まずは宇佐八幡宮についての由緒を現地の案内板から引用しておこう。
宇佐八幡宮御由緒
御祭神 八幡大神(応神天皇)治暦元年八月十五日(一〇六五年)鎮守将軍源頼義公が前九年の役を平定して後ここ錦織荘に館を構え九州大分の宇佐神宮を鳩の群れが導き示した此の処に勧請し崇敬された。由緒は正しく宇佐山の名称も此処に始る。以来産土神として崇敬され、むし八幡とも称し子供の守神と広く信仰が寄せられてきた。後に織田信長が山頂に宇佐山城を築いた。戦乱のなか落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。
また、源頼義がこの神社を創建した当時の礎石と伝わる石があることから、平安中期までさかのぼる歴史があることは言えそうだ。
此の礎石は治暦元年(西暦一〇六五)源頼義公が茲に宇佐宮を創建された当時の柱石の一部で明治の仮殿修復の際ここ中門付近の地中から出土したものであります。礎石の表面が焼け爛れているのは山頂に宇佐山城が築かれ戦乱の戦火で八幡宮も焼失したと伝えられている事を裏付ける貴重なものであります。その証として処に保存する。(立て札の説明文より)
さらに「金殿井」と呼ばれ、天智天皇の病気を癒したと伝わる霊泉がある。「天智即ち近江の御代に『中臣ノ金』によって発見されたもので、天智天皇の御病気を癒したという霊験あらたかな霊泉と伝えられています」との説明。ついに近江朝との接点が見えてきた。地理的にも近江大津宮跡とされる場所から北西の方角にすぐの立地である。
宇佐八幡宮の勧請は源頼朝より5代前の源頼義の時代としても平安時代中期であるから、直接には7世紀の近江朝との関連は見出せない。そこで境内社・高良社の由緒が問題となってくる。
境内社の成りたちとして、主に次の3つのタイプが考えられる。
①神社整理により、近隣の神社が郷社など中核的な神社の境内に取り込まれ祀られたもの。明治維新の際の神仏分離令や明治39年の神社合祀令に伴う事例が多い。②神社を他から勧請する際に同時に摂社として祀られたもの。③別の神社が鎮座していた社地に他から新しい神社を勧請する際、旧来の神社が境内社として祀られる。
石清水八幡宮や宇佐八幡宮の勧請に際しては、通常②の同時勧請と説明されることが多いが、本場大分県の宇佐神宮では見られない高良社が共に勧請されることには疑問がある。そうなると③のパターンを想定する必要がありそうである。実際に高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請された例は、関東地方などで見られる。
そのことを傍証するかのように、大津市園城寺町には三井寺が存在する。筑後の高良大社の麓にもやはり御井寺(三井寺)がある。やはり「九州王朝系近江朝」という理解は正しいのだろうか。『日本書紀』でも天智天皇の近江遷都については、斉明天皇の大規模な土木工事と同様に“悪政”と描かれており、九州王朝系であることを暗示しているかのようだ。
日本一の琵琶湖を擁する滋賀県は高良神社の密集地帯でもある。当ブログでは既に2社紹介している("滋賀県の高良神社①ーー彦根市の高良塚"、"滋賀県の高良神社②ーー長浜八幡宮 境内社")が、それ以外にも複数鎮座していることが分かってきた。
とりわけ古田史学の会で注目されているのが甲良町の甲良神社(滋賀県犬上郡甲良町尼子1)である。当初は漢字表記の違いから高良神社とは似て非なるものと思い、見過ごしてしまっていたが、古田史学の会・古賀達也代表はブログ「洛中洛外日記」の中で次のように語っている。
とりわけ古田史学の会で注目されているのが甲良町の甲良神社(滋賀県犬上郡甲良町尼子1)である。当初は漢字表記の違いから高良神社とは似て非なるものと思い、見過ごしてしまっていたが、古田史学の会・古賀達也代表はブログ「洛中洛外日記」の中で次のように語っている。
甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。(第147話 2007/10/09)
また御由緒には次のように書かれている。
主祭神の鎮座は社記によると、筑後国の高良大社より勧請されたものといわれるが、その年代は不詳である。又相殿の三女神については、「社伝」によれば、「納胸形君徳善女尼子姫 此尼子娘後に斯所に住玉ひて三女神を祭り給ひし」とあり、また社記に「治暦年中より甲良荘の総社と成りける」とあることから治暦以前に勧請されたもので、その頃から甲良荘33ヶ村の総社として厚く信仰されていた。(滋賀県神社庁のホームページより)
由緒によると筑後国の高良大社から主祭神が勧請されたのが天武天皇の時代より古く、後に尼子姫が宗像三女神を相殿として祭ったようである。甲良町の甲良神社は漢字表記こそ違え、九州からの勧請であることから高良神社と見なして良さそうである。どうして滋賀県に高良神社が数多く鎮座するようになったのだろうか。
近年、古田史学の会事務局長・正木裕氏によって「九州王朝系近江朝」という考えが提唱されるようになってきた。賛否両論あるようだが、琵琶湖周辺に高良神社が多く分布していることは天智天皇の近江朝廷が九州王朝系であったことを後押しする根拠となるようにも感じられる。もちろん、そこには高良神社が九州王朝の宗廟的位置づけであったとする仮説および、鎮座する高良神社の歴史がONライン(701年)以前にさかのぼれるという前提があってのことである。
研究者としてもブロガーとしても、現場を踏まずに記事を書いたり、論を展開するのは無責任であるが、コロナ禍のご時世なので、調査に行けるのがいつになるか分からない。ぜひ地元の研究者の力をお借りしたいところである。引き続き、滋賀県に鎮座する他の高良神社情報も発信していきたい。
近年、古田史学の会事務局長・正木裕氏によって「九州王朝系近江朝」という考えが提唱されるようになってきた。賛否両論あるようだが、琵琶湖周辺に高良神社が多く分布していることは天智天皇の近江朝廷が九州王朝系であったことを後押しする根拠となるようにも感じられる。もちろん、そこには高良神社が九州王朝の宗廟的位置づけであったとする仮説および、鎮座する高良神社の歴史がONライン(701年)以前にさかのぼれるという前提があってのことである。
研究者としてもブロガーとしても、現場を踏まずに記事を書いたり、論を展開するのは無責任であるが、コロナ禍のご時世なので、調査に行けるのがいつになるか分からない。ぜひ地元の研究者の力をお借りしたいところである。引き続き、滋賀県に鎮座する他の高良神社情報も発信していきたい。
「等身大の秀吉坐像発見
大阪・大宮神社 高さ81センチ、最大級」
2020年5月22日付の高知新聞の記事の見出しである。国内最大級となる木造の豊臣秀吉坐像が発見されたことが報じられた。江戸時代に制作されたとみられ、「徳川家康が天下人となり、秀吉信仰がはばかられていた時代でも大阪でひそかに祭られていたことを示す貴重な資料」との見解のようだ。
この発見自体大きなニュースではあるが、私は別のところに注目していた。この秀吉像が隠されていた場所が大宮神社本殿とは別の社殿「高良社」に祭られていた点である。社殿の扉はくぎ止めされ、像の存在は長く秘密にされていた。高知新聞では「大宮神社内にある摂社・高良社」との表記であったが、高知県内で一般的に見られる境内摂社のごとき小さな祠ではない。高良社の鳥居や灯籠もあり、巨大な秀吉像を隠してあったことからも格式のある社殿であることが想像できる。
まずは大宮神社の祭神や摂社、由緒などを見ておこう。
祭神
應神天皇、神功皇后、姫大神配祀 鬼門守護大神、菅原道眞、天御中主神合祀 大國主神、事代主神、速素盞男神、十五社大神、應神天皇、菅原道眞摂社
稲荷社「宇迦之御魂神」高良社「武内宿禰命」若宮八幡宮「仁徳天皇」北斗社「北斗大神」楠社「楠大神」春日社「廣渕善直」いぼ大神社「いぼ大神」行者社「役小角」
由緒
大宮神社の創建は、今から約八百年昔、文治元年二月、源義経が平氏追討の為下向の際この地に一泊し、その時に宇佐八幡の神の霊夢をみ、目覚めてみれば一樹の梅の古木に霊鏡が掛けられていました。 義経は吾に神助ありと勇気百倍、その鏡を奉じて平家を討ち滅ぼし、後鳥羽上皇に奏上して神社建立をお願いして許され、この地に社を建てて大宮八幡宮と称したと伝えられます。(『平成祭礼データ』大宮神社由緒より)
大宮神社は大阪市旭区大宮に鎮座しており、応神天皇・神功皇后・姫大神は八幡宮のスタンダードな御祭神である。大国主神・事代主神・速素盞男神(二座)・十五社大神・応神天皇(二座)・菅原道眞公をお祀りしているのは、神社合祀令により明治40年9月に、産土神社外六社を合祀したものであろうか。十五社大神は長野県や熊本県天草に多いとされる十五社と関係があるかもしれない。
社名に「八幡宮」と出ていないのは、明治45年4月に大宮八幡宮から大宮神社へと名称変更したもの。相殿に鬼門守護神(鬼門守護大神)・天満神社(菅原道眞公)・天御中主社(天御中主神)をお祀りしているのが注目すべきところで、天正十一年、豊臣秀吉が大阪城を築くに当り、当社を「鬼門守護神」と崇めたと伝えられている。
社名に「八幡宮」と出ていないのは、明治45年4月に大宮八幡宮から大宮神社へと名称変更したもの。相殿に鬼門守護神(鬼門守護大神)・天満神社(菅原道眞公)・天御中主社(天御中主神)をお祀りしているのが注目すべきところで、天正十一年、豊臣秀吉が大阪城を築くに当り、当社を「鬼門守護神」と崇めたと伝えられている。
しかし創建自体は大阪城が築城されるよりもずっと古く、源平合戦の頃(1185年)にさかのぼる歴史を持っているようだ。若宮八幡宮と高良社がセットで摂社としてあることから、大宮八幡宮の創建と同時に置かれたものとするのが妥当かもしれないが、さらにさかのぼる可能性すらある。
『摂津国風土記』に比売許曽の神が比売島に来たとの伝承がある。西淀川区姫島に鎮座する姫島神社に比定する説があるが、そこは近世まで海中であったとされる。 『摂津国風土記』にいう難波の日女島(比売島、姫島)は旧名を南島といわれた旭区森小路付近との考えも有力である。淀川の河口津に当たり、九州方面からの船団が停泊した船泊りでもあったと推測できる。この立地は難波宮との関連も考慮する必要がありそうだ。もともと難波宮の鬼門の位置に鎮座していたとも考えられるからだ。
大坂府には現在の社名からは想像もつかないが、茨木市春日5-6-1の倍賀春日(へかかすが)神社や寝屋川市打上元町38−1の打上神社など旧高良神社とされる神社がいくつか存在している。また、岸和田市西ノ内町1番地の兵主(ひょうず)神社や河内長野市長野町8-19の長野神社など、高良神社を摂社として持つ神社群もある。
調べれば大阪府にも高良神社(高良社、高良宮)がかなり存在しているようだ。「前期難波宮九州王朝副都説」(この説には宮都跡からの九州系の遺物出土が少ないという弱点あり)を主張される方々は、このような周辺的状況を調査しているのだろうか。大阪の高良神社の歴史は意外に古そうである。難波宮を取り巻く高良神社群の調査という新たなアプローチによって、九州と畿内とのつながりを研究することができるのではないかとの期待が持たれる。
徳川家が天下人となった江戸時代、豊臣秀吉像は高良社に隠されて信仰された。なぜ高良社に祀られたかはいくつかの理由が考えられるが、大和朝廷以前の九州王朝歴代の王を祀った宗廟が高良神社であったとすれば、前政権の主権者の像がそこに秘蔵されたのはうなずける。当時の宮司さんもその意味を十分に理解していたのかもしれない。
『摂津国風土記』に比売許曽の神が比売島に来たとの伝承がある。西淀川区姫島に鎮座する姫島神社に比定する説があるが、そこは近世まで海中であったとされる。 『摂津国風土記』にいう難波の日女島(比売島、姫島)は旧名を南島といわれた旭区森小路付近との考えも有力である。淀川の河口津に当たり、九州方面からの船団が停泊した船泊りでもあったと推測できる。この立地は難波宮との関連も考慮する必要がありそうだ。もともと難波宮の鬼門の位置に鎮座していたとも考えられるからだ。
大坂府には現在の社名からは想像もつかないが、茨木市春日5-6-1の倍賀春日(へかかすが)神社や寝屋川市打上元町38−1の打上神社など旧高良神社とされる神社がいくつか存在している。また、岸和田市西ノ内町1番地の兵主(ひょうず)神社や河内長野市長野町8-19の長野神社など、高良神社を摂社として持つ神社群もある。
調べれば大阪府にも高良神社(高良社、高良宮)がかなり存在しているようだ。「前期難波宮九州王朝副都説」(この説には宮都跡からの九州系の遺物出土が少ないという弱点あり)を主張される方々は、このような周辺的状況を調査しているのだろうか。大阪の高良神社の歴史は意外に古そうである。難波宮を取り巻く高良神社群の調査という新たなアプローチによって、九州と畿内とのつながりを研究することができるのではないかとの期待が持たれる。
徳川家が天下人となった江戸時代、豊臣秀吉像は高良社に隠されて信仰された。なぜ高良社に祀られたかはいくつかの理由が考えられるが、大和朝廷以前の九州王朝歴代の王を祀った宗廟が高良神社であったとすれば、前政権の主権者の像がそこに秘蔵されたのはうなずける。当時の宮司さんもその意味を十分に理解していたのかもしれない。
前回「高良玉垂命=武内宿禰」説は成立しないということを言った。それを裏付けるように、高良神は京都の石清水八幡宮では七社(宝前三所・武内・若宮・若宮殿・高良)のひとつであり、「八幡神垂迹曼荼羅」には高良と武内は別々に描かれているのである。本地を大勢至菩薩あるいは龍樹菩薩とし、承安元年(一一七一)五月、公家のおんため建春門院(平滋子)当宮七社の御本地を顕わされ、勢至を用いると記されている(「宮寺縁事抄第一末」)。
高良玉垂命はもともと女性神と言いながら、曼荼羅には男性の臣下のように描かれているではないかという反論があるかもしれない。そこには神仏習合の思想と「高良玉垂命=籐大臣」説の影響を受けたものとの印象を受ける。さらに中世以降は謡曲『弓八幡』『放生会』などに描かれた武神として武内宿禰と結び付けられた男性格として捉えられる一方、神功皇后と関連づけられた女性格としてのイメージも引き継がれていった。
このような男性神でもあり女性神でもあるような両性が融合したような印象はどこから来たのだろうか。
それを解くカギが『日本書紀』神功皇后紀の七支刀献上記事と石上神社の七支刀銘文にある。正木裕氏の論考「神功皇后と俾弥呼ら四人の筑紫の女王たち」(『古代に真実を求めて』第23集)によると、「石上神社の七支刀」は百済王から倭国女王「旨」に贈られたものであり、倭王旨こそ初代高良玉垂命なのだと比定している。
◎石上神社の七支刀銘文(表)泰(和)四年(*己巳三六九)五月一六日丙午正陽造百練□七支刀出辟百兵宜供供(侯)王(裏)先世以来未有此刀百濟(王)世□奇生聖音故為倭王旨造(傳示後)世
高良玉垂命の369年の三瀦遷都を祝すため百済は刀を「倭王旨の為に造」り、七か国平定に因んで七支刀という形状にしたというのだ。
その後、倭の五王が活躍した時代へと移る。朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、5世紀初めから約1世紀近くのあいだ、『宋書』倭国伝に讃・珍・済・興・武と記された倭の五王があいついで中国の南朝(420~589)に朝貢している。
高校の日本史の教科書『詳説日本史』(山川出版社)では「『宋書』倭国伝に記されている倭の五王のうち、済とその子である興と武については『古事記』『日本書紀』にみられる允恭とその子の安康・雄略の各天皇に当てることにほとんどの異論はないが、讃には応神・仁徳・履中天皇を当てる諸説があり、珍についても仁徳・反正天皇を当てる2説がある」との説明がなされている。だが、近畿天皇家に比定しようとすると何れの説においても必ず矛盾が生じ、『宋書』倭国伝との整合性はとれない。
しかし、玉垂命を九州王朝の天子=倭王「旨」とすれば、年代・血縁関係も矛盾なく説明できるのだという。玉垂命には「九躰皇子」がいた。
(1)斯礼賀志命神
(2)朝日豊盛命神
(3)暮日豊盛命神
(4)渕志命神
(5)谿上命神
(6)那男美命神
(7)坂本命神
(8)安子奇命神
(9)安楽応宝秘命神
『高良社大祝旧記抜書』(元禄一五年成立)によれば、長男斯礼賀志命は朝廷に臣として仕え、次男朝日豊盛命は高良山高牟礼で筑紫を守護し、その子孫が累代続くとある。
◎九州王朝:玉垂命(~389)――長男斯礼賀志(390~)――次男朝日豊盛――(この系統が継ぐ)
朝貢記事の年代と続柄からすると「讃」は斯礼賀志命であり、「珍」は朝日豊盛命に対応する。すなわち、謎とされてきた「倭の五王」は、実は九州王朝の王であり、高良大社に祀られた高良玉垂命の後孫「九躰皇子」の血筋であったというのだ。
初代玉垂命は女王、2代目以降は倭の五王に代表される男王――よって高良玉垂命は女性神でもあり男性神でもある――こうして、九州王朝宗廟の神様として祀られるようになっていったのである。
初代玉垂命は女王、2代目以降は倭の五王に代表される男王――よって高良玉垂命は女性神でもあり男性神でもある――こうして、九州王朝宗廟の神様として祀られるようになっていったのである。
巷では「卑弥呼=神功皇后」説が出回っているようだが、これは『日本書紀』の編纂者の思惑に見事にはまったものだと言える。
『日本書紀』神功皇后摂政三九年(239)是年、太歳己未魏志に云はく、明帝の景初三年(239)六月、倭の女王大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。四〇年(240)魏志に云はく、正始の元年(240)に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書・印綬を奉りて、倭国に詣らしむ。四三年(243)魏志に云はく、正始の四年(243)、倭王、復使大夫伊声者・掖耶約等八人を遣して上献す。
確かに邪馬壹国女王・卑弥呼が魏に使者を送ったことなどが、『魏志倭人伝』の引用の形で『日本書紀』「神功皇后紀」の中に説明書きされている。しかし、それだけではなく壹與の業績までも含まれている。さらには三韓征伐の説話が盛り込まれていることなど、神功皇后がスーパーウーマンのように描かれている。だが、倭国が朝鮮半島へ派兵するのは四世紀以降のことであり、三世紀の卑弥呼や壹與とは時代を異にする。
古田史学の会事務局長・正木裕氏によると、四世紀の事件を神功紀では二運・120年繰り上げて記載しているというのだ。例えば、『三国史記』で375年とされる肖古王薨去記事は『日本書紀』では255年(神功五五年、乙亥)とされ、『三国史記』で384年の貴須王薨・枕流王即位去記事が『日本書紀』では264年(神功六四年、甲申)になっている。
『日本書紀』の編者はなぜ、このように強引なパッチワークのごとき編集をしたのだろうか。大和朝廷内の女性天皇は限られている。神功皇后でさえ天皇であったかどうか疑問視されている。けれども、海外の史書には卑弥呼・壹與など倭国女王の事績が記録されている。これは動かせない。一方、同時代における大和朝廷内の女性天皇がいないので、この矛盾を埋め、倭国(九州王朝)が行った外交政策までも大和朝廷の事績とするために「神功皇后紀」を置かざるを得なかったのである。
それでは「三韓征伐」と呼ばれる韓半島征伐譚が本来四世紀中葉の出来事であるにもかかわらず、120年繰り上げて「神功皇后紀」に取り込まれたとするなら、本来の中心人物は誰だったのであろうか。神功皇后に擬せられたということは、これもまた九州王朝内における女帝であったと推測される。その人物こそが筑後国一宮・高良大社の御祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」であったというのだ。
前振りが長くなってしまったが、やっと高良神社の謎に迫る話になってきた。正木裕氏の論考「神功皇后と俾弥呼ら四人の筑紫の女王たち」(『古代に真実を求めて』第23集)によると、「大善寺玉垂宮の由緒書で、『祭神』の高良玉垂命は仁徳五五年(三六七)に筑後三瀦に来て、五六年(三六八)に賊徒を退治。五七年(三六九)に三瀦大善寺に宮を造営し筑紫を治め、七八年(三九〇)に三瀦で没したと記される。そして『書紀』に記す神功皇后の半島の『七か国平定』の実年は玉垂命の由緒と一致している」というのだ。
また、『筑後国神名帳』に「玉垂姫神」、『袖下抄』に「高良山と申す處に玉垂の姫はますなり」とあるように高良玉垂命はもともと女性神なのだという。このことからも「高良玉垂命=武内宿禰」説が成立しないことは明白である。それならば、女性神として高良大社に祀られた高良玉垂命とは、一体どのような人物だったのだろうか。この点についても、さらにアプローチしていきたい。
以前にも、"高良神社余話ーーどう読む? 「こうら」 or 「たから」"と題して、「高良」をどう読むかを話題にしたことがあった。沖縄ではやっぱり「たから」と読むようだ。
『日本の名家・旧家』(森岡浩著、2017年)を見ると、慶留間島の旧家として高良(たから)家があった。土佐国に琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前が『南路志3』に登場しており、もしかしたら船頭職・高良家との繋がりがありそうだ。
また、沖縄県には那覇市立高良(たから)小学校(那覇市高良2-12-1)もあった。沖縄都市モノレール(ゆいレール)の赤嶺駅から少し南に行ったあたりが高良(たから)地区で、豊見城市との市境あたりまで高良1~3丁目が広がっている。高良1丁目の丘の上、高良全体を見下ろせる場所に高良公園がある。中でも、丘の頂上は「高良之殿」という拝所になっているそうだ。
問題は沖縄県の「たから」と読む高良姓および高良地名が、九州島内の「こうら」と読まれる高良姓や高良大社などと繋がりがあるのか、それともまったく語源を異にするのか。『日本の名家・旧家』(森岡浩著、2017年)を見ると、慶留間島の旧家として高良(たから)家があった。土佐国に琉球国から漂着した高良(たから)長峯という船頭の名前が『南路志3』に登場しており、もしかしたら船頭職・高良家との繋がりがありそうだ。
高良家 たから
慶留間島の旧家。琉球王朝末期の進貢船の船頭職を務めた仲村渠雲上が、中国貿易で財を成した。明治初期に建てられた同家住宅は、大正時代に赤瓦葺きとなり、昭和六三年(一九八八)に国指定重要文化財となった。(『日本の名家・旧家』より)
また、沖縄県には那覇市立高良(たから)小学校(那覇市高良2-12-1)もあった。沖縄都市モノレール(ゆいレール)の赤嶺駅から少し南に行ったあたりが高良(たから)地区で、豊見城市との市境あたりまで高良1~3丁目が広がっている。高良1丁目の丘の上、高良全体を見下ろせる場所に高良公園がある。中でも、丘の頂上は「高良之殿」という拝所になっているそうだ。
『日本姓氏語源辞典』によると「タカラ 【高良】」については、次のように記述されている。
①沖縄県那覇市高良発祥。琉球王国時代から記録のある地名。地名は「多嘉良」とも表記した。琉球音もタカラ。
どちらも歴史が古く、追求してみたいところだが、今のところ手掛かりが不十分である。さらに徳島県に多家良町上宝(たからちょうかみだから)といった地名もあって、調べてみると面白そうだ。②福岡県久留米市北野町高良(コウラ)発祥。江戸時代から記録のある地名。福岡県ではコウラが主流。
愛媛県に高良神社は何社あるだろうか?
高良神社について調査し始めた頃、愛媛県には高良神社が少なすぎると感じていた。高良大社(福岡県久留米市御井町1)が筑後国一宮であり、九州との位置関係を考えると、四国においては愛媛県にこそ最も多く分布するはずであるとにらんでいた。調べていくうちに、数はどんどん増えていった。単立の高良神社が残されておらず、すべて境内社となっているため、見つけるのは容易ではなかったが、10社ほど発見しリストアップしていた。
『愛媛県神社誌』を開いてびっくり、愛媛県の「県内神社分布表」が既に作成されていた。高良神社(高良玉垂社を含む)についても、すべて境内社として11社が数えられていた。最初からこの資料があったらと思わないでもなかったが、その内訳については気になるところもある。忽那島支部1社とあるが、掲載されている18社中に高良神社の名は見えない。八幡神社(温泉郡中島町津和地1422)の境内神社として武内神社(武内宿祢)があるので、これを入れたものであろうか。
愛媛県では高良神社の御祭神はほとんど武内宿祢命とされている。そうなると越智郡の大井八幡大神社や玉生八幡神社、亀山八幡神社、大山八幡大神、橘八幡大神社、宗方八幡神社、矢矧神社、東予市の鶴岡八幡神社や護運玉甲々賀益八幡神社、周桑郡の河内八幡神社、高知八幡神社など他にも武内宿祢命を祀る神社がいくつかあり、高良神社が合祀されている可能性が見えてくる。
▲西条市丹原町の綾延神社・境内社 |
また、旧郷社・八幡神社(北宇和郡津島町高田乙92)の境内社・得寿森神社(高良玉垂命、天照大御神、須佐之男命外四三座)については「初め高良神社と称したが、明治四二年四月に部落の全社と近郊の小社を合祀して得寿森神社と改称した。昭和三九年一二月に社殿を改築した」とある。さらに旧県社・八幡神社(北宇和郡吉田町立間1-3908)の境内社・和霊神社についても祭神が「高良玉垂命、山家公霊、火産霊神、菅原神、大国主神、外一柱」と書かれている。
やはり過去においては、愛媛県は高良神社が濃厚に分布する地域であり、九州との縁が深かったと推測される。不幸にも明治39年の神社合祀令により、無格社などの多くが、郷社など地域の中心的な神社へと合祀され、一村一社を標準とするよう整理されていった。このような神社整理を最も忠実に行ったのが三重県、和歌山県そして愛媛県であった。逆に神社合祀令の前後でほとんど神社数が減らなかったのが、熊本県と岩手県であったという史料も存在する。
愛媛県の高良神社をリストアップすると以下の表のようになる。多少疑問のあるところも含めると14社ということになった。これ以外に武内宿祢命を祀る神社が10社以上あり、神社合祀令がなかったとしたら、かなり濃厚に高良神社が分布していた様子が伺える。予想通り、古代九州王朝との繋がりが深かったと考えても良さそうだ。
やはり過去においては、愛媛県は高良神社が濃厚に分布する地域であり、九州との縁が深かったと推測される。不幸にも明治39年の神社合祀令により、無格社などの多くが、郷社など地域の中心的な神社へと合祀され、一村一社を標準とするよう整理されていった。このような神社整理を最も忠実に行ったのが三重県、和歌山県そして愛媛県であった。逆に神社合祀令の前後でほとんど神社数が減らなかったのが、熊本県と岩手県であったという史料も存在する。
愛媛県の高良神社をリストアップすると以下の表のようになる。多少疑問のあるところも含めると14社ということになった。これ以外に武内宿祢命を祀る神社が10社以上あり、神社合祀令がなかったとしたら、かなり濃厚に高良神社が分布していた様子が伺える。予想通り、古代九州王朝との繋がりが深かったと考えても良さそうだ。
愛媛県の高良神社一覧(2020年2月現在) | |||
神社名 | 祭 神 | 住 所 | 備 考 |
高良神社 | | 松山市北斎院町295 | 高家八幡神社の境内社 |
高良玉垂社 | 武内宿禰命 | 松山市桜谷町173 | 伊佐爾波神社の境内末社 |
高良玉垂八幡神社 | 誉田別尊、武内宿弥命 | 松山市高岡町917 | 生石八幡神社の境内社 |
武内神社 | 武内宿祢 | 温泉郡中島町津和地1422 | 八幡神社の境内社 |
高良神社 | 武内宿弥 | 西条市氷見乙1345-1 | 石岡神社の摂社 |
高良神社 | 武内宿弥命 | 西条市丹原町田野上方1548 | 綾延神社の境内社 |
高良神社 | 武内大臣命 | 新居浜市大島宮山乙73 | 大島八幡神社の境内社 |
高良神社 | 高良明神 | 伊予市上吾川495 | 伊予岡八幡神社の境内社 |
高良玉垂社 | 武内宿禰命 | 伊予郡松前町西古泉536 | 玉生八幡大神社の境内社 |
高良神社 | | 宇和島市伊吹町1068 | 八幡神社の境内社 |
得寿森神社 | 高良玉垂命 | 北宇和郡津島町高田乙92 | 八幡神社の境内社 |
和霊神社 | 高良玉垂命 | 北宇和郡吉田町立間1-3908 | 八幡神社の境内社 |
高良神社 | 武内宿弥公 | 南宇和郡城辺町緑1-876 | 弓削神社の境内社 |
高良神社 | 高良玉垂命 | 南宇和郡愛南町御荘平城1534-1 | 八幡神社の境内社 |
これまでのブログの中で、岡豊別宮八幡宮の境内社として瓦ノ宮社があり(岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した)、物部川の西岸に川原神社があった(南国市の川原神社は高良神社だったのでは?)ことを紹介した。丁度その中間地点、祈年神社(南国市東崎283)の境内にもう1つの「瓦の宮」があったことが判明した。
さて、この瓦の宮は源希義の霊を慰めるために祀ったものとされているが、なぜ名前が「瓦の宮」なのだろうか。「希義はかねて香美郡夜須庄の荘官であった夜須行宗と平氏を討つ密約が出来ていた。亦、夜須庄は源氏にゆかりの石清水八幡宮の所領でもあった」という。
石清水八幡宮の摂社に高良神社があることは、吉田兼好の『徒然草』にも書かれている。「ぐるりん関西」のホームページには次のように紹介されている。
実際に岡豊別宮八幡宮の境内社・瓦ノ宮社はもとは石清水川(現在の笠ノ川か?)と呼ばれた川のほとりにあり、放生会が行われていた記録がある。物部川西岸の川原神社や鳶ケ池中学校付近にあったという瓦の宮――鳶ケ池という池があったのだろうか――いずれも放生会には生きた魚を放つ川や池があることが必須条件である。かつて高良神社であったという仮説が成立する余地はありそうだ。
そしてこれらの三社が国衙を中心として、東・西・南と三方にさほど遠くない距離にある。高良神社および放生会が国府と関係をもっていた可能性もある。それは土佐国府跡の内裏(通説では紀貫之が住んでいた場所)地名中に「コフラ」という塚があったとされることからも連想される。
もともと筑後国一宮・高良大社はかつて倭の五王を祀る九州王朝の宗廟に位置付けられる神社ではなかったかという指摘がなされている。放生会については以前にも少し触れた。701年の政権交代によって権力を握るようになった近畿天皇家が、戊辰戦争ともいうべき隼人の反乱討伐(720年)以降、八幡宮が新たな宗廟としての地位を確立していく。宇佐神宮で行われた放生会には、滅ぼされた九州王朝に対する慰霊の意味がこめられているように感じられる。後に石清水八幡宮などでも放生会が恒例となっていき、謡曲『放生川』『弓八幡』では、あたかも高良の神が八幡神に仕える臣下のように描かれる。やがて高良の神は八幡神第一の伴神と解釈されるようになり、武神というイメージが定着していった。
話を本筋に戻すが、源希義の霊を祀った神社の名がなぜ「瓦の宮」なのか。高知県の場合、江戸期であれば先祖を祀る社は若宮神社と相場が決まっている。時代は平安末期から鎌倉初期のことであるから、あまり参考になる事例は少ない。源希義を祀るために、新たに瓦の宮を作ったのだろうか。むしろ、既に存在していた瓦の宮に希義の霊を祀ったと考える方が自然なのではなかろうか。この時代(源平争乱期)には既に高良神が武神と考えられていたことから、源希義を祀ることは違和感なさそうである。
『南国史談第13号』(南国史談会、平成4年)に掲載された「源希義」(山岡哲郎・吉本富雄)と題する論考の中に「瓦の宮」が紹介されている。源希義は源氏の義朝の五男で母は熱田の大宮司藤原季規の女、頼朝の同母弟である。永暦元年(1160)平氏のために捕縛され幼少(三歳位)の身を土佐に流され高知市介良の庄に配流されていた。
希義は南国市の年越山で蓮池権頭家綱と平田太郎俊遠と血戦をまじえ奮戦したが衆寡敵せず愛馬を失い非業の死をとげる。希義の討死年齢は二十五才位と推定される。希義の死骸は南国市鳶ケ池中学校門の北方十五米位の流れに沿った樹林に放置されていたと云う。またこの樹林の中に瓦の宮と呼ばれる小さな祠があった。これは純朴な村民が希義の霊を慰めるために祀ったものとされ現在は昭和四十六年度鳶ケ池中学校移転改築工事の都合上、南国市東崎祈年神社の境内西北隅に移されている。瓦の宮の祠跡に「源希義討死伝承之地」と書かれた地上一・五米、巾十六糎、厚さ十二糎のコンクリートの白塗の柱が建っている。
▲瓦の宮(左)と佐婆為神社(右) |
さて、この瓦の宮は源希義の霊を慰めるために祀ったものとされているが、なぜ名前が「瓦の宮」なのだろうか。「希義はかねて香美郡夜須庄の荘官であった夜須行宗と平氏を討つ密約が出来ていた。亦、夜須庄は源氏にゆかりの石清水八幡宮の所領でもあった」という。
石清水八幡宮の摂社に高良神社があることは、吉田兼好の『徒然草』にも書かれている。「ぐるりん関西」のホームページには次のように紹介されている。
高良神社がかつては「瓦社」「川原社」などと呼ばれていたことが分かる。その名は放生会が行われた川のそばに座したことにも関連していたというのだ。
高良社(高良神社)は、京都府八幡市にある石清水八幡宮の摂社である。一の鳥居内頓宮の南西にあり、高良玉垂命(こうらたまだれのみこと)を祀っている。豊前国(現大分県)宇佐八幡宮から八幡大神を勧請した行教和尚(ぎようきょうわじょう)が、貞観2年(860年)に社殿を建立したと伝えられる。社名は、貞観3年(861年)の行教夢記に「川原神」と記され、「男山考古録」は古記に「瓦社」とも記し、また「カハラ神社」と称したとする。また放生会が行われた川のそばに座したので、「河原社」と称し、のち極楽寺・頓宮等が建てられて河原もなくなり、筑前国高良社(現福岡県久留米市)の神名と似ているので、同社をここに移したと考えられて、高良の字があてられたという。
実際に岡豊別宮八幡宮の境内社・瓦ノ宮社はもとは石清水川(現在の笠ノ川か?)と呼ばれた川のほとりにあり、放生会が行われていた記録がある。物部川西岸の川原神社や鳶ケ池中学校付近にあったという瓦の宮――鳶ケ池という池があったのだろうか――いずれも放生会には生きた魚を放つ川や池があることが必須条件である。かつて高良神社であったという仮説が成立する余地はありそうだ。
そしてこれらの三社が国衙を中心として、東・西・南と三方にさほど遠くない距離にある。高良神社および放生会が国府と関係をもっていた可能性もある。それは土佐国府跡の内裏(通説では紀貫之が住んでいた場所)地名中に「コフラ」という塚があったとされることからも連想される。
もともと筑後国一宮・高良大社はかつて倭の五王を祀る九州王朝の宗廟に位置付けられる神社ではなかったかという指摘がなされている。放生会については以前にも少し触れた。701年の政権交代によって権力を握るようになった近畿天皇家が、戊辰戦争ともいうべき隼人の反乱討伐(720年)以降、八幡宮が新たな宗廟としての地位を確立していく。宇佐神宮で行われた放生会には、滅ぼされた九州王朝に対する慰霊の意味がこめられているように感じられる。後に石清水八幡宮などでも放生会が恒例となっていき、謡曲『放生川』『弓八幡』では、あたかも高良の神が八幡神に仕える臣下のように描かれる。やがて高良の神は八幡神第一の伴神と解釈されるようになり、武神というイメージが定着していった。
話を本筋に戻すが、源希義の霊を祀った神社の名がなぜ「瓦の宮」なのか。高知県の場合、江戸期であれば先祖を祀る社は若宮神社と相場が決まっている。時代は平安末期から鎌倉初期のことであるから、あまり参考になる事例は少ない。源希義を祀るために、新たに瓦の宮を作ったのだろうか。むしろ、既に存在していた瓦の宮に希義の霊を祀ったと考える方が自然なのではなかろうか。この時代(源平争乱期)には既に高良神が武神と考えられていたことから、源希義を祀ることは違和感なさそうである。
2020年の初詣として足を運んだ南国市の祈年神社。祭神は「大年神」で、この地区の産土神である。長宗我部元親も毎年正月の元日に参拝し、その年の五穀豊穣を祈願した事が伝わっている。お年玉の語源はもともと「年神の魂」から来たものだというから、「高良神社の謎」を追い求めてきて、思わぬお年玉をもらったような気分になった。
祈年神社の創建は、『続日本記』文武天皇慶雲三年(706)二月の記述「甲斐・信濃・越中・但島・土佐……の十九社に祈年の幣帛を行うことを決めた」を根拠に、706年鎮座とする。近くの祈念遺跡は「縄文時代から居住域となり、弥生時代の大規模集落や律令期前夜の古墳時代後期の集落、そして律令期に入ってからは道状遺構をはじめとする活発な土地活用がなされていた」(『祈年遺跡Ⅰ』(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター 2011.3)とあるように古代官道とされる遺構も見つかっており、時代的にも適合する。ちなみに、神社の中には「祈年神社」「諏方宮」「熊野神社」と書かれた扁額がかかっていた。
祈年神社の創建は、『続日本記』文武天皇慶雲三年(706)二月の記述「甲斐・信濃・越中・但島・土佐……の十九社に祈年の幣帛を行うことを決めた」を根拠に、706年鎮座とする。近くの祈念遺跡は「縄文時代から居住域となり、弥生時代の大規模集落や律令期前夜の古墳時代後期の集落、そして律令期に入ってからは道状遺構をはじめとする活発な土地活用がなされていた」(『祈年遺跡Ⅰ』(財)高知県文化財団埋蔵文化財センター 2011.3)とあるように古代官道とされる遺構も見つかっており、時代的にも適合する。ちなみに、神社の中には「祈年神社」「諏方宮」「熊野神社」と書かれた扁額がかかっていた。
「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社の祭神、高良玉垂命の光が失われてしまって、今ではかろうじて「瓦の宮」として残されている。「高良神社の謎」を追い求める旅はまだまだ続く。「磨かぬ玉に光なし」である。
松山市内には3つの高良神社がある。生石八幡神社(高岡町917)、高家八幡神社(北斎院町295)の境内社については、かつて「愛媛県の高良神社④⑤」で紹介した。そして今回は残る一社である伊佐爾波神社(桜谷町173)境内末社の高良玉垂社(祭神:武内宿禰)の登場である。と言っても、実は以前「高良神社にまつわる菊と蕨」というタイトルで少し触れてはいる。
長野県の吉村八洲男氏の研究によると、筑後一宮・高良大社の御祭神「高良玉垂命」を祀る「高良社」が信州に濃密分布しており、蕨手文様も多く発見されている。そこに古代九州王朝(特に磐井の乱)と信濃国と繋がりを見出そうとしているようだ。詳しくは、ブログ『sanmaoの暦歴徒然草』に掲載された"「科野からの便り」(6)蕨手文様総括編"(2019/12/07)を参照してほしい。
ただし、科野の「高良社」全ての祭神に「誉田別神」の影があり、九州とは異なるかーーとする吉村氏の分析についてはやや片手落ちと感じる。それは伊佐爾波神社を訪れたときにも明瞭になった。
▲回廊内の高良玉垂社と蕨手燈籠 |
ここの高良神社は伊佐爾波神社の回廊内に鎮座しており、蕨手燈籠があるという情報をつかんでいたので、ぜひとも見ておきたいと願っていた。その内容について「松山市ホームページ」より抜粋しておこう。
「伊佐爾波神社、附 末社高良玉垂社本殿、末社常盤社新田霊社本殿、石燈籠、棟札」について
ともに境内社で、廊下の左右に内に向かい合って建てられる。当社を造立した藩主松平定長や竹内宿祢ほかを祭る。建物は一間社流見世棚造り、桧皮葺。柱は土台の上に建ち、身舎が円柱で頭に粽(ちまき)を付け、向拝は方柱で、ともに出組斗きょうを置く。正面向拝の水引貫の上には板蟇股(いたかえるまた)が置かれる。木部の彩色は、前掲の社殿に準じる。石燈籠は、両末社の脇に建てられる。総高240cm余り、笠・火袋・中台・竿・基礎はいずれも四角形で、笠の四隅には蕨手を持ち、竿に「道後八幡宮神前・寛文七丁未年五月十五日」の刻銘がある。
令和元年台風10号接近の前日の夕刻、隣接する道後温泉には目もくれず、裏の駐車場から伊佐爾波神社境内へとすべり込んだ。本来は正面から長い階段を登って参詣すべきところであるが、もう少し遅ければ門が閉まるところであった。
カギをかけに来られた女性神職に質問すると「高良神社は八幡様とセットみたいなものですから……」といった話が聞けた。高良神社を調べ始めた時から感じていたこと(愛媛県の高良神社①参照)ではあったが、この認識は神職といえども、誰もが熟知しているわけではない。高良玉垂社を大切に祀っている伊佐爾波神社であればこその応対ではなかったか。残念ながら、いつ境内社として取り込まれたかまでは分からない様子だった。ということは、少なくとも明治期の神社整理等ではなく、もっと古い淵源を持つ可能性が高い。
少しまとめてみよう。
①高良神社の多くは八幡宮の境内社として鎮座する。
②近年の神社整理によって合祀されたものは少ない。
③高良神は八幡第一の伴神と解釈されてきた。
④八幡宮の配神として応神天皇(誉田別神)とともに高良玉垂命が祀られている神社もある。
これまでの調査から「高良神社の謎」が少しずつ解けてきそうである。高良神社は八幡宮勧請と同時、あるいはそれ以前から存在していた可能性がある。そして高良神社と八幡宮の地位の逆転が九州王朝から大和朝廷への政権交代と連動している……。まだ確証はないが、そのような仮説が浮上してきたのである。
父方の祖母は田尻姓で、学歴についてはよく知らないが、祖母を知る人は一様に「学のある人であった」と言っていた。筑後の一宮・高良大社の宮司家の一つが田尻家なのだと聞いたことがある。つながりがあるかどうかは定かではないが、私がこれほど「高良神社の謎」を追いかけるようになったのも、何かの縁かもしれない。さらに漢の高祖劉邦に連なるとする大蔵姓田尻氏正統系譜(肥後国玉名郡玉水村立花田尻家系譜)の登場によって、ルーツ探しのほうも新たな展開を見せることになった。ただし、家系図は単独では史料的根拠にすることは難しいとされているので、その扱いは慎重を要する。
さて、前回「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した」というタイトルで境内社の一つ「瓦ノ宮社」が高良神社であったことを報告した。その岡豊別宮八幡宮から東へ6kmほど行ったところ、物部川の西岸に川原神社(南国市福船字寺屋敷)が鎮座する。ずっと気になっていた神社である。一般的には川原近くにあるから川原神社とされてきたが、あまりにも安易すぎないだろうか?
さて、前回「岡豊別宮八幡宮の境内社に高良神社は実在した」というタイトルで境内社の一つ「瓦ノ宮社」が高良神社であったことを報告した。その岡豊別宮八幡宮から東へ6kmほど行ったところ、物部川の西岸に川原神社(南国市福船字寺屋敷)が鎮座する。ずっと気になっていた神社である。一般的には川原近くにあるから川原神社とされてきたが、あまりにも安易すぎないだろうか?
今年(令和元年度)の「川原神社秋祭り神事」のお知らせが拝殿に貼り出してあった。11月1日(金)午後1時30分~となっている。『南路志 第二巻』には香美郡の福田村(岩村郷)のところに「川原大明神 川原宮 本地決主菩薩 祭礼九月九日」と出ている。川原神社
旧岩村郷福船村舟渡、戸板島村、京田村の一部、蔵福寺島村の産土神で、旧村社。祭礼時當家に決まった節数のおはけ竹を立てる。現在のおなばれは一の鳥居(御旅所)間を往復する。台輪鳥居、狛犬、手水石鉢、石燈籠、百度石、中世石仏、五輪塔残欠がある。北側の墓地内にも中世石造物が見られる。
川原宮(かわらのみや)と言えば、斉明天皇の板蓋宮が火災に遭ったので一時的に遷居した宮が川原宮であった。翌年、後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)を設けてそこに移っており、川原宮跡が川原寺になったとされる。
これに対して、斉明天皇は大和朝廷の天皇ではなく、九州王朝の天子であり、伊予に行宮があったとするのが合田洋一氏の説である。詳しくは著書『葬られた驚愕の古代史 越智国に"九州王朝の首都"紫宸殿ありや』を参考にしてほしい。
もとより、高知県の川原神社を斉明天皇に結びつけるつもりはない。県外にも川原神社という名の神社が複数存在しているようだが、かつて高良神社は「瓦ノ宮」「川原社」などと呼ばれていたことがあった。多くはその名残りであろうと推測する。
田尻の祖母が時折言っていた。「磨かざりせば光ある玉も瓦に等しからまし」ーー高良神社(祭神:高良玉垂命)としての由緒が失われてしまった川原社は、土佐弁風に言えば「瓦にかあらん」(瓦と大差ない)ということになってしまったのではないだろうか。
参考:南国市福船周辺
https://youtu.be/A_5R8dWLKCA
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性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
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自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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