『日本書紀』の各巻には、①正格漢文で書かれたα群(巻14~21、24~27)、②倭習漢文で書かれたβ群(巻1~13、22~23、28~29)、③それ以外(巻30)があることが最近の研究で分かってきている。とりあえず、巻ごとに[α][β]を付けてみた。
『日本書紀』αβリスト
[β] 巻01/神代上[β] 巻02/神代下
[β] 巻03/神武天皇(50年ごろか)
[β] 巻04/綏靖、安寧、懿徳、孝昭、孝安、孝霊、孝元、開化天皇
[β] 巻05/崇神天皇(210年ごろか)
[β] 巻06/垂仁天皇(250年ごろか)
[β] 巻07/景行天皇(300年ごろか)、成務天皇
[β] 巻08/仲哀天皇
[β] 巻09/神功皇后(350年ごろか)
[β] 巻10/応神天皇(400年ごろか)
[β] 巻11/仁徳天皇(420年ごろか)
[β] 巻12/履中、反正天皇
[β] 巻13/允恭、安康天皇
[α] 巻14/雄略天皇(480年ごろか)
[α] 巻15/清寧、顕宗、仁賢天皇
[α] 巻16/武烈天皇(500年ごろか)
[α] 巻17/継体天皇(507-531年)
[α] 巻18/安閑(531-535年)、宣化天皇(535-539年)
[α] 巻19/欽明天皇(539-571年)
[α] 巻19/欽明天皇(539-571年)
[α] 巻20/敏達天皇(572-585年)
[α] 巻21/用明(585-587年)、崇峻天皇(587-592年)
[β] 巻22/推古天皇(592-628年)
[β] 巻23/舒明天皇(629-641年)
[α] 巻24/皇極天皇(642-645年)
[α] 巻25/孝徳天皇(645-654年)
[α] 巻26/斉明天皇(655-661年)
[α] 巻27/天智天皇(661-671年)
[β] 巻28/天武天皇(673-686年)
[β] 巻29/同上
他 巻30/持統天皇(686-697年)
▲タイトルや各天皇の即位年代は、「日本書紀、全文検索」のサイトを参照しており、「継体天皇以降は通常のものですが、それ以前については、イメージをつかむために便宜的に設定したものに過ぎません(根拠なし)」とのこと。
様々な検索結果等をグラフにしてみることは大変有益であるが、今後αβ付きのデータにしてもらえると、より参考になるのではないかと感じる。α群とβ群では作者が違うとされているので、最先端の『日本書紀』研究において、α群・β群の差異を考慮しないのは片手落ちになる可能性大だ。
例えば、『肥さんの夢ブログ』で紹介された「蝦夷」検索結果にαβを付けてみたら、次のような感じになる。α群・β群で大きく違いが出るのか、あるいはほとんど影響が見られないのか。
例えば、『肥さんの夢ブログ』で紹介された「蝦夷」検索結果にαβを付けてみたら、次のような感じになる。α群・β群で大きく違いが出るのか、あるいはほとんど影響が見られないのか。
「蝦夷」検索結果
β 神武
β 綏靖
β 安寧
β 懿徳
β 孝昭
β 孝安
β 孝霊
β 孝元
β 開化
β 崇神
β 垂仁
β 景行・成務 ●●●●●●●●●● ●●●● 14
β 仲哀 0
β 神功 0
β 応神 ●● 2
β 仁徳 ●●●● 4
β 履中・反正 0
β 允恭・安康 0
α 雄略 ●●● 3
α 清寧・顕宗・仁賢 0
α 武烈 0
α 継体 ●●● 3
α 安康・宣化 ● 1
α 欽明 ● 1
α 敏達 ●●● 3
α 用明 ● 1
α 崇峻 0
β 推古 0
β 舒明 ●●●●●● 6
α 皇極 ●●●●●●●●●● ● 11
α 孝徳 ●●● 3
α 斉明 ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●●●●●●●●●● ●● 32
α 天智 ●● 2
β 天武 ●● 2
他 持統 ●●●●●●●● 8
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「蝦夷」という言葉はα群に60件、β群に28件、その他8件であった。このようなデータを集めることで、α群・β群の史料としての特徴が浮かび上がってくるのではないだろうか。
とりわけ、α群ーー地群の人々(大和朝廷)によるもの、β群ーー天群の人々(九州王朝)によるものとする谷川清隆氏の仮説が成立するのか、どうなのか。検証を深めていく必要がありそうだ。
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以前にも、"高良神社余話ーーどう読む? 「こうら」 or 「たから」"と題して、「高良」をどう読むかを話題にしたことがあった。沖縄ではやっぱり「たから」と読むようだ。
『日本の名家・旧家』(森岡浩著、2017年)を見ると、慶留間島の旧家として高良(たから)家があった。土佐国に琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前が『南路志3』に登場しており、もしかしたら船頭職・高良家との繋がりがありそうだ。
また、沖縄県には那覇市立高良(たから)小学校(那覇市高良2-12-1)もあった。沖縄都市モノレール(ゆいレール)の赤嶺駅から少し南に行ったあたりが高良(たから)地区で、豊見城市との市境あたりまで高良1~3丁目が広がっている。高良1丁目の丘の上、高良全体を見下ろせる場所に高良公園がある。中でも、丘の頂上は「高良之殿」という拝所になっているそうだ。
問題は沖縄県の「たから」と読む高良姓および高良地名が、九州島内の「こうら」と読まれる高良姓や高良大社などと繋がりがあるのか、それともまったく語源を異にするのか。『日本の名家・旧家』(森岡浩著、2017年)を見ると、慶留間島の旧家として高良(たから)家があった。土佐国に琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前が『南路志3』に登場しており、もしかしたら船頭職・高良家との繋がりがありそうだ。
高良家 たから
慶留間島の旧家。琉球王朝末期の進貢船の船頭職を務めた仲村渠雲上が、中国貿易で財を成した。明治初期に建てられた同家住宅は、大正時代に赤瓦葺きとなり、昭和六三年(一九八八)に国指定重要文化財となった。(『日本の名家・旧家』より)
また、沖縄県には那覇市立高良(たから)小学校(那覇市高良2-12-1)もあった。沖縄都市モノレール(ゆいレール)の赤嶺駅から少し南に行ったあたりが高良(たから)地区で、豊見城市との市境あたりまで高良1~3丁目が広がっている。高良1丁目の丘の上、高良全体を見下ろせる場所に高良公園がある。中でも、丘の頂上は「高良之殿」という拝所になっているそうだ。
『日本姓氏語源辞典』によると「タカラ 【高良】」については、次のように記述されている。
①沖縄県那覇市高良発祥。琉球王国時代から記録のある地名。地名は「多嘉良」とも表記した。琉球音もタカラ。
どちらも歴史が古く、追求してみたいところだが、今のところ手掛かりが不十分である。さらに徳島県に多家良町上宝(たからちょうかみだから)といった地名もあって、調べてみると面白そうだ。②福岡県久留米市北野町高良(コウラ)発祥。江戸時代から記録のある地名。福岡県ではコウラが主流。
"『芸西村史』に見る坂本神社の式内社論争"以来、坂本神社の件はずっと解決されない宿題であった。高知県においては、安芸郡奈半利町の延喜式内社である坂本神社の祭神は、通説では建日臣の後裔坂本臣と、その同族たる布師臣が、その祖葛城襲津彦命を祭神として祀ったものとされている。
これは後付けの解釈で、筑後国一宮・高良大社の祭神・高良玉垂命の九躰皇子の一人である坂本命が本来の祭神なのではないかとの仮説を温めできた。実際に九州における坂本神社では坂本命を祭神とするところが多い。
けれども、全国的に見ると祭神はまちまちで、由緒不明の祭神が再解釈されて置き換わった可能性があるかもしれないが、仮説自体の妥当性に疑問が持たれる。
そんな折、『古代東山道の研究』(1961年)などで知られる一志茂樹氏の研究に触れ、新たな視点を与えられた。氏は「大和朝による古代越地方開発の新局面を探し得て(一)―東日本に創置された越後城存在の意義を匡す―」(『信濃』昭和51年10月号か?)の中で、次のように言及している。
高知県には残念ながら坂本郷は存在しないが、坂本神社なら数多くある。冒頭で触れた延喜式内社坂本神社(現在は多気・坂本神社として合祀)については、718年開設の阿波経由の官道で、まさに野根山街道の麓に鎮座している。
他方西の端、愛媛県と接する宿毛市にも坂本神社(宿毛市坂本八ケ森)が存在している。祭神は 阿遅須伎高彦根命、 大己貴神、聖神、豊玉毘古命、大山津見神、須佐之男命、不詳の七座とされ、誰を祀るかよりも、伊予国との国境に祀ることに意義があったようにも感じられる。
他にも県内には①南国市才谷や②吾川郡いの町勝賀瀬、③安芸郡芸西村和食などに坂本神社が鎮座している。
①については坂本龍馬の先祖が祀られている墓所として有名であり、検討対象から外すべきとも考えたが、土佐国府跡の北方に位置し、もしかしたら796年以後の北山越えの古代官道にルーツがあるかもしれないので、要検討としておく。
②の坂本神社は現地調査にも行ったが、どう判断するか決め手に欠ける。近くに庵木瓜紋の家紋を持つ伊藤家の若宮神社が祀られていたので、関連があるかとも思ったが、詳しい話までは聞くことができなかった。
③は金岡山の宇佐八幡宮の境内社である。元は別の場所にあったものが合祀され、式内社論争にもなった神社である。同じく境内社として高良神社があることから考察すると、芸西村の坂本神社は高良玉垂命の九躰皇子・坂本命を祀る九州タイプとするのが妥当であろうか。
県外に目を向けると、坂本神社はすぐに10社以上見つかった。中には延喜式内社もあり、一志博士の指摘通り、古代官道と関連付けられる歴史的な神社もいくつか見られる。
古代官道上にある「みさか」峠と御坂郷、坂本郷と坂本神社、さらには「オオサカ」峠など、多くのヒントを与えられて、古代官道研究がますます面白くなりそうである。
これは後付けの解釈で、筑後国一宮・高良大社の祭神・高良玉垂命の九躰皇子の一人である坂本命が本来の祭神なのではないかとの仮説を温めできた。実際に九州における坂本神社では坂本命を祭神とするところが多い。
けれども、全国的に見ると祭神はまちまちで、由緒不明の祭神が再解釈されて置き換わった可能性があるかもしれないが、仮説自体の妥当性に疑問が持たれる。
そんな折、『古代東山道の研究』(1961年)などで知られる一志茂樹氏の研究に触れ、新たな視点を与えられた。氏は「大和朝による古代越地方開発の新局面を探し得て(一)―東日本に創置された越後城存在の意義を匡す―」(『信濃』昭和51年10月号か?)の中で、次のように言及している。
おそらく、「みさか」の称呼をもつ峠は、全国で30箇処前後はあらうか。なほ、『和名抄』が武蔵国横見郡・備後国神石郡・筑前国穂波郡に御坂郷を載せてゐることは、注目すべきで、これら三郷は、いづれも古代の重要な路線途上の「みさか」の麓に位置してをりそれらが一郡をなしていることは、同抄が載せてゐる坂本郷の所在例(全国で一三郷)と合わせみ、さらに「みさか」の麓の坂本神社の所在例(『延喜式』その他)を勘案して考察したとき、その重要度の比重は容易に理解し得るであらう。古代の重要な路線途上、すなわち古代官道上に「みさか」峠や御坂郷があり、その麓には坂本郷や坂本神社が所在すると指摘しているのだ。『倭名類聚抄』に坂本郷が本当に13郷もあるのか半信半疑であったが、調べてみると確かに存在している。以下にリストを紹介しておく。
これらが古代官道と関連付けられるかどうかは個々に検証していく必要があるが、詳しく調べることによって何がしかの共通点が見出せるかもしれない。日理郡坂本郷(宮城県)碓氷郡坂本郷(群馬県)埴生郡坂本郷(千葉県)恵奈郡坂本郷(岐阜県)浜名郡坂本郷(静岡県)高安郡坂本郷(大阪府)和泉郡坂本郷(大阪府)古市郡坂本郷(大阪府)
気多郡坂本郷(鳥取県)山田郡坂本郷(香川県)
刈田郡坂本郷(香川県)
鵜足郡坂本郷(香川県)
益城郡坂本郷(熊本県)
高知県には残念ながら坂本郷は存在しないが、坂本神社なら数多くある。冒頭で触れた延喜式内社坂本神社(現在は多気・坂本神社として合祀)については、718年開設の阿波経由の官道で、まさに野根山街道の麓に鎮座している。
他方西の端、愛媛県と接する宿毛市にも坂本神社(宿毛市坂本八ケ森)が存在している。祭神は 阿遅須伎高彦根命、 大己貴神、聖神、豊玉毘古命、大山津見神、須佐之男命、不詳の七座とされ、誰を祀るかよりも、伊予国との国境に祀ることに意義があったようにも感じられる。
他にも県内には①南国市才谷や②吾川郡いの町勝賀瀬、③安芸郡芸西村和食などに坂本神社が鎮座している。
①については坂本龍馬の先祖が祀られている墓所として有名であり、検討対象から外すべきとも考えたが、土佐国府跡の北方に位置し、もしかしたら796年以後の北山越えの古代官道にルーツがあるかもしれないので、要検討としておく。
②の坂本神社は現地調査にも行ったが、どう判断するか決め手に欠ける。近くに庵木瓜紋の家紋を持つ伊藤家の若宮神社が祀られていたので、関連があるかとも思ったが、詳しい話までは聞くことができなかった。
③は金岡山の宇佐八幡宮の境内社である。元は別の場所にあったものが合祀され、式内社論争にもなった神社である。同じく境内社として高良神社があることから考察すると、芸西村の坂本神社は高良玉垂命の九躰皇子・坂本命を祀る九州タイプとするのが妥当であろうか。
県外に目を向けると、坂本神社はすぐに10社以上見つかった。中には延喜式内社もあり、一志博士の指摘通り、古代官道と関連付けられる歴史的な神社もいくつか見られる。
古代官道上にある「みさか」峠と御坂郷、坂本郷と坂本神社、さらには「オオサカ」峠など、多くのヒントを与えられて、古代官道研究がますます面白くなりそうである。
前回までに、古代官道上には御坂峠や三坂峠などのような「みさか」地名が多く見られることを紹介した。それと共に、大坂峠や逢坂峠のような「オオサカ」地名が存在することも複数の研究者によって指摘されている。今回は南海道における「オオサカ」峠にスポットを当ててみたい。
大宝二年(702年)正月一〇日に「始めて紀伊国賀陁駅家を置く」(『続日本紀』)とある。『続日本紀』は『日本書紀』に比べるといくらか正直に書かれている印象を受ける。どういうことかと言うと、四国内の古代官道は7世紀には既に存在しているのに、8世紀になってから初めて、紀伊水道を畿内側から四国へ渡るための渡津地点となる駅家を設置したと記録されているのである。
大宝二年(702年)正月一〇日に「始めて紀伊国賀陁駅家を置く」(『続日本紀』)とある。『続日本紀』は『日本書紀』に比べるといくらか正直に書かれている印象を受ける。どういうことかと言うと、四国内の古代官道は7世紀には既に存在しているのに、8世紀になってから初めて、紀伊水道を畿内側から四国へ渡るための渡津地点となる駅家を設置したと記録されているのである。
これこそまさに倭国・九州王朝(Old)から日本国・近畿王朝(New)への政権交代が701年であったとする"ONライン"の存在を傍証する代表的事例である。その段階では九州王朝時代の官道がそのまま利用されていたので、土佐国へのルートは伊予国経由であった。
このことは奈良時代の僧侶・行基(ぎょうき)が作ったとされる古式の日本地図『行基図』にも読み取れる。四国内の街道が阿波、讃岐、伊予を経て土佐国へと連結している。土佐国・阿波国間のルートが開かれるのが718年であるから、『行基図』原型となる地図はそれ以前に作成された可能性さえ読み取ることができる。
余談になるが、九州は筑後国を中心としてその周囲を8国が取り囲むように描かれている。これは筑後国に天子がいて中央と四方八方合わせて九つの州を治めるという九州王朝のイデオロギーが反映された地図表記なのではないかと感じている。ついでながら、古代寺院に見られる八葉蓮花文軒丸瓦のデザインにも通じるものがあるのではないだろうか。
四国の初駅である阿波国石隈駅は鳴門市木津付近に、同郡頭駅は旧吉野川北岸の板野町小字郡頭付近に比定され、香川県東かがわ市引田町に比定される讃岐国引田駅へと続く(服部昌之「阿波国」藤岡謙二郎編『古代日本の交通路』Ⅲなど)。板野町から引田町に向かう途上、徳島県と香川県の県境に大坂峠がある。古代官道上に見られる「オオサカ」地名である。

このことは奈良時代の僧侶・行基(ぎょうき)が作ったとされる古式の日本地図『行基図』にも読み取れる。四国内の街道が阿波、讃岐、伊予を経て土佐国へと連結している。土佐国・阿波国間のルートが開かれるのが718年であるから、『行基図』原型となる地図はそれ以前に作成された可能性さえ読み取ることができる。
余談になるが、九州は筑後国を中心としてその周囲を8国が取り囲むように描かれている。これは筑後国に天子がいて中央と四方八方合わせて九つの州を治めるという九州王朝のイデオロギーが反映された地図表記なのではないかと感じている。ついでながら、古代寺院に見られる八葉蓮花文軒丸瓦のデザインにも通じるものがあるのではないだろうか。
四国の初駅である阿波国石隈駅は鳴門市木津付近に、同郡頭駅は旧吉野川北岸の板野町小字郡頭付近に比定され、香川県東かがわ市引田町に比定される讃岐国引田駅へと続く(服部昌之「阿波国」藤岡謙二郎編『古代日本の交通路』Ⅲなど)。板野町から引田町に向かう途上、徳島県と香川県の県境に大坂峠がある。古代官道上に見られる「オオサカ」地名である。
実は高知県内にも逢坂峠があって、これも同様に古代官道上に見られる「オオサカ」地名であるとすれば、土佐国の古代官道の推定に役立つはずだ。場所は高知市一宮、南国市の土佐国府跡から真西方向で、土佐神社(土佐国一宮)に行く途中の切通しである。718年以前の伊予国経由の古代官道がこの逢坂峠を通っていた可能性は高い。今後、発掘調査等で明らかになることを期待する。
残す課題は坂本神社と古代官道との関係である。全国的にも坂本神社はいくつか存在しているが、とりわけ高知県には複数の坂本神社が鎮座する。次回はそこにスポットを当ててみたい。
残す課題は坂本神社と古代官道との関係である。全国的にも坂本神社はいくつか存在しているが、とりわけ高知県には複数の坂本神社が鎮座する。次回はそこにスポットを当ててみたい。
『古代を考える――古代道路』(木下良編、1996年)の一節に「大宰府を介して宮都に結び付いていた西海道を除けば、ほかの六道の官道はすべて宮都と各国を結合するものであった。したがって宮都の移動は、当然のことながら官道のルートにも大きな影響を与えた」とある。西海道だけは特殊であったということを、近畿王朝一元史観の学者たちも認めざるを得なかった。発掘によって分かってきた古代官道の広がりは、九州においては太宰府を中心に六道が伸びていたのである。大和朝廷に先行する九州王朝が実在したとすれば、おそらく太宰府付近を首都としていたことが予想される。太宰府は単なる地方の出先機関などではなかったのだ。
大和朝廷一元支配が始まるのが701年以降であり、710年(なんと見事な平城京)こそがまさに九州から近畿へという宮都の大規模な切り替えであった。それに伴って、南海道土佐国に通じる官道に変化が起こる。
大和朝廷一元支配が始まるのが701年以降であり、710年(なんと見事な平城京)こそがまさに九州から近畿へという宮都の大規模な切り替えであった。それに伴って、南海道土佐国に通じる官道に変化が起こる。
「土佐国申 公私の道 直土左指 其道伊予国経行程迂遠山谷険難 但阿波国境出相接往還甚易 請此国就為通路以許之」(『続日本紀』養老二年<七一八年>五月七日条)718年以前は伊予国経由であったものが、阿波国経由へと付け替えられることになったのだ。まさに「宮都の移動は、当然のことながら官道のルートにも大きな影響を与えた」わけである。
718年以降の阿波国ルートはいくつかの説が出されていたが、「阿波国那珂郡武芸駅・薩麻駅」の名称が記された平城宮出土木簡(『木簡研究』九)も見つかって、ほぼ野根山越えのコースであったという結論に落ち着いている。問題は伊予国経由のルートである。従来は仁淀川に沿うような国道33号線に近いコースも考えられていた(金田章裕「南海道」藤岡謙二郎編『日本歴史地理総説』古代編。日野尚志「南海道の駅路」『歴史地理学紀要』二〇。栄原永遠男『奈良時代流通経済史の研究』など)が、近年は宿毛市・四万十市など幡多郡を通る海岸付近の道であったとする足利健亮説が有力視されている。
そこで検討材料となるのが“古代官道上にある「みさか」峠”である。前回“古代官道上にある「みさか」峠①”で紹介したように、全国的に見ても、古代官道上に「御坂峠」のような「みさか」地名が多く見られるという。それが愛媛県にも存在している。松山と高知を結ぶ国道33号線の途上に「三坂峠」がある。この峠道は古くから松山と高知を結ぶ主要陸路として土佐街道(松山街道)と呼ばれ、利用されてきた。そして松山市の海岸には三津浜(三津)という古くから交易に利用されてきた港もある。これらは古代においては「御坂」と「御津」でセットだったのでなかいかと推測する。
『延喜式』段階の南海道淡路・四国の駅家と官道については、細部を除けば、従来の研究者の見解がほぼ一致していると言ってよい。阿波国・讃岐国・伊予国の今治まではおよそのルートが分かっている。さらに『新説 伊予の古代』( 合田洋一著、2008年)の第九章「風早に南海道を発見――上難波・下難波の地名考察を通して」の中で、今治の「国府から旧玉川道を経て松山まで古代官道が延びていたことが判明した」との発見を伝えている。
それが間違いないとすれば、三津浜は豊後水道を渡る渡津地点であった可能性があり、九州王朝時代の古代官道において、太宰府から豊後、豊後水道を渡って三津浜、そこから北へ向かえば伊予国の国府(今治)へ。他方、三坂峠を越えて土佐国へと通じていたのではないだろうか。この港の位置と道路網は、畿内を基点とすれば明らかに非効率であり、九州を基点としてこそ合理的な配置であることが理解できる。
やはり九州王朝時代の古代官道上に「三坂峠」はあったと推測する。さらに古代官道との関連が指摘されている「オオサカ」「坂本神社」などについても検証していきたい。
それが間違いないとすれば、三津浜は豊後水道を渡る渡津地点であった可能性があり、九州王朝時代の古代官道において、太宰府から豊後、豊後水道を渡って三津浜、そこから北へ向かえば伊予国の国府(今治)へ。他方、三坂峠を越えて土佐国へと通じていたのではないだろうか。この港の位置と道路網は、畿内を基点とすれば明らかに非効率であり、九州を基点としてこそ合理的な配置であることが理解できる。
やはり九州王朝時代の古代官道上に「三坂峠」はあったと推測する。さらに古代官道との関連が指摘されている「オオサカ」「坂本神社」などについても検証していきたい。
ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に長野県上田市の吉村八洲男氏によるコラム"科野からの便り(9)「みさか」編"が掲載されている。注目すべきは、古代官道上に「御坂峠」などの「みさか」地名が数多く見られるという指摘である。
「科野の国」にも「御坂峠」は2つあるとのこと。一志茂樹(いっし しげき、1893―1985年)博士の先行研究によると「おそらく、『みさか』の称呼をもつ峠は、全国で30個処前後はあろうか」としている。
そのうちの博士は具体的な地名として、論考中で10カ所程を例示しており、吉村氏作成のリストと長野県の古東山道想定図を引用させていただく。その際の根拠や引用文献も列記してあり、今後の「古代官道」研究の参考となりそうだ。
さて、「古代官道」研究者にとっては、古代官道上に「みさか」地名が多く見られるという指摘は早くから知られていた。例えば、『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』の補論2「古代東山道と神坂」(宇野淳子)の中で、次のように言及されている。
「科野の国」にも「御坂峠」は2つあるとのこと。一志茂樹(いっし しげき、1893―1985年)博士の先行研究によると「おそらく、『みさか』の称呼をもつ峠は、全国で30個処前後はあろうか」としている。
そのうちの博士は具体的な地名として、論考中で10カ所程を例示しており、吉村氏作成のリストと長野県の古東山道想定図を引用させていただく。その際の根拠や引用文献も列記してあり、今後の「古代官道」研究の参考となりそうだ。
▲「科野の国」を通過する古東山道想定図 |
①長野県下水内郡栄村から新潟県東頚城郡松之山町への道・遺存地名からの現地踏査②群馬県利根郡から新潟県南魚沼郡への現「三国峠」(古名「三坂峠」)・「新編会津風土記巻之112」③新潟県十日町市中条から北魚沼郡への道(福島県会津地方へ続く)・遺存地名からの現地踏査④滋賀県から有乳山越え福井県への道(北陸道か)・令制北陸道に同名あり⑤石川県から砺波山越え富山県への道(北陸道か)・「万葉集巻17」大友家持歌より⑥静岡県駿東郡小山町から神奈川県南足柄市への道(足柄坂)・「万葉集巻9、14、等」6カ所に出現⑦武蔵国横見郡(埼玉郡熊谷市)・「倭名類聚抄」から⑧備後国神石郡(広島県神石郡神石高原町)・「倭名類聚抄」から⑨筑前国穂波郡(福岡県飯塚市)・「倭名類聚抄」から⑩岐阜県恵那郡から長野県伊那郡への道(神坂峠)・「万葉集巻20」と現地踏査・発掘から付言すると、③の道が、前回の「科野からの便り(八)」でとりあげた「日本書紀」孝徳紀大化2年此歳條・大化3年此歳條にある「鼠」に関する記事と関連する。
「越國之鼠、昼夜相連、向東移去」「数年、鼠、向東行」という各文中にある「東」、つまり「東方へ向かう道」が、この道にあたるのではないかと博士は想像している。越國から「東」へ行く「古代道」が、これ以外には見当たらないからです。
さて、「古代官道」研究者にとっては、古代官道上に「みさか」地名が多く見られるという指摘は早くから知られていた。例えば、『平成14年度 國學院大學学術フロンティア構想「劣化画像の再生活用と資料化に関する基礎的研究」事業報告』の補論2「古代東山道と神坂」(宇野淳子)の中で、次のように言及されている。
ここでは「オオサカ」地名についても触れられている。百人一首でも有名な「これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関」〈蝉丸(10番)『後撰集』雑一・1089〉に代表される地名である。記紀で「科野坂」あるいは「信濃坂」と書かれているのが神坂峠であることを明らかにしたのは大場磐雄氏である。……(中略)……また、鈴木景二氏は文献史料を基とし、郡域を越えた民間レベルの交通を指摘している。すなわち、旧国郡域を越えていく峠のうち、主要ルートは「オオサカ」「ミサカ」の地名を冠していたこと。そのうち「ミサカ」は神が鎮座する、神を祀るところを示す呼称として使われていたこと。信濃国境で「ミサカ」を冠する峠は4つあるが、そのうち東山道ルート上の峠は2つで、近江国との比較から-近江国は主要ルートの中でも特に重要な地の呼称である「オオサカ」と共に「ミサカ」が官道上にある-信濃国の「ミサカ」は律令制を主体とした呼称ではなく、地域を主体とした呼称であることを述べている(3)。3)鈴木景二1998 「古代交通の諸相」『古代交通研究』8、八木書店。
他方、一志博士は「さらに『みさか』の麓の坂本神社の所在例(「延喜式」その他)を勘案したとき……」というように、「さかもと」名称にも注目すべきと指摘しているとのこと。
不思議なことに、長野県の事例から貴重な手掛かりを得ることになった。古代南海道における「みさか」「オオサカ」「坂本神社」ーーこれらは四国にも確かに存在しているーーが古代官道復元のキーワードになりそうである。
不思議なことに、長野県の事例から貴重な手掛かりを得ることになった。古代南海道における「みさか」「オオサカ」「坂本神社」ーーこれらは四国にも確かに存在しているーーが古代官道復元のキーワードになりそうである。
細胞の構造で動物細胞にも植物細胞にも共通に存在するつくりが、①核 ②細胞質 ③細胞膜です。一方、動物細胞にはなく、植物細胞にだけ見られるつくりが、④葉緑体 ⑤液胞 ⑥細胞壁です。ここで問題、④~⑥のうち、植物細胞ならば必ず存在するものは? 答えは⑥細胞壁。④葉緑体や⑤液胞は場所によっては存在しない細胞もありますよね。
ところで、核を見やすくするために使う染色液は何? 忘れた時には“セカチュー”を思い出して下さい。
「セカチューって何ですか?」
「ポケモンの仲間ではなくて、大ブームを巻き起こした恋愛映画『世界の中心で愛を叫ぶ』の略です。と言っても、君たちの世代では見たことない人がほとんどかもしれませんね」
ヒロインの名前は広瀬亜紀――オータムの秋でなく、白亜紀の亜紀。主人公の名前は萩原朔太郎から取って名付けられ、「朔ちゃん」と呼ばれています。実は今、サプライズで主人公に来てもらっています。ドアの外で待ってもらっていますから、皆さん、英語で呼んでみましょう。せーの、「朔(さく)さん、Come in!」……そう、酢酸カーミンです。映画の方は『世界の中心で愛を叫ぶ』。染色液の方は「細胞の中心で核を染める」――酢酸カーミン。これで覚えましたね。もしも忘れた時には“セカチュー”を思い出して下さい。
以前、"地震学者・都司嘉宣氏の「侏儒国=幡多国」説"を紹介したことがあった。高知県の西端に位置する幡多郡はかつて幡多国と呼ばれ、現在の幡多郡よりも広い範囲に及んでいたと考えられる。現在も幡多地方として、高知県の中でもやや異質な文化的特徴が見られる。
古田武彦氏の影響を受けた都司氏の「侏儒国=幡多国」説"については、ブログ「幡多と中村から」(http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-51.html)に書かれていた。その中に次のよう記述があった。
古田武彦氏の影響を受けた都司氏の「侏儒国=幡多国」説"については、ブログ「幡多と中村から」(http://hatanakamura.blog.fc2.com/blog-entry-51.html)に書かれていた。その中に次のよう記述があった。
都司先生は、今回、四万十市立図書館に足を運び、幡多地方の古い資料に目を通していたところ、今の土佐清水市益野にかつて、「猩々(しょうじょう)」がいたという記録を見つけた。人間の顔をした猿とか、小さな妖怪など、伝説・架空の生きものとされているが、この「猩々」が「こびとの国」の人ではなかったのか。(猩々には、猩々バエ、猩々トンボ、などの言葉もある)
おそらくは『土佐清水市史』(土佐清水市史編纂委員会編、1980年)に収録されている話であろう。「猩々(しょうじょう)」は侏儒(しゅじゅ)の音にも通じる。これだけだと荒唐無稽な話に聞こえるだろうが、江戸時代の地誌『沖島の記』(天保十四年頃〈1843〉)にも、沖の島の島人の習俗について似たような記述がある。
人物常ニ月代セズ、着用短ク紐帯ナリ、色黒ク目多ク丸シ、夜ナドハ男女見別ガタキコトアリ、人物ヲ難シタルコト他言無用トゾ、水田子薪ハ頭ニ置キ往来ス、雨中ニ傘ナシ下駄モ不用石ノ上ヲ往テ不濡、岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ。
この著者は対岸の幡多地方小尽浦(こづくしうら)の庄屋浜田魚臣であるが、同じ幡多郡内にありながら、島人をまるで異人種であるかのように描写している。
背丈の記述はないが、「岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ」とあることから、小柄で、俊敏な様子が読みとれる。土佐清水市益野では猩々として伝承されたのだろう。
もちろん、江戸時代の記述をもって弥生時代を推測するには時間的隔たりがありすぎることは百も承知である。それでも遺伝的形質が引き継がれてきた可能性は皆無ではない。
合田洋一氏は「侏儒国ーーその痕跡を沖の島(宿毛)にみた」と題する論考で、現地調査した結果を次のように報告している。
背丈の記述はないが、「岩ノ上嶮岨ノ所ヲ走リ廻ルコト猿ノコトシ」とあることから、小柄で、俊敏な様子が読みとれる。土佐清水市益野では猩々として伝承されたのだろう。
もちろん、江戸時代の記述をもって弥生時代を推測するには時間的隔たりがありすぎることは百も承知である。それでも遺伝的形質が引き継がれてきた可能性は皆無ではない。
合田洋一氏は「侏儒国ーーその痕跡を沖の島(宿毛)にみた」と題する論考で、現地調査した結果を次のように報告している。
「魏志倭人伝」に、「女王国の東、海を渡ること千余里、復た国有り。皆倭種。又、侏儒国有り。其の南に在り。人長三、四尺。女王を去ること四千余里。」とあり、「侏儒国」(中国では小人のことを侏儒という)について、古田氏はその地として足摺岬近辺から豊後水道の四国側の東岸領域を比定しております。そこで私は、この中で近世までは周りと接触が少なく隔絶していたであろう閉鎖的土地柄、そのような地に侏儒の遺伝的形態が保存されているのではないかと考え、実地調査をしたところ、その痕跡を宇和海と黒潮がぶつかる周囲23キロメートルの孤島「沖の島」(高知県)に発見しました。
島在住の人や島から転出している人、また先祖を含めて家族のことを証言してくれた年配の人の中には、身長が140~150センチメートル、あるいはそれ以下の極めて背丈が低い人が少なからずいましたし、「この島は身長が150センチ以下でも、恥ずかしくない土地柄です」との証言もありました。
▲愛媛県の南予地方は高知県幡多地方と文化的に近い |
「春高」と言ってもバレーボールじゃないよ。高知県立春野高等学校、略して春高。かつては高知園芸高校と呼ばれていたが、2006年(平成18年)から総合学科を設置し、現校名に改称している。
卒業して就農する生徒はほとんどいなくなり、農業色を払拭してイメージチェンジを図るための名称変更だったのだろうーーくらいに思っていたが最近の生徒の研究活動がすごい。
そして今年も郷土資料館に春高がやって来た。高知市春野郷土資料館企画展として、春野高校歴史同好会展示発表が2月8日(土)〜3月29日(日)の期間行なわれている。春野郷土資料館は春野文化ホールピアステージ隣り、春野図書館の2階にある。ブログでも紹介したことがあるが、大寺廃寺の素弁蓮花文軒丸瓦を展示しているところだ。
前年度までの壁新聞『春野をゆけば』の中から戦争遺跡関連のものをピックアップして展示するとともに、今年度もフィールドワークに根付いた研究成果を発表。高知県西部の須崎(回天の基地)、宿毛(旧海軍基地)、土佐清水(震洋特別攻撃基地)の戦争遺跡や、県下各地の城跡・史跡等についての調査結果を展示している。
このような活動を通じて、春野高校歴史同好会から若き歴史研究家が育つとともに、地域の歴史解明が前進することを期待して止まない。
卒業して就農する生徒はほとんどいなくなり、農業色を払拭してイメージチェンジを図るための名称変更だったのだろうーーくらいに思っていたが最近の生徒の研究活動がすごい。
佐賀県で開催された第43回全国高等学校総合文化祭「2019さが総文」(令和元年7月27日~29日)で、自然科学部門研究発表(生物部門)に出場した科学部が「イシダタミの暑さ対策」をテーマに海にすむ巻貝の環境適応について発表し、優秀賞を受賞している。
そして今年も郷土資料館に春高がやって来た。高知市春野郷土資料館企画展として、春野高校歴史同好会展示発表が2月8日(土)〜3月29日(日)の期間行なわれている。春野郷土資料館は春野文化ホールピアステージ隣り、春野図書館の2階にある。ブログでも紹介したことがあるが、大寺廃寺の素弁蓮花文軒丸瓦を展示しているところだ。
前年度までの壁新聞『春野をゆけば』の中から戦争遺跡関連のものをピックアップして展示するとともに、今年度もフィールドワークに根付いた研究成果を発表。高知県西部の須崎(回天の基地)、宿毛(旧海軍基地)、土佐清水(震洋特別攻撃基地)の戦争遺跡や、県下各地の城跡・史跡等についての調査結果を展示している。
このような活動を通じて、春野高校歴史同好会から若き歴史研究家が育つとともに、地域の歴史解明が前進することを期待して止まない。
『魏志倭人伝』の原文には「邪馬台(䑓)国」でなく「邪馬壹国」と書かれている。「邪馬壹国」が正しいことは、古田武彦氏が著書『「邪馬台国」はなかった』の中で既に論証したことである。では、なぜ邪馬壹国でなく邪馬台国が主流となったのだろうか。
初めて「邪馬台国」と記述されたのは范曄(はんよう、398〜445年)の『後漢書東夷伝』においてである。『魏志倭人伝』を信頼するなら「邪馬壹国」であり、『後漢書東夷伝』が正しいと考えるなら「邪馬台国」となるだろう。問題は後代の学者たちにとって、どちらがより信用できるかという点にある。

『粱書』『北史』『隋書』などはいずれも『後漢書』に右へ倣えで、「邪馬台国」と記述した。日本の歴史家たちもまたしかり。松下見林、本居宣長、東大の白鳥蔵吉、京大の内藤湖南など、歴代の邪馬台国研究者は『後漢書』中心主義の流れの中で「邪馬台国」が正しいとして疑わなかった。
これを喩えるなら、2000年前にイエスと洗礼ヨハネ(バプテスマのヨハネ)のどちらがより信じられるかという選択を迫られたユダヤ人たちの立場と似ている。
イエスは嘘偽りなく真実を述べ伝えようとした。大工の子として馬小屋で生まれ、母マリヤは婚約中に身ごもったため父親が誰か疑問が持たれていた。律法と矛盾するような言動、「汝の敵を愛せ」など、当時の常識や倫理観を超越する教えを述べ伝えた。当時のユダヤ人たちの目に映ったイエスは、決して信じられる存在ではなかったのである。
一方、洗礼ヨハネは、①当時の名門の出である祭司ザカリヤの子として生まれた(ルカ福音書1/13)。②彼の父親が聖所で香を焚いていたとき、その妻が男の子を懐胎するだろうという天使の言葉を信じなかったために唖(おし)となったが、ヨハネが出生するや否や口がきけるようになった。この奇跡によって、ユダヤの山野の隅々に至るまで世人を非常に驚かせた(ルカ福音書1/8〜66)。そればかりでなく、③荒野でいなごと野蜜を食しながら修道した素晴らしい信仰生活を見て、一般ユダヤ人たちはもちろん、祭司長までも、彼がメシヤではないかと問うほどに(ルカ福音書3/15、ヨハネ福音書1/20)素晴らしい人物に見えたのである。
クリスチャンたちはイエスの十字架の死は神の予定であったと言うかもしれない。しかし、そこには洗礼ヨハネの無知と不信があったなどとは考えも及ばぬことであった。
このような喩えを出したのは「邪馬台国」問題にも同じことが言えるからである。当時の中国および、後の日本の歴史家たちにとって、陳寿(ちんじゅ、233〜297年)の『魏志倭人伝』と范曄の『後漢書東夷伝』のどちらがより信頼できるかという問題に置き換えることが可能である。
『魏志倭人伝』は①里程に誇張があって信用できない。②記述された寿命が長すぎることへの疑問ーー理性的な学者たちは信ずるに値せずとの判断を下したことだろう。その先頭に立ったのが范曄であった。『魏志倭人伝』の記述をベースとしながらも、疑問とするところは自分の判断で改定し、『後漢書東夷伝』を記していった。この一見合理的とも思える范曄の記録を多くの学者たちが信用した。だが、そこには無知によるとんでもない錯覚があったことが古田氏によって指摘されている。もちろん、范曄独自の新情報を盛り込んだ部分もあったかもしれないが、多くは机上の作文であったことが露呈してきたのだ。
一方、『魏志倭人伝』の問題点とされてきた①里程問題は「短里(1里=約76m)」の実在によって、かなり正確な実測値であったことが分かってきた。また②長寿問題は「二倍年暦」によって当時の寿命とも整合性がとれ、『三国志』全体に統一的な基準で記載されていたことが判明している。本来信ずべきは『魏志倭人伝』のほうだったのである。
だが、これまでの歴史の大家たちは2000年前のユダヤ人たちと同じ道をたどっていった。新しい真理を受け入れることができず、かえって闇に葬り去ろうとしたのである。今一度、『魏志倭人伝』と『後漢書東夷伝』のどちらがより信頼すべき史料であるか史料批判してほしい。少なくとも3世紀当時においては「邪馬壹国」という表記を尊重すべきことはご理解いただけるのではないだろうか。もちろんそれぞれに情報価値があるので、一方を捨てる必要もないのであるが……。
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『探訪―土左の歴史』第20号
(仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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