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 台風が近づいてきていますので、皆さん気をつけて下さい。
 ところで台風の渦は右巻き、左巻きのどちらでしょうか? そう、北半球では左巻きですね。なぜ左巻きになるか、その理由が分かりますか。

 野球で喩えてみましょう。北極にマウンドがあると仮定して、そこからピッチャーが赤道にいるキャッチャーに向けて剛速球を投げたとします。ボールはまっすぐに飛んでいこうとするのですが、地球は反時計回りに自転しています。時間が経つにつれて、キャッチャーは東の方向へ移動していきます。相対的にボールは西の方へカーブしていくように見えます。すなわちピッチャーから見ると右側へ曲がっていくわけです。
 風は気圧の高い方から低い方へ吹きます。何もなければ気圧の低い低気圧の中心に向けて等圧線を垂直に横切って風が吹き込むはずですが、北半球では自転による影響で、右寄りの力を受けて等圧線に垂直な方向からやや右にそれた向きに風が吹き込んでくるわけです。台風は熱帯低気圧が発達して中心付近の最大風速が17.2m以上になったものをいいます。よって反時計回りに風が吹き込み、左巻きの渦ができるのです。
 このように北半球では右向きに引っ張られる見かけの力が生じます。これをコリオリの力と言います。この力は地球の自転による慣性力の一種なのですが、地球が自転しているというのは事実なのでしょうか。今でこそ地球が自転しているということは小学生でも知っていることですが、地球が自転していることを証明してみろと言われたら、それを相手に納得できるように示すことができますか? なかなか難しいですね。

 そこで今日は地球が自転していることを証明する物語を講談風にやってみたいと思います。以前から物理の授業を、今はやりの講談風にやれたら、物理嫌いになる人もいなくなるのではないかと考えていたところです。それではお聞きください。物理講談のはじまり、はじまり。


 時は1851年、黒船来航の2年前。ヨーロッパにおいて地球の自転を検証する一大実験が行われようとしておりました。フランスはパリ。パンテオン神殿といえば高さ83mもの大聖堂がそびえ立つ。そこで行われるのは聖日のミサなどではなく、壮大な科学の実験であった。その人の名はレオン・フーコー。無料の公開実験と銘打って、人々を集めた。
 「さあさあ、遠からん者は音にも聞け。近くは寄って目にも見よ」
 天井からつるされた振り子は、フーコー自ら設計した手作りのもの。ギネスブックにも載ろうかと思われるほど、とてつもなく長い振り子であった。仮に長さを64mとしても、振り子の周期はT=2π√ℓ/gであるから、ℓ=64を代入して計算すると、周期はおよそ16秒。
 その振り子がゆっくりと振れ始めた。すぐには目立った変化は見られない。10分、20分、……1時間。南北方向に振れていた振り子の振動面が、時間がたつにつれて、何と時計回りに向きを変えていくではないか。振り子は慣性の法則に従って、同一方向に単振動を繰り返すのみ。振り子が動いたのでなければ、動いたのは……。人々ははたと悟った。「動いたのは地面。すなわち、地球の大地なのだ」と。
 世に言う「フーコーの振り子」の実験の一幕でございます。
 ぜひ、講談師の神田松之丞さん(6代目神田伯山)にでも演じていただきたいですね。



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 高知県西部(幡多地方)には「白皇(しらおう)神社」が集中している。『高知県幡多郡誌 全』(高知県幡多郡役所編、昭和48年)によると、明治13年頃の時点で幡多郡には神社総数2007社、そのうち白皇神社が134社あったと記録されている。
 明治初年の段階で幡多郡には4郷130村あったので、4+130=134。ピタリと数を合わせたように、白皇神社の数と一致している。まさに「一村一社」ならぬ「一村一白皇」なのである。これは江戸時代までの神社行政の反映と見るべきだろうか。『南路志』などで村ごとの神社を拾い上げてみれば、完全に一対一対応ではないものの、幡多郡における「一村一白皇」が実感としてよく分かる。


 『鎮守の森は今 高知県内二千二百余神社』(竹内荘市著、2009年)によると、著者が拝観した高知県内の白皇(王)神社は44社。祭神のほとんどは大巳貴(おおなむち)命とされ、その大半は県西部の幡多郡及び高岡郡に分布している。念のため白皇神社の鎮座地のリストを紹介しておこう。


土佐市永野・静神
吾川郡仁淀川町峠ノ越
四万十市具同・馬越
四万十市佐田
四万十市津蔵渕
四万十市名鹿・小名鹿
四万十市西土佐津賀
四万十市西土佐中家路
四万十市西土佐長生
四万十市深木
四万十市双海
四万十市森沢・浅村
四万十市横瀬・久才川
宿毛市押ノ川
宿毛市草木藪
宿毛市錦
宿毛市野地
宿毛市橋上町京法
宿毛市橋上町橋上
宿毛市山奈町山田
宿毛市山奈町山田
高岡郡四万十町井崎
高岡郡四万十町小鶴津
高岡郡四万十町十川小貝
高岡郡四万十町仁井田
高岡郡四万十町八千数
高岡郡四万十町古城
高岡郡四万十町宮内
高岡郡津野町北川
高岡郡中土佐町長沢
高岡郡中土佐町矢井賀
土佐清水市片粕
土佐清水市大岐
幡多郡大月町清王
幡多郡大月町泊浦
幡多郡大月町春遠
幡多郡大月町平山
幡多郡大月町芳ノ沢
幡多郡黒潮町田野浦
幡多郡黒潮町不破原
幡多郡三原村広野


 これが神社整理後の、ほぼ現在の実数と見てよいだろう。かなり減ったとは言え、その濃密な分布状況には驚かされる。


 もしかしたら神祇伯・白川伯王家との関連性があるのではという観点から、高知県西部の白皇神社の調査は始まった。これまでの様々な考察は次に示す通りである。


高知県西部(幡多地方)に集中する白皇神社
高知県西部の「白皇神社」再考①
高知県西部の「白皇神社」再考②
高知県西部の「白皇神社」は牛馬の神か?


  残念ながら、これまでの調査では、白川家とのつながりは見えてこなかった。ところが、ついに神祇伯・白川伯王家の家系が土佐国に来ていたという確実な情報を手に入れたので、ここに報告しておきたい。
 『中世土佐一条氏関係の史料収集および遺跡調査とその基礎的研究』(市村高男、2005年3月)の20ページに、土佐に下向した一条氏家臣白川氏のことが書かれていたのである。


白川氏 白川氏に関する史料の中に次のような文書がある(史料編編年史料62)


中村分使給之事
中村        丸田同所
一所卅代 使給   一所十代 使給
耕雲ノヲキ     中谷ヲノキ
一所壱反 柏井持  一所壱反 小使給
ヨシイケ
一所山畠一ツ    神右衛門尉
         門田
以上参反卅代   屋敷一ヶ所
天文十四年九月吉日 白川(花押影)
難波和泉守


 これは、天文一四年(一五四六)九月、白川氏が難波和泉守に知行を与えたときの文書である。「土佐国蠧簡集」の編纂者は、この中に見える知行地のホノギ名を高岡郡日下村の土地としており、また、高岡郡日下村別府新八幡棟札銘には、次のような記載がある(史料編編年史料67)。


□置祭別府新八幡宮、天文二十辛亥正月廿六日、大檀那従四位下行左近衛権中将源朝臣兼親


 これによれば、天文二〇年(一五五一)正月二六日、従四位下左近衛権中将源朝臣兼親が、日下村別府新八幡宮の造営に際して、大檀那になっていることがわかる。左近衛権中将源朝臣兼親は白川兼親である。石野氏は『尊卑分脈』などや右の二つの史料をもとに、白川氏は花山源氏の流れで雅業王の子息兼親であり、兼親が土佐に在国した背景には、父親の雅業王が京都一条氏の家来であったことを想定する。「歴名土代」によれば、兼親は享禄二年(一五二九)二月一日に従四位下に叙せられており、天文一六年(一五八八)七月二二日には彼の子の富親も従五位下に叙せられている(史料編「歴名土代」)。兼親の子富親もまた土佐に在国したと考えてよかろう。


 白川氏は花山源氏の流れで、神祇伯・雅業王の子息兼親であり、兼親が土佐に在国した背景には、父親の雅業王が京都一条氏の家来であったことを想定している。
 また、同書32ページでは、白川兼親が高岡郡東部の日下に配置されていたと考察している。


□置祭別府新八幡宮、天文二十辛亥正月廿六日、大檀那従四位下行左近衛権中将源朝臣兼親


 これにより、天文二〇年(一五五一)正月、白川兼親が日下村の新八幡の大檀那になっていたことが明らかになる。前述のように、白川氏は一条氏の配下に属していた京都下りの公家であり、享禄二年(一五二九)二月に従四位下に叙せられていたことも確認できる。このことから、白川兼親もまた、町顕量のように高岡郡東部の日下に配置されていたと考えて間違いないであろう。


 このように白川氏は、かつて土佐守護代を務めた大平氏の旧所領の一部であった高岡郡日下方面に配されていた。それを示すように、天文二〇年(一五五一)から天文二二年(一五五三)にかけて、町・白川・羽生氏らの名が高岡郡蓮池周辺の寺社の棟札に、相次いで登場する。


 しかし、永禄中頃になると長宗我部氏の勢力が拡大し、永禄一二年(一五六九)には蓮池城も奪取され、これを機に彼らは幡多郡に帰還した可能性が高い。「宿毛村地検帳」には、町氏の土居や旧所領、白川氏の旧所領も確認できる。さらに「中村郷地検帳」にも白川氏の旧所領が一箇所確認できる。このようなことから、彼らは永禄後半には中村周辺に居住していたと考えられる。


 さらに同書34ページで、白川氏が一条房基の側近として活動していた可能性が高いと考えている。


 白川氏については、天文一四年(一五四五)に難波和泉守に宛てた「中村分」の坪付を紹介した。白川氏が一条氏の諸大夫的な存在であったことからすると、一条氏の意を受けてこの文書を発給した可能性が高い。後述のように、康政も一条氏の意を奉じて家臣に坪付を発給しているので、その可能性は一層高まるが、白川氏の文書は、房基の代に発給されている点が若干異なるところである。しかし、白川氏が他の一条氏家臣に対して知行坪付を発していた事実は重要であり、このことから、房基の代には白川氏が一条氏奉書を発しはじめ、次の康政の活動の基礎を築いた可能性がある。


  活動記録として残るものは、房基のもとで白川氏が文書を発給していたと考えられる程度である。その他の詳しい働きは分からないものの、神祇伯・白川伯王家とのつながりを考えたときに、幡多荘における神社行政に、白川神道が影響を与えたであろうことは想像するに難くない。
 「白王の社は総計九〇(安・一、吾・一、高・二七、幡・六一)であるが、早くから開けていた中央から東の方に少なく、ほとんどが高岡郡と幡多郡(総数の三分ノ二)である」と『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)に記録されていることから、一条氏が没落した直後の段階でも、すでに白王の社(白皇神社)は幡多地方から高岡郡にかけて広く分布していたことが分かる。


 


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 滋賀県神社庁のホームページから「高良」で検索すると、次の4社がヒットする。
〔大津〕 宇佐八幡神社
     〒5200027 大津市錦織
     應神天皇
     〔祭礼日〕 9月 15日
〔彦根〕 高良神社
     〒5220004 彦根市鳥居本町
     武内宿禰命
     〔祭礼日〕 4月 5日
〔犬上〕 甲良神社
     〒5220242 犬上郡甲良町尼子
     竹内宿禰命
〔長浜〕 長濱八幡宮
     〒5260053 長浜市宮前町
     誉田別尊(応神天皇) 足仲彦尊(仲哀天皇) 息長足姫尊(神功皇后)
     〔祭礼日〕 4月 15日 / 10月 15日


高良神社の謎<滋賀県編>
滋賀県の高良神社①――彦根市の高良塚
滋賀県の高良神社②――長濱八幡宮 境内社
滋賀県の高良神社③――甲良神社は九州系
滋賀県の高良神社④――宇佐八幡宮境内社・高良社

 既に当ブログで紹介した4社である。滋賀県の高良神社を最初に紹介したのは、2年前の2018年5月であった。その後の調査をベースにとしながら、上表のように、滋賀県に密集する高良神社を公表しはじめたところ、研究協力の呼びかけたに呼応するように、関連するような情報が飛び込んできた。

 その一つが、滋賀県で日本最古級の絵画が発見されたというニュースである。

1300年以上前の絵画を「発見」、日本最古級か

黒くすすけた柱から赤外線撮影で確認 滋賀・甲良の寺

湖東三山の一つ、西明寺(滋賀県甲良町池寺)の本堂内陣の柱絵を調査・分析していた広島大大学院の安嶋(あじま)紀昭教授(美術学史)は9日、絵は飛鳥時代(592―710)に描かれた菩薩(ぼさつ)立像で、描式から日本最古級の絵画とみられると発表した。834年とされる同寺の創建前で、創建時期が大きくさかのぼる可能性があるとも指摘した。(京都新聞社 2020/08/10)
 古田史学の会・代表の古賀達也氏によると、近江大津宮から離れた湖東に九州年号および聖徳太子伝承が多いという。これは高良神社の分布にも対応している。飛鳥時代の絵画が発見された甲良町西明寺も同町甲良神社の南方に位置する。
 また、ブログsanmaoの暦歴徒然草の次の記事が示唆に富んでいる。Photo_20200813174601
 上図を示しつつ、「三関」について次のように結論づけている。
 「鈴鹿關(すずかのせき)」・「不破關(ふはのせき)」・「愛發關(あらちのせき)」が守っているのは近江大津宮の近江京であり、この「三関」を設置したのは、天武・持統朝ではなく、九州王朝(近江遷都)乃至近江朝であったということになります。
 確かに、壬申の乱(672年)で大海人皇子を支援した美濃国や伊勢国などを仮想敵国と想定しているかのようである。

 実は滋賀県には、まだ他にも高良神社が存在する。近江最古の大社と呼ばれる白鬚神社(滋賀県高島市鵜川215)の境内社・八幡三所社に祀られる高良神社(祭神:玉垂命)である。高島市の白鬚神社は全国に多い白髭神社の本社とされ、琵琶湖の湖西に立つ大鳥居は観光スポットにもなっている。
 神社の略記では、祭祀は古代から始まり、垂仁天皇二十五年皇女倭姫命が社殿を再建、天武天皇白鳳二年(674)比良明神の号を賜ったとある。祭神は猿田彦大神であり、境内には次に列記するように、11の摂社が鎮座する。
 若宮神社「太田命」、天照皇大神宮「天照大神」、豊受大神宮「豊受姫神」、八幡神社「應神天皇」、高良神社「玉垂命」、加茂神社「建角身命」、天満神社「菅原道眞」、岩戸社「祭神不詳」、波除稲荷社「祭神不詳」、寿老神社「壽老神」、鳴子弁財天社「鳴子弁財天」
 このうち、八幡神社、高良神社、加茂神社は3社相殿の八幡三所社として合祀され、社殿は慶長期の造営で、高島市指定有形文化財にもなっている。
 八幡神社と高良神社の関係の深さはこれまで見てきた通りであるが、加茂神社とのつながりをどう見るべきか。思い出されるのは、徳島県三好市山城町瀬貝西の高良神社(祭神・武津見命)である。建角身命を祭神とする加茂神社とも何がしかの縁があるのだろう。
 ところで、九州から畿内への移動ルートといえば、ふつう瀬戸内海航路をイメージする人が多いかも知れない。しかし、近江地方へは日本海ルートで若狭湾辺りから上陸するコースも考えられる。
 第11代垂仁天皇をいつの時代に比定するかは難しいものの、一般的には弥生時代頃とされる。それほど古代にさかのぼる歴史があるのか疑問に思う人がいるかも知れないが、琵琶湖周辺の遺跡(近江八幡市の元水茎遺跡、彦根市の松原内湖遺跡、長浜市湖北町の尾上浜遺跡、高田遺跡など)からは縄文時代の丸木舟がたくさん出土している。
 このことは近江朝廷よりも遥かに先行する歴史があったことを示唆するものだ。弥生・古墳・飛鳥時代――九州王朝の勢力がこの地方に進出したのはいつ頃だったのか。琵琶湖周辺の高良神社の分布は、それを推定する材料の一つになるかもしれない。


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 約80年ぶりに「輪抜けさま」(6月30日の夏越大祓)が復活したことで注目を集めた四万十市の不破八幡宮(四万十市不破1392)。ここには高良神社があると言い続けてきたが、今までブログ記事にすることができなかった。現地に足を運んでも、境内社として高良神社が見つからなかったのである。確かに江戸時代の文献などには、境内社として高良神社が記録されている。だが、八幡宮の横にある摂社は三島神社(祭神:大山祇命)と住吉神社(祭神:中筒男命・底筒男命・表筒男命)のみ。いずれも「勧請年月日・縁起沿革等未詳」としながらも、八幡宮が勧請される以前からこの地に祀られ、八幡宮が造営される折、今の地に遷りて摂社として祀られたことが案内板に記されている。

 江戸時代には存在していたはずの高良神社はどこへ行ったのだろうか。消えた高良神社の謎である。とにかく宮司さんに聞いてみることにした。すると「高良神社は八幡宮に合祀されています」とのこと。かつて安芸郡の田野八幡宮で境内社・高良神社を探し回った記憶が思い返された。その時も最終的には宮司さんに聞いて、八幡宮の御祭神として高良玉垂命が祀られているという話を聞くことができた。
 厳密に言うと、田野八幡宮とは多少意味合いが違っている。あくまでも不破八幡宮の御祭神は、品陀和気命・玉依姫命・息長足姫命の三神であり、それとは別に高良神社(祭神:武内宿祢命)が八幡宮本殿に合祀されているというのだ。
 宮司さんの話によると、明治の段階ではすでに本殿に合祀されていたであろうという。昭和41年の解体修理の時点で高良神社の祠が本殿の中に祀られていたのだという。その前の大修理が明治33年であるから、その時点で合祀された可能性が高い。

 まずは不破八幡宮の由緒について、拝殿横の案内板から引用しておこう。

幡多郡総鎮守 不破八幡宮

御祭神 品陀和気命(第十五代天皇 応神天皇)
    玉依姫命
    息長足姫命(神功皇后)
旧格社 県社
由緒
 当社は文明年間(一四六九‐一四八六年)、前の関白一条教房公が応仁の乱を避け、荘園経営のため中村に開府の時、幡多の総鎮守として且つ一条家守護神として、山城国(京都府)に鎮座する石清水八幡宮を勧請し造営されたものである。また、現在の御本殿においては永禄元年(一五五八年)から翌二年(一五五九年)にかけて一条康政氏に京都から招聘された宮大工の北代右衛門氏により再建されたものである。三間社流造、屋根はこけら葺として都風の洗練された技術による室町時代末期の建造物として昭和三十八年七月一日付で国の重要文化財に指定され、土佐一条家の文化を今に伝える唯一の貴重な遺構である。明治以前は正八幡宮、広幡八幡宮と称されていたが、明治初年に不破八幡宮と改称する。同年五月社格を県社に列した。
 また当社の秋の例大祭は一条氏の創設に関わるもので、当時この幡多地域で横行した略奪結婚の蛮風を戒める為に、四万十市初崎に鎮座する一宮神社と共に執り行う結婚式を神事に織り込み始められた結婚儀礼神事であり、昔から地元の氏子崇敬者に神様の結婚式として親しまれ、また全国的に見ても非常に珍しい神事である。秋季例大祭(神様の結婚式)は昭和三十八年三月五日付で市の指定無形民俗文化財になる。
祭日 旧暦三月十五日      春季山川海神事
   九月敬老の日の前の土曜日 秋季例大祭宵宮祭
   九月敬老の日の前の日曜日 秋季例大祭本祭典
   旧暦十月十五日      秋季山川海神事
 山城国の石清水八幡宮を勧請したものとされていることから、高良神社が同時に勧請された可能性も考えられる。だが、摂社である三島神社と住吉神社が、八幡宮の勧請以前よりこの地に祀られていたことから類推しても、おそらく高良神社も八幡宮に先行して鎮座していたと見るべきではないだろうか。
 その根拠を示すことは簡単ではないが、いくつかの傍証となる事柄を示すことはできる。

①不破八幡宮の北10kmほどの四万十市蕨岡に、
高知県で唯一の単立の高良神社(“四万十市蕨岡の高良神社が鎮座している。
②幡多郡にある他社の宮床地名に「宮ノコウラ」「川原山」など、高良神社由来と推測できる地名遺称があること。
③不破八幡宮の「神様の結婚式」(当宮を男神、市内の一宮神社を女神として祭典神事の中で結婚式を執り行う)と呼ばれる結婚儀礼神事は全国的にも珍しいとされる。これと似た神事として、奈良県の高良神社(“瓦権現→川原社→高良神社? 高良玉垂命と神功皇后との結婚”)「まぐわい神事」(高良神社の男神が八幡神社の女神のもとへ出会いに行く)が行われている
 そうなると、前回紹介した“岐阜県の高良神社――朝浦(あそら)八幡宮相殿の高良明神”の事例が連想される。すなわち、高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請され、従来の主祭神が相殿の神として置き換わる……。祠が本殿内に祀られることは格の高さの表れでもあり、尊ばれていることの証しであるが、現在の案内板やパンフレットには高良神社に関しては何も触れられていない。こうして表向きは完全に“消えた高良神社”となってしまった。
 不破八幡宮の消えた高良神社の謎は、ここ数年来の宿題となっていたことであったが、今回の調査によって、やっとその謎を解くことができた。そして再び幡多地方の高良神社にスポットを当てることがかなったとすれば幸いである。


 

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 滋賀県および長野県が高良神社の密集地帯であることは、これまでの「高良神社の謎」シリーズ(滋賀県の高良神社①長野県の高良神社②ーー千曲川流域に分布)を読んで下さった方には伝わったのではないかと思う。とりわけ長野県については23社もの高良社が鎮座することを調査した吉村八洲男氏の研究が大いに参考になる。不思議なことに、その中間である岐阜県は逆に高良神社の空白地帯と私の目には映っている。厳密に言うと美濃地方と言うべきだろうか。飛騨地方の朝浦八幡宮(飛騨市神岡町朝浦601)にはかなり古くから高良神が祀られているようである。
 まずは朝浦八幡宮の由緒から見ておこう。

朝浦八幡宮

<主祭神>  
      応神天皇(おうじんてんのう)
<摂末社祭神>     
      高良明神(こうらみょうじん)
      火産霊神(ほむすびのかみ)
<地図>  
<住所>        
〒506-1162 岐阜県飛騨市神岡町朝浦601番地

<由緒由来>  
 御鎮座の此山東高原川の奔流に峙し険崖高五十間西奥高原の道路に傍で高二十間路下に吉田川の小流あり。南鳥居の間夕路斜にして九十間北険にして四十間絶頂平地周廻二町半総て峻険して松杉鬱蒼たり。北愛宕山に次て外四山の脈を断ち民戸を隔ち清浄なる一小山なり。里説に所謂往古高原郷開拓の祖神を奉齋し、之を高原神(高良神と言ふ)として尊崇せり。平治元年十二月悪源太義平京帥に戦敗れて此國に来奔し則ち朝浦山続きの吉田山の頂き傘松の根に鼡匿す。此の時に宇佐八幡宮を此地に分遷し、之を主神とし、従来主神たりし高良神を相殿とし、尊崇すと云ふ。而して義平帰京の後廃頽に及ぶ延徳年の頃河尻権之正なる士江馬家に属し此山に邸館を構へ田社地なるを以て再興し、此の大神を齋祀り崇敬し給ふ。「或いは云ふ、河尻初め此の地に邸舘を築かんと欲せし時、白髪の異人出現して曰く、是は八幡宮の田社地也。汝此処に居せんと欲せば之を慮かるべしと言って去りたり因りて河尻義平草創の事蹟を再び此処に奉祀すとも言傳ふ」河尻二代玄蕃に至りて江馬十三代右兵ェ佐平時正と隙を生し、竟に干戈に及ぶ。しかも地険にして寄手不利也依って十二月除夕越年の祝酒に酔眠して防御怠りぬ。其の深更に至って江馬の兵不意を討って之を滅ぼす。兵煙の中に一祠も倶に焼却す。時正深く之を嘆息す。依って此の八幡宮を営造し、享禄元年三月十五日を以て祭典を営み武器を献納し、崇敬し給ふと云ふ。以下記述膨大にして略。
 ポイントとなるのは、往古高原郷開拓の祖神である高原神(高良神)を祀っていたところに、平治元年(1159年)頃に宇佐八幡宮を勧請し、従来主神であった高良神を相殿とし、応神天皇を主祭神としたと伝えられていることだ。前回、紹介した滋賀県の宇佐八幡宮境内社・高良社によく似た背景を持っている。
 実は高知県安芸郡芸西村にも宇佐八幡宮があり、境内社として高良玉垂社が鎮座している。また、相殿として高良玉垂命が祀られている田野八幡宮のような事例も見られる。さらに関東では、高良神社の鎮座地に後から八幡宮が勧請された例も存在する。
 けれども、岐阜県で高良神を祀る神社はこの一社のみ。しかも、かなり富山県よりのロケーションである。岐阜県神社庁のホームページで検索しても、他に見つからない。旧美濃国は高良神社の空白地帯なのである。
 そこで思い起こされるのが壬申の乱(672年)である。高校の歴史教科書では、次のように説明している。
 天智天皇が亡くなると、翌672年に、天智天皇の子で近江朝廷を率いる大友皇子と天智天皇の弟大海人皇子とのあいだで皇位継承をめぐる戦い(壬申の乱)がおきた。大海人皇子は東国の美濃に移り、東国豪族たちの軍事動員に成功して大友皇子を倒し、翌年飛鳥浄御原宮で即位した(天武天皇)。
 壬申の乱で大海人皇子(のちの天武天皇)を支援したのは美濃国をはじめとする東国の勢力であった。高良神社の分布を九州王朝の勢力圏ないしは影響圏と見なした場合、美濃国はどうやら反九州王朝勢力あるいは九州王朝の勢力圏外と考えられる。従来の見方と食い違う点もあるかもしれないが、高良神社というフィルターを通して見た印象では、親九州王朝系近江朝廷の大友皇子VS反九州王朝勢力の大海人皇子という構図になりそうだ。
 天武天皇のバックボーンとしては諸説あり、「天武天皇は筑紫都督倭王だった」(八尾市・服部静尚氏)とする説も最近出されている。一つの検討材料としてほしい。


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 滋賀県といえば、競技かるたを描いた映画『ちはやふる』の舞台となった近江神宮が有名である。天智天皇6年(667年)に同天皇が当地に近江大津宮を営み、飛鳥から遷都した由緒に因み、紀元2600年の佳節にあたる1940年(昭和15年)の11月7日、天智天皇を祭神として創祀された。よって後世の近江神宮を調べたところで天智天皇の近江朝を知ることはできない。だが、近江神宮の西に、かつて宇佐山城が築城された宇佐山がそびえる。この山腹に鎮座する宇佐八幡宮(滋賀県大津市錦織町)の境内社として高良社が存在することはあまり知られていないのではないだろうか。
 まずは宇佐八幡宮についての由緒を現地の案内板から引用しておこう。

宇佐八幡宮御由緒

御祭神 八幡大神(応神天皇)
 治暦元年八月十五日(一〇六五年)鎮守将軍源頼義公が前九年の役を平定して後ここ錦織荘に館を構え九州大分の宇佐神宮を鳩の群れが導き示した此の処に勧請し崇敬された。由緒は正しく宇佐山の名称も此処に始る。以来産土神として崇敬され、むし八幡とも称し子供の守神と広く信仰が寄せられてきた。後に織田信長が山頂に宇佐山城を築いた。戦乱のなか落城の戦火により社殿は悉く焼失し荘厳な往時の様子は今に語り継がれている。
 また、源頼義がこの神社を創建した当時の礎石と伝わる石があることから、平安中期までさかのぼる歴史があることは言えそうだ。
 此の礎石は治暦元年(西暦一〇六五)源頼義公が茲に宇佐宮を創建された当時の柱石の一部で明治の仮殿修復の際ここ中門付近の地中から出土したものであります。礎石の表面が焼け爛れているのは山頂に宇佐山城が築かれ戦乱の戦火で八幡宮も焼失したと伝えられている事を裏付ける貴重なものであります。その証として処に保存する。(立て札の説明文より)
 さらに「金殿井」と呼ばれ、天智天皇の病気を癒したと伝わる霊泉がある。「天智即ち近江の御代に『中臣ノ金』によって発見されたもので、天智天皇の御病気を癒したという霊験あらたかな霊泉と伝えられています」との説明。ついに近江朝との接点が見えてきた。地理的にも近江大津宮跡とされる場所から北西の方角にすぐの立地である。

 宇佐八幡宮の勧請は源頼朝より5代前の源頼義の時代としても平安時代中期であるから、直接には7世紀の近江朝との関連は見出せない。そこで境内社・高良社の由緒が問題となってくる。
 境内社の成りたちとして、主に次の3つのタイプが考えられる。
神社整理により、近隣の神社が郷社など中核的な神社の境内に取り込まれ祀られたもの。明治維新の際の神仏分離令や明治39年の神社合祀令に伴う事例が多い。
神社を他から勧請する際に同時に摂社として祀られたもの。
別の神社が鎮座していた社地に他から新しい神社を勧請する際、旧来の神社が境内社として祀られる。
 石清水八幡宮や宇佐八幡宮の勧請に際しては、通常の同時勧請と説明されることが多いが、本場大分県の宇佐神宮では見られない高良社が共に勧請されることには疑問がある。そうなるとのパターンを想定する必要がありそうである。実際に高良神社が鎮座していた場所に後から八幡宮が勧請された例は、関東地方などで見られる。
 そのことを傍証するかのように、大津市園城寺町には三井寺が存在する。筑後の高良大社の麓にもやはり御井寺(三井寺)がある。やはり「九州王朝系近江朝」という理解は正しいのだろうか。『日本書紀』でも天智天皇の近江遷都については、斉明天皇の大規模な土木工事と同様に“悪政”と描かれており、九州王朝系であることを暗示しているかのようだ。


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 『魏志倭人伝』には魏使が邪馬壹国に至るまでの距離・行程が、次のように記されている。
 従郡至倭、循海岸水行、歴韓国、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。始度一海千余里、至対海國。……又南渡一海千余里。……至一大国。……又渡一海千余里、至末盧国。……東南陸行五百里、到伊都国。……東南至奴国百里、……東行至不弥国百里。……南至投馬国、水行二十日。……南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月。……自郡至女王国万二千余里。
 『魏志倭人伝』は確かに「南、邪馬壹国に至る」としており、原文は「邪馬台国」ではない。高校の歴史教科書にも倭人伝の引用があり、「壹(壱)は䑓(台)の誤りか」と注釈を入れている。
 邪馬台国論争については大きく近畿説と九州説の2つがあり、高校の教科書では次のように説明されている。
 この邪馬台国の所在については、これを近畿地方の大和に求める説と九州北部に求める説とがある。近畿説をとれば、すでに3世紀前半には近畿中央部から九州北部におよぶ広域の政治連合が成立していたことになり、のちに成立するヤマト政権につながることになる。一方、九州説をとれば、邪馬台国連合は九州北部を中心とする比較的小範囲のもので、ヤマト政権はそれとは別に東方で形成され、九州の邪馬台国連合を統合したか、逆に邪馬台国の勢力が東遷してヤマト政権を形成したということになる。(『詳説 日本史』山川出版社、2017年)
 問題は行程記事の最後の部分「南至邪馬壹国、女王之所都、水行十日陸行一月」の解釈にあった。「南は東の誤り」とし近畿に持っていこうとしたのが近畿説であり、「一月は一日の誤り」とし九州内にとどめようとしたのが九州説である。いずれにしても原文改定なしには、厳密には成立しない論理であった。

 古田武彦氏は「こんなに簡単に、なんの論証もなしに、原文を書き改めていいものだろうか。わたしは素朴にそれを不審とした。この一点から、従来の『邪馬台国』への一切の疑いははじまったのである」と『「邪馬台国」はなかった』の冒頭で、自らの方法論を述べている。
 一見、どう解釈しても矛盾が生じると思われたところをあくまでも原文を尊重した立場で読み解こうとした古田説に学問的良心を感じる。読解の教科書としたのは『三国志』全体の記述であった。同様の表記が他の部分ではどのような意味で使われているのかといった参考データを収集するのである。この方法論こそが古田史学の精髄と言ってもいいだろう。
 そして、至った結論「部分里程の総和=全里程」という質量保存の法則にも似たルールが導かれたのであった。そこには「島めぐり」読法の発見や韓国内「陸行」といったアイデアなども見過ごせない。帯方郡から邪馬壹国までの部分里程を全て足すと「水行十日陸行一月」、すなわち「一万二千余里」ぴったりとなった。初めて原文改定なしに『魏志倭人伝』を理性的に読み解くことに成功したのである。


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 日本一の琵琶湖を擁する滋賀県は高良神社の密集地帯でもある。当ブログでは既に2社紹介している("滋賀県の高良神社①ーー彦根市の高良塚"、"滋賀県の高良神社②ーー長浜八幡宮 境内社")が、それ以外にも複数鎮座していることが分かってきた。
 とりわけ古田史学の会で注目されているのが甲良町の甲良神社(滋賀県犬上郡甲良町尼子1)である。当初は漢字表記の違いから高良神社とは似て非なるものと思い、見過ごしてしまっていたが、古田史学の会・古賀達也代表はブログ「洛中洛外日記」の中で次のように語っている。
 甲良神社は、天武天皇の時代に、天武の奥さんで高市皇子の母である尼子姫が筑後の高良神社の神を勧請したのが起源とされています。そのため御祭神は武内宿禰です。筑後の高良大社の御祭神は高良玉垂命で、この玉垂命を武内宿禰のこととするのは、本来は間違いで、後に武内宿禰と比定されるようになったケースと思われます。
 ご存じのように、尼子姫は筑前の豪族、宗像君徳善の娘ですから、勧請するのであれば筑後の高良神ではなく、宗像の三女神であるのが当然と思われるのですが、何とも不思議な現象です(相殿に三女神が祀られている)。しかし、それだからこそ逆に後世にできた作り話とは思われないのです。(第147話 2007/10/09)
 また御由緒には次のように書かれている。
 主祭神の鎮座は社記によると、筑後国の高良大社より勧請されたものといわれるが、その年代は不詳である。又相殿の三女神については、「社伝」によれば、「納胸形君徳善女尼子姫 此尼子娘後に斯所に住玉ひて三女神を祭り給ひし」とあり、また社記に「治暦年中より甲良荘の総社と成りける」とあることから治暦以前に勧請されたもので、その頃から甲良荘33ヶ村の総社として厚く信仰されていた。(滋賀県神社庁のホームページより)
 由緒によると筑後国の高良大社から主祭神が勧請されたのが天武天皇の時代より古く、後に尼子姫が宗像三女神を相殿として祭ったようである。甲良町の甲良神社は漢字表記こそ違え、九州からの勧請であることから高良神社と見なして良さそうである。どうして滋賀県に高良神社が数多く鎮座するようになったのだろうか。
 近年、古田史学の会事務局長・正木裕氏によって「九州王朝系近江朝」という考えが提唱されるようになってきた。賛否両論あるようだが、琵琶湖周辺に高良神社が多く分布していることは天智天皇の近江朝廷が九州王朝系であったことを後押しする根拠となるようにも感じられる。もちろん、そこには高良神社が九州王朝の宗廟的位置づけであったとする仮説および、鎮座する高良神社の歴史がONライン(701年)以前にさかのぼれるという前提があってのことである。
 研究者としてもブロガーとしても、現場を踏まずに記事を書いたり、論を展開するのは無責任であるが、コロナ禍のご時世なので、調査に行けるのがいつになるか分からない。ぜひ地元の研究者の力をお借りしたいところである。引き続き、滋賀県に鎮座する他の高良神社情報も発信していきたい。




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 国立Q大の女子学生はなぜ「邪馬台国はなかったんだよ」と言ったのだろうか。これこそまさに『「邪馬台国」はなかった』(1971年)で古田武彦氏が主張した第一のポイントであった。
 そもそも『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた。これまでの学者たちは皆、九州説・畿内説にかかわらず「壹(一)は臺(台)の誤りなり」とし、それを前提にして「邪馬台国」がどこにあったかを議論し合ってきた。だが、この「壹は臺の誤り」とする共同改定は正しいのだろうか。従来の邪馬台国論争で、ほとんど疑問を持たれなかったこの国名問題にまず切り込んだのが古田氏であった。
 古田氏は『三国志』全体から「壹」と「臺」を全てピックアップして完全調査を行った。『三国志』中には86の「壹」と58の「臺」が存在していた。これを拾い上げるだけでも大変な作業であるが、全数調査を行って、特定の文字がどのように使用されているかの傾向性をつかむということは統計的手法としては基本である。この方法論がその後の古田史学の方法論の基軸となっていった。また同時代の「壹」と「臺」の筆跡の比較検討をした。その結果として「壹」と「臺」の書き間違いの可能性はほぼゼロという結論に達した。本来の国名は「邪馬壹国」だったのである。
 また「臺」は「天子の宮殿及び天子直属の中央官庁」という特殊な意味を持つことを古田氏は
『「邪馬台国」はなかった』で指摘している「臺」を天子のシンボルとして尊崇した三世紀の、魏志中の表記としては、臣下の国名に「邪馬)国」と至高文字を使用することはありえないのだ。
 古田史学に共感を示す支持者に理系の人々が多いのは、この科学的手法によって導かれる合理的な結論にあると言えるかもしれない。現にQ大で開催された、とある理系の学会の席で、海外の研究者に対して古田説に触れたQ大教授がいたと聞く。
 『魏志倭人伝』には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた――この結論だけでも古代史学会を覆す偉大な発見であった。本来ならば歴史の教科書も原文を尊重して「邪馬壹国」と書くべきところである。その上でなぜ「邪馬台国」と呼ばれるようになったかを説明しなければならない。それが学問的態度であろう。ところが現在もなお、小・中・高校の歴史教科書には「邪馬台国」と記述され続けている。半世紀前に出版された『「邪馬台国」はなかった』は古代史学会において“なかった”ことにされたのであった。


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 「邪馬台国はなかったんだよ」
 九州の東大と言われる国立Q大の女子学生がポツリとつぶやいた。それを聞いたM氏は、「この人何を言っているんだろう」と最初はまともに受け取らなかったという。歴史を多少なりとも学んだものであれば、邪馬台国が存在しなかったなどという考えはバカげた空想にしか思えない。中国の歴史書『三国志』「魏志倭人伝」に記述され、女王・卑弥呼に贈られた「親魏倭王」の金印こそ見つかっていないものの、国内における弥生時代の遺跡(吉野ヶ里遺跡など)が倭人伝の記述の信憑性を裏付けている。
 ところが、彼女が読んでいた『「邪馬台国」はなかった』(古田 武彦著、1971年)をM氏が手にして見ると、そこには従来の常識を覆すような内容が書かれていたのである。このM氏は現在、プロの家庭教師として首都圏で活躍しておられ、かつてセミナーや文筆活動を通じて、古田史学を紹介し、世に広めた人物であった。
 かく言うこの朱儒国民もM氏から古田史学を紹介され、『「邪馬台国」はなかった』を読んで、驚きのあまり、夜眠るのも忘れて朝まで読み明かしてしまったのだ。私にとってM氏は古田史学のバンガード(先導者)といった存在である。古代史に関連するいくつかの史跡などにも連れていってもらったこともあった。

 小説家の小松左京氏は「古代史論争の盲点をつく快著」と題して『「邪馬台国」はなかった』の紹介文を書いている。
 古田武彦氏の『「邪馬台国」はなかった』を最初にすすめてくれたのは、文化人類学者の梅棹忠夫先生だった。――一読して、これまでの論議の盲点をついた問題提起の鮮やかさ、推理の手続きの確かさ、厳密さ、それをふまえて思い切って大胆な仮説をはばたかせるすばらしい筆力にひきこまれ、読みすすむにつれて、何度も唸った。何よりも、私が感動したのは、古田氏の、学問というものに対する「志操」の高さである。初読後の快く充実した知的酩酊と、何とも言えぬ「後味のさわやかさ」は、今も鮮やかにおぼえている。
 また、『「邪馬台国」はなかった』の著者・古田武彦氏は次のように語っている。
 今まで「邪馬台国」という言葉を聞いてきた人よ。この本を読んだあとは、「邪馬壹国」と書いてほしい。しゃべってほしい。
 なぜなら、「台」は「䑓」の当用漢字だ。ところが、『三国志』の原本には、どこにも「䑓」や「台」を使ったものはない。みんな「邪馬壹国」または「邪馬一国」だ。それを封建時代の学者が「ヤマト」と読むために、勝手に直したものだった。それがわかった今、あなたが真実を望むなら、この簡単明瞭な「邪馬一国」を誰の前でも恐れず使ってほしい。
 『魏志倭人伝』の原典には「邪馬台国」ではなく「邪馬壹国」と書かれていた――これがまぎれもない事実であり、これを論証し明言したところから古田史学が出発していった。実に半世紀前のことであった。



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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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