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 土佐市及び高岡郡は「高良神社の空白地帯」ということを以前にも書いた。のみならず、延喜式内社すら一社もないという、高知県内でも特異な地域である。

 土佐市高岡町乙に鎮座する松尾八幡宮は1100年以上の歴史を持ち、正八幡宮と呼ばれていた。境内社として高良神社がないかと見てきたが、あったのは武内(たけのうち)神社と竈(かまど)神社だった。狛犬の裏に菊の紋と五七桐の紋が隠されていたので何かありそうだと気にはしていたが、最近明らかになったことを含めて報告しておこう。

 『高知県神社明細帳』を見ると、この境内社・武内神社の祭神が武内宿禰命ではなく、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)であったのである。やはり高良神社が武内神社に変わっていたのである。間違っても、武内宿禰命が高良玉垂命に置き換わったはずはない。高良玉垂命→武内宿禰命と変化することはあっても、その逆は聞いたことがない。

 「いや待たれよ。高良玉垂命=武内宿禰命なのではないか?」との反論もあるだろう。そもそも「高良玉垂命=武内宿禰命」説はどこから出てきたのだろうか。
 筑後国一宮・高良大社(福岡県久留米市御井町1)の祭神を「高良玉垂命」という。延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』に「筑後国三井郡高良玉垂命神社(名神大)あり」とあるが、『古事記』『日本書紀』『続日本紀』には登場しない。にもかかわらず、朝廷からは正一位を授かっている。
 高良玉垂命については武内宿禰説、藤大臣説、月神説、物部祖神説、中臣烏賊津臣説、芹田真誰説、新羅神説、綿津見神説、彦火々出見説、水沼祖神説、景行天皇説など実に多くの説がある。
 祭神の「高良玉垂命」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、全国の八幡宮・八幡神社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。
 ここには謡曲「弓八幡(ゆみやわた)」で高良の神、「放生川(ほうじょうがわ)」で武内宿禰が登場することも「高良玉垂命=武内宿禰命」説を後押ししたのではないかと思われる節がある。この点については機会があれば、さらに掘り下げてみたい。
 高良の神を武内宿禰とする説が広まったのは、江戸期に久留米藩(有馬氏)が祭神を武内宿禰に特定したためといわれており、明治期までは武内宿禰説が主流であった。高良大社の奥宮が高良廟と称して武内宿禰の墓所とされ、また、筑前域の分霊社など、多くの高良社が武内宿禰を祭神としている。結局のところ、一元史観において最も落ち着きが良かったのが武内宿禰説だったのであろう。
 ところが、京都の石清水八幡宮では「上高良」「下高良」といい、「上高良」には武内宿禰を祀る武内社が本殿内に、「下高良(高良神社)」は男山の麓にあり高良玉垂命を祀る。石清水八幡宮の神職に聞いても高良玉垂命と武内宿禰命は別神との見解であった。


 話を高知県に戻そう。土佐市といえば亀泉酒造に代表されるように、お酒造りが有名である。松尾八幡宮と聞くと、酒の神様・松尾大社(京都市西京区嵐山宮町3)からの勧請かと連想したが、石清水八幡宮からの勧請であったことが案内板からも読み取れる。その境内社を表向きは武内神社とし、祭神を高良玉垂命として残したのにはどういう経緯があったのだろうか? 明治維新における名称変更等の紆余曲折があったことを感じさせられる。
 入口案内板の由緒等には、やや疑問が感じられるかもしれないが、そのまま引用しておく。

松尾八幡宮

祭 神:足中津彦尊・息長足姫尊・品陀和気尊
由緒等:当社は約一千百有余年の昔、人皇第五十一代平城天皇の第三皇子高岳親王が創建されたと伝えられている。高岳親王は幼くして皇太子に即位され、次の天皇が約束されていた尊貴の人であられた。しかし、大同年間、薬子の乱(810年)が起こり、親王は追われる身となった。やがて仏門に入り弘法大師空海に師事、諸国を行脚し、人心の救済と求道一筋の道を歩んだ。貞観三年(861年)三月南海道に向い海路をもって仁淀川の川口に至り更にさかのぼり、高岡の地に上陸の第一歩をしるしたという。(日本三代実録)
 清瀧寺に逗留修行すること暫し、感ずるところあり京都の産土神石清水八幡宮をこの八幡の聖地に勧請鎮斎したという。この社が松尾八幡宮である。社領八町八反を賜り古来高東近郷の総鎮守たり。随身池田琢雲をして初代神主にあたらしめたという。

 一方、親王はその後、畢生の悲願であった入唐を果たし、当時、世界最大と言われた国際都市長安の都(現、中国北京市)に留学。更に学究の志は高く、仏果の成就を求め、遙かなる仏陀の母国、インドに向う。

 元慶五年(881年)在唐の留学僧の報告によれば、親王七十八歳の時、羅越国付近で薨去されたという。あぁ!! かかる壮挙は日本史上最初の人であったと伝えられている。



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 そういえば紀貫之(868?~945年)の『土佐日記』の中に橘氏が登場する。橘のすゑひらという人物である。おそらくは土佐国の歴史に登場する最初の橘氏ではないだろうか。
 『新編土佐日記』(東原伸明、ローレン・ウォーラー編、平成25年)を読むと、藤原のときざねと橘のすゑひらについて「国府の役人か」と註が入っている。10世紀頃の土佐では藤原氏と橘氏が国府の有力なポストを占めていたと考えられる。
 はやく往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば船にのりなむとす。この折に、在る人々、折ふしにつけて、漢詩ども、ときに似つかはしきいふ。また、或人、西国なれど、甲斐歌などいふ。かくうたふに、「船屋形の塵もちり、空ゆく雲もたゞよひぬ。」とぞいふなる。今宵浦戸に泊る。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々追ひきたり。

(中略)
 九日のつとめて、大湊より奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でけり。これかれたがひに、国の境のうちはとて、見送りにくる人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさらなむ、御館より出で給びし日より、こゝかしこに追ひくる。この人々ぞこゝろざしある人なりける。この人々の深きこゝろざしは、この海にもおとらざるべし。これより今は漕ぎ離れてゆく。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひきける。かくて漕ぎゆくまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見えずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、甲斐なし。かゝれど、この歌をひとりごとにしてやみぬ。
  おもひやるこゝろはうみをわたれども
  ふみしなければしらずやあるらむ
(岩波文庫『土佐日記』鈴木知太郎校注より引用)


 さて、来たる2月17日(日)に「土佐国府 要人船出の地について ー紀貫之ー」と題する史談会講座がオーテピアで開かれる。紀貫之が船出した場所について、これまでの従来説を大きく塗り替える新説が、朝倉慶景氏(土佐史談会理事)によって発表される予定である。
 『土佐史談第269号』(土佐史談会、2018年11月)に掲載された「土佐国における国分尼寺 ー建立地の歴史地理学的考察ー」に引き続き、
『長宗我部地検帳』に基づく実証主義的な朝倉氏の論理展開に乞うご期待といったところか。

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 高知市愛宕山121に鎮座する愛宕神社(祭神:伊邪那美大神と火産霊神)は道路脇の鳥居から200段以上の石段を登る。その本殿の左手裏側、北100m程の所に「天熊社」(祭神:天熊大人)と扁額がかかっている祠がある。屋根覆いがかけられているが、巨石で造られた古墳の玄室が露出しているようだ。これは横穴式石室ではないか? 県内の古墳をいくつか見てきた経験からも、よく似ていると感じた。古墳の周りや愛宕神社参道の脇にも巨石が見られる。

 初詣の参拝客のお世話をされていた方に、その疑問をぶつけてみた。すると「ここら辺りは愛宕山古墳と言われていますが、専門家の話では山頂には古墳は造らないそうです」とのこと。確かに山の裾野を利用して古墳が造られることはあっても、山頂の古墳はあまり聞かない。
 もともとこの山は、昔は津ノ崎山と呼ばれていて、6世紀後半から7世紀前半頃、この辺りまで浦戸湾が入り込んでおり、中津という港があったという。愛宕山の北側には県内で最古の一つと言われている白鳳時代(645~710年)の秦泉寺廃寺跡が発掘調査で確認されている。また天智天皇のミササギ伝承地も存在する。

 愛宕山は標高が約40m以上あって、高知城とほぼ同じ高さであり、艮(うしとら)鬼門に当たる。この要衝の地に寛永六巳年(1624)、山城国(京都の北部)より勧請。二代藩主山内忠義公尊崇篤く、藩政期を通じて愛宕神社は隆盛を極めた。さらに境内には杉尾神社(祭神:大物主神)、愛宕水神社(祭神:水速能女神・御井神・忍雲根神)も祀られている。
 ブログ「南国土佐へ来てみいや」のオンチャンさんが、愛宕山全体が前方後円墳ではないかとの大胆な仮説を出されている。その根拠として、他にも山上に前方後円墳が実在する例として、愛媛県西予市の笠置古墳を示している。3世紀半から4世紀前半頃に築造された西南四国最古の前方後円墳とされ、自然の地形を利用した原初的タイプの古墳であるとしたら……。昨年、卑弥呼の墓かと騒がれた福岡県田川郡赤村の前方後円墳らしきものーー専門家は自然の地形にすぎないと否定的だが、既成概念に囚われず、可能性をしっかり検証してみてもよいのではないだろうか。
   いずれにしても愛宕山を含むこの一帯は古墳地帯であり、古代において秦泉寺地区は土佐国土佐郡の中心地であったことは間違いない。単なる初詣のつもりが、新年早々2019年の研究課題を提起させられた一時であった。


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 土佐国(高知県)に21社ある延喜式内社のうちの一つ、坂本神社については『芸西村史』(芸西村史編纂委員会編、昭和55年)によくまとめられている。坂本神社といっても南国市の坂本龍馬を祀る神社とは違うので、お間違えないように。

 安政二年の丙辰の年和食村金岡上にある神社の再建の際、社殿の横梁の所に「奉造立坂本権現慶長十三年孟夏吉日大工小助」と誌されてあったので神主松本越前正純明がこれを見て大いに驚いたというのである。早速、彼は延喜式に見られる坂本神社がこれだとして藩当局に届けた所、藩庁もまたここに坂本神社を造営することを許可してくれた。このことにより、和食の金岡にある宇佐八幡宮の境内に、坂本神社が再建されたのである。この坂本神社にしても近世初頭に「坂本権現」として明記されたものが唯一の手がかりであり、これだけで古代の式内社がここに鎮座していたというのはどうであろうか。ただ、最初から多気神社と坂本神社とは併座していなかったことは、延喜式の「神名帳」をひもとくと別々に記載されていることでもわかる。それに、併座されていれば「何々神社二座」、「三座」などというように記載されているからである。「式内社」を考える場合には、その神社を祭っている有力豪族を併せて考える必要があると思う。そうなると、安芸郡東部に室津神社、中部に多気神社、それに西部に坂本神社があったと推測することの方が自然なのではなかろうか。


 現在、坂本神社の祭神葛城襲津彦命は和食の東の小丘にある宇佐八幡宮内の西端に小さな祠に祭られている。「神社明細帳」に「往昔和食村住筒井氏者同村字権現谷ト云所ヨリ爰ニ奉移ト云々」といわれているように、もと和食内に権現谷という所にこの神社があったが、筒井氏が後に和食の金岡山に移したというのである。続けて「天正十七年己丑三月三十日和食郷本村地検帳ニ権現領凡壱町四拾代五歩余御直分ト有之」とも記されている。


 安芸郡奈半利町乙中里に多気坂本神社(だけさかもとじんじゃ)があり、境内には多気神社と坂本神社の二社相殿の社殿がある。もともと別の神社で、いずれも延喜式内社に比定されているが、いつ合併されたのかは不詳。慶長9年(1604年)4月の棟札に「嶽大明神坂本大明神」とあることから、遅くとも江戸時代初期には今の状態だったという。
 もともと近くにあったとする奈半利説では、六丁(約600m)ほど南から坂本社が移つたとする伝承があるが、式内社が二社近接して存在していたとするのは疑問との指摘もある。


 和食村(現・芸西村)での「坂本権現」の墨書銘発見により、藩庁はこの権現社を式内社「坂本神社」と認定した。現在は芸西村和食の金岡山の宇佐八幡宮内の西端の小さな祠に祭られている。
 『奈半利村史考』(安岡大六著、1953年)によると、「坂本神社は和食村鎮座となった」との藩庁の認定に伴つて御神体も奈半利村から和食村へ移され、憤慨した奈半利村の若者たちが取り返しに行く話まで出ている。明治四年(一八七一年)のことである。それから事の次第を詳細に届出て、先方より異議申立がなかったため、明治五年十一月七日、坂本神社は奈半利村へ取りきめになったと通知があった。だが、調査のため御神体を県庁へ差出し、後にかえってきたのは元と異なっていたと伝えられる。

 式内社の坂本神社がどこに鎮座していたかは重要な問題であるが、坂本神社の祭神が、一元史観によって推定されている葛城襲津彦命で本当に良いのか? これがもう一つの坂本神社問題である。この件については、機会を改めて考察してみたい。

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 ブログ「伊那の谷から古代が見える」で、長野県南部に筑紫神社を発見したとの記事があった。

(前略)
ますます興味が湧いて、また神社へ戻った。
参道で掃除をしていた別の人に御祭神を聞いてみた。
やはり解らないという。
『神主に聞いても解らないし、はっきり言わないのだよ』との事だった。
その帰りに図書館へ廻り、史料を探した。
解ったことは、
筑紫神社 下伊那郡 泰阜村 字宮ノ後 3199
祭神 高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)
 相殿 誉別尊(ほんだわけのみこと)(八幡さま)
由緒 不明

 実は高知県にも筑紫神社があって、以前チェックしたまま、それ以上の情報がつかめずにいた。『東津野村史 上』(高知県高岡郡東津野村教育委員会、昭和39年)に「筑紫神社 高良神 北川村管の谷 寛文十年(一六七〇)筑紫大権現」とある。長野県下伊那郡の筑紫神社と同系列の神社と思われる。不思議なことに、高知県と長野県には共通点が多く見つかっており、それらは九州とのつながりを示唆するかのようである
 現在、この神社がどうなっているのか。高岡郡津野町北川にある神社のリストに見当たらないので、保留にしたままであった。

 そもそも筑紫神社(ちくしじんじゃ)は、福岡県筑紫野市原田2550にある神社で、祭神は「筑紫の神」とされる。式内社(名神大社)で、旧社格は県社。また天元2年(979年)の官符には住吉神社・香椎宮・竈門神社・筥崎宮とともに筑紫神社に大宮司職を置くという記載がある。
 祭神の「筑紫の神」についてはいくつかの説があるが、『筑後国風土記』の記述と関係がありそうだ。逸文に次のような内容がある。

 「筑後国風土記逸文」

 昔、この国境(筑前・筑後)に荒ぶる神がいて通行人の半分は生き半分は死んでいた。その数は極めて多かった。そこで「人の命尽くしの神」と言った。筑紫君、肥君らの占いによって、筑紫君等の先祖である甕依姫(みかよりひめ)を祭司としてまつらせたところ、これより以降は通行人に神の被害がなくなったという。これを以って「筑紫の神」と言う。

「昔 此堺上 有鹿猛神 往来之人 半生半死 其数極多 因曰人命尽神 干時 筑紫君肥君等占之 令筑紫君等之祖甕依姫 為祝祭之 自爾以降 行路之人 不被神害 是以曰筑紫神」

 半分は筑紫の地名説話とも受け取れる内容であるが、
ここに登場する甕依姫こそが邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみか)に比定される人物であることを古田武彦氏が『よみがえる卑弥呼』(1987年、駸々堂出版社)で指摘している。九州王朝と無関係ではなさそうだ。

 それにしても、大元の福岡県では「筑紫の神」が祀られているのに、長野県と高知県では「高良玉垂命」あるいは「高良神」とし、祭神が異なっているのはどうしたことだろうか。
 考えられるケースとしては長野県と高知県に筑紫神社が勧請された時点では祭神・高良玉垂命であったものが、後に福岡県では祭神が置き換わった可能性がある。文化のドーナツ化現象として周辺部に原初的な姿が残され、中心部では本来の姿が失われてしまった状態になっているわけである。とりわけ九州王朝の中心地であればなおさら、大和朝廷の主権下では、九州王朝に関係の深い祭神を祀ることが許されなかったとも考えられる。
 また、筑前地方では高良玉垂命が武内宿禰命に置き換わっていると思われる神社がある。なぜ筑前地方に高良神社が少ないのか? 筑紫神社研究というアプローチから新たな展開が見出されるかもしれない。

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 今年の年頭に次のような話をした。「2018年は喜びも悲しみも二人で分かち合えば感謝の思いがあふれてきます。2018÷2=1009(Thank you!)」。年末最後の授業でも、数名の生徒に同じメッセージを伝えた。反応はまずまずであった。

 私個人としても、今年一年間は良き理解者に巡り合わせていただき、不思議な縁も感じることが多かった。お世話になった方々に感謝の思いを伝えたい。
 ほとんどの日本人は人に対して感謝するが、敬天思想を持つ韓国人は誰に対して「ありがとう」と言うか? 神様にだ(カムサムニダ)!


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 橘氏のルーツを探すシリーズのカテゴリー名を何にしようかと悩んだあげく「たちばなしも何ですから」と洒落っ気を込めてつけた。すると朝ドラ『まんぷく』で立花塩業の立花萬平さんが、社員を元気づけるための夫婦(めおと)漫才で、同じことをしゃべっていた。「立花塩業の社員の皆さん、立ち話しも何ですから……って、もう座っとんのかい」。

 立花萬平(長谷川博己)のモデルとなったのは日清食品の呉百福という台湾出身の実業家である。台湾では「百」は縁起のいい名前なので、台湾人には百(モモ)さんや桃さんがたくさんいると聞いた。よって、チキンラーメンの開発者は、残念ながら橘氏とは直接は関係がなかったようである。


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 12月14日の高知新聞に「南海道か 県内最大遺構」との見出しで、香南市野市町下井・高田遺跡で古代官道とみられる道路遺構の発見を報じた。気になった点は次の記述である。

 道路は、溝出土の土器などから8世紀に使用されたと推定。道幅10.35mは、律令国家が713年以前に使った「大尺」と呼ばれる長さの単位でちょうど30尺にあたる。

 ここで「大尺」と呼んでいるのは、1尺=約35cmのいわゆる高麗尺のことを指しているのだろうか? 「ちょうど30尺」としているというからには、1035÷30=34.5(cm)を1尺と見ていることになる。これは高麗尺の元になったとされる東後魏尺(1尺=34.5cm)に相当する。
 大和朝廷は唐の影響を強く受けて、唐の律令制度を取り入れていることから、それに先行する長さの体系が存在していたことは、九州王朝といった旧王朝の存在を示唆することにもなり、相当に食指が動くところである。
 しかし、学問を志す者は真理の前に謙虚でなければならない。『古田史学会報』140号に「高麗尺やめませんか」と題する八尾市の服部静尚氏の論考があるが、高麗尺に相当する物差しは見つかっていないという。法隆寺再建論争で有名になった仮説段階の物差しであって、その実在は専門家の間でも疑問視されている。新井宏氏の「日韓古代遺跡における高麗尺検出事例に対する批判的検討」などが参考になる。
 そもそも今回見つかった道幅は、小尺(1尺=29.6cmの唐尺あるいは天平尺)で35尺のほうがピッタリのような気がする。29.6×35=1036(cm)、すなわち10.36mになり、新聞発表の数値とも合っている。この阿波経由の古代官道は718年以降に大和朝廷主導で設置されたものとすれば、713年以前に使用されたという大尺を適用する必要はない。令の雑令に「高麗法を用いると地を度るに便なため」とある内容に引きずられ過ぎたのではないか。
 また、九州王朝においては魏との関係が深かったことから南朝系の尺度が使用されたと考えられ、1尺=24.3cmとする魏尺(正始弩尺)などが候補として検討されるところである。ここでも「ONライン(701年)」を前後する度量衡の変遷が研究課題となりそうだ。

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 待ちに待っていたニュースが飛び込んできた。高知県香南市野市町下井の高田遺跡の発掘調査で古代官道と見られる県内最大の道路遺構が発見されたのだ。「高知 NEWS WEB」では、次のように報道している。

古代の道路跡は「南海道」か

12月13日 17時09分
 香南市で行われていた遺跡の発掘調査で幅10メートルを超える古代の大きな道路の跡が確認されました。いまから1300年ほど前の奈良時代に、中央と地方を結んだ、「南海道」ではないかと見られています。
 道路跡が見つかったのは香南市野市町の高田遺跡です。高知県の埋蔵文化財センターが高速道路の工事に伴う今年度の発掘調査で確認し、13日に報道関係者に公開されました。
 見つかったのは、並行にまっすぐ伸びる2本の溝で、溝と溝との幅は10メートル長さは170メートルに及び、古代の大きな道路の跡とみられています。
 この近くでは、いまから1300年ほど前の、奈良時代の建物の跡なども見つかっていることから、この道路は、奈良時代に、中央集権国家を目指し朝廷が整備した、中央と地方を結ぶ幹線道路である「南海道」の可能性が高いということです。
 高知県内で、南海道とみられる道が見つかったのは初めてで、これまでに香川県の一部でのみ見つかっている南海道と比べても、かなり規模が大きいということです。
 調査にあたった県の埋蔵文化財センターの池澤俊幸さんは「中央にいち早く情報を伝達するのに馬が走れる大きな道路が必要だったと考えられる。本来、推定されている南海道のルートとは異なる場所での発見だが、道路の特徴などから、南海道の可能性は高い」と話していました。
 今回の遺跡調査の結果については、今月16日、一般向けの現地説明会が予定されています。

 まずお断わりしておくが、古代官道と見られる道路遺構の発見は県内で2例目である。ちょうど10年前の平成20年、南国市の士島田遺跡で幅6メートルの古代南海道の一部と見られる遺構が見つかっている。「本来、推定されている南海道のルート」とコメントされているのは、南国市比江の推定国府跡から東西に伸びるルート(条里余剰帯の存在などを根拠とする)のことであろうか。そこからはかなり南方を東西に走っていることになる。

 「遺構は偶然にも高知東部自動車道・南国安芸道路の建設予定地で見つかり、県立埋蔵文化財センターは『最短距離で人や物を運ぶ現代の高速道路と古代の官道のルートが一致する事例は全国にもあり、大変面白い』」とした報道もあるが、もし、このコースを全く想定していなかったとしたら研究不足かもしれない。一部の郷土史家の間では、この位置に古代官道が発見されて当然と見る者もいる。

 現地説明会の内容は聞いていないが、今回の発掘調査で整合性が見えてきた感もある。土佐国の南海道については、718(養老2)年以前は伊予国経由の西回りであったものが、718年に阿波国経由の野根山街道を経由するルートに変更された。この「南海道の付け替え」は九州王朝から大和朝廷への政権交代(701年のONライン)によるものとする指摘もある。さらに796(延暦15)年、国府から北に向かう北山越え(大豊、川之江方面経由)に変更されている。
 今回発見された古代官道は718〜796年の間に使用された道路と考えられる。国府から南下し、士島田遺跡と廿枝を経てさらに南へ。香長中学校(道路遺構らしきものが見つかっている)あたりを通るように東へ向かい、そのまま高知龍馬空港の北側を通過し、物部川を渡って、今回見つかった高田遺跡の道路遺構にほぼ直線的に連結するようなルートである。
 今後の課題として、①さらに東の延長がどのように伸びているのか? また、②国府以西がどのコースを通っているかーー従来の想定位置、国分寺北側からほぼ真西(土佐北街道沿い)に逢坂峠方面ヘ伸びているのか? あるいは、今回発見された南方のルートを香長中学校あたりから、そのままほぼ真西に伸びているのか? 「古代南海道を探せ」と銘打って情報発信してきた古代南海道研究が新たなステージに入ったと言えるだろう。

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 『「邪馬台国」はなかった』(昭和46年)が出版される時、著者・古田武彦氏も悩んだという。『三国志』全体の中に「壹(いち)」は86個、「臺(だい)」は56個あった。誤謬率の統計的調査を行なったのである。その結果、「臺→壹」の形の誤記は生じていないことが確認されたのだ。すなわち『三国志』の原本には「邪馬壹国」と書かれていて、3世紀の段階では“邪馬台国はなかった”のである。
 商業主義に立つ出版社はインパクトのあるタイトルとして「邪馬台国はなかった」を提示した。しかし、後の時代には天子の居所を意味する至高文字「臺」のインフレーション現象が起きる。『後漢書』における「邪馬台国」の表記がそれである。
 タイトルの「邪馬台国」にカギ括弧が付いたいきさつは、そのような内容だったと聞いている。つまり卑弥呼の時代、3世紀段階では邪馬台国はなかったという限定的な表現を込めたのだ。ではなぜ「壹」という字を国名としたのだろうか。古田氏は「二心(ふたごころ)無き忠誠心」を表す漢字として「壹」を使用したと考えた。

 この考えには反対ではないが、「壹」にはもう一つの意味があるのではないかと最近、考えるようになった。高知県では神に仕える巫女のことを、かつては「佾(いち)」と呼んでいた。『長宗我部地検帳』をはじめ、古い文献には時折り登場する。『魏志倭人伝』に「名を卑弥呼と曰い、鬼道に事(つか)え能(よ)く衆を惑わす」と描かれた邪馬壹国の女王・卑弥呼(ひみか)はまさにこの「佾(いち)」に相当する女性である。邪馬(やま)国の「いち」が治めた国なので邪馬壹国(やまいちこく)と呼んだのではないか。より実態に即した命名のように思われる。

 卑弥呼ならびに壹與の時代はまさに「邪馬壹国」だったのであろう。その後、再び男王の時代に戻ったと考えられるが、そうなると既に「いち」の国ではなくなったことから、邪馬壹国という国名は使われなくなったとするのが理にかなっているように思われる。

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朱儒国民
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塾講師
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将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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