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   大宝年間(701~704年)に祭神の置き換えがあったのではないかと思われる神社がいくつか存在する。その1つが滋賀県栗東市綣の追来神社(大宝神社境内社)である。
   まずは境内の案内を見て欲しい。明らかに700年以前からあった追来神社が、701年に勧請された大宝天王にとって代わられたことが読み取れる。これこそ九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのではないだろうか?

大宝神社
 当社は明治以前まで大宝天王宮・今宮応天大神宮とよばれ、 疫神を鎮める牛頭天王として信仰を集め古くは氏子圏が旧栗太 郡内の五十余村にも及んだと伝えられる。
 祭神は素盞鳴尊で、本殿は棟札から弘安元年(1278)に 棟上げが行われたとされるが、現在の本殿は後世のものである。
 境内社の稲田姫神社は一間社檜皮葺で旧名を十禅師宮とい い、本殿右側にある追来神社(重要文化財)を模して造営されたと思われる程よく似た江戸時代の建造物である。
 また境内には明治初期近郷の子弟を多く集めて教導に尽くし た足助武雄(楓崖)の石造碑があり、市指定の史跡となっている。

-境内案内板-



追来神社の由緒(延喜式内社栗太八座の一座とも言われている)
 地主の神として大宝年間以前よりこの綣の地に鎮座されている。 伊吹山に座す多々美彦命が祭神。古来は、意布伎(伊不伎)神社と記さ れている。社内にあった狛犬の台座裏に「伊布伎里惣中」と記されている。
 中世には、若宮権現とも呼ばれ現在も通称その名で呼んで いる。
 御神木は いぶき で意布伎の意は、「お」とも読めるため 「おふき」とよんで追来に転じたとされる説が有力である。 「いふき」の「ふき」は、息を吹く、風を意味し風の神である。 また、雨乞いにより雨を授けて頂いたので水の神でもある。 地主神でありながら大宝神社本殿が主祭神となっているため、無理に境内社 としての位置付けになり、若宮でありまた、社名変更を余儀なくされて いると推測される。 国指定重要文化財特別保護建造物一間社流造り 鎌倉時代1283年(弘安6年)の棟札現存……棟札も文化財指定

あまつか (通称には蛇塚)
 1430年(永享2年)6月の文書中、干時にて苗が枯れつつあった とき、若宮権現追来神社裏手に大穴を掘り、田楽や神楽の奉納、 大般若心経等の奉読等を続けることにより、2日後三昼夜適量の雨量 があったとあり、仏法と神力は信ずるだけのことがある等が記されている。
 その後の干時にも諸奉納とともに池をさらえることにより、適量の降雨に 恵まれたことが文書に記されている、由緒ある池。

-境内案内板-


 

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 肥沼孝治氏のコラム「九州王朝は駅鈴も作ったか?」の中に「平城京で発掘された木簡には、兵士が二時間ごとに駅鈴を見張っている」とあり、現存する駅鈴は隠岐の二個だけだという。
 ところが美濃国一宮、南宮大社にも、二つの駅鈴が保存されているという。この駅鈴は、寛仁元(1017)年、後一条天皇即位の際、諸国の大社四十八社に奉献されたものの一つとされている。
 駅鈴には刻み目があり、その数によって調達できる馬の数が決められていた。南宮大社の駅鈴には刻み目はないが、底に付いている出っ張りの数に意味があったと伝えられている。


   高岡郡佐川町永野には鈴神社がある。佐川町永野は高岡郡の郡家が置かれ、馬牧が近くにあったと推定されている。だとすれば、駅家が置かれた可能性もあり、もしかすると鈴神社には駅鈴が保管されていたのではないかとの仮説も出てきそうだ。この駅鈴探しも古代官道を復元する重要な手がかりとなる。



駅鈴

 古代官道の整備に伴って、律令で駅伝の制が定められた。唐の制度にならったもので、官吏の旅行を容易にするため、主要道路に二十キロ前後の間隔で駅をつくり、馬や宿泊所を置いた。ここで公儀の旅行者の証として使用したものが駅鈴と呼ばれる鈴。駅鈴は特権の象徴で、官吏は、これを鳴らしながら往来した。



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 「卑弥呼の墓が発見されたようですよ」
   ネットでニュースが流れたようで、同僚から報告を聞いた。
   「何を今さら……」。卑弥呼の墓は既に分かっているーー多分、他に有力な証拠が出ない限り○玖岡○遺跡である。念のため確認してみたが、①前方後円墳 ②後円部の直径150m ③田川郡赤村ーーやはりガセネタか。
   卑弥呼の墓は①弥生墳丘墓 ②直径約30m ③博多湾岸~春日市近辺、というのが『魏志倭人伝』の正しい解釈と思われる。
   「やれやれ」と思いつつも、よく考えてみれば凄い発見には違いない。九州王朝説に刺さった3本の矢の1つが抜けようとしている。畿内に匹敵する巨大前方後円墳の存在は何を意味するのか?
『太宰府は日本の首都だった』の著者・ウッチャン先生こと内倉武久氏や「太宰府地名研究会」の古川清久氏なども、この古墳の存在は周知の上で発表のタイミングを図っていたようである。
   『発見された倭京ーー太宰府都城と官道』(古田史学の会、2018年3月25日)の出版と相まって、今また北部九州に注目が集まりそうだ。

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 古代南海道について、いくつかのリアルすぎるとさえ感じる伝承がある。
   例えば、『仁淀村史』(仁淀村史編纂委員会、1969年)は、初代官道を「幡多回りの道」としながらも、別に「久万官道」を想定している。古伝として「斉明天皇七年(661)に天皇が伊予に上陸し、土佐に行幸、朝倉明神木丸殿に着」とあり「これ古の駅路也。外に道なし、伊予の場所より土佐の朝倉まで陸地相去ること30里、其間、山高く嶺重なり坂長く道険し」とあり、また、仁淀村沢渡の「三島神社」の鎮座から「古代伊予との交通の要路で、付近一帯は古代人の小集落であったことを立証するものである」と述べている。
   また、「伝えられるところによりますと、養老二年官道開設の許可によって、翌、養老三年(719)から道路開設工事が始まり、五年後の神亀元年(724)に完成した」と『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)で紹介されている。
   さらに山崎氏は他の著書で「久万官道(655年)開設」としており、その根拠となる出典については触れられていない。果たして伊予と土佐を結ぶ久万高原越えの古代官道が存在したのだろうか?


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 近年、古代官道についての研究が進み、各地方ごとに「古代官道探し」への関心が高まってきている。3月下旬発売予定の『古代に真実を求めて第21集』(明石書店)でも古代官道特集を組んでいるとのこと。
   さて、古代南海道で最も謎に包まれているのが土佐国府への道である。まずは『土佐の道 その歴史を歩く』(山崎清憲著、1998年)から見てみよう。

   「公私の使いが土佐に行く場合、その道筋は伊予の国(愛媛県)を経ている。したがって、その行程は遠回りで遠く、それに山は高く、谷は深く険難である。ただし、阿波の国(徳島県)は、土佐の国と境しており、交通はいたって便利である。したがって阿波から直接土佐の国に入る通路を、官道に指定して欲しい」
   土佐の国司からの請願は許可され、新たに「養老官道」が718年に開設されることになった。
   では、それ以前には土佐と阿波をつなぐ官道はなかったのだろうか? なぜ、わざわざ伊予経由の遠回りで険しい道を経て来なければならなかったのか?
   これこそまさに九州王朝から畿内大和朝廷への政権交代を示す有力な状況証拠なのである。700年以前は九州王朝の首都と推定される太宰府を基点とした古代官道が整備された。
   それが702年、「始めて紀伊国賀陀駅家(和歌山県加太港)を置く」(『続日本紀』大宝二年)ところから畿内大和朝廷を基点とした南海道の再整備が始まる。

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    神母神社が建っている場所は土佐市宇佐町の県道39号線が宇佐湾に出る直前の中央分離帯。道路が整備される時に信仰深い人々が神社をそのまま残そうとしたことが感じられる。
   高知県には、全国的に見られる稲荷神社はほとんど無く、その代わりに保食神(うけもちのかみ)を御祭神とする神母神社・通称おいげさんが多数祀られている。農業に関係の深い神様とされているものの、その実体ははっきりしない。
   朝倉神社(土佐の二宮、延喜式内社)の祭神が天津羽羽神(あまつははがみ)といい、こちらも『古事記』『日本書紀』に登場しない神様である。もしかすると何らかの関連性があるのかもしれない。

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  石岡八幡宮境内の右手奥、高良神社が祀られている。この裏側は椿の群生地であり、祭ヶ岡古墳がある。社地を古くは「橘の島」と言っていたことや神功皇后の伝承などが案内板に書かれている。

 「愛媛県の高良神社①ーー伊豫岡八幡宮 境内社」もそうであったが、古墳のある場所に立地していることから歴史の古さがうかがえる。さらにこの二社は高縄半島の付け根に相当し、重要な共通点がある。重信川河口付近と中山川河口付近という共に古代における港の立地条件に適した場所だということだ。石岡神社は熟田津の比定地にも近い。


  石岡神社の由緒として「孝元天皇の曾孫で、景行天皇から仁徳天皇までの五代帝の長臣で、とくに仲哀天皇薨去の後は神功皇后を支え、また応仁天皇(八幡神)を守り育てた大臣で、高良神社の主祭神である竹内宿祢の子孫紀氏玉井」が石岡の地で八幡宮を鎮座奉祀してきたことが案内板に書かれている。
 『古事記』『日本書紀』の記述を元にした表向きの説明はそうだとしても、その頃は九州王朝を中心とした倭国の時代だと考えられるので「盗まれた神話」(九州王朝の事績が日本書紀に取り込まれた)の原典が誰を主人公として描かれていたかの解明が必要なのだ。


  紀姓玉井氏の系図からの引用も紹介してあり、高良神社が八幡宮の摂社として祀られている表向きの理由は分かってきたが……。


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    宇佐大橋を渡ってすぐ右手に丹生神社(土佐市宇佐町井尻)がある。地名に詳しい人ほど「にゅう」と読みたくなるのではないだろうか。ここは「たんじょう神社」あるいは「たんじょう様」と呼ばれている。
   京都府には丹生(たんじょう)さんと読む名字の方もおられる。丹生地名は「あおによし奈良の都~」で知られる朱色の原料である丹砂(水銀)の産地と関連付けられることが多い。
   その他、詳しくは「南国土佐へ来てみいや」が参考になります。

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  NHKのクローズアップ現代
「予測できなかった超巨大地震 苦悩する地震学者たち」(2012年1月19日放送)の中で、高知大学の地質学者・岡村眞教授が2011年4月に高知県土佐市蟹ヶ池で地質調査をしたことが紹介されていた。

   
土佐おんちゃんの田舎暮らしによると、海から約400m入り込んだところにある蟹ヶ池の底に残された超巨大津波の堆積物は1707年宝永大地震の津波堆積物15cmも確認されたが、そのさらに下には約2000年前の50cmの堆積物があったという。
 50cmの厚さから推測するとマグニチュード9級で波高50m以上の津波だったと推測されている。

  この内容については数年前、科学雑誌『ニュートン』で見て、ずっと気にしていた。従来、弥生時代の高地性集落は『魏志倭人伝』の「倭国大乱」に対応して造られたとされてきた。その後の研究でいくつかの矛盾点も指摘されており、それを解決する1つが「高地性集落 巨大津波起源説」である。
  高知県では吾川郡いの町のバーガ森遺跡が高地性集落として知られている。
標高145m程度で、2000年前の炭化米、壺、甕(かめ)、石包丁、鏃(やじり)などなど一万点の遺物が出土したという。 



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   仁淀川に近い、高知市春野町の天皇という場所に建つ天皇神社。ほとんど何も分からない。昔は天皇村という住所だけで郵便物も届いたという。
   古戦場でもあり、椿の花が亡くなった武士たちの魂を思い起こさせた。

   天皇神社というには、あまりにも寂しげな境内。自動車で入り込むと溝にタイヤを落としそうなほど狭い道で、ナビに道が出てこない。やっとのことで元の道に戻ってくることができた。

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朱儒国民
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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