子の「壇」が築かれた「原」ではないか、などと想像を膨らませていたところ、吉村氏の指摘はまた違った角度からのアプローチであった。金銀錯嵌珠龍文鉄鏡に蕨手文が施されているというのである。
 この「蕨手文様」が出現するのは、筑後地域のほぼ連続して築造された9つの「装飾古墳」の中からであり、長野県上田市真田町でも「蕨手文様」が複数発見されている。詳しくは「科野からの便り――真田編(一)(二)(三)」で確認していただきたい。
 ところで、「魏の曹操と九州の山中にある日田と何の関わりあらんや」と不思議に思われる方も多いのではなかろうか。『三国志』「魏書東夷伝倭人条」いわゆる『魏志倭人伝』に邪馬壹国の女王・卑弥呼が魏に使いを送ったことが書かれている。
 中学1年の生徒に聞いたら、やはり239年と覚えていた。原文には238年と書かれているのに、「戦時中に使節を送ることは不可能」との考えから、終戦後の239年と修正しているのである。しかし、239年だとかえって矛盾が生じることを『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏が指摘している。朝鮮半島がいまだ戦乱にある中での派遣であったからこそ、魏は邪馬壹国を同盟国として信頼し、豪華すぎるほどの下賜品を賜ったのだった。


 さらに『「三国志」を陰で操った倭王卑弥呼』(斎藤忠著、2004年)では、安徽省亳州市にある曹家一族の古墳から出土した字磚(じせん)という文字の刻まれたレンガ片に注目している。元宝抗村一号墓から出た倭人字磚には「……有倭人以時盟不」(倭人が時を以て盟すること有るか)と書かれていて、この一文から、曹家が倭人と盟約関係にあったことが推測されている。共に出土した字磚には建寧三(170)年の年号が刻まれていたことにより、ほぼ同年代のものと考えられる。
 卑弥呼が魏に使者を送ったのは、それから半世紀ほど後のことになるが、当時倭国は呉・狗奴国連合と対峙しており、魏・倭同盟の成否は生命線であった。曹操は「赤壁の戦い」で孫権・劉備の連合軍に敗れるが、魏公から魏王へと位を進め、魏の基礎を築く。息子の曹丕が魏の初代皇帝となり、再三呉に攻め込もうとするが呉の水軍に苦しめられ敗走する。魏からすれば、倭国の水軍の力を頼みにしたいところもあっただろう。
 折しも9月初めに狗奴国に関する新説が出されたばかりである。「卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に 九州説に新解釈」と産経新聞(2019年9月2日)で報道されていた。

 この説は免田式土器の分布図が、邪馬台国と抗争した狗奴国の勢力を反映していると推察するもの。九州説の立場を取る大和(奈良県)ゆかりの考古学者ら3人が8月、狗奴国の実態に迫る学会発表を行った。魏志倭人伝によると、狗奴国は女王・卑弥呼が君臨した国々の南に位置し、卑弥呼とは抗争状態にあったとされる。考古学者らはその勢力圏の中心が熊本県内にあったとし、狗奴国の位置から邪馬台国は福岡県域にあったと主張している。
 畿内銅鐸圏の国々を狗奴国と比定した古田武彦説とは異なるが、最近の考古学的成果を踏まえつつ、再検討するべき時機が来ているのかもしれない。


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朱儒国民
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非公開
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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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