今年(2021年)も春高がやってきた。漫画『ハイキュー』の影響もあってバレーボール人気も高まってきたが、そちらの話題ではない。春野高校、略して「春高」。2月16日(火)から3月28日(日)までの期間 、高知市春野郷土資料館企画展「春野高等学校歴史同好会展示発表」が開催されている。

近年は戦争関連遺跡の調査などの研究発表が多かったが、今年度は春野地区の「土居」(中世頃、山城付近にあった武家屋敷)についての調査結果の展示がある。テーマが少し身近なところになっており、興味・関心も持ちやすくなった。
壁新聞「春野をゆけば」の中から県下各地の戦争遺跡についての展示もあり、こちらは昨年までとほぼ同様の内容だろうか。有難いことに、今年は新聞「春野をゆけば」の配布用コピーが置いてあった。以前から「何か持ち帰れる資料があれば嬉しいのだが……」と思い続けて数年が経ち、やっと実現した。というのも、郷土資料館内は撮影禁止になっており、いい内容だと思っても、記録に残せず、紹介するにも限界があったのだ。
新聞は19号まで発刊されているようで、特に興味を惹かれたのは17号の森山城特集である。埋蔵文化財センターが道路工事に伴う発掘調査を行なったという話は耳にしていた。現地説明会に参加した人の話では、誰の居城か分かっていないとのこと。
もちろん、吉良氏配下の森山氏の居城であったらしいが、もともとの吉良氏は応仁の乱(1467年)頃までには没落し、森山氏も森に姓を変えたと考えられている。戦国期は長宗我部氏配下の吉良氏が春野一帯を治めることになる。
新聞は19号まで発刊されているようで、特に興味を惹かれたのは17号の森山城特集である。埋蔵文化財センターが道路工事に伴う発掘調査を行なったという話は耳にしていた。現地説明会に参加した人の話では、誰の居城か分かっていないとのこと。
もちろん、吉良氏配下の森山氏の居城であったらしいが、もともとの吉良氏は応仁の乱(1467年)頃までには没落し、森山氏も森に姓を変えたと考えられている。戦国期は長宗我部氏配下の吉良氏が春野一帯を治めることになる。
会場となっている春野郷土資料館は春野文化ホールピアステージ隣り、春野図書館の2階にある。当ブログでも紹介したことがあるが、大寺廃寺の素弁蓮花文軒丸瓦を展示しているところだ。館長には一度「7世紀ではないですか?」と話をしたことがあるのだが、「8世紀」との表示は変わらず、そのままであった。埋蔵文化財センターからの借り物なので、埋文に責任の所在があるのかもしれない。
近年は「大学受験に歴史選択は不利」といった風潮も見られるが、損得抜きで歴史を愛する若者たちが育つことを願う。春野高校歴史同好会の活動を心から応援したい。
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昨年(2020年)、『東洋町の神社と祭り』(東洋町資料集・第7集)で原田英祐氏が第41回平尾学術奨励賞を受賞した。東洋町神社の由来や資料集・年中行事・歴史文化を刊行・文化財保護に力を注いだことなどが評価されものだ。原田氏は高知県安芸郡東洋町野根の郷土史家。1977年、31歳のころから野根史談会の一員として活動。半世紀近く高知県東部の歴史文化を丹念に掘り起こしてきた。「郷土史の火種になる知識を残そう」と、資料集の発行を進め、現在までにすでに7集を発行している。

第6集『土佐日記・歴史と地理探訪』については興味深く読ませていただき、資料としても大変参考になるものであった。「土佐日記は過去の教科書や参考書を読んでも、さほど面白くない。これを郷土史の立場で深読みをすると、断然面白い」と著者・原田氏は言う。
「紀貫之は名家・紀氏の復活を目指したが、天皇・上皇の交代で新派閥から外れ、遠国土佐へ左遷された。国司の任を終えて帰京したが、貫之には冷淡な官界となり、帰り着いたわが家はボロボロに荒れ果てていた。このようなストレスを発散するため、帰京して半年後に『土佐日記』を書いた。日記文の中からストレス発散部分を探り当てる人は読みの達人である」とも。
『土佐日記』の原文とともに縁の地名の写真や、関係する資料も掲載されており、さまざまな角度から読み解かれていて、『土佐日記』の新たな一面が楽しめる。
『土佐日記』の原文とともに縁の地名の写真や、関係する資料も掲載されており、さまざまな角度から読み解かれていて、『土佐日記』の新たな一面が楽しめる。
そして、待望の第7集『東洋町の神社と祭り』ーー遅まきながら、やっとを手に取ってみて驚いた。知りたかった情報が満載である。まず、東洋町における高良神社の情報が網羅されている。その他、神社研究には欠かせない史料・文献など、よく収集されている。
『南路志』『皆山集』に代表されるように、土佐の歴史家は伝統的に史料収集に徹して、私見を交えず、後世の歴史家にバトンを託してきた偉人たちが多い。その伝統に違わず、原田氏の取り組みは現代の武藤致和・松野尾章行に喩えられる業績であり、平尾賞受賞は妥当であり、むしろ遅すぎたくらいかもしれない。
『南路志』『皆山集』に代表されるように、土佐の歴史家は伝統的に史料収集に徹して、私見を交えず、後世の歴史家にバトンを託してきた偉人たちが多い。その伝統に違わず、原田氏の取り組みは現代の武藤致和・松野尾章行に喩えられる業績であり、平尾賞受賞は妥当であり、むしろ遅すぎたくらいかもしれない。
高知新聞(2020年5月29日)に「平尾学術賞を受賞して」と題して、原田英祐氏のコメントが掲載されている。もう少し早く紹介したいと思いつつ、年を越してしまった。その一部を引用しつつ、氏の研究の発展を祈りたい。
718年の南海道の新官道開設は、高知では野根山街道しか研究されていない。徳島では鳴門の撫養(むや)港から「中みなと」「奥みなと」という南部海岸の水駅(港)の研究しかない。徳島南部の海路と高知東部の陸路をドッキングさせるのが、私の役目だろうか。……まだまだ道は遠い。全てをまとめ終わるまでに、果たして寿命が足りるだろうか。
原田氏の運営する東洋町の歴史のHP
https://toyotown-historic-spots.blogspot.com/p/blog-page_5.html
日本史上最大のクーデターともいわれる「本能寺の変」(1582年)を起こした明智光秀を通して描かれたNHK大河ドラマ『麒麟がくる』が、いよいよ最終回を迎えた。
なぜ、明智光秀は謀反を起こしてまで、主君・織田信長を討とうとしたのか。背後の動機などをドラマでどのように描くか注目していたところだったが、従来説+鞆幕府説を背景としながら、明智光秀には「この戦はしょせん、己ひとりの戦」と語らせた。近年注目されるようになった四国説は、あくまでも付け足しといった描かれ方であった。
▲本能寺の変(1582年6月2日) |
高校の日本史B教科書『詳説日本史改訂版』(山川出版社、2017年)には、次のように書かれている。
このようにして信長は京都をおさえ、近畿・東海・北陸地方を支配下に入れて、統一事業を完成しつつあったが、独裁的な政治手法はさまざまな不満も生み、1582(天正10)年、毛利氏征討の途中、滞在した京都の本能寺で、配下の明智光秀に背かれて敗死した(本能寺の変)。
新たに浮上した四国説というのは、長宗我部元親と関係の深い光秀が、信長の四国征伐を回避するために信長を討ったというものである。美濃国守護土岐氏の一派とされる石谷孫三郎光政の娘が長宗我部元親の長男・信親と結婚。斎藤利三とも姻戚関係にあり、明智光秀もまた土岐源氏の流れをくむと考えられている。
当初、長宗我部元親と信長は友好関係にあり、「四国は切り取り次第、所領として良い」と認められていたものが、三好氏を巡る処遇の変化によって方針は撤回され、阿波の占領地を上表(返還)するよう迫られたのである。元親はこれを不服としたため、信長の四国征伐が始まったとされる。光秀は元親および親戚縁者を助けるためにやむを得ず、「本能寺の変」を起こすようになったというのだ。

斎藤利三については「謀反第一」、すなわち本能寺の変の首謀者と公家の日記に記録されている。その娘が春日の局であり、三代将軍・徳川家光の乳母にあたる。
『麒麟がくる』では、明智光秀が堺にいた徳川家康への手紙を、岡村隆史演じる菊丸に託す。光秀は「200年、300年も穏やかな世が続くまつりごとを行のうてみたいのじゃ」と麒麟がくる世の中を思い描きつつ、それが叶わぬ時には家康殿に託したい旨を伝える。
『麒麟がくる』では、明智光秀が堺にいた徳川家康への手紙を、岡村隆史演じる菊丸に託す。光秀は「200年、300年も穏やかな世が続くまつりごとを行のうてみたいのじゃ」と麒麟がくる世の中を思い描きつつ、それが叶わぬ時には家康殿に託したい旨を伝える。
1603年、ヒーローおっさん徳川家康結果的には、265年続く江戸時代をもって“麒麟が来た”平和な世の中と視聴者に連想させた最終回であった。謀反人の娘であった春日の局のみならず、長宗我部元親の客人であった蜷川道標(旧室町幕府政所代)をも、家康は召し抱えている。明智光秀の志は家康へと引き継がれていったと見るべきだろうか。
1867年、一夜むなしき江戸幕府
高知県安芸市僧津の瓜尻(うりじり)遺跡で官衙の一部とみられる柵と溝に囲まれた方形建物区画跡や古代の瓦などが見つかったことが、高知新聞(2021年1月16日)で報じられた。
瓜尻遺跡に古代役所
安芸市 大規模水路、倉庫群も統合中建設地
高知県安芸市僧津の統合中学校の建設予定地で昨年9月から発掘調査が行われている瓜尻(うりじり)遺跡で、古代律令(りつりょう)制下の官衙(かんが)(役所)とみられる建物群が見つかっている。県東部では官衙とみられる遺跡は初確認で、県内9例目。安芸郡の統治に関わった豪族の拠点が周辺に広がっているとみられ、未解明の県東部の古代史を解き明かす遺跡として研究者の注目を集めている。
出土した土器から、建物は7世紀後半から8世紀まで建て替えが続いたと見られているが、土器編年は相対的なもので、四国では編年に50年程度のずれが生ずる場合がある。
島根大学の大橋泰夫教授(考古学)は「寺院に隣接して官衙が見つかった点が重要」「郡衙にしては規模が小さく、郡内に複数設置された郡衙の支所『館(たち)』の可能性がある」などとコメントしている。
実はこれに先立つこと2020年7月には「安芸市に7~10世紀古代寺院の仏塔」との見出しで、統合中学校建設予定地の瓜尻遺跡で白鳳瓦などが出土したことが報じられている。一般的には「豪族の氏寺か」とする見解であるが、安芸市においてもONライン(701年)以前のいわゆる九州王朝時代の古代寺院の存在が浮かび上がってきた。安芸郡奈半利町の古代寺院と推定されていたコゴロク廃寺との関連も気になるところだ。
島根大学の大橋泰夫教授(考古学)は「寺院に隣接して官衙が見つかった点が重要」「郡衙にしては規模が小さく、郡内に複数設置された郡衙の支所『館(たち)』の可能性がある」などとコメントしている。
実はこれに先立つこと2020年7月には「安芸市に7~10世紀古代寺院の仏塔」との見出しで、統合中学校建設予定地の瓜尻遺跡で白鳳瓦などが出土したことが報じられている。一般的には「豪族の氏寺か」とする見解であるが、安芸市においてもONライン(701年)以前のいわゆる九州王朝時代の古代寺院の存在が浮かび上がってきた。安芸郡奈半利町の古代寺院と推定されていたコゴロク廃寺との関連も気になるところだ。
『続日本紀』によると、はじめ讃岐国から伊予国を経由して土佐国府(南国市比江)に達していた古代官道が、阿波国経由の野根山街道に切り替えられたのは718年(養老二年)であり、その後796年(延暦十五年)の北山街道に変わるまでの8世紀の大半は、安芸郡を経由していたことになる。それだけに今回の発見は、古代官道に置かれた駅家を支える安芸郡家の一端を知る手がかりとなりそうだ。

『瓜尻遺跡』(安芸市教育委員会、2005年3月)によると「高知県内で8世紀代を含めて古代に属する掘立柱建物は、香長平野に多く確認されており、南国市の土佐国衙跡、田村遺跡群、白猪田遺跡、野市町の曽我遺跡、深淵遺跡、下ノ坪遺跡、香我美町の十万遺跡などで確認されている。…(中略)…井ノ口周辺には8世紀には集落が存在していることを確認することができた。また近年徐々に調査事例が増え、瓜尻遺跡の南側に所在するジョウマン遺跡では道路拡張に伴う発掘調査が行われ、5世紀代前半の溝跡が検出されており、平野部の利用がこの時期には行われていたことが報告されている」とある。
安芸市は高知県における銅矛出土の最東端でもあり、安芸郡とキ族とのつながりを指摘する研究者もいる。高知県の沿岸部には「~き」とする地名が多く分布しており、ほとんどが風よけの港と対応していることから、言素論的には「天然の港」のような意味と解する説もある。5世紀代前半には安芸川流域の平野部が利用されていたことから、倭の五王時代の前線基地であった可能性すら想像させる。さらなる発掘調査に期待したいところだ。
安芸市は高知県における銅矛出土の最東端でもあり、安芸郡とキ族とのつながりを指摘する研究者もいる。高知県の沿岸部には「~き」とする地名が多く分布しており、ほとんどが風よけの港と対応していることから、言素論的には「天然の港」のような意味と解する説もある。5世紀代前半には安芸川流域の平野部が利用されていたことから、倭の五王時代の前線基地であった可能性すら想像させる。さらなる発掘調査に期待したいところだ。
民俗学者の谷川健一氏は『白鳥伝説』(1986年)のなかで、『東日流外三郡誌』について次のように述べている。
「アラハバキの神が注目されるようになったのは、『東日流外三郡誌』という奇怪な書物が青森県北津軽郡の『市浦村史資料編』として戦後出版されて以来のことである。その書には荒吐族が登場して活躍する。
いかなるところからこのアラハバキをもち出してきたかは不審な点である。それには興味がなくもない。しかしながら『東日流外三郡誌』は明らかに偽書であり、世人をまどわす妄誕を、おそらく戦後になってから書きつづったものである。」
このように、谷川氏は『東日流外三郡誌』偽書説の立場に立ち、『学問のすすめ』(1872年)の著者でもある福沢諭吉との関係についても言及している。
「また『東日流外三郡誌』次の文章がある。
『依て都人の智謀術数なる輩に従せざる者は蝦夷なるか。吾が一族の血肉は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、平等相互の暮しを以て祖来の業とし……』
元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」
唖然とするのはどっちだろうか。民族学者・谷川健一ともあろう人が、『学問のすすめ』→『東日流外三郡誌』の影響関係を決めつけ、その逆は全く考えなかったのだろうか。元禄十年七月に秋田頼季が書いたとあるこの文章が、福沢諭吉の有名な言葉を下敷にしているのをみるとき唖然とするのである。」
確かに、福沢諭吉の『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」は有名になった。それを『東日流外三郡誌』がまねて書いたとすれば、後世の偽書と見なされても仕方がない。
しかし、これを否定する根拠は十分にある。
①『学問のすすめ』では「〜と云へり」と引用表記をしていること。
②福沢諭吉は平等思想の持ち主ではないこと。
③『東日流外三郡誌』の寛政原本が発見されたこと。
②については、大学の部落解放教育という授業の中で「賀川豊彦と福沢諭吉は差別論者であった」との説を聞かされたことがある。賀川豊彦を差別論者と批判する時点で、「木を見て森を見ず」ーー揚げ足取りも甚だしいところだが、教職免許取得には必要な科目だったので、受講せざるを得なかった。
ただ、福沢諭吉のエピソードとして自分の母親が貧しい人々に良くしてあげていたことに対して、あまり快く思っていなかったという話は、「脱亜入欧」を主張した諭吉本来の思想に合致しているように感じて、妙に納得するものがあった。その福沢がなぜ突然「天は人の上に人を造らず〜」と語り出したのか。
『学問のすすめ』が300万部を超えるベストセラーになったのも、実は『東日流外三郡誌』の底流に貫かれた万民平等の思想を背景としていたからこそだったわけだ。
そして『東日流外三郡誌』寛政原本の発見によって一連の事実は立証されたと言えるだろう。「天は人の上に人を造らず〜」の思想は福沢諭吉の『学問のすすめ』に先行して、『東日流外三郡誌』の底流に流れており、随所に書き綴られていたのである。
『東日流外三郡誌』の思想は江戸時代以前においては表に出すことのはばかられるものだった。福沢諭吉はその崇高な精神を世に知らしめるために筆をとった。それが『学問のすすめ』の冒頭の文章「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず、と云へり」だったわけである。彼こそ『東日流外三郡誌』の精神に魅了され感化を受けた一人だったのかも知れない。
鼠年であった2020年11月の高知新聞に、次のような記事が出ていた。世はまさに、空前絶後の『鬼滅の刃』ブームである。
実は、高知市長浜の㈱土佐蒲鉾本社の近くに、ついに本命『鬼滅の刃』プチ聖地を発見することができた。高知県にも竈門神社(高知市長浜5792)があったのである。これまでに紹介した「竈」「竈戸」「竈土」でなく、竈門炭治郎や竈門禰豆子と同姓ーー同じ漢字を使用した正真正銘の「竈門神社」なのだ。
小社でありながらも「昭和十四年九月吉日」付で鳥居が奉献してあり、花などが供えてあったりと、地域の人々から大切に祀られている様子だった。
主人公の竈門炭治郎は鬼殺隊に入る前は、炭を売って生計を立てていたようであるから、大分県に伝わる炭焼き小五郎伝説(真名野長者伝説)をモチーフの一部としているように思える。大分県別府市の八幡竈門神社が『鬼滅の刃』3大聖地の一つになったのも分かる気がする。
そうすると竈門炭治郎の竈門(かまど)とは炭焼き窯のことなのだろうか。竈門神社が祀る竈ノ神とはいかなる存在なのだろうか。
「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている。」(『神道史』清原貞雄著、1941年)とあるように、奥津日子神・奥津比売神の二神を祭神としているところが多い。
「鬼滅の刃」禰豆子の気持ち?
土佐蒲鉾が「竹ちくわ」児童養護施設に寄贈高知市長浜の「土佐蒲鉾(かまぼこ)」が11日、児童養護施設「子供の家」(同市相生町)で暮らす子どもに「竹ちくわ」45袋を贈った。
竹ちくわは、人気漫画「鬼滅の刃(きめつのやいば)」の主要キャラの禰豆子(ねずこ)が口にくわえている竹をヒントに同社が商品化。子どもたちは早速、ちくわを口にくわえ「禰豆子になった気持ち!」と喜んでいた。(2020.11.12)
実は、高知市長浜の㈱土佐蒲鉾本社の近くに、ついに本命『鬼滅の刃』プチ聖地を発見することができた。高知県にも竈門神社(高知市長浜5792)があったのである。これまでに紹介した「竈」「竈戸」「竈土」でなく、竈門炭治郎や竈門禰豆子と同姓ーー同じ漢字を使用した正真正銘の「竈門神社」なのだ。
小社でありながらも「昭和十四年九月吉日」付で鳥居が奉献してあり、花などが供えてあったりと、地域の人々から大切に祀られている様子だった。
主人公の竈門炭治郎は鬼殺隊に入る前は、炭を売って生計を立てていたようであるから、大分県に伝わる炭焼き小五郎伝説(真名野長者伝説)をモチーフの一部としているように思える。大分県別府市の八幡竈門神社が『鬼滅の刃』3大聖地の一つになったのも分かる気がする。
そうすると竈門炭治郎の竈門(かまど)とは炭焼き窯のことなのだろうか。竈門神社が祀る竈ノ神とはいかなる存在なのだろうか。
「竈神を祭る事は我邦では極めて古い所からあったもので、古事記に大歳神が天知迦流美豆姫を娶って生んだ子の中、奥津日子神、奥津比売神の二神が即ち諸人の拝する竈であるといふことになっている。」(『神道史』清原貞雄著、1941年)とあるように、奥津日子神・奥津比売神の二神を祭神としているところが多い。
『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和58年)によると、荒神社は16社(安芸4、長岡1、土佐1、高岡3、幡多7)である。地検帳には記載されない神社もあるが、少なくともこれらの荒神は16世紀以前に遡る歴史を持つ。
『鬼滅の刃』19話で、竈門家にヒノカミ神楽が伝承されていたことが描かれている。九州の竈門神社の縁起等を調べれば、より深淵なるルーツに迫れる可能性はありそうだ。
この荒神が、個人の家の竈の神として祭られるものならともかく、社として一般の人々に祭られるのはなぜであろう。先人の研究は参考にはなるものの、謎は深まるばかりである。竃の神には奥津日子神、奥津比売神あるいは迦具突知神、火産霊神などが当てられているが、廣江清氏が言うように、これらは「神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう」との指摘は妥当かもしれない。
……(中略)……『神社明細帳』の竈戸神社(荒神)の祭神は、前述の二神の外、迦具突知神、火産霊神(火武主比神)がある。いずれも火の神であるが、これは神仏分離の際あてられたもので、本来は単に火ノ神であったのであろう。その外祭神に大土神・大地主神・埴山姫があてられているが、これは土地の神としての伝承があったものであろう。
……(中略)……
或いは、御年神・大年神・宇賀之御魂神・豊受大神としているのは、農業神としての伝承からであろう。
……(中略)……荒神は土地の人は田の神といい、付近の荒神もそうであるということである。以上をみてもわかるように、荒神は竈の神と簡単に言いきれない色々の性格をもった神であることが理解される。(『長宗我部地検帳の神々』より)
『鬼滅の刃』19話で、竈門家にヒノカミ神楽が伝承されていたことが描かれている。九州の竈門神社の縁起等を調べれば、より深淵なるルーツに迫れる可能性はありそうだ。
横浜、瀬戸、長浜ーーこれらの地名を聞いて何県を思い浮かべるだろうか。いずれも高知市南部の浦戸湾近くにある地名である。サニーマートやダイソーなどが建ち並ぶ中心街、寿し一貫の向かいの小丘に竈戸神社(高知市瀬戸西町2-115)が鎮座する。瀬戸東町及び西町の氏神で「瀬戸荒神宮」とも称される。
明治元年3月28日の太政官布告第196号による神仏分離令で、具体的な名称変更の達しがなされた。「三宝荒神は竈戸神社、弁財天は厳島と称えること」。『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎の姓とは一字違いの竈戸神社の表記を、高知県では一律使用している。神仏分離令の達しに従った結果であろう。江戸時代以前は「三宝荒神」「荒神宮」などと呼ばれていたところが多い。
十七条憲法にも「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直くせん。」とあるように、三宝荒神(さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。 仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神とされたことから、名称変更の対象となったと考えられる。
また、荒神については『風土記』に登場する荒ぶる神、『東日流外三郡誌』のアラハバキ(荒覇吐)などに当てはめる研究者もいるようだ。

明治元年3月28日の太政官布告第196号による神仏分離令で、具体的な名称変更の達しがなされた。「三宝荒神は竈戸神社、弁財天は厳島と称えること」。『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎の姓とは一字違いの竈戸神社の表記を、高知県では一律使用している。神仏分離令の達しに従った結果であろう。江戸時代以前は「三宝荒神」「荒神宮」などと呼ばれていたところが多い。
十七条憲法にも「二に曰く、篤く三宝を敬え。三宝とは仏・法・僧なり、則ち四生(ししょう)の終帰(しゅうき)、万国の極宗(ごくしゅう)なり。何れの世、何れの人かこの法を貴ばざる。人、尤(はなは)だ悪しきもの鮮(すくな)し、能く教うれば従う。それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(まが)れるを直くせん。」とあるように、三宝荒神(さんぽうこうじん)は、日本特有の仏教における信仰対象の1つ。 仏法僧の三宝を守護し、不浄を厭離(おんり)する佛神とされたことから、名称変更の対象となったと考えられる。
また、荒神については『風土記』に登場する荒ぶる神、『東日流外三郡誌』のアラハバキ(荒覇吐)などに当てはめる研究者もいるようだ。
「神社明細帳」によると元文元年(1736)に長浜村の孫三郎という人が敷地内にあった祠を播磨屋九郎左衛門の持ち山の南の鼻に遷して祀った、とある。明治45年5月に、瀬戸村にある岩戸開神社と岐神社をこのお社に合祭したが関係者に不祥事が続いたため再び元に戻したといわれる。竈戸神社(通称瀬戸荒神宮)
祭神:大土御祖神(土地の守り神)
大年御祖神(穀物の守り神)
明治39年12月の「神社合祀令」は「一村一社を標準とする。ただし地勢および祭祀理由において特殊の事情あるものは合祀に及ばず。云々」とされ、高知県でもその政策に翻弄された様子が案内板から読み取れる。
神社合祀令に基づいて小社小祠をこわし、他の神社へ併合させるという神社整理政策を忠実に行なったのは、四国では愛媛県に代表される。
1906~1911年末まで、全国でおよそ8万の村社が合併または廃止された。最も極端な破壊が行われたのは三重県で、数において6.8分の1に減じ、次いで和歌山県が4.7分の1に減少した。逆に、熊本県や岩手県のようにほとんど減らなかったところもある。
南方熊楠の神社合祀令反対運動に柳田国男が協力したこともあって、1920年神社合祀無益の議決が貴族院を通過した。
高知県内の竈戸神社は、一部が村社で大半は無格社であったが、境内社よりは単立の神社として多く残されている。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社とされていたのが、リストアップしてみると、その2倍以上の50社ほどになりそうだ。
本場九州の竈門神社へ行くことが難しい状況もあり、身近な『鬼滅の刃』プチ聖地化を目指して、県内の竈戸神社一覧表でも作成してみたいところである。
神社合祀令に基づいて小社小祠をこわし、他の神社へ併合させるという神社整理政策を忠実に行なったのは、四国では愛媛県に代表される。
1906~1911年末まで、全国でおよそ8万の村社が合併または廃止された。最も極端な破壊が行われたのは三重県で、数において6.8分の1に減じ、次いで和歌山県が4.7分の1に減少した。逆に、熊本県や岩手県のようにほとんど減らなかったところもある。
南方熊楠の神社合祀令反対運動に柳田国男が協力したこともあって、1920年神社合祀無益の議決が貴族院を通過した。
高知県内の竈戸神社は、一部が村社で大半は無格社であったが、境内社よりは単立の神社として多く残されている。『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社とされていたのが、リストアップしてみると、その2倍以上の50社ほどになりそうだ。
本場九州の竈門神社へ行くことが難しい状況もあり、身近な『鬼滅の刃』プチ聖地化を目指して、県内の竈戸神社一覧表でも作成してみたいところである。
主人公の竈門炭治郎の姓と同じなどの共通点から『鬼滅の刃』三大聖地の1つとされ、話題を集めているのが宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)である。主祭神が玉依姫命(たまよりひめのみこと)であり、作中の医者「珠世(たまよ)」を連想させる。
火で鬼をあぶり出す「鬼すべ」神事がある太宰府天満宮は学問の神様として九州でも随一の参詣客を集めている。かつて九州王朝の首都であったとされる太宰府の鬼門封じとして建立されたのが宝満宮竈門神社であった。
2019年(平成31年)4月、西高辻信良氏は息子の信宏氏に第40代太宰府天満宮宮司職を譲り、自らは宝満宮竈門神社の宮司に就任した。『今夜も生でさだまさし ~まっさん高知に来るっ土佐~』によると、西高辻信良宮司は宝満宮竈門神社を「太宰府天満宮より大きくしてやる」と語っていたそうだが、『鬼滅の刃』ブームがそれを後押しした。
2019年(平成31年)4月、西高辻信良氏は息子の信宏氏に第40代太宰府天満宮宮司職を譲り、自らは宝満宮竈門神社の宮司に就任した。『今夜も生でさだまさし ~まっさん高知に来るっ土佐~』によると、西高辻信良宮司は宝満宮竈門神社を「太宰府天満宮より大きくしてやる」と語っていたそうだが、『鬼滅の刃』ブームがそれを後押しした。
話の舞台を高知県に移そう。高知市の中心部はりまや橋より約5kmの地点に位置し、市の南部では最も人口が密集するところが長浜蒔絵台の住宅地である。住宅団地の鬼門の位置に鎮座するのが今回紹介する竈土神社(高知市横浜新町)である。高知県では「竈」「竈戸」の表記がほとんどであるが、「竈土」とするのは珍しい。
住宅街の第4公園「夕焼け広場」からでも東方に、竈土神社の鳥居を見ることができる。2020年末に新型コロナウイルス感染者が過去最高を記録し、2021年新春の初詣も遠出を控えなければならなくなりそうだ。近場でプチ鬼滅聖地気分を味わいたい方にはおすすめスポットかもしれない。
かつて「100円ちりんトンネル」との愛称で呼ばれていた有料道路・高知桂浜道路(県道36号線)も、今では無料化して、その道沿いに鎮座する神社は、いつも横目に見ながら神社名も意識されることなく通り過ぎることが多かった。
連敗記録を持つハルウララ(生涯成績113戦0勝)で有名になった高知競馬場には、愛媛県の知人もよく通ってきていた。そこから北上した右手(東側)に竈土神社が見える。祭神、勧請年月等未詳とのことだが、狭い境内には境内社が3社ある。蒔絵台に近い立地だが、鎮座地は横浜新町になる。ドライブスルーで横目に参詣するのも、コロナ禍時代の新スタイルで良いかもしれない。
住宅街の第4公園「夕焼け広場」からでも東方に、竈土神社の鳥居を見ることができる。2020年末に新型コロナウイルス感染者が過去最高を記録し、2021年新春の初詣も遠出を控えなければならなくなりそうだ。近場でプチ鬼滅聖地気分を味わいたい方にはおすすめスポットかもしれない。
かつて「100円ちりんトンネル」との愛称で呼ばれていた有料道路・高知桂浜道路(県道36号線)も、今では無料化して、その道沿いに鎮座する神社は、いつも横目に見ながら神社名も意識されることなく通り過ぎることが多かった。
連敗記録を持つハルウララ(生涯成績113戦0勝)で有名になった高知競馬場には、愛媛県の知人もよく通ってきていた。そこから北上した右手(東側)に竈土神社が見える。祭神、勧請年月等未詳とのことだが、狭い境内には境内社が3社ある。蒔絵台に近い立地だが、鎮座地は横浜新町になる。ドライブスルーで横目に参詣するのも、コロナ禍時代の新スタイルで良いかもしれない。
『千と千尋の神隠し』を抜いて、興行収入が歴代1位を記録した『鬼滅の刃』。身近な中学生に聞いても、映画を2回以上観たという人がかなりいた。
当初は『炎炎ノ消防隊』推しの女の子も、キメハラ(『鬼滅の刃』ハラスメント)に屈したわけではないだろうが、『鬼滅の刃』のコミックを全巻買ったと言っていた。
この社会現象に伴って、九州の竈門神社が『鬼滅の刃』の聖地と化している。いつもなら初詣等で参詣客が殺到しそうなところだ。密を避けるためにも、年末年始は高知県内の竈戸神社でプチ鬼滅聖地気分を味わってもらおうという試みである。主人公・竈門炭治郎の姓と漢字表記が違うのはご容赦願いたい。
今回紹介するのは高知市春野町秋山の竈戸神社である。四国八十八カ所・第34番札所 本尾山 朱雀院 種間寺の東方、小高い丘の上に竈戸神社が鎮座する。祭神は火産霊神外六柱とされている。コヤド山の急な石段を登ると、木造の山小屋かと思うような神社が現れた。前回、紹介した土佐市塚地の竈神社とよく似た印象を受けた。
「慶應三夘二月令日」と刻まれた燈籠、「文政九丙戌」と書かれた手水鉢。やはり江戸時代には篤く崇敬されていたことが伺える。現在は周囲に竹林が生い茂っているが、それに遮られなければ、春野町の中心部の平野を一望できそうな高台である。
ここ春野町秋山には古代において吾川郡の郡家があったとする論考「土佐国三郡の郡家について」(朝倉慶景氏、『土佐史談265号』2017年7月)も発表されている。やはり古い歴史を持った土地柄のようである。
扁額もなく、見ただけでは竈戸神社とは分からない小社であったが、境内社を一社擁し、古来当32集落の崇敬神で、古くは荒神社と称した。ナビがなければ気付きにくい、隠れ家的な神社であった。
『君の名は。』がヒットした時にも神社ブームの波が来たが、それにも増して『鬼滅の刃』人気で、さらなる神社ブームが巻き起こっている。鬼滅の三大聖地として、①宝満宮竈門神社(福岡県太宰府市)、②溝口竈門神社(福岡県筑後市)、③八幡竈門神社(大分県別府市)が有名になり、多くの『鬼滅の刃』ファンが詰めかけている。
コロナ禍のご時世でもあるので、密になるのを避けて、高知県内の竈(かまど)神社でプチ鬼滅聖地気分を味わってもらいたい。
そもそも竈門神社が聖地となったのは、主人公の竈門炭治郎の姓と同じということが理由の一つである。高知県では「竈神社」または「竈戸神社」と表記するところがほとんどで、「竈門神社」としているのは今のところ知らない。漢字表記の違いはご容赦願いたい。
『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社と出ている。大半が境内社かと思い込んでいたが、調べてみると意外にそうでもなさそうである。
まず足を運んだのは、土佐市塚地の竈神社。JA高石直販所の脇道から入っていき、急勾配の坂道を登った丘の上にある。そもそも塚地という地名からも連想されるが、近くの塚地大サルバミでは古墳が見つかっている。古くから人が住みついた土地だったようだ。
塚地の竈神社は単立の神社で鳥居もある。扁額には確かに「竈神社」と書かれていた。『鎮守の森は今』にも紹介されていないようなので、初っ端から穴場スポットを見つけてしまったようだ。それもそのはず、本来の表参道の石段は荒れて使われていない様子で、横瀬展望所登り口から、雨が降ったら滑りそうな坂道を登り、神社の裏側にたどり着いた。木の枝が遮らなければ高石地区を一望できそうなロケーションである。
鳥居の脇には「天保十五辰」と書かれた手水鉢がある。少なくとも江戸時代までは遡る歴史がありそうだ。昔は宇佐に抜ける塚地坂トンネルもなかったので、浦ノ内湾に行くのに、横瀬山〜大峠を経る尾根道が利用されていたのではなかろうか。
コロナ禍のご時世でもあるので、密になるのを避けて、高知県内の竈(かまど)神社でプチ鬼滅聖地気分を味わってもらいたい。
▲『鬼滅の刃』の主人公・竈門炭治郎 |
『鎮守の森は今』(竹内荘市著、2009年)によると高知県内の竈戸神社は24社と出ている。大半が境内社かと思い込んでいたが、調べてみると意外にそうでもなさそうである。
まず足を運んだのは、土佐市塚地の竈神社。JA高石直販所の脇道から入っていき、急勾配の坂道を登った丘の上にある。そもそも塚地という地名からも連想されるが、近くの塚地大サルバミでは古墳が見つかっている。古くから人が住みついた土地だったようだ。
塚地の竈神社は単立の神社で鳥居もある。扁額には確かに「竈神社」と書かれていた。『鎮守の森は今』にも紹介されていないようなので、初っ端から穴場スポットを見つけてしまったようだ。それもそのはず、本来の表参道の石段は荒れて使われていない様子で、横瀬展望所登り口から、雨が降ったら滑りそうな坂道を登り、神社の裏側にたどり着いた。木の枝が遮らなければ高石地区を一望できそうなロケーションである。
鳥居の脇には「天保十五辰」と書かれた手水鉢がある。少なくとも江戸時代までは遡る歴史がありそうだ。昔は宇佐に抜ける塚地坂トンネルもなかったので、浦ノ内湾に行くのに、横瀬山〜大峠を経る尾根道が利用されていたのではなかろうか。
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『探訪―土左の歴史』第20号
(仁淀川歴史会、2024年7月)
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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プロフィール
HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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