高知県下に分布する「コウラ」地名の多くは「高良神社由来」地名であるとの仮説を当ブログで紹介してきた。ところが、地名辞典などではほとんど「強羅(ごうら)」の変形と見て、「岩石の露出している小地域」と説明している。『日本の地名 60の謎の地名を追って』(筒井功著、2011年)でも柳田國男説を踏襲しているようであった。
将棋では「数多ければ勝つ」という格言もあるが、学問の世界では、沢山の本にそう書いてあるから正しいとは限らない。その原点が柳田國男の説のみに拠っており、その検証をおろそかにして、偉い人が言っているから間違いないというのは思考停止である。そこで“柳田國男の「強羅(ごうら)」は……”で紹介した「強羅」地名の出典に当ってみた。
将棋では「数多ければ勝つ」という格言もあるが、学問の世界では、沢山の本にそう書いてあるから正しいとは限らない。その原点が柳田國男の説のみに拠っており、その検証をおろそかにして、偉い人が言っているから間違いないというのは思考停止である。そこで“柳田國男の「強羅(ごうら)」は……”で紹介した「強羅」地名の出典に当ってみた。
『柳田國男全集20』(柳田國男著、1990年)の164ページに次のように説明されている。
一八 強羅
箱根山中の温泉で強羅という地名を久しく注意していたところ、ようやくそれが岩石の露出している小区域の面積を意味するものであって、耕作その他の土地利用から除外せねばならぬために、消極的に人生との交渉を生じ、ついに地名を生ずるまでにmerkwürdigになったものであることを知った。この地名の分布している区域は、相模足柄下郡宮城野村字強羅同 足柄上郡三保村大字中川字ゴウラ飛騨吉城郡国府村大字宮地字ゴウラ越前坂井郡本郷村大字大谷字強楽丹波氷上郡上久下村大字畑内字中ゴラ備前赤磐郡軽部村大字東軽部字ゴウラ周防玖珂郡高根村大字大原字ゴウラ谷大隅姶良郡牧園村大字下宿窪田宮地字コラ谷等である。西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ。ゴウラはまた人によってゴウロと発音したかと思う。こちらの例はなかなかある。いずれも山中である。信濃北佐久郡芦田村大字渡字郷呂駿河安倍郡村大字渡字ゴウロ飛騨吉城郡坂下村大字小豆沢字林ゴロ美濃揖斐郡徳山村大字戸入字岩ゴロ但馬城崎郡余部村大字余部字水ゴロ美作苫田郡阿波村字郷路安芸高田郡北村字号呂石長門厚狭郡万倉村字信田丸小字黒五郎伊予新居郡大保木村村大字東野川山字郷路土佐吾川郡名野川村大字二ノ滝字ゴウロケ谷土佐にはことにゴウロという地名が多い。中国ことに長門にもたくさんあるから、かの地の人は地形を熟知しているであろう。
柳田國男は「西国の二地は人によってコの字を澄んで呼ぶのかも知れぬ」と言っているが、九州を中心とする西日本では圧倒的に「コウラ(高良)」地名が多いので、濁らないほうが主流であることはうなずける。
また「土佐にはことにゴウロという地名が多い」と言及してくださっていることは嬉しいことではあるが、果たしてそうであろうか。たしかに『長宗我部地検帳』には「ゴウラ」「コウロ」なども記録されている。全数調査はできていないが、これまでの拾ってきた感覚からすると「コウラ」「カウラ」のほうが多いように感じる。私が「高良神社由来」地名としているものである。それをも「ゴウロ」系地名に含めているとしたら、確かに多いということになるだろう。しかしこれらは別系統地名として分けて考えるべきではないだろうか。
また、「ゴウラ」地名についても、和歌山県東牟婁郡古座町姫字ゴウラに関しては三角州性低地として「河川の土砂が河口付近に堆積して形成された平野部分」といった場所もあるので、単に「岩石の露出している小区域」との説明だけでは不十分かもしれない。
柳田國男の説も特定の地名については的を射ているかもしれないが、こと西日本においては「高良神社由来」地名はかなり汎用性があり、高良神社の鎮座地が「高良」地名で呼ばれている。徳島市の高良神社が鎮座する2か所(応神町古川と飯谷町)の「高良」はその代表的な例だ。その観点抜きで大家の説のみに従っていては真実は見えてこないのではないかと考える。
これまでにブログ内で紹介したコウラ地名については、次の表にリンクをつけてまとめておく。
また「土佐にはことにゴウロという地名が多い」と言及してくださっていることは嬉しいことではあるが、果たしてそうであろうか。たしかに『長宗我部地検帳』には「ゴウラ」「コウロ」なども記録されている。全数調査はできていないが、これまでの拾ってきた感覚からすると「コウラ」「カウラ」のほうが多いように感じる。私が「高良神社由来」地名としているものである。それをも「ゴウロ」系地名に含めているとしたら、確かに多いということになるだろう。しかしこれらは別系統地名として分けて考えるべきではないだろうか。
また、「ゴウラ」地名についても、和歌山県東牟婁郡古座町姫字ゴウラに関しては三角州性低地として「河川の土砂が河口付近に堆積して形成された平野部分」といった場所もあるので、単に「岩石の露出している小区域」との説明だけでは不十分かもしれない。
▲宇城市不知火町高良、高良八幡宮あり |
柳田國男の説も特定の地名については的を射ているかもしれないが、こと西日本においては「高良神社由来」地名はかなり汎用性があり、高良神社の鎮座地が「高良」地名で呼ばれている。徳島市の高良神社が鎮座する2か所(応神町古川と飯谷町)の「高良」はその代表的な例だ。その観点抜きで大家の説のみに従っていては真実は見えてこないのではないかと考える。
これまでにブログ内で紹介したコウラ地名については、次の表にリンクをつけてまとめておく。
<高知県下のコウラ(高良)地名> |
香我美町徳王子の高良神社 |
「コウラ」という場所に建つ八坂神社 |
いの町枝川の「コウラ」地名 |
香美郡に「コウラ」地名が存在していた |
筑紫神社は高知県にもあった② |
越知町横畠北の「高良」地名 |
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以前から気になっていた高岡郡越知町横畠北の「高良」地名――ついに調査の足を伸ばすことにした。国道33号線で越知町まで行き、仁淀川中流の筏津(いかなづ)大橋を渡ったところが筏津。「いかだづ」ではなく「いかなづ」と読ませる難読地名である。その近くに「高良」地名があるとにらんでいたが、正確な場所は分からない。それでも現地を踏んでみることが大切である。
初めは何を勘違いしたか、一本下流の橋を渡って今成地区に迷い込んでしまった。現地の人に「高良という地名をご存じないですか?」と尋ねても誰も知らない様子。それもそのはず、全く見当違いの場所に来ていたのだ。川辺に星神社があったので行ってみたが、やはり手掛かりなし。地元の人は妙見様と呼んでおり、後で調べたところ、多くの犠牲者が供養されている場所のようであった。無駄足を踏んだようだが、何か目に見えないものに引き寄せられたようにも感じる。
「愛を学ぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」(平原綾香「ジュピター」より)
勘違いに気づいて本来の調査地点へと向かった。今度はかなりの山道である。途中に大雑把な道案内はあったが、地図や標識などもなく、何を目標にすればよいかも分からない。たまたま庭先に出ておられたご婦人に尋ねてみた。
「この辺りに高良という地名がありませんか?」
「この道をもう少し行ったら広い駐車場があるので、そこの右手の山側がそうです。今は人も住んでいませんけどね」
お礼を言って、教えられたところへ向かった。ちゃんとした駐車場があるわけではなく、細い道に入りこんでしまい、行き過ぎたことに気づいた。隣の仁淀川町との境界の谷川まで来ていた。深瀬神社より手前だったはずなのに、知らずに通り過ぎてしまっていたようだ。コンテナが積み上げられ道幅が広くなっているところまで引き返した。おそらくこの辺りだろう。
心配されたのか、先ほどのご婦人が歩いて来られていた。確認したところ、生姜畑や竹が生い茂っているところが、昔から「高良」と呼ばれている場所であった。もし単独で探しても現地を特定することは難しかっただろう。この地に60年間暮らし続けている80代の女性との出会いのおかげで、今回の調査はほぼ目的を達成することができた。不思議な導きに感謝である。
帰宅後、関連するメモを確認したところ、『長宗我部地検帳 高岡郡上の一』645ページに、次のような記載があった。
コウラ 壱反壱代切畑「壱反壱代」といったら、約10ヘクタール(約1000平方メートル)の土地である。ちなみに古代中国の社に築かれた壇は一辺30メートル四方程度で約一反(段)の面積が必要であった。切畑については、『土佐藩の山村構造―三谷家文書考究―』(間宮尚子著、昭和53年)に次のように説明されている。
同村(深瀬ノ村) 同し名(横畠名)
同し(片岡左衛門尉大夫給)
切畑耕作は、山間部の農業を考える時、見過ごすことのできないものである。一般には焼畑ともよばれるが、山の傾斜面の灌木を伐りたおし、これを焼き、一雨あって灰の湿ったところへ、蕎麦、稗、粟、芋、麦、大豆、豆をまくものである。灰のみを肥料とし、別に施肥しないため収量は乏しい。「地方凡例録」によれば、年々の作付は不可能であり、一年二年がわりに作付をする。また地主はきまっており、一作後放棄されるのではなく、何年かののち同一人によって再び作付される課税地である。「土佐国韮生石川氏文書」によれば、穀類は三年ないし五年連作すれば土地は痩せる。沃土は一四・五年、痩土は二・三〇年を経て再び伐畑に作るとある。
高知県の山間部ではかつて切畑が営まれていた。同じ畑で作物を作り続けると、すぐに土地がやせてしまう。そこで焼畑をしては数年周期で場所を変えながら畑を耕作し、作物を作っていた。江戸時代、土佐藩において林制が確立されるにつれ、切畑耕作は諸制限を受けるようになる。焼き畑をしなくなって、山は竹林に覆われてしまったのであろう。生姜畑が耕作地としての名残りを伝えている。
標高約260mという山の斜面に石を積んで段々畑にしているところは徳島県三好市山城町の高良神社群の鎮座地を思い出させる。ここにもかつて高良神社があったのだろうか。その宮床跡として「高良」地名が残されているのではないか。この仮説を立証するための根拠を少しでも見出せればとの思いもあっての今回の調査である。
『地検帳』には深瀬ノ村とあり、すぐ近くに深瀬神社があった。神社名が創建時から地名を冠することは普通あり得ない。祭神に係わる名称で呼ばれるはずである。過去、何段階かにわたり神社整理が行なわれた。その際、由緒不詳の神社については地名を冠して名称変更がなされた例がある。ここでもそうだったのではないだろうか。
また、「片岡左衛門尉大夫給」とあることから、片岡氏の給地であったことも分かる。片岡氏の祖は詳らかではないが、黒岩城や片岡城などを居城としており、元亀二年(1571年)片岡城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったといわれる。『地検帳』に記録されているのは、茂光の子、左衛門尉大夫(下総守)光綱のことであろうか。
天正十三年(1585年)に伊予金子の陣(豊臣秀吉による四国征伐)で、片岡光綱は伊予の金子城主・金子備後守の援軍として兵350余りを率い、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
『地検帳』には深瀬ノ村とあり、すぐ近くに深瀬神社があった。神社名が創建時から地名を冠することは普通あり得ない。祭神に係わる名称で呼ばれるはずである。過去、何段階かにわたり神社整理が行なわれた。その際、由緒不詳の神社については地名を冠して名称変更がなされた例がある。ここでもそうだったのではないだろうか。
また、「片岡左衛門尉大夫給」とあることから、片岡氏の給地であったことも分かる。片岡氏の祖は詳らかではないが、黒岩城や片岡城などを居城としており、元亀二年(1571年)片岡城主片岡光綱のとき、長宗我部元親に降ったといわれる。『地検帳』に記録されているのは、茂光の子、左衛門尉大夫(下総守)光綱のことであろうか。
天正十三年(1585年)に伊予金子の陣(豊臣秀吉による四国征伐)で、片岡光綱は伊予の金子城主・金子備後守の援軍として兵350余りを率い、小早川隆景の軍勢と野々市原で戦って討死した。
左衛門尉大夫光綱の弟、出雲守継光(光信)は片岡城に拠り、その子長兵衛の子孫は山内家家老で高岡郡佐川の深尾出羽に仕えた。出雲守継光の弟である紀伊守直季は吾川郡上八川に居た。その子八兵衛は長宗我部信親に仕え、天正十四年(1586年)に秀吉の九州征伐に従軍して、豊後戸次川の合戦で討死した。八兵衛の養嗣祐光は土佐郡本川郷の大藪紀伊守祐宗の孫であり、その七世孫が土佐郷士出身で明治期の政治家・実業家の片岡直輝・直温(大蔵大臣)兄弟である。
『進撃の巨人』ではないが、今回の調査によって400年前の歴史がフラッシュバックしたような感覚になった。しかし、仮に高良神社が鎮座していたとしても、それ以前のもっと古い時代のことである。地元の古老に聞いたとしても、記憶や伝承としては残っていないことだろう。さらに踏み込んだ検証が必要になってくるが、果たしてそのような手掛かりが残されているのだろうか?
『進撃の巨人』ではないが、今回の調査によって400年前の歴史がフラッシュバックしたような感覚になった。しかし、仮に高良神社が鎮座していたとしても、それ以前のもっと古い時代のことである。地元の古老に聞いたとしても、記憶や伝承としては残っていないことだろう。さらに踏み込んだ検証が必要になってくるが、果たしてそのような手掛かりが残されているのだろうか?
2019年、今年も6月30日が来た。夏越大祓――高知県では「輪抜け様」と呼ばれるお祭りの日である。といっても高知市およびその周辺のいくつかの神社で行われていて、郡部ではほとんどやっていないようである。そんな中、“いの大国さま”で名高い、吾川郡いの町の椙本(すぎもと)神社は地元の町民をあげて盛大に賑わう。通行制限も行われ、出店も多く立ち並ぶ。子供たちにとってはそれが目当てのようなものなので、どうこう言うつもりはないが、イエスの宮清めの話を思い出さずにはいられない。
さて、ユダヤ人の過越の祭が近づいたので、イエスはエルサレムに上られた。そして牛、羊、はとを売る者や両替する者などが宮の庭にすわり込んでいるのをごらんになって、なわでむちを造り、羊も牛もみな宮から追いだし、両替人の金を散らし、その台をひっくりかえし、はとを売る人々には「これらのものを持って、ここから出て行け。わたしの父の家を商売の家とするな」と言われた。(ヨハネによる福音書 第2章13〜16節)
茅(ちがや)の輪を通り抜ける方法は高知市内では男女とも左→右→左回りと統一されているが、椙本神社だけは他社とは違うスタイルを貫いている。男性は左→右→左回りであるが、女性は右→左→右回りと逆に茅の輪をくぐることになっている。「これは古事記上巻の天の御柱めぐりの段で、男性であるイザナギの命は左より廻りはじめ、女性であるイザナミの命は右から廻っています。おそらく、この故事にならって男は左右左と廻り女は右左右と廻る神事が行われるようになったと思われます」と椙本神社は説明している。昭和15年の夏越祭でも同じくぐり方をしていた記録があるという。
ところで、ここ椙本神社には“八角形”がある。重要文化財に指定されている「八角形漆塗神輿」である。椙本神社の神輿が建立されたのは古く、鎌倉時代・弘長3(1263)年で今から約750年余り前で、地方の神輿としては最も古いものである。神輿の屋根の隅木に銘文が記されており、『春野町史』では、この銘文を元に当時の吾川郡の支配体制を考察している。
普通、神輿は四角型のものが多く、昭58(1983)年の国重要文化財指定26基のうち、四角型の神輿は25基であり、八角型は椙本神社のみ。大変珍しい神輿といえるが、八角形神輿については、近隣の高知市春野町の荒倉神社と須崎市浦ノ内の鳴無(おとなし)神社にも存在している。仁淀川流域に八角形の文化が広まっていたのかもしれない。
また、鳥居の足元が八角柱のものと六角柱のものとがあって、その分布を調べたら面白いのではないかと思いつつ、そのままになっている。高知県では比較的八角柱のものが多いように感じてはいるが、今日見てきた越知町の秋葉神社と星神社(妙見様)の鳥居は六角柱であった。
ところで大祓は1年のうち、毎年6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われるものを恒例とする。「春分の日に二倍年暦を考えた」で考察したことがあるが、ここには冬至から夏至までを春1年とし、夏至から冬至までを秋1年とする二倍年暦の名残りがあるのではないかと考えるようになってきた。
▲高知市春野町の荒倉神社の八角形御輿 |
また、鳥居の足元が八角柱のものと六角柱のものとがあって、その分布を調べたら面白いのではないかと思いつつ、そのままになっている。高知県では比較的八角柱のものが多いように感じてはいるが、今日見てきた越知町の秋葉神社と星神社(妙見様)の鳥居は六角柱であった。
ところで大祓は1年のうち、毎年6月と12月の晦日(新暦では6月30日と12月31日)に行われるものを恒例とする。「春分の日に二倍年暦を考えた」で考察したことがあるが、ここには冬至から夏至までを春1年とし、夏至から冬至までを秋1年とする二倍年暦の名残りがあるのではないかと考えるようになってきた。
高校3年生の皆さん、化学の授業も大詰めとなってきました。もう有機化学で芳香族化合物について勉強しましたか。今回はフェノールの製法について、ストーリー記憶術にチャレンジしてみましょう。物語の流れに沿って記憶する方法です。
ロペルさんが豪華客船で開かれる仮面舞踏会に参加して、友達の龍さんに会いました。そんな情景を思い浮かべて下さい。
<フェノールの製法>
便座にプロペラ付けて仮面を作り、
ベンゼン+プロペン → クメン
仮面舞踏会に参加したら、「仮面ひどっ、ロペルおかしいど」
クメンを酸化 → クメンヒドロペルオキシド
と龍さんに一刀両断。「船乗るのにあせっとん?」
硫酸で分解 → フェノール+アセトン
ロペルさんが豪華客船で開かれる仮面舞踏会に参加して、友達の龍さんに会いました。そんな情景を思い浮かべて下さい。
<フェノールの製法>
便座にプロペラ付けて仮面を作り、
ベンゼン+プロペン → クメン
仮面舞踏会に参加したら、「仮面ひどっ、ロペルおかしいど」
クメンを酸化 → クメンヒドロペルオキシド
と龍さんに一刀両断。「船乗るのにあせっとん?」
硫酸で分解 → フェノール+アセトン
高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社
高知県西部の「白皇神社」再考①
高知県西部の「白皇神社」再考②
高知県西部(幡多地方)に白皇神社が集中する事実に興味を惹かれ、神祇伯・白川伯王家とのつながりを見出そうと情報を集め、妄想を膨らませてきた。上記のブログ記事がその内容を書き綴ったものである。ところが空想で膨らんだ風船に針を刺すような資料が見つかった。まさに“「めだかの学校」は誤訳にあらずーー妄想は1つの事実ではじけ飛ぶ”となったかもしれない。
高知県西部の「白皇神社」再考①
高知県西部の「白皇神社」再考②
高知県西部(幡多地方)に白皇神社が集中する事実に興味を惹かれ、神祇伯・白川伯王家とのつながりを見出そうと情報を集め、妄想を膨らませてきた。上記のブログ記事がその内容を書き綴ったものである。ところが空想で膨らんだ風船に針を刺すような資料が見つかった。まさに“「めだかの学校」は誤訳にあらずーー妄想は1つの事実ではじけ飛ぶ”となったかもしれない。
「白皇権現の牛馬之守札発行権限は、幡多・高岡の二郡と与州宇和郡であったが、承応年中より土佐国全体の牛馬安全祈祷権が許され、与州分は差止めとなる」(『土佐清水市史』より)
白皇権現(神社)には「牛馬之守札発行権限」が与えられており、幡多・高岡の二郡と伊予(愛媛県)の宇和郡であったというのだ。この範囲が白皇(王)神社の分布とほとんど一致する。少なからず相関関係がありそうだ。
白皇権現(神社)には「牛馬之守札発行権限」が与えられており、幡多・高岡の二郡と伊予(愛媛県)の宇和郡であったというのだ。この範囲が白皇(王)神社の分布とほとんど一致する。少なからず相関関係がありそうだ。
次のような伝説が伝えられていることも、白皇神社が牛馬の神として信仰されていたことを裏付ける。
白皇神社(幡・橋上村野地―宿毛市)
ただし、因果関係を考える際は要注意である。牛馬之守札発行権限が与えられたからこれらの地域に広がったのか、あるいはこれらの地域に多数分布していたので、権限が与えられたのかは、別途考察しなければならないからである。牛馬の神さまで旧正月二十日には、村人たちが牛馬をつれておふだを受けにくると言います。昔はヤマイツキ(狂犬)が多くて、それが牛馬に食いついて困ったと申しますが、ふしぎなことに白皇さまの前までくるとばたばた倒れたといふことでございます。
『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)には、次のように考察されているが、どうであろうか。
白王の社は総計九〇(安・一、吾・一、高・二七、幡・六一)であるが、早くから開けていた中央から東の方に少なく、ほとんどが高岡郡と幡多郡(総数の三分ノ二)であることは、開拓神であることの一つの傍証ではなかろうか。またこのうち二五社は神田・神領を持たず、四〇社は無姓者のまつるものであることも、庶民―農民の神であることを物語っていよう。
これは畿内を中心とした一元史観に毒された発想と感じられる。土佐国は考古学的にも西から開けてきている。むしろ波多国造によって治められた幡多地方のほうが先進地であり、その支配領域に広く分布しているのが白皇神社なのである。一方、高知県東部で牛馬の神として祀られていたのは「野神」である。野神神社は関西地方でも牛馬の神とされていることと通じるようである。
白皇神社は野神神社に代表されるような牛馬の神の単なる互換なのか、あるいは全く異質な性格も持つ社なのか。語源的には東日本で祀られるオシラ様との関連も感じられ、新たな考察が求められるようになってきたのかも知れない。
土佐群書集成第六巻『安芸郡川北村 御改正風土取縮指出幉(とりちぢめさしだしちょう)』(高知地方史研究会、昭和四十年)を見ると、先祖祭として若宮八幡が列記され、「百姓○○先祖」などと記録されている。川北村は現在は安芸市となっており、『御改正風土取縮指出幉』は庄屋仙頭勘八による詳細なる録上で、川北村の当時の様子を詳しく知ることができる。安政4年(1857年)安芸郡奉行は郡府定目制定を目的として管轄下の郷浦庄屋に命じてその管内の風土を各種の項目に亘って調査せしめた時の下書きであったと安岡大六氏は解説を加えている。
以下、若宮八幡について抜粋する。
以下、若宮八幡について抜粋する。
先祖祭
前島ニ有
若宮八幡 地下浪人 鈴江九郎平先祖
右同
若宮八幡 百姓 喜左エ門先祖
右同
若宮八幡 同 治右エ門先祖
中村ニ有
若宮八幡 同 九右エ門先祖
右同
若宮八幡 同 利蔵先祖
右同
若宮八幡 同 重右エ門先祖
右同
三多八幡 間人 兵作先祖
松田島土居道東ニ有
若宮八幡 有沢之先祖
松田島片甼ニ有
若宮八幡 松田島百姓 安左エ門先祖
江川西ノ沢二有
若宮八幡 江川百姓 恵右エ門先祖
愛媛県だけでなく、高知県でも江戸期には先祖を祭る若宮八幡のインフレーション現象があったと考えられる。松田島の若宮八幡について同指出幉は「松田嶋村ニ有 若宮八幡宮 神躰幣 伹往古松田嶋之領主竹崎杢左衛門大坂軍ニ討死仕空墓ヲ若宮ト称シ申由昔ハ繪像モ有之候処寶永四亥年十月四日之大変ニ流出仕由申傳候」とその由緒を記す。同様に先祖を祭ったものが若宮八幡と呼ばれていたようだ。
明治十二年頃にまとめられた『高知県神社明細帳』には、かろうじて松田島の若宮神社の記載はあるが、他は見えず、明治初年の段階で神社整理されたのではないかと推測する。
『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると、現在高知県の若宮神社は24社程度。仁徳天皇を祭神とするものは少なく、その多くはやはり先祖を祭るものが多いようだ。しかし、疑問は残る。先祖を祭るのになぜ「若宮神社」あるいは「若宮八幡」と呼んだのだろうか?
「ココログ」(@niftyのブログサービス)と言えば、私が推しているブログに次の3つがある。
①多元的「国分寺」研究サークル
②sanmaoの暦歴徒然草
③肥さんの夢ブログ
いずれも古田史学派のブログで、よく参考にしたり、勉強させてもらっている。「ゴミ屋さんから仏教伝来」のカテゴリーに踏み込んだのも、“多元的「国分寺」研究サークル”の活動に刺激を受けたこともあって、何か情報提供できればと始めたものである。今回は高知県東部の安芸郡奈半利町にある「コゴロク廃寺跡」に関する内容を紹介する。
まず、安芸郡といえば“高良神社の密集地帯”であることを以前報告したことがあるが、安芸郡の中でも奈半利町は高良神社の空白地帯となっている。その一方で延喜式内社「多気神社」「坂本神社」が鎮座(現在は「多気坂本神社」)し、さらに「コゴロク寺」が存在していたとされる。
承平5(935)年12月、任を解かれた紀貫之が京への帰途「奈半の泊まり」に立ち寄ったことが『土佐日記』の中に記載されている。また奈半利川流域は承平年間に著された源順の『和名類聚抄』に安芸郡八郷(里)の一つ、奈半(那波)郷として記され、現在の田野町・北川村も含まれており、古代における奈半利は安芸郡の中心地であったと考えられる。
奈半利町埋蔵文化財発掘調査報告書第1集『コゴロク遺跡群』(奈半利町教育委員会、2003年)に、平成10年度出土遺物実測図および写真が掲載されている。その中に単弁と複弁蓮華文の軒丸瓦が見られ、単弁蓮華文(8葉)、単弁蓮華文(18葉)、複弁蓮華文(16葉)などが発見されている。「古代では、奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して建立され、平安時代前期以降に火災で伽藍の大半が焼失したとされるコゴロク廃寺跡を始め、遺跡周辺でコゴロク廃寺の瓦を焼いたとされる奈半利窯などが現在確認されている」と報告書にも書かれているが、建立年代は本当に奈良時代(8世紀)でいいのだろうか。「奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して」とされているが、聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に結びつける一元史観の影響を受けた判断が見て取れる。
奈良時代はじめ土佐国は幡多・吾川・土佐・安芸の4郡あり、各郡にそれぞれ寺院があったようである。大寺廃寺(吾川)・秦泉廃寺(土佐)などは素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、土佐国分寺の創建より古いと考えられる。聖武天皇以前に既に「一郡一寺」の体制が出来ていた可能性すら見えてくる。そこに“多元的「国分寺」研究サークル”の研究活動の意味があると言えよう。
①多元的「国分寺」研究サークル
②sanmaoの暦歴徒然草
③肥さんの夢ブログ
いずれも古田史学派のブログで、よく参考にしたり、勉強させてもらっている。「ゴミ屋さんから仏教伝来」のカテゴリーに踏み込んだのも、“多元的「国分寺」研究サークル”の活動に刺激を受けたこともあって、何か情報提供できればと始めたものである。今回は高知県東部の安芸郡奈半利町にある「コゴロク廃寺跡」に関する内容を紹介する。
まず、安芸郡といえば“高良神社の密集地帯”であることを以前報告したことがあるが、安芸郡の中でも奈半利町は高良神社の空白地帯となっている。その一方で延喜式内社「多気神社」「坂本神社」が鎮座(現在は「多気坂本神社」)し、さらに「コゴロク寺」が存在していたとされる。
承平5(935)年12月、任を解かれた紀貫之が京への帰途「奈半の泊まり」に立ち寄ったことが『土佐日記』の中に記載されている。また奈半利川流域は承平年間に著された源順の『和名類聚抄』に安芸郡八郷(里)の一つ、奈半(那波)郷として記され、現在の田野町・北川村も含まれており、古代における奈半利は安芸郡の中心地であったと考えられる。
奈半利町埋蔵文化財発掘調査報告書第1集『コゴロク遺跡群』(奈半利町教育委員会、2003年)に、平成10年度出土遺物実測図および写真が掲載されている。その中に単弁と複弁蓮華文の軒丸瓦が見られ、単弁蓮華文(8葉)、単弁蓮華文(18葉)、複弁蓮華文(16葉)などが発見されている。「古代では、奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して建立され、平安時代前期以降に火災で伽藍の大半が焼失したとされるコゴロク廃寺跡を始め、遺跡周辺でコゴロク廃寺の瓦を焼いたとされる奈半利窯などが現在確認されている」と報告書にも書かれているが、建立年代は本当に奈良時代(8世紀)でいいのだろうか。「奈良時代中葉土佐国分寺の創建に前後して」とされているが、聖武天皇の国分寺建立の詔(741年)に結びつける一元史観の影響を受けた判断が見て取れる。
奈良時代はじめ土佐国は幡多・吾川・土佐・安芸の4郡あり、各郡にそれぞれ寺院があったようである。大寺廃寺(吾川)・秦泉廃寺(土佐)などは素弁蓮華文軒丸瓦が出土し、土佐国分寺の創建より古いと考えられる。聖武天皇以前に既に「一郡一寺」の体制が出来ていた可能性すら見えてくる。そこに“多元的「国分寺」研究サークル”の研究活動の意味があると言えよう。
中世になるといくつかの古文書が現存し、安芸郡の多くは金剛頂寺の寺領とされているが、奈半利に関しては『岩清水八幡宮記録』によれば「奈半荘」と記され、11世紀半ばには既に荘園化していたことが知られる。通常は石清水八幡宮の荘園に勧請された八幡宮摂社として高良神社が存在する事例が見られるが、どうやら安芸郡では逆転現象が起きている。金剛頂寺の寺領のほうに高良玉垂命が祀られているようなのだ。
「あなたの笑い声は よく聞けば波の音でした」(コブクロ『ここにしか咲かない花』より)
コゴロク廃寺が語りかけてくる声に、よく耳を傾ければ、何か真実が聞こえてくるかもしれない。出土遺物「軒丸瓦」に関する部分を引用し、紹介しておく。
「あなたの笑い声は よく聞けば波の音でした」(コブクロ『ここにしか咲かない花』より)
コゴロク廃寺が語りかけてくる声に、よく耳を傾ければ、何か真実が聞こえてくるかもしれない。出土遺物「軒丸瓦」に関する部分を引用し、紹介しておく。
出土遺物 瓦
16~20は軒丸瓦で、単弁と複弁蓮華文がみられる。16は単弁蓮華文で、約1/3が残存し、TR-50の第Ⅳ層から出土する。弁区は中房より盛り上がり、蓮華文3葉、中房には蓮子3顆が残り、元は8葉で、1+8顆の蓮子であったものとみられる。弁は丸く、間弁が弁を囲んでいない。外区は不明である。復元径は、直径が約20.5㎝、外区が16.6㎝、中房が約5.4㎝とみられる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。17も単弁蓮華文で、約1/4が残存し、16と同じTR-50の第Ⅳ層から出土する。直径14.0㎝、外区径12.4㎝、中房径4.8㎝を測る。弁区には間弁が囲む12葉の蓮弁が残り、元は18葉であったと復元できる。中房は弁区より突出し、蓮子は1+6+11顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成はやや不良で、色調は灰白色を呈する。18は複弁蓮華文で、TR-39のSD0001から出土する。直径18.0㎝、外区径11.7㎝、中房径5.0㎝を測る。弁区には2葉1単位の複弁が3単位残り、元は8単位16葉とみられ、中房は弁区から突出し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。外縁は素文縁となる。焼成は良く、色調は灰白色を呈する。19は複弁蓮華文で、TR-44のSD0002から出土する。中房と弁区の一部が残存し、蓮子は1+6+12顆と二重に配置される。大きさや形態は17と酷似する。焼成は良好で、色調は灰色ないし灰黒色を呈する。20は外縁の一部が残存し、直径15.4㎝を計り、TR-50の第Ⅳ層から出土する。外縁は平行線文と鋸歯文を組み合わせたものである。焼成は良く、色調は白色を呈する。(『コゴロク遺跡群』P10~11より)
『愛媛の地名』の著者・堀内統義氏はナロ・ナル地名について「東北の平(たい)、九州の原(はる)、四国の平(なる)と同じ地名の群落。奈良も千葉県の習志野も、ナラス、ナラシの当字で、平らな原野を表現している」と書かれている。
高知県でも奈路は「山の平坦な所」を意味するという。「宮ノ奈路」という地名もあり「宮ノ原」と類縁地名なのかもしれない。県西部の四万十町大正大奈路字宮原は内陸部にあって、やや開けた場所となっている。高岡郡四万十町の大正大奈路を紹介したパンフレットに次のような記述がある。
高知県でも奈路は「山の平坦な所」を意味するという。「宮ノ奈路」という地名もあり「宮ノ原」と類縁地名なのかもしれない。県西部の四万十町大正大奈路字宮原は内陸部にあって、やや開けた場所となっている。高岡郡四万十町の大正大奈路を紹介したパンフレットに次のような記述がある。
「中心街には、下道分校や中津川・下津井各小学校が統合された大奈路小学校があり地域の核になっている。学校の裏の小さな中洲のようなところには天満宮があり、大切に祀られている」
この旧村社・天満宮(祭神:菅公)の鎮座地が大正大奈路字宮原である。八幡宮、諏訪神社、大倉神社、地主神社、大元神社を合祭していることから、地域の中核的な神社と言えるだろう。
旧大正町において大奈路は北部地域の中心地であった。天満宮に隣接する大奈路小学校については学制発布と同年の明治五年に開設した歴史の深い学校であり、平成八年には休校になった中津川小学校を統合、平成九年にも下津井小学校を統合したが、残念ながら平成二十五年に閉校(田野々小学校に統合)となっている。
旧大正町において大奈路は北部地域の中心地であった。天満宮に隣接する大奈路小学校については学制発布と同年の明治五年に開設した歴史の深い学校であり、平成八年には休校になった中津川小学校を統合、平成九年にも下津井小学校を統合したが、残念ながら平成二十五年に閉校(田野々小学校に統合)となっている。
これまで調べた県内の宮原地名と同様、ここでも「宮原」は宗教的な中心地であると同時に、文教の中心でもあったことが分かる。
これまで調べた県内の宮原地名 |
宮ノ原(みやのはら)は九州では「みやのはる」 |
香南市夜須町の「宮ノ原」 |
室戸岬・金剛頂寺(西寺)の寺領「宮原庄」 |
土佐市戸波の宮原村 |
金剛頂寺の寺領「宮原庄」はどこか? |
自然界に存在するものは大半が2種類以上の物質が混じり合った混合物の状態で存在しています。そのような混合物から純物質を分離するには大きく6種類の方法があります。「ろくろ再上昇中」と覚えてください。
ろ……ろ過
くろ…クロマトグラフィー
再……再結晶
上……蒸留(分留)
昇……昇華
中……抽出
ところで、「ろくろ」って知っていますか? 砥部焼で有名な愛媛県伊予郡の砥部町に行くと陶器作り体験をさせてくれますよね。粘土をこねて、ろくろを回しながら陶器の形を造っていきますが、そのろくろが再上昇しているところをイメージしてみたら覚えやすいでしょう。
「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい 器に造りあげる権能がないのであろうか」(ローマ人への手紙第9章21節)
喩えるなら、陶器を造る人が同じ土くれから尊い器と卑しい器を造り分けるように、混合物から純物質を分ける操作が分離なのです。
また、どのような金属イオンが含まれているかを調べるには炎色反応を利用します。覚え方は有名で、色々とありますが、昔ながらの簡単かつ田舎っぽいバージョンを教えましょう。“Simple is the best.”です。
リアカー 無き K村の 加藤は 馬力で 努力 するべー
ろ……ろ過
くろ…クロマトグラフィー
再……再結晶
上……蒸留(分留)
昇……昇華
中……抽出
ところで、「ろくろ」って知っていますか? 砥部焼で有名な愛媛県伊予郡の砥部町に行くと陶器作り体験をさせてくれますよね。粘土をこねて、ろくろを回しながら陶器の形を造っていきますが、そのろくろが再上昇しているところをイメージしてみたら覚えやすいでしょう。
「陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい 器に造りあげる権能がないのであろうか」(ローマ人への手紙第9章21節)
喩えるなら、陶器を造る人が同じ土くれから尊い器と卑しい器を造り分けるように、混合物から純物質を分ける操作が分離なのです。
また、どのような金属イオンが含まれているかを調べるには炎色反応を利用します。覚え方は有名で、色々とありますが、昔ながらの簡単かつ田舎っぽいバージョンを教えましょう。“Simple is the best.”です。
リアカー 無き K村の 加藤は 馬力で 努力 するべー
Li (赤) Na (黄) K (紫) Ca (橙) Ba (黄緑) Cu (青緑) Sr (紅)
『魏志倭人伝』に記述されている侏儒国について、いつの間にか「侏儒国=種子島」説が主流となりつつある現状を知った。「石田泉城 古代日記 コダイアリー」における論証と低身長の人骨が出土した広田遺跡の存在が、この説を後押ししているであろうことは理解できてきた。ついに“朱儒国民”は種子島へ引っ越ししなければならなくなったか……。けれども、荷物をまとめる前に解決しなければならない疑問がいくつかある。それからでも遅くないであろう。
石田泉城氏とは「古田史学の会・東海」でお会いしたこともあり、『魏志倭人伝』の深い理解と古田史学の方法論による新たな論証の数々。大変参考になり、勉強させて頂いている。「侏儒国=種子島」説の論証についても分かりやすく、素人目にも納得しやすい印象を受けた。石田説を尊重しつつも、いくつかの疑問を投げかけてみたい。
まずは侏儒(朱儒)国に関する『魏志倭人伝』と『後漢書』の記述を併記しておく。
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種。又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里」(『魏志倭人伝』)
「自女王國南四千餘里至朱儒國」(『後漢書』)
疑問①:「其南」の「其(その)」は女王國を指すのか?
石田氏は「其」の使われ方について、「直前の国の人のことを指さず、主題となっている国」を指していることを『後漢書』から例示し、「其南」はすなわち「女王国の南」と解釈している。しかし、『魏志倭人伝』の行程記事中には「至對海國 其大官日卑狗」のように、「其」が直前の国を指している例も見られる。直前の「復有國 皆倭種」を指していると解釈するのは自然なのではないか。ただし、『後漢書』の范曄(はんよう)は「女王国」と解釈し、自分の文章を再構成している。
疑問②:『後漢書』の「四千余里」は短里表記なのか?
『魏志倭人伝』の里単位は1里=約76mとする「短里」が使用されていたことが各方面からの論証によって明らかとなっている。しかし、范曄はそれを知らずに『魏志倭人伝』を基本資料としながら『後漢書』を書いた可能性がある。「会稽東治(ち)」→「会稽東冶(や)」の書き換えなど、誤読による范曄の錯覚があったことは、『「邪馬台国」はなかった』で古田武彦氏も指摘している。『後漢書』が書かれた5世紀にはすでに短里は使用されていない。范曄が侏儒(朱儒)国についての正確な情報を持っていたなら、長里で表記したであろう。そうでないとしたら、『魏志倭人伝』の焼き直しの文章であり、尊重すべきは『魏志倭人伝』の本来の記述のほうである。ちなみに、『後漢書』の「自女王國東渡海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王」も『魏志倭人伝』の文をベースとしながらも内容を変えている部分である。古田氏は電話のやりとりで、合田洋一氏から「『後漢書』の千餘里は長里でなければなりませんよ」との指摘により、拘奴(狗奴)國を畿内の銅鐸圏の国に比定する説を打ち出している。
疑問③:身長140~150cmを「人長三四尺」は誇張ではないか?
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地である。昭和32年から34年にかけて遺跡の調査が行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から158体の人骨が出土した。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることが分かったという。
この考古学的な成果は重視するべきであるが、身長140~150cmを「人長三四尺」と表記するのは、かなりの誇張があるのではないだろうか? 一尺=約25cmとしても75~100cm程度である。『魏志倭人伝』はかなり正確で信頼性の高い記述がなされていたことが古田氏の史料批判によって論証されている。身長140~150cmなら本来は「人長五六尺」とすべきではないか。
以上のように「侏儒国=種子島」説はまだ確定したわけではない。『後漢書』の記述に対する史料批判をしっかりと行いつつ、上記の疑問などについても十分に検討する必要があるのではないだろうか。広田遺跡の存在によって「侏儒国=種子島」説があたかも実証されたと思わせる雰囲気になりつつあるが、「学問は実証より論証を重んじる」のであれば、疑問①~③などの問題点を矛盾なく解決することが望まれる。
この考古学的な成果は重視するべきであるが、身長140~150cmを「人長三四尺」と表記するのは、かなりの誇張があるのではないだろうか? 一尺=約25cmとしても75~100cm程度である。『魏志倭人伝』はかなり正確で信頼性の高い記述がなされていたことが古田氏の史料批判によって論証されている。身長140~150cmなら本来は「人長五六尺」とすべきではないか。
以上のように「侏儒国=種子島」説はまだ確定したわけではない。『後漢書』の記述に対する史料批判をしっかりと行いつつ、上記の疑問などについても十分に検討する必要があるのではないだろうか。広田遺跡の存在によって「侏儒国=種子島」説があたかも実証されたと思わせる雰囲気になりつつあるが、「学問は実証より論証を重んじる」のであれば、疑問①~③などの問題点を矛盾なく解決することが望まれる。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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