忍者ブログ

 西日本豪雨災害から1か月。片道交互通行の道路を抜けて3番目の高良神社(祭神・武内宿禰)探しに向かう。伊予川(銅山川の徳島側の呼称)をさかのぼり、迂回路を通って山城町佐連カジヤ谷へ。地名からすると製鉄との関係があるかもしれない。近くの銅山川では古くは砂金も採れ、鉱産資源が豊富だったことが伺える。

 郵便配達のバイクと競争するように西へ移動して行く。愛媛県との県境に近い山間の集落で、案内板も見当たらない。よっぽど郵便屋さんに聞いてみようかとも考えたが、忙しそうでそのタイミングを逃した。
 途中、四所神社に立ち寄った。この地域では中心的な神社と見える。多くの場合、高良神社は八幡神社などの境内社として合祀されている事例が存在するが、徳島県ではまだ境内社としての高良神社は目にしていない。
 さらに奥へと進むと閑静な山林の中に神社があった。境内を流れる小川が神の世界と人の世界を分けているようだ。社名がどこにも見当たらないが、ネット上で見た覚えのある風景。確認はできていないが、おそらく高良神社だろう。

 裏手に回ると、超急峻な石段の上に本殿が……。その左手に壊れてしまっているが、摂社らしき跡もあった。

 徳島県は急峻な斜面が多いため、石垣を積み上げる技術が不可欠であるが、近年その技術が失われつつあるとも聞く。その一方で石垣を積み上げる技術を復活させようと取り組んでいる人もいる。歴史ある神社等を維持していく上でも大切なことである。あちこちで崖崩れしている被災地を目の当たりにして、つくづく思った。自分の意思とは裏腹に、山間部へ導かれたのも深い意味(単に「山の日」だからではなく)があったのかもしれない。

拍手[1回]

PR
 次に目指したのは山城町末貞の高良神社。地図に示された場所はかなり山の上。いつもながら細い山道が気にかかる。
 途中、大歳神社に出くわし、昨日、美馬市の天都賀佐彦神社で見た五角柱と同じ物を発見した。社日(しゃにち)といい、五柱の神名を刻んだ石碑で、出雲の神社に多く見られるという。合格祈願で神社興しに役立つのではないかとのアイデアも浮かぶ。
 後で知ることになるが、この大歳神社(と寄木神社)は高良神社と共に昭和27年、同町に鎮座する伊邪那岐神社(山城町下川東449)の飛び地境内社とされている。
 集落を上へ上へと登る。目的の神社が見つからない時は思い悩むが、発見した時の喜びはひとしお。「望みを得ることが長びくときは、心を悩ます、願いがかなうときは、命の木を得たようだ」(箴言13・12)である。 この日、2つ目の高良神社(末貞字的場242)を発見。鳥居をくぐる前から虻(あぶ)に付きまとわれ、歓迎されていないのではないかとの思いになる。
 右手側に摂社らしきものがあるが、何も書かれていない。近所の人の話によると右隣りは八坂神社で、京都から御札をもらってきているとのこと
 ふと、高知市鏡の「コウラ」という場所に建つ八坂神社
のことを思い出した。一体、高良神社と八坂神社が置き替わるなどということがあり得るのだろうか? 当初は半信半疑であったが、今目の前に、いわれの分からない高良神社と、京都から勧請された八坂神社とが並んでいる。この二社の位置づけが、将来どうなっているか分からない。

 昭和34年発行の『山城谷村史』によると「享保8年3月1日の創建にかかり聖午王と称した。明治5年2月3日改称」、旧午王が高良神社(祭神・武内宿禰)となった。
 牛頭天王(スサノオノミコト)と高良神社は直接的な関係はなさそうだから、高良大明神(同町内、他の三社は旧高良大明神)が祀られていた所に、牛頭天王が江戸時代に勧請されたと考えるべきか。
 明治維新による神仏分離および名称変更の際、高知市鏡梅ノ木の事例とは逆のコースをたどったようである。喩えは悪いが「軒先貸して母屋取られる」とはならなずに済んだと思われる。この辺りはもう少し調査が必要かもしれない。


拍手[1回]

 徳島県の高良神社は徳島市に2社、山城町に2社の計4社の存在が分かっていた。西日本豪雨災害から1か月。山間部は土砂崩れで、その傷跡が各地で見られる。
 当然今回の調査は徳島市と決めていた。ところが神様事は人間の思惑通りには運ばないものである。前日の天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社を調査した流れから、何故か三好市に導かれてしまった。
 
 日が昇る前から場所探し。相川に来てみると杖立神社の案内の矢印が道中にある。とりあえず矢印に従って行くと山中の剣神社と金毘羅神社が見つかった。その間の道が杖立神社道となっており、車両通行禁止。
 グーグルマップ上では高良神社まで850メートル。道は表示されないので、手探りに進むしかない。とりあえず別のルートへ。

 
 かなり近づいたが中々見つからない。車から降りて周囲を探すと、栗林から鳥居が見えた。あれだ。お城のような立派な石垣の上に鎮座する、まぎれもなく高良神社であった。


 昭和34年発行の『山城谷村史』によると、住所は山城町相川字堂ノ尾858。祭神は武内宿禰、旧高良大明神。改地に関する石碑が境内に立っているが文字ははっきりしない。山城町における最初の高良神社との対面に胸が躍った。


拍手[1回]


 もう一つの天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社が美馬市美馬町轟の天都賀佐比古神社より西方、同市美馬町西荒川の小高い岡の上にある。厳密に言うと「比古」と「彦」の漢字が違う。同一町内に同一の神社が存在することによる混乱を避ける配慮もあるのだろうか? 祭神も微妙に違っており、例祭も一日違い(1人の宮司さんが複数の神社を兼任しているためであろうか)になっている。

 集落の路地を入って行き、民家に紛れて見つけにくかったが、何とかたどり着いた。木の鳥居に木彫りの扁額。旧無格社であるから、このようなものかもしれないが、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)によると、鎮座している場所が古墳群であったことが推測でき、廃瓦の出土もあって、轟の天都賀佐比古神社に勝るとも劣らない古い歴史を持っていることが伺える。
 境内には五角柱の石碑があり、五柱の神様の名が刻まれている。「天照皇大神・倉稲魂命・埴安姫命・少彦名命・大己貴命」――この後、徳島県の神社では、このややいびつな五角柱を何度も目にすることになる。

 主祭神は「級長戸辺(しなとべ)命」とされており、『古事記』『日本書紀』によって風の神とするのが一元史観の解釈である。土佐国一宮である土佐神社の夏祭り「しなね祭(しなね様)」の語源についても諸説ある。風の神・志那都比古に結び付ける説もあるが、全国的にも「しな〜」を冠する名前はいくつか見られる。多元史観による解釈の必要があるのではないだろうか。

 今回も『美馬町史』から関連するところをそのまま引用させていただく。
 
天都賀佐彦(天都賀佐比古)神社(旧無格社)
所在地 美馬町字西荒川四八番地ノ一
主祭神 級長戸辺命
例 祭 十月十九日
境内地 二四〇・七坪
主要建物 本殿・拝殿
氏 子 四五戸
〔沿 革〕
西荒川中央部、四方を人家に囲まれた中に在る。本神社については『阿波志』に「延喜式亦小祀と為す重清村荒川里に在り或は西岡宮と称す老樹叢生頗る閑寂たり祠畔小塚三あり又廃瓦あり古色鬱然往々地を穿て黒玉、塗金環、塗銀環及び銅器等を得、舊神戸あり天正中兵燹に罹る或は曰く其主級長戸辺命也と神代紀に言ふ伊弉諾尊曰く吾生む所の国唯朝霧ありて薫満つ哉、及ち吹き揆ひ気化する神號を級長戸辺命と曰ふ亦は級長津彦命と曰ふ是風神也」とあるが、この天都賀佐毘古神社については古来異見があるが、上述の如く『阿波志』はこれを本神社に比定している。そして郡里、轟の天都賀佐毘古神社についても、延喜式内社である可能性を一説として参考に挙げている。
字西荒川方面の住民を氏子としている。十月十九日の祭礼には、氏子は十月十五日の八幡祭りに続いて同社の祭礼をも行い、神恩感謝の一日を過ごしている。
戦前は神輿も部落をまわっていたが現在は出ていないようである。

拍手[1回]

 「徳島県美馬市にある天都賀佐比古(あまつかさひこ)神社を調査してほしい」との依頼が以前あったものの、徳島県に行く機会もなく日が過ぎていた。やっとお盆休み(というよりよさこい祭り休み)に入って、岡山県に行く用事ができた。ついでにといっても、かなり寄り道になるが、頼まれていたことを優先しようと坂出から高速を降り、讃岐山脈を越えることにした。

 徳島県美馬市に入って天都賀佐比古神社を検索すると、意外にも2か所ヒットして少し戸惑った。美馬町轟にあるほうが、鳥居・社殿等が立派で、立地も開けた中心部に近いところにあり、見つけるのが容易であった。こちらが本命であろうか。境内に入って右手、神社由来記の石碑にも「6世紀以前の創建と思われる」とし、かつての鎮座地に近い郡里(こうざと)には白鳳時代の廃寺跡(法起寺式、12弁蓮華文軒丸瓦が出土)もあって、大和朝廷以前の歴史を持つ可能性が見える。
 今回はあまり主観を交えず、客観的なリポートにしたいので、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)からそのまま引用しておく。

天都賀佐比古神社(旧村社)
所在地 美馬町字轟三二番地
主祭神 級長津彦命・級長津姫命
例 祭 十月二十日
境内地 五九八坪
主要建物 本殿・弊殿・拝殿・神庫
氏 子 八一戸
宗教法人設立 昭和二十八年四月十五日
〔沿 革〕
川原部落の西端、轟谷の東側に位置し、阿讃の山々を背景に、郡里ジマの沖積地が眼前に開ける景勝の地に建っている。この社はもと現在地の約二〇〇㍍西、字高畠にあり、創立年代は明らかではないが、延喜式内社としての天都賀佐比古神社に比定されており、既に平安初期から尊信を集めていたようである。
境内中央北寄りに本殿・弊殿・拝殿が南面して建てられ、正面入口には大鳥居、その北側に狛犬、灯籠等が両側に並び立っている。
古くから「轟さん」と呼ばれて、旧郡里里分の総氏神として崇敬され、風の神として知られる。『阿波志』には「天都賀佐毘古祠 郡里村宗重名に在り、或いは轟宮と称す。天正年中(一五七三~九一)兵燹に罹り、いまだ旧制に復せずと雖も結構頗る大、連松繁苑或は曰く延喜式所載是也と…(後略)」とある。
十月二十日の秋祭りには、喜来、中山路、宗重、川原町の各氏子から、屋台、勇台を繰り出し神輿渡御の行列に加わり、数十に及ぶ練り物で行列は一大豪華を極めていた。しかし大正年間よりしだいに祭りも簡素となり、現在は川原町部落八一戸の氏神として祭礼が行われるのみとなっている。
なお、昔からの言い伝えとして、この神前を乗馬で横切ったり、頬かむりで通ると、勢いよく投げ出され、また前の吉野川を西上する舟が帆をかけたまま通ると転覆するといわれた。それでこのような災難を避けるため、御神体を北向きに鎮座してあるといわれ、古いお守札には「日本一社北向鎮座」と記されている。
なおこの社の神職として記録に残る古いものでは、寛永十八年二宮権頭が奉仕しており、それより代々二宮氏が神職として仕え、二宮正芳に至っていたが、昭和五十六年以降は加藤熊男が奉仕している。(以上、引用終り)

 さて、御神体が北向きというのは確かに珍しいが、高知県にも似たような話がある。高知市春野郷土資料館のHPに掲載されている荒倉神社の昔話である。県外のことを知って、県内のこともよく理解できるというもの。井の中の蛙になってはいけない。

はるの昔ばなし「ご神体は北向き」


(前略)……
 二代目藩主山内忠義公は狩が好きで、たびたび各地の狩猟場へ出掛けました。ある年、側臣や勢子を多数連れてこの荒倉山に来ました。この日は獲物がたくさんあり、忠義公はたいそうごきげんでありました。さっそくこの神社の馬場先で獲物を料理しました。ところがその肉はなんぼ煮ても軟かくなりません。煮ても煮ても煮えないというわけです。
 家来たちは「これは神前をけがしたからではないか。」と話し合っていました。忠義公はこれを聞いて「領内のことはすべて藩主の意のままになるものだ。気に食わねばご神体を北向けにしておけ。」と言われました。
 このことがあってから、荒倉神社では、社殿は南向きでもご神体は北向きにしてお祀りするようになったといわれています。
 土佐には大小五千近い神社があり、その大方は南向きで、東向き或は西向きのものも少しありますが、荒倉神社のように社殿に対してご神体が反対向きというのは例がないようです。

拍手[1回]

 侏儒国に関する『魏志倭人伝』の記述から見てみよう。

女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至
「女王国の東、海を渡ること千余里。復(また)国有り、皆、倭種。又、侏儒国有り、その南に在り。人長は三、四尺。女王を去ること四千余里。又、裸国、黒歯国有り、復、その東南に在り。船行一年にして至るべし。」
 女王国の東、海を渡って千余里行くと、また国が有り、皆、倭種である。また、侏儒国がその南にある。人の背丈は三、四尺で、女王国を去ること四千余里。また、裸国と黒歯国があり、また、その東南にある。船で一年行くと着く。

 『魏志倭人伝』の里単位が短里(1里=約76m)とされることから「海を渡ること千余里」は豊後水道を渡った愛媛県、その南は高知県西部に至る。現在は幡多郡、かつては波多(幡多)国と呼ばれていた。
 『先代旧事本紀』「国造本紀」によれば、崇神天皇の御世に、天韓襲命(あめのからそのみこと)を神の教えにより波多国造に定められたとされる。
 波多国造は後の令制国の土佐国の西部、現在の幡多郡を支配したと考えられ、その中心地は、現在の四万十市中村説と、宿毛市平田の平田曽我山古墳のある平田古墳群の地とする説がある。
 幡多地方は縄文時代以来の遺跡が広く分布し、弥生時代の遺跡は四万十川流域に集中する。『魏志倭人伝』に登場する侏儒国は、遺跡の分布から考察すると、四万十川の中下流域、すなわち中村辺りが中心であったと考えるべきであろうか。

 崇神天皇時代の国造設置記事を疑問視する者もいるが、天氏である天韓襲命の波多国造設置は九州王朝の勢力進出により、この地方がその影響下に置かれたことを示しているようだ。高知県で唯一の前方後円墳である曽我山古墳を波多国造と関連付ける説は十分うなずける。
 「国造本紀」に見える都佐国造は波多国造より後の設置(成務天皇の世)とされる。この西から東への順番は、大和朝廷一元史観では説明に苦しむ。やはり九州王朝の東進(倭の五王時代か)と考えたほうが理解しやすいのではないだろうか。



拍手[3回]

「コウラ」地名探しについて、「『地名語源辞典』も参考にしたらいいですよ」とのアドバイスもあり、図書館で調べてみた。『日本の地名 60の謎の地名を追って』(筒井功、2011年)の151ページを開くと、「強羅(ごうら)」地名について書かれている。「ゴウラ、ゴウロ、コウラ、コウロ」などの変化あり。神奈川県箱根町強羅について、柳田國男は「岩石の露出している小地域」を意味すると指摘したという。
 高知市鏡のコウラ地名を探していたら、『長宗我部地検帳』には「コウロ」と出てくる。今まで高良神社跡地と思って追ってきた「コウラ」「カウラ」地名は単なる思い込みや幻想だったのだろうか?
 いや違う。徳島市の高良神社が鎮座する2か所(応神町古川と飯谷町)は地名も「高良」である。高知県でもかつて高良神社があったところをコウラ谷(香南市香我美町徳王子)と呼んでいる。コウラ地名が登場するのはほとんど社地である。通常は神社ないしは祭神名と地名が一致していることが多いが、そうでない場合は元々あった神社名が地名として残されている可能性がある。
 柳田國男の説も特定の地名については当てはまるかもしれないが、「高良神社由来説」はもっと汎用性があるのではないかと考える。

拍手[0回]

 開館に王手がかかっていたオーテピアがついに7月24日にオープンした。2階と3階が高知図書館。ゆったりとしたスペースに本が並ぶ。広すぎて本を探すのに苦労しそうだ。郷土史のコーナーも確認してきた。

 気になっていた『発見された倭京――太宰府都城と官道(古田史学論集第21集)』が『失われた倭国年号《大和朝廷以前》(古田史学論集第20集)』と並んで置かれていた。休館中の3月に発刊された本である。
 そして4階に土佐史談会の事務所、5階が高知みらい科学館である。プラネタリウムは完全予約制とのこと。学習ルームや休憩室も完備。高知の学術向上に寄与してくれることを願う。

拍手[0回]

 『幡多のあけぼの 考古学よもやま話』(木村剛朗著、平成3年)は高知県の縄文時代を知る上で欠かすことができない一冊だ。その中で「石鏃が最も多く出土する遺跡は、足摺半島の先端部近くにある唐人駄場遺跡と、中村市蕨岡の奈路駄場遺跡である。この遺跡で採集された石鏃は数百点にものぼる」としている。
唐人駄馬
 唐人駄場遺跡と言えば、かつて古田武彦氏が縄文時代の灯台とされる鏡岩の調査に来られた場所である。巨石群が天然のものか人為的に配置されたものかは議論があるところだが、縄文時代における一大中心地であったということは専門家も認めるところである。
 一方の奈路駄場遺跡は現在は四万十市蕨岡の高良神社が鎮座する川の対岸にある。縄文〜弥生時代の遺跡で、栗の実型の首飾りが出土している。幡多国の中心部が四万十川流域に移行してきたのだろうか?

拍手[1回]


 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているという。


筑後国分寺跡(久留米市)、堂ヶ平遺跡(広川町)、太宰府史跡(太宰府市)、鴻臚館跡(福岡市)、宝満山遺跡(太宰府市)、浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)、筑前国分寺跡(太宰府市)、菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)、豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)



 古賀達也氏が九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋が、土佐国分寺古瓦ノ図として『皆山集2』に掲載されている。やはり九州との深い関係があるかも知れない。また、布目瓦も出土していることから奈良時代のものと推定しているようだ。


拍手[0回]

カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
フリーエリア
『探訪―土左の歴史』第20号 (仁淀川歴史会、2024年7月)
600円
高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
最新CM
[10/12 服部静尚]
[04/18 菅野 拓]
[11/01 霜]
[08/15 上城 誠]
[08/11 上城 誠]
最新TB
プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
バーコード
ブログ内検索
P R
忍者アナライズ
忍者ブログ [PR]
Copyright(C) もう一つの歴史教科書問題 All Rights Reserved