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 『古代の地方史2 山陰・山陽・南海編』(八木充編、昭和五十二年)頁一四二に以下のような土佐国に向かう古代官道の変遷が記されている。

 土佐国府(南国市比江)に達する公式ルートは、はじめ讃岐から伊予国府を経由した。おそらく周敷郡付近から南下して石鎚山脈を越え、仁淀川の支流を下るという、現在の国道一九四号線に近いルートをとり、仁淀川下流付近で東行し、土佐国府に至ったものであろう。しかし、このルートは、遠まわりの上に相当険難であったらしく、七一八年(養老二)五月、那珂川沿いにさかのぼり、四ッ足堂峠を経て物部川沿いに下る阿波国経由のルート(現在の土佐中街道)に切りかえられた(『続日本紀』)。しかし、このルートも、結局問題が多かったとみえて、七九六年(延暦一五)に至って、讃岐—伊予間の川之江市付近(旧宇摩郡)から南下し、水無峠を経て立川川沿いに下るように、再び切りかえられた。

 国道一九四号線といえば寒風山トンネルを抜けるルートで、現在は道も良くなっており、西条市に行くには最短コースかもしれない。近くの山中に「越裏門(えりもん)」という地名があり、まさに土佐国の裏門を象徴しているようでもある。
 また、四ッ足堂峠ルートを採用しているところを見ると初期の頃の説であり、西は中村経由、東は野根山ルートをとる近年の説(足利健亮説など)とでは、かなり異なっている。
 しかし、完全に結論が出たわけでもないので、従来説として尊重しておこう。官道でなかったとしても、古くから利用されていた道のようであり、直短距離をつないでいる利点は感じられる。

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 地検帳中村郷「中村」(現在は四万十市)には「大道」に係わる記載が14筆ある。「大道」地名は古代官道との関連が指摘されることがあるが、『土佐の「小京都」中村ーーその歴史・町並み復元と史跡ーー』(西南四国歴史文化研究会中村支部、平成19年)によると、それらは大きくは4本の道を示しているという。足利健亮説では伊予経由の古代官道は中村を通っている。もしかしたら地検帳の「大道」のどれかが古代官道と重なっている可能性があるが、同時に官道以外の道にも「大道」というホノギが当てられていることにもなる。


 『長宗我部地検帳』に登場する「大道」というホノギ(小字のようなもの)を追っていけば、もしかしたら、古代官道が浮かび上がってくるのではないか? そんな淡い期待を抱いていたところ、すでに先人達によって検証された事例があった。春野町(現在は高知市に合併)については、『春野町史』(春野町史編纂委員会、昭和51年)の中にホノギ「大道」をもとに大道の推定がなされている。図のように東西にほぼ一本の点の束になっているが、南北方向に枝分かれした道も見られる。朝倉慶景氏はこの春野町を通る南ルート(高知市からやや南下して春野町―土佐市―須崎市へとつながる海岸よりのコース)を古代官道と推定している。


 また、佐川町における「大道」に関するホノギを拾って中世における道路の推定復元図(『佐川町史 上巻』佐川町史編纂委員会、昭和57年)が作られているが、それを見ると一本ではなく複数の枝分かれした道路網である。木下良氏の著書に見られる古代南海道の図では、この佐川町を経る北ルート(JR土讃線が通っているコース)が採用されている。この二つのルートは二者択一的で、春野町と佐川町の両方を通っている可能性はかなり低いといえよう。とすれば、『長宗我部地検帳』に見えるホノギ「大道」は、仮に古代官道と重なっている部分があるとしても、全く関係のない道にも対応している地名だと結論づけられるのではないだろうか。


 地域差はあるにしても他の市町村にも「大道」というホノギは広く見られ、「道」(多数)や「小道」(大道よりは少ない)も存在する。中には「タイトウシリ」(~シリは跡の意)、「コタイシキ道」など、古代官道を連想させるようなホノギも見受けられる。県全体をくまなく調べていけば何らかの傾向が見えてくるかもしれないが、一足飛びに古代官道までさかのぼるというわけにはいかないようである。


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 「学問は実証より論証を重んじる」との話は授業でも紹介したことがあったが、説明しながらしっくり来ない部分もあった。通常は机上の空論よりは実証のほうが重みがあるのではないかと考える。「論より証拠」ということわざがあるくらいだ。
 ところが最近、この言葉の真意が明らかになってきた。「『日本書紀』に書いてあるから史実である」といった誤った実証主義に対するアンチテーゼだったのである。

 「教科書に書いてあるから正しい」という理屈はセンター試験の正誤問題をはじめ、多くのテストにおいて基準になる。教育の現場において教科書を尊重する姿勢は大切である。その一方で、例えば「対頂角は等しい」という命題は教科書に書いてあるから正しいのではなく、証明によって示すことができるから正しいというのが本質であり、学問的である。もちろん、毎回証明していては煩雑であり、学問の発展にもブレーキとなる。多くの専門家が監修し、長年蓄積してきた叡智の結実として信頼性の高い教科書だからこそ、そこに書いてあることは正しいと言うことは差し支えないのである。厳密に言うと、それぞれの学年、教育段階に合わせた方便が用いられていることはやむを得ないことであろう。
 一方、『古事記』や『日本書紀』は教科書たり得るだろうか? 資料批判することによって書かれた背景や思想性、信頼度などを十分に検証する必要がある。それらを抜きにして「そこに書かれているから正しい」といった態度は真の実証主義とは言い難い。誰もが納得し得る根拠を示す必要があるのだ。やはり「学問は実証より論証を重んじる」のである。



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 古代の条里制の南北線をどのように定めたのか。ある人から「東西線を先に決めたのだ」という話を聞いたことがあったが、春分・秋分の日の出や日の入りの方角という考えには納得できない思いがあった。なぜなら、縄文時代の建造物はむしろ冬至や夏至を意識した造りになっているものが多いからだ。
 「肥さんの夢ブログ」でも東偏5度問題がテーマとなっている。ちなみに古代土佐(高知県)の条里制は香長平野で東偏12度(N12°E)、鏡川下流域で西偏16度(N16°W)となっている。
 調べてみると、奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」に、古代の方位測定法について書かれていたので、以下に引用させていただく。

 平城京をはじめとする都城や寺院、道路など、古代の土木建造物には、真北や真東西に方位を合わせたものが少なくありません。工事にあたって測量がおこなわれたことは確実です。では、具体的には、どのような方法で方位を測ったのでしょうか。 
 いまの私たちなら、方位磁針(コンパス)を使うのが簡便です。ただし、よく知られているように、磁針が指す磁北は、地球の自転軸の延長方向である真北とは一致しません。奈良や京都では、真北から7度ほど西にずれています。この差は地域や時代によって異なりますが、6~8世紀ではさらに大きく、西日本では平均して10~15度も西へずれていました。したがって、古代に磁北を測って方位を定めたのでないことは確実です。 
 次に思いつくのは、北極星を測ることでしょう。現在の北極星(ポラリス=こぐま座α星)は真北にかなり近い位置にありますので、これを利用するのが真北の測定法としてはもっとも簡便です。実際、古代にも北極星で真北を求めたと主張する人がいます。 
 ところが、北極星はずっと同じ位置にあったわけではありません。コマが首を振るように、地球の自転軸は約25,800年の周期で動いており(歳差さいさ運動)、現在の北極星が北の指標となったのは大航海時代(15世紀)以降といわれています。それ以前は、紀元前1,100年頃にコカブ(こぐま座β星)、紀元前2,800年頃にはトゥバン(りゅう座α星)が北極星の役割を果たしていました。しかし、古代の日本に、北極星にあたる星は存在しなかったのです。 
 ではどうやって方位を測ったのかというと、まず間違いないのは太陽を利用する方法です。地面に棒を垂直に立て、それを中心に円を描きます(全周させなくてもかまいません)。午前と午後の2回、棒の影の先端が円周上にくるときがありますが、その2点を結べば、ほぼ正確に真東西となります。この方法は、古くから『周礼しゅらい』をはじめとする中国の書物に記され、簡単なうえに精度もよいことが実験でも確かめられています。日本へは、そうした書物や朝鮮半島からの渡来人をつうじて伝えられたのでしょう。 
 ですから、方位の測定では、まず東西線を決め、そこから直角に振り出すことで南北線を定めたと考えられます。そのさいに、各辺の長さが3:4:5の直角三角形(勾股弦こうこげんの法として広く知られていました)を利用したことは確実です。7世紀の奈良盆地には、横大路よこおおじという東西道路と、上ツ道かみつみち・中ツ道なかつみち・下ツ道しもつみちという等間隔の南北道路が存在していました。最初に横大路が設定され、3本の南北道路はそれと直交するようにつくられたものと思われます。 
 平城京は、このうちの下ツ道を基準に設計されていますから、造営時にあらためて方位を測定したわけではありませんが、その精度は古代の測量技術がかなりの水準に達していたことを物語っています。 (2013年6月のブログより)
 棒の影の長さが円の半径に等しくなる時刻が、午前と午後で一回ずつある。その方角は太陽が南中する真南の方角から対称なので、かなり正確に東西方向を決めることができそうである。その線に垂直な方向を南北線と決めるというわけだ。
 しかし、問題は敢えて真北より東へ5度(東偏5度)ずらした方角で建てられた建造物群が存在するということだ。果たして、どのような意図があったのだろうか? 県内の古代建造物についても検証してみたいところである。



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高知の夏祭りを締めくくる一宮・土佐神社の志那祢(しなね)祭は、高知の神祭として歴史と伝統ある祭りとされている。その由来や語源について調べてみたいと思っていたが、材料不足のためまだ手つかずのまま。
 とりあえず身の周りの高知県民に「しなね様」について聞いてみたが、大半が「知らねー」との答え。高知の夏は「輪抜け様」に始まり、「よさこい祭り」で絶頂を迎え、「しなね様」で終るとも言われる。
 高知市の『志那袮祭』は土佐三大祭りの一つ(他は中土佐町の『久礼八幡宮秋季大祭』、仁淀川町の『秋葉祭り』)であるが、意外にも知らない人が多かった。ローカル色の強いお祭りだということか?
 今年(2018年)のスケジュールをパンフレットから紹介しておく。
8月24日(金)宵祭り
20:00  神事 宵宮(参列自由)
21:00  悠久の舞(巫女四人舞)
22:00 悠久の舞(巫女四人舞)
●夕刻より夜店が多数出店します。
8月25日(土)大祭・御神幸
10:00 神事 大祭(参列自由)
13:00  鼓笛隊マーチ(一宮幼稚園園児)
15:00 神事 神幸祭
16:00 神輿巡行
16:30 お旅所祭
17:30 還幸祭
●古式神事が雅楽の調べとともに行われます。
ぜひ、ご参列ください。※夜店はありません。
土佐神社(高知市一宮しなね2-16-1)
 土佐神社は、土佐の総鎮守で、460年の創建と伝えられている。本殿、幣殿及び拝殿は長宗我部元親、鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)の建立で、これらは国の重要文化財に指定されている。御祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、一言主神(ひとことぬしのかみ)。
 『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
志那祢の語源
 土佐神社の公式ページによると「旧暦七月三日の祭です。しなねの語源は諸説あり、七月は台風吹き荒ぶことから風の神志那都比古から発したという説、新稲(しいね)がつづまったという説、さらに当社祭神と関係する鍛冶と風の関連からとする説等があります」とのこと。
 「しな~」を「支那」との関連で説明しようとする説はあまり聞かない。本来「支那」には蔑称の意味はなかった。元々、中国固有の地名として存在するからである。「支那」を蔑称とするのは、戦争による憎み合いの副産物として生まれた負の感情によるものだろう。もしかしたら中国からの渡来系の神々が、かつては尊敬の念を持って「しな~」と呼ばれていたかも知れない。一考の余地はあるのではないか。
 24日は宵宮。参道にたくさんの屋台が出て、境内では神楽や太鼓等が奉納される。
 25日の午後3時から、御神幸(おなばれ)が行われる。この御神幸は日中にもかかわらず明かりをともした松明を持って行く。昔、浦の内(現須崎市)の鳴無(おとなし)神社への御神幸の帰りに風雨が強くなったため、磯伝いに帰っていると、途中、狼に襲われ、とっさに松明を振りかざし、狼を追い払った古事に基づくそうだ。
 現在では、浦の内の鳴無神社まで御神幸に行かず、江戸時代に五台山の北西の麓に土佐神社離宮(小一宮・こいっく)という御旅所が設けられ、船渡御しをするようになった。明治13年、現在の一本松にお旅所を建立して、徒歩で御神幸が行われるようになり、「船上がりの御祝儀」と呼ばれている。
 鳴無神社や土佐神社離宮までの御神幸は行われなくはなったが、土佐神社で志那祢祭が行われる8月24日、25日は両神社の志那祢祭の日でもある。特に、鳴無神社では25日の午後は浦の内に大漁旗をなびかせた船を浮かべて勇壮な御神幸(お船遊び)を行っている。

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 村田正幸氏の調査によれば、石碑を含めて長野県内に12の「高良社」を確認したとのこと。次の通りです。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明


 分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目される。

(古賀達也の洛中洛外日記 第1065話 2015/09/30「 高良玉垂命 」一覧より参照)


 この傾向は徳島県の高良神社分布とも何か通じるものがある。三好市山城町に4社。地名の山城の「城」は本来「白」、さらには「神代、神稲(くましろ)」に由来するのではないかと推理していたところ、有力な情報が立て続けに飛び込んできた。
 淡路の高良神社はかつての神稲(くましろ)郷に集中しているということが一点。
 そしてもう一点は長野県の白馬(はくば)岳も元々は代馬(しろうま)岳であったとのこと。1956年(昭和31年)9月30日 、北城村・神城(かみしろ)村が合併して、今日の白馬村が発足した。やはり「しろ」の地に高良神社が鎮座しているという共通点が見られるのではないだろうか。

関連記事「
長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布





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 南米エクアドルのバルディビア遺跡から縄文土器のみならず、線刻石が出土しているとメガーズ・エバンス報告書は言う。縄文のヴィーナス(女神石)とも呼ばれる線刻石といえば、愛媛県の上黒岩遺跡が有名である。しかし時代が大きく異なっている。上黒岩遺跡は一万二千年前、バルディビア遺跡は五千五百〜三千五百年前である。
 縄文人が太平洋を渡ったといっても、さすがにこれを結び付けるのは我田引水というものだろう。古田武彦氏もこの問題点は先刻ご承知であった。高知県四万十市西土佐の大宮宮崎遺跡(四国で2例目の配石遺構を伴う祭祀遺跡)から時代の新しい線刻石(礫)が発見されていることを、『失われた日本』(1998年)の中で指摘している。こちらは縄文後期(四千〜三千年前ーー様式推定)のものとされ、これなら時代的な重なりがある。

 四万十市はかつての幡多郡であり、『魏志倭人伝』の侏儒国に比定される領域である。物証としてはまだ少ないかもしれないが、足摺岬付近から黒潮に乗って南米へ渡航したとする古田説を支持する根拠の1つと言えるだろう。
 実は先日、近くの道を通ったにもかかわらず、そんな重要な大宮宮崎遺跡の存在を知らずに素通りしてしまった。地元の人間でも知らないところにまで、古田氏の研究の手が及んでいたことに新ためて驚かされる。

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 今年の1月の時点で分かっていた四国の高良神社一覧である。それを元にマッピングしてみると何か見えてくるのではないかと思い、分布図を作成してみた。
 大まかな傾向として、古代における河口津(天然の良港)となりうる場所に集中していることが読み取れる。高良神社が筑後国一宮・高良大社の分祀であると考えると、古くから九州の船団が立ち寄る拠点となる立地とすれば納得できる。
 このような場所は横穴式石室の分布とも関連がありそうだとの指摘もある。特に愛媛県では古墳群に鎮座しているケースが複数見られる。
 その一方で、山間部における高良神社の存在が新たな疑問として浮上してきた。徳島県三好市山城町での新たな高良神社の発見。また高知県にも山上の集落に高羅大夫社(長岡郡大豊町桃原)の存在がある。
 県ごとにも傾向の違いがあり、明治維新の神仏分離および名称変更の達し、更には明治39年の神社合祀令に対する施策の違いなどが影響している部分も大きい。愛媛県では全て境内社、徳島県ではほとんどが単立の神社として残されている。



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 三好市役所山城町支所で聞くと、所長が『山城谷村史』(山城町史編集委員会、昭和34年)を出してこられた。村内の神社一覧表には、数えると高良神社が5社も書かれている。この事実には正直驚かされたし、所長自身も「こんなにあるとは知らなかった」とのこと。
 徳島県は高良神社が他社に境内社として合祀されずによく残されている。明治39年に出された神社合祀令が、県知事の裁量に任されていた部分もあって、愛媛県ではかなり忠実に実施されたが、徳島県ではそれほどでもなかったのだろうか。
 それにしては高良神社の数が少なすぎる。疑問を持っていたところに、この新発見。相川名・末貞名・尾又名・瀬貝名・佐連名(〜名は古い行政単位のようなもの)に各一社ずつ。まるで「一名一高良」といった様相を示している。
 1956年(昭和31年)9月30日 、山城谷村が三名村を合併のうえ町制施行・改称して山城町となっている。気を良くして『三名村史』を見ると高良神社は全く出てこない。山城町に縁のある神社なのだ。実はこの「山城」という地名自体がありふれているようだが、由来の分からない謎の地名とされている。

 さて、山城町で5社目となる山城町尾又東の高良神社(祭神・彦火々出見命)探しに向かった。高良神社の祭神として「彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)」が祀られているのは不思議である。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)・木花開耶姫(このはなさくやひめ)の子であり、あるいは何か高良神社の謎を解く鍵が隠されているのだろうか。
 白川谷川をさかのぼり、白川地区(白川神社あり)の個人商店で話を聞く。尾又は山を登って行かなければならず、1か月前の豪雨による土砂崩れで、随所に岩がごろごろしているという。38年前には1メートルほど水に浸かる被害もあったとのこと。途中、工事のダンプカーと何度もすれ違った。 

 尾又地区までやって来た。グーグルマップ上で単に「神社」と出ている所が、たぶん高良神社だと思うが、近くまで来たものの登る道が見当たらない。前の民家も転出したのだろうか、人の気配がない。神社自体も既になくなってしまった可能性すらある。神社があったと思われる場所は木々に覆われてよく分からなかった。

 もしかしたら近くの八幡神社に合祀されていないだろうか。そちらも行ってみたが、周囲が土砂崩れで復旧作業に時間がかかりそう。八幡神社も柵が設けられ、立入禁止だった。

 ふもとに下りるとバス停の辺りに民家の地図が出ている。転出した家も多く、「〜跡地」と書かれている。5つ目の高良神社を実見することはかなわなかったが、今回の調査で思ったことは、伝統ある神社の維持・管理がますます難しくなってきているということだ。それとともに今まで地域の氏子の方々や神職および関係する人々がご苦労してこられた足跡に、自然と感謝の気持ちが湧いてきた。

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 三好市山城町瀬貝西にも高良神社(祭神・武津見命)があるという情報をつかんで近くまで来て、確かに存在するという証拠を見つけた。看板に高良神社と書かれている。

 メインストリート(と言ってもすれ違い困難な道)を通って行くが、周囲には見当たらず次の集落に入ってしまった。とりあえず佐連カジヤ谷にもあるという高良神社を先に探してから、もう一度引き返すことにしよう。

 再び瀬貝に戻って、ふと先程の郵便配達のバイクが坂の上に登って行った道を思い出した。あの道へ行ってみよう。集会所の横の道を歩いて行くと、ヨンデン(四国電力株式会社)の車が来ている。「暑い中、こんな山の上までご苦労様」との思いで、通り過ぎようとすると、地元の者が戻って来たと勘違いされたのか、道端に車を停めている事情を説明してこられた。こんな細い山道ではお互いに気を遣うものだ。
 山中の草むらに鳥居が見えたので、かなり急な石段を慎重に登っていく。やはり高良神社だ。さらに奥の参道も、しばらく手入れされていない様子。氏子の方々あっての神社であるが、高齢化が進み、人口も減って維持が難しくなってきているのだろうか。

 何とか上まで登ると小さな祠があった。中には高良神社と刻まれた石が置かれていて、ちょっと品の良さを感じる。横には「天明三卯年(1783)」との文字も読める。少なくとも江戸時代までさかのぼれる歴史を持つことは確かである。さらに上に登る道があって民家があったが、もはや人の気配はない。廃屋のようだ。
 さて、高良神社の祭神が「武津見命」となっているのは珍しい。通常は高良玉垂命か武内宿禰命のどちらかである。武内大臣といった表記の差異はあるが「武津見命」では武内宿禰とは異なる。
賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)のことであろうか。それとも多元的に解釈すべきであろうか。謎である。

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朱儒国民
性別:
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塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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