久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は次のように筑前・筑後を中心として北部九州に分布しているという。
筑後国分寺跡(久留米市)、堂ヶ平遺跡(広川町)、太宰府史跡(太宰府市)、鴻臚館跡(福岡市)、宝満山遺跡(太宰府市)、浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)、筑前国分寺跡(太宰府市)、菩提廃寺(福岡県京都郡みやこ町)、豊前国分寺跡(福岡県京都郡みやこ町)
古賀達也氏が九州王朝の家紋ではないかと推定している十三弁の花紋が、土佐国分寺古瓦ノ図として『皆山集2』に掲載されている。やはり九州との深い関係があるかも知れない。また、布目瓦も出土していることから奈良時代のものと推定しているようだ。
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『土佐史談189号』(土佐史談会、平成4年3月)に出原惠三氏の「比江廃寺」という論考がある。
1990年までの発掘調査の成果、および出土した瓦当文様の分析がとても参考になった。単弁蓮花文(7世紀後半)と複弁蓮花文(8世紀)の軒丸瓦は出土しているが、素弁蓮花文は無し。国分寺跡の出土瓦と同笵があり、出土状況も似ている。国分寺研究サークルのデータ通りである。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、塔礎石の東側に金堂があったとし、法隆寺式の伽藍と推定されている。発掘調査では南方から大量の瓦が出土したものの法隆寺式を肯定する証拠も否定する証拠も確認できなかったようだ。
そして何より刮目すべき点は「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」との指摘である。土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、まだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかったとの結論は一考の価値あり。
ちなみに高知県で素弁蓮花文瓦が全く出土していないわけではない。秦泉寺廃寺と大寺廃寺の跡から「有稜線素弁八葉蓮花文軒丸瓦」が見つかっている。高知県では最も古い寺であったと推測される。
1990年までの発掘調査の成果、および出土した瓦当文様の分析がとても参考になった。単弁蓮花文(7世紀後半)と複弁蓮花文(8世紀)の軒丸瓦は出土しているが、素弁蓮花文は無し。国分寺跡の出土瓦と同笵があり、出土状況も似ている。国分寺研究サークルのデータ通りである。
岡本健児氏は『ものがたり考古学』の中で、塔礎石の東側に金堂があったとし、法隆寺式の伽藍と推定されている。発掘調査では南方から大量の瓦が出土したものの法隆寺式を肯定する証拠も否定する証拠も確認できなかったようだ。
そして何より刮目すべき点は「藤原宮や平城京式の影響が全くと言ってよいほど認められない」との指摘である。土佐国司の初見は『続日本紀』天平十五年(743年)六月三十日の引田朝臣虫麻呂の登場を待たなければならず、8世紀初頭の段階では、まだ大和朝廷の影響下に浴してはいなかったとの結論は一考の価値あり。
ちなみに高知県で素弁蓮花文瓦が全く出土していないわけではない。秦泉寺廃寺と大寺廃寺の跡から「有稜線素弁八葉蓮花文軒丸瓦」が見つかっている。高知県では最も古い寺であったと推測される。
土佐国の国分尼寺があった場所として、国府の北東にある比江廃寺跡が有力と考えられてきた。その根拠は「アマシカウチ」というホノギ(小字)にあった。いかにも尼寺が内を表しているように思われる。
しかし、それ以外の根拠はなく地名のみによった説であった。それがつい最近、朝倉慶景氏によって新説が打ち出され、新たに有力な比定地が見つかった。『土佐史談』に発表される予定なので、詳細は控えておく。筑後の国分尼寺が久留米市国分町西村であるのと同様に、土佐国の場合も「西村」地名であるとだけ紹介しておく。
では比江廃寺跡の「アマシカウチ」とは何なのか? 開皇20年(600年)、倭国の王は阿毎(あま)多利思北弧を名乗り日出ずる所の天子として、隋に使いを送った。倭国の王族、阿毎氏に関係の深い寺院が比江廃寺であったとしたら……。
「ひえ」地名は太宰府にも見え、残された礎石が太宰府政庁跡の物と似ているとの指摘、小字「タイリ(内裏)」「アマシ(阿毎氏)カウチ」など、すべて説明がつくようになる。
「Keep your feet on the ground!(地に足つけて考えよ)」とお叱りを受けそうである。以下に『隋書』を引用しておく。
しかし、それ以外の根拠はなく地名のみによった説であった。それがつい最近、朝倉慶景氏によって新説が打ち出され、新たに有力な比定地が見つかった。『土佐史談』に発表される予定なので、詳細は控えておく。筑後の国分尼寺が久留米市国分町西村であるのと同様に、土佐国の場合も「西村」地名であるとだけ紹介しておく。
では比江廃寺跡の「アマシカウチ」とは何なのか? 開皇20年(600年)、倭国の王は阿毎(あま)多利思北弧を名乗り日出ずる所の天子として、隋に使いを送った。倭国の王族、阿毎氏に関係の深い寺院が比江廃寺であったとしたら……。
「ひえ」地名は太宰府にも見え、残された礎石が太宰府政庁跡の物と似ているとの指摘、小字「タイリ(内裏)」「アマシ(阿毎氏)カウチ」など、すべて説明がつくようになる。
「Keep your feet on the ground!(地に足つけて考えよ)」とお叱りを受けそうである。以下に『隋書』を引用しておく。
「開皇二十年 俀王姓阿毎 字多利思北孤 號阿輩雞彌 遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言俀王以天爲兄 以日爲弟 天未明時出聽政 跏趺坐日出便停理務 云委我弟 高祖曰 此太無義理 於是訓令改之」(『隋書』「東夷傳俀國傳」)
開皇二十年、俀王、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩雞弥と号(な)づく。使いを遣わして闕(けつ)に詣(いた)る。上、所司(しょし)をしてその風俗を問わしむ。使者言う、俀王は天を以て兄と為し、日を以て弟と為す。天未(いま)だ明けざる時、出でて政(まつりごと)を聴く。日出ずれば、すなわち理務を停(とど)めて云う、我が弟に委(ゆだ)ぬと。高祖曰く、此れ大いに義理なし。是に於て訓(おし)えて之を改めしむ。
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(仁淀川歴史会、2024年7月)
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高知県の郷土史について、教科書にはない史実に基づく地元の歴史・地理などを少しでも知ってもらいたいとの思いからメンバーが研究した内容を発表しています。
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HN:
朱儒国民
性別:
非公開
職業:
塾講師
趣味:
将棋、囲碁
自己紹介:
大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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