「いなきさんのスピリット
〜八代青年奉納歌舞伎〜」
12/2(日)14:30~15:24
KUTVテレビ高知で放送されていた番組をチラッと見て、「もしや、いの町枝川の八代八幡宮では?」と思ったら、その通りであった。「コウラ」地名を探し回っている時に立ち寄った神社である。気になっていたが、まさかテレビで紹介されるとは……。
まずはホームページ「ダイドー祭りドットコム2018」の案内文を見てみよう。
高知市との境に位置する吾川郡いの町の八代地区。わずか100世帯が暮らすこの小さな集落で、約300年にわたって継承されている「八代青年奉納歌舞伎」。八幡宮には、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている回り舞台があり、毎年11月5日に、芝居好きの氏神様のために歌舞伎が奉納されています。役者を務めているのが20代〜30代で構成される地域の青年団。彼らには、かつて土佐地芝居で女形として舞台に上がっていた「いなきさん」の教え・心得が、今も脈々と受け継がれています。数少ない農村歌舞伎を今に残す若者たちの奮闘ぶり、さらには祭りを継承する難しさ、楽しさとは? そして「いなきさん」が後世に残した“大切な何か”を描きます。
「いなきさん」というから、てっきり「稲置」を連想したが、歌舞伎の大先輩である水田稲吉さんのことだった。また、八代(やしろ)地区というと、熊本県の八代(やつしろ)市や歌手の八代亜紀を思い出す。
そもそも八代は神社の社(やしろ)が語源であるとも言われている。八代市妙見町にある八代神社(祭神:天之御中主神、國常立尊)は、妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんとも呼ばれ、福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つとされる。また、八代妙見祭は八代地方において最大の祭礼行事で、もっとも古い祭礼の記録は相良氏が支配していた時代の記録である『八代日記』の1515年(永正12年)に記述がある。
高知県において天之御中主を祀る妙見は、明治初年の神仏分離令及び名称変更の達しにより星神社に改称された。『鎮守の森は今』(竹内壮市著、2009年)によると、高知県内の星神社は54社を数える。
閑話休題、吾川郡いの町枝川になぜ八代地区があり、八代八幡宮が存在するのだろうか。なぜ数百年以上も奉納歌舞伎が継承されてきたのか。演目の中では「大黒踊り」がより古くからあるものと伝えられ、『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)「寺子屋」の段も演じられる。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描くストーリーである。
ここにも何か九州とのつながりを感じさせる伝統が息づいているように感じられた。
そもそも八代は神社の社(やしろ)が語源であるとも言われている。八代市妙見町にある八代神社(祭神:天之御中主神、國常立尊)は、妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんとも呼ばれ、福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つとされる。また、八代妙見祭は八代地方において最大の祭礼行事で、もっとも古い祭礼の記録は相良氏が支配していた時代の記録である『八代日記』の1515年(永正12年)に記述がある。
高知県において天之御中主を祀る妙見は、明治初年の神仏分離令及び名称変更の達しにより星神社に改称された。『鎮守の森は今』(竹内壮市著、2009年)によると、高知県内の星神社は54社を数える。
閑話休題、吾川郡いの町枝川になぜ八代地区があり、八代八幡宮が存在するのだろうか。なぜ数百年以上も奉納歌舞伎が継承されてきたのか。演目の中では「大黒踊り」がより古くからあるものと伝えられ、『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)「寺子屋」の段も演じられる。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描くストーリーである。
ここにも何か九州とのつながりを感じさせる伝統が息づいているように感じられた。
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高知県の歴史研究をする上で越えなければならない壁がある。「長宗我部地検帳のふるい」である。
関ヶ原の戦いを前後して、土佐国の領主が長宗我部氏から山内氏に交代する。16世紀末に行われた検地の成果は『長宗我部地検帳』として記録され、政権交代後もそのまま山内家に引き継がれた。現在368冊、土佐七郡ほぼ全てを網羅する史料として残されている。
『文化遺産オンライン』には次のように紹介されている。
高知県
『土佐史談』(土佐史談会)や『探訪』(仁淀川歴史会)などに、高知県の郷土史家による歴史研究の論考が次々と発表されている。それらが正しいと認められるためには、少なくとも『長宗我部地検帳』の記録に矛盾しないことが必要条件となる。研究対象となる時代にもよるが、とりわけ江戸時代から戦国時代(織豊期)へとさかのぼる場合、いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」にかけられることになる。
もちろん、『長宗我部地検帳』も無謬(むびゅう)というわけではない。けれども客観的な資料的性格を考えると、主権者のイデオロギーを反映する『日本書紀』などよりも、はるかに信頼性があると言える。それゆえに、歴史小説ならいざ知らず、歴史論文となると勝手に空想を膨らませることはできない。
この長宗我部時代と山内時代の画期、山内一豊の土佐入国1601年をもって「C(長宗我部)・Y(山内)ライン」と呼ぶことにする。古田史学で用いられている701年の「O(Old九州王朝)・N(New大和朝廷)ライン」になぞらえて命名した。この「C・Yライン」をまたぐ時は要注意である。
12月23日(日)に土佐史談会関東支部理事・正木宏幸氏による「歴史の特効薬ー長宗我部地検帳ー(吾川郡 上)」と題する平成30年度史談会講座がオーテピアで開かれる。どのような切り口で語られるのか楽しみである。
関ヶ原の戦いを前後して、土佐国の領主が長宗我部氏から山内氏に交代する。16世紀末に行われた検地の成果は『長宗我部地検帳』として記録され、政権交代後もそのまま山内家に引き継がれた。現在368冊、土佐七郡ほぼ全てを網羅する史料として残されている。
『文化遺産オンライン』には次のように紹介されている。
高知県
桃山時代
袋綴冊子装(五ツ目綴) 料紙楮紙
縦39.5cm×横27.5cm
全368冊
高知県立高知城歴史博物館
重要文化財/指定番号(登録番号):00291(S46.6.22指定)指定名称:長曽我部地検帳
豊臣政権期に土佐国主であった長宗我部氏が実施した、土佐一国の総検地帳。天正15(1587)年から数カ年かけて行われた検地の成果で、土佐七郡全域にわたる368冊が現存する。初代土佐藩主山内一豊は慶長6(1601)年の土佐入国時、長宗我部氏の居城浦戸城に入城し、地検帳を接収。七郡の郡奉行がそれぞれ保管し、初期の土佐藩政に利用した。その後写本を作成し、原本は実務的な使用からは離れるが、近代まで土佐一国の基本台帳として大きな意義を持った。
※長宗我部氏の表記統一のため、指定名称(長曽我部地検帳)と異なる資料名を採用している。
『土佐史談』(土佐史談会)や『探訪』(仁淀川歴史会)などに、高知県の郷土史家による歴史研究の論考が次々と発表されている。それらが正しいと認められるためには、少なくとも『長宗我部地検帳』の記録に矛盾しないことが必要条件となる。研究対象となる時代にもよるが、とりわけ江戸時代から戦国時代(織豊期)へとさかのぼる場合、いわゆる「長宗我部地検帳のふるい」にかけられることになる。
もちろん、『長宗我部地検帳』も無謬(むびゅう)というわけではない。けれども客観的な資料的性格を考えると、主権者のイデオロギーを反映する『日本書紀』などよりも、はるかに信頼性があると言える。それゆえに、歴史小説ならいざ知らず、歴史論文となると勝手に空想を膨らませることはできない。
この長宗我部時代と山内時代の画期、山内一豊の土佐入国1601年をもって「C(長宗我部)・Y(山内)ライン」と呼ぶことにする。古田史学で用いられている701年の「O(Old九州王朝)・N(New大和朝廷)ライン」になぞらえて命名した。この「C・Yライン」をまたぐ時は要注意である。
12月23日(日)に土佐史談会関東支部理事・正木宏幸氏による「歴史の特効薬ー長宗我部地検帳ー(吾川郡 上)」と題する平成30年度史談会講座がオーテピアで開かれる。どのような切り口で語られるのか楽しみである。
安芸郡には、蘇我氏流ともいう有力国人安芸氏が起こり、畑山・中川・黒岩・奈比賀・有沢・並川の諸氏を分出する。 その他、惟宗氏流の野根氏・室津氏・別府氏・安田氏、明神氏、大野家氏、安岡氏、一円氏、北川氏、有井氏、岩崎氏、和食氏、千頭氏がある。
戦国期の橘系安芸氏については「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、いくつかの棟札が知られていることは、“橘系安芸氏と蘇我氏との関係”のところで書いた。『安芸市の史跡と文化財』(安芸市教育委員会、昭和55年)にも一族と思われる名前が数名登場する。
安芸八幡宮(祭神:胎中天皇)に関して「戦国時代安芸の領主、橘元泰が大檀那となって本堂を寄進したことが記録にみえる。(1533ー天文二)橘元泰は安芸城最後の主安芸国虎の父である」と紹介されている。
また、畑山字和田にある水口神社(祭神:敏達天皇と蘇我赤兄・蘇我乙麿)について、「橘元綱という大檀那が社殿を造営している(1553年ー天文二一)がこれも安芸氏であろう」としている。橘氏は敏達天皇を遠祖としていることからも、このつながりは頷ける。
さらに室町時代以前の創建とされる奈比賀天満宮(祭神:菅原道真)の社堂の寄進が「土佐国編年記事略から拾ってみても、地頭橘鍋若丸(1482ー文明二四)、名本物部正重(1508ー永正五)、橘元泰(1535ー天文四)、橘元盛(1556ー弘治二)などの名が見える。橘元盛、元泰は安芸の領主である」と橘氏の名が複数見られる。高知県東部では天満宮の存在は珍しく、橘氏と九州との関係も見えてきそうだ。
ブログ「日々のさまよい」さんが「なぜか出雲大社には、少彦名(スクナビコナ)を祀るお社がない」と指摘されている。氏の作成された以下のリストによると少彦名(スクナビコナ)を祀る神社は出雲国内で10社程度ということになる。
これならむしろ高知県のほうが多いくらいである。現在、確認したところによると、氷室天神社や粟島神社(上の写真、須崎市浦ノ内灰方)など、県西部の幡多郡と高岡郡に23の少彦名命を祭神とする神社が存在する。この分布は40社ほどある白皇神社(祭神・大巳貴命)の広がりとほぼ一致している。
この領域は中世の幡多庄、さかのぼると波多国造が治めた国に相当し、もしかしたら魏志倭人伝の侏儒国と関連する可能性がある。
一寸法師のモデルともなった少彦名命は、倭人伝に「人身三・四尺」と記述された侏儒国の人びとを連想させる。『伊予国風土記』逸文にも温泉開設の説話が大己貴命とともに描かれている。そして熊野の御崎より常世郷(とこよのくに)に帰って行った。南海道に縁の深い神様のようである。
▼出雲国内でスクナビコナを祀る神社一覧
(島根県神社庁/県内神社のご案内より構成。[ ]内は主祭神)
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出雲市(全157社)
・山辺神社[大国主命・天照大神・少彦名命・山辺赤人之]
・佐香神社[久斯神・大山昨命]※郷社/式内社/出雲国風土記所載
斐川町(全32社)
なし
松江市(全165社)
・天神神社[少彦名命・大鷦鷯尊]
・阿羅波比神社[大己貴命・少彦名命・天照大御神・高御産巣]※県社/出雲国風土記所載
東出雲町(全10社)
・揖夜神社[伊弉冉命・大巳貴命・事代主命・少彦名命]※県社/式内社/出雲国風土記所載
安来市(全98社)
なし
雲南市(全127社)
・多根神社[大己貴命・少彦名命]
・加多神社[少彦名命]※郷社(県社昇格許可)/式内社/出雲国風土記所載
奥出雲町(全34社)
・湯野神社[大己貴命・少彦名命・邇々藝命・事代主命]※出雲国風土記所載
・居去神社[大名持命・少彦名命]
飯南町(全13社)
なし
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美保神社の境外末社に祭神が少彦名命の天神社。出雲国ではないが、東隣の伯耆国である鳥取県米子市に粟島神社がある。
香美郡香我美町の小字図に「コウラ」地名が見つかった。おそらく高良神社の宮床跡ではあるまいか。かつて太平洋岸の赤岡町でとれた塩を物部の奥地に運んだ「塩の道」はこの近くを通っていた。川の対岸に宗我神社があり、高知市鏡梅ノ木の「コウラ」が八坂神社の対岸であったことと類似する。またどちらも「かがみ」地名であることも何か意味があるのだろうか? 場所も特定できることから、貴重なデータである。また、すぐ側の「サバイ」も神社関連地名と見られるが、現在は民家や畑地となっている。また、ここの西方に兎田八幡宮(長さ23.4cm、幅4cmで根元刳込部と対面の関部にシカ、サギ、カエル、カマキリの4種7体が半肉彫りで描かれている弥生時代の絵画銅剣が伝来)、北方に「ミヤケ」という小字が存在することも注目である。
上記以外に、宿毛市山奈町山田の「宮のコウラ」、高岡郡越知町横畠北(旧・片岡郷深瀬ノ村)の「コウラ」、吾川郡いの町枝川の「コウラ」などが存在することから、今回の発見で、もしかしたら土佐7郡全域にコウラ地名が存在する可能性が見えてきた。しかも交通の要所であったり、各地方の中心領域であったりするように思える。
さらにデータを集め、場所を特定するなど、それぞれについて検証を深めていく必要がありそうだ。
ダラダラと安芸郡のことばかり書いて、飽き飽きされているかもしれない。この辺りで「2018年秋の安芸郡調査」の総括をしておきたい。
高知県東部の安芸地方で、高良神社及び高良玉垂命に関連している神社は、現在確認しているところ次の7社。
①芸西町和食の宇佐八幡宮境内社・高良神社
②安田町安田の安田八幡宮境内摂社・若宮神社
③安田町東島の城八幡宮
④田野町淌涛の田野八幡宮
⑤室戸市羽根町の羽根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑥東洋町野根の野根八幡宮境内社・高良玉垂神社
⑦東洋町河内の甲浦八幡宮境外摂社・高良神社
まず、これだけの数と密集度は高良神社分布図を大きく塗り替えることになるだろう。⑤以外は安芸郡であるが、室戸市も旧安芸郡として含めることにした。しかし、旧安芸郡の中心部とも言うべき安芸市内には、未だ高良神社は見つかっていない。また、安芸平野に延喜式内社が存在しないことも謎だと広谷喜十郎氏が指摘している。
個々に見ていくと、境内社としては①⑤⑥で、いずれも参拝者側から見て本殿の左手脇宮のような位置付けである。そのうち⑤⑥は右手脇宮として若宮神社がある。③④は八幡宮の祭神「応神天皇・神功皇后・高良玉垂命」の三柱として祀られている。大分県の宇佐神宮における比売大神が高良玉垂命に置き替わった形態である。福岡県で見られる「応神天皇・神功皇后・武内宿祢命」の祭神形態は「高良玉垂命→武内宿祢命」の置き替えとも考えられ、高知県安芸郡には置き替え前の原初的形態が残されている可能性がある。
②は祭神が「仁徳天皇・気長帯姫命(神功皇后)・高良玉垂命」となっている点が注目される。特に高知県では仁徳天皇を祀る若宮神社が少ない中で、高良玉垂命を共に祀る形態は、若宮神社としては珍しく貴重な例かもしれない。
⑦については境外摂社であるが、八幡宮のお祭りとは別に、高良神社としてのお祭りも行われており、高良玉垂命を応神天皇の叔母に当たる人物(與止比売のことか)に比定し、八幡神より格上の神様と位置付けている。この與止比売については邪馬壹国の女王・卑弥呼の宗女「壹與」とする説が有力であり、倭国・九州王朝との関係性が見い出された「2018年秋の安芸郡調査」であった。
「宮ノ原」というと神社関連地名のように見えるが、神社があるからといって、どこにでもこの地名があるわけではない。古来より文教の地とされた高岡郡佐川町庄田の宮ノ原以外に、高知県では香南市夜須町の宮ノ原があり、かつては土佐市戸波(へわ)に本村宮原があった。
香南市夜須町については『長宗我部地検帳 香美郡 上』(P27)の夜須庄地検帳・宮ノ原に「宮ノ原 弐十代 出三十弐代壱歩 下畠 惣佾給」と書かれている。「佾(いち)」というのは巫女さんのような人であり、必ずしも女性とは限らない。「惣佾」とあるから「佾」をまとめるリーダー格の人物であろうか。
以前は香美郡夜須村といい、西山宮ノ原には猿田彦神社、伊勢が岡神社(明神様)が鎮座する。この惣佾はどちらかの神社、あるいは西山八幡宮(現・夜須大宮八幡宮)に関係する人物と見られる。
『和名類聚抄』にも香美郡安須郷が見え、条里制地割も行われていた。『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に石清水八幡宮宝塔院の荘園となり夜須庄となる。その中心部に鎮座する夜須大宮八幡宮には、その由緒を刻んだ百手碑が立つ。祭神は応神天皇であるが境内社として武内神社を祀る。碑文にも「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。
ところが、通常は長寿の神として祀られ、臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)が、「武内宿祢王」として武内神社に祀られているのはどうしたことか。
『国史大辞典』 (吉川弘文館)によると、高良大社の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる(古賀寿 「高良大社」)ようになったという。
荘園の鎮めとして永承5年(1050)に勧請された夜須大宮八幡宮は、はじめは千切に仮休座し、出口、西山中村と社地を転じ、最後に現在地(西山馬場崎)に遷座した。「宮ノ原」に近いこの場所には、古くは九州との関係が深い寺社があったのかもしれない。
香南市夜須町については『長宗我部地検帳 香美郡 上』(P27)の夜須庄地検帳・宮ノ原に「宮ノ原 弐十代 出三十弐代壱歩 下畠 惣佾給」と書かれている。「佾(いち)」というのは巫女さんのような人であり、必ずしも女性とは限らない。「惣佾」とあるから「佾」をまとめるリーダー格の人物であろうか。
以前は香美郡夜須村といい、西山宮ノ原には猿田彦神社、伊勢が岡神社(明神様)が鎮座する。この惣佾はどちらかの神社、あるいは西山八幡宮(現・夜須大宮八幡宮)に関係する人物と見られる。
『和名類聚抄』にも香美郡安須郷が見え、条里制地割も行われていた。『高知県史・古代中世編』によると、夜須庄は平安時代末期に石清水八幡宮宝塔院の荘園となり夜須庄となる。その中心部に鎮座する夜須大宮八幡宮には、その由緒を刻んだ百手碑が立つ。祭神は応神天皇であるが境内社として武内神社を祀る。碑文にも「本社祭應神天皇武内宿禰之神也」と書かれ、共に武神とされている。
ところが、通常は長寿の神として祀られ、臣下である武内宿禰(武内大臣と表記されることもある)が、「武内宿祢王」として武内神社に祀られているのはどうしたことか。
『国史大辞典』 (吉川弘文館)によると、高良大社の祭神「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる(古賀寿 「高良大社」)ようになったという。
荘園の鎮めとして永承5年(1050)に勧請された夜須大宮八幡宮は、はじめは千切に仮休座し、出口、西山中村と社地を転じ、最後に現在地(西山馬場崎)に遷座した。「宮ノ原」に近いこの場所には、古くは九州との関係が深い寺社があったのかもしれない。
福岡県で橘氏の末裔とされる宮原氏と出会って、1年近く。やっと橘氏のルーツ探しに足を踏み入れることになった。『土佐史談231号』(土佐史談会、2006年3月)に朝倉慶景氏の「橘系安芸氏と安芸地域について」と題する論考が掲載されている。
まず吉田萬作氏の「橘姓は本家のみに称せられ、分家である畑山氏(後に安芸姓に改む)系統は蘇我姓が継承され、かつ本家橘姓呼称は国虎自刃と共に消滅する訳である」との先行研究を紹介しながら、豊富な史料を精査した上でのいつもながら鋭い分析を加えている。
地頭橘系安芸氏については「室町幕府は安芸地域を支配するため、地頭に橘系安芸氏を任命したと考えられる」とし、南北朝統一後の永享十(1438)年と推定される八月二十二日付け文書では、細川京兆家(管領家)が佐川四郎左衛門尉を討伐するため、土佐国人に対し出陣命令を出した。その中に「安芸備後守」と出ているのが地頭橘系安芸氏の初見史料であるとしている。
また、戦国期の橘系安芸氏については、いくつかの棟札が知られている。「大檀那地頭橘鍋若丸」「大檀那橘元親」など、棟札では俗称安芸氏は用いないで本姓橘を使用している。地頭の橘系安芸氏は元親・元泰・国虎と継がれ、彼を以って国人橘系安芸氏は滅亡した。
結論として「地頭で橘姓を名乗る安芸氏は暦応三(1340)年ではまだ安芸荘に居住していなかったと考えられる。つまり橘系安芸氏は蘇我系の家筋とは異なるのである」とした。すなわち古代安芸地域の郡司の流れを汲む蘇我系の家筋と戦国期栄えた橘系安芸氏の両家筋は異なるーー通説を正す明快な指摘が出されている。
安芸郡芸西村の和食宇佐八幡宮に高良神社が境内社として存在しているらしいという情報を以前から目にはしていた。9月の安芸郡調査の際にも寄りたいと思いつつも気付かずに通り過ぎてしまっていた。国道55号線から北に入った金岡山という大ざっぱなロケーションは把握していたので、今回は何とか神社の裏手にたどり着くことができ、やっと現地確認することができた。
まずは沢山の境内社に驚かされた。高知県の神社には案内板のないところが多く、現地調査だけでは分からないことだらけ。かろうじて池に浮かぶ(この日は水が涸れて空堀のようになっていた)厳島神社だけは分かった。
そして、一番西の端が延喜式内社論争にもなった坂本神社であろう。写真で見た覚えがある。ホームページ「高知県の観光」によると、摂社が15社ある中で主なものは5社として紹介されている。
境內には攝社が十五あるがその中にて主なるものは五社で本社の左脇は帶媛神社と云ひ祭神は氣比大神帶媛大神のニ坐にて万治三子年九月八日の勸請である、神社の右脇は高良神社にて祭神高良玉垂命で由緒は方治三年子九月八日勸請になつて居る、高良神社の西側は嚴島神社で須勢現毘賣命を祭り萬治三年九月八日の勸請である、その西側は九頭神社で祭神は砥鹿串神にて承應ニ年本村住人野老山惣左箱門と云ふもの同村字九頭神と云ふ處を開墾中神像を掘り得て祭祀し初めしによる、九頭神社の西側は坂本神社にてこれは由緖舊く慶長十三歲猛夏吉日大工小助と記載せる棟札出でたことがある。
高良神社は本殿の右脇、参拝者から見るとすぐ左手側になる。羽根八幡宮や野根八幡宮と同じ脇宮タイプとして鎮座している。文献と照らし合わせないと何も分からず、徒労に終わるところだった。
東から順に①帯媛神社 ②高良神社 ③厳島神社 ④九頭神社 ⑤坂本神社 と境内社が並ぶこの配置は……。もしや『皆山集1』のあの図ではあるまいか。ずっと気になっていた図だったので、ふと思い出して確認したところ、ピッタリ一致する。間違いなさそうである。
「安芸郡奈半利村坂本神社」と書かれているが、ここ芸西村和食の宇佐八幡宮境内の図であったのだ。「謎は解けたよ、ワトソン君」と言いたい気分である。この坂本神社については、さらに掘り下げていく必要がありそうなので、改めて論じることにしたい。
古田史学の会・関西例会で「弥生環濠集落を防御面で見ることの疑問点」というテーマで、大原重雄氏から、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は「環濠」や「土塁・柵」が考古学者の誤った解釈により誤「復元」されたものであり、土塁や柵の存在は確認されておらず、防衛のために集落を囲んだとされた「環濠」は川から集落へ生活用水を取り込むための流路(人工河)、あるいは洪水に備えた治水設備とする見解が紹介された。
発掘時の規模は幅2.5~3.0m、深さ2mが一般的で、最大の部分は幅6.5m、深さ3mです。
堆積土層は地上ローム土が地形的に低い壕の外から堆積しているため、壕の外に土塁が存在したものと考えられます。
環壕集落の外縁を画する外壕は北内郭、南内郭に比べて規模が大きく、深く中世の城郭に見る「空堀」のような状態であり、防御的性格の強い施設と想定し、土塁上に柵列を設けました。
「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。
一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。
「防御的性格の強い施設と想定し」とあるように、復元された「土塁」やその上の「柵」が実際は出土していなかったというのだ。吉野ヶ里は弥生時代の遺跡であり、『魏志倭人伝』の「倭国大乱」と結び付けられ、防御施設と空想されたものではないだろうか。
一方、多元史観に立ち、吉野ヶ里を邪馬壹国の水軍の拠点の1つと見なした場合はどうだろうか。弥生時代の舟が行き来する水路として十分な幅と深さがあるように思われる。ただし、水を蓄えない空堀であったとの主張もあるので、妄想に走り過ぎないようにしたい。
吉野ヶ里遺跡は弥生時代の終わりと共に終焉を迎える。船の巨大化に伴って水軍の拠点が嘉瀬川流域へと移行していったのかもしれない。倭国の中枢と考えられる筑後から、古代官道が吉野ケ里を経て佐嘉郡国府方面へと伸びている。
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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