「いなきさんのスピリット
〜八代青年奉納歌舞伎〜」
12/2(日)14:30~15:24
KUTVテレビ高知で放送されていた番組をチラッと見て、「もしや、いの町枝川の八代八幡宮では?」と思ったら、その通りであった。「コウラ」地名を探し回っている時に立ち寄った神社である。気になっていたが、まさかテレビで紹介されるとは……。
まずはホームページ「ダイドー祭りドットコム2018」の案内文を見てみよう。
高知市との境に位置する吾川郡いの町の八代地区。わずか100世帯が暮らすこの小さな集落で、約300年にわたって継承されている「八代青年奉納歌舞伎」。八幡宮には、国指定の重要有形民俗文化財に指定されている回り舞台があり、毎年11月5日に、芝居好きの氏神様のために歌舞伎が奉納されています。役者を務めているのが20代〜30代で構成される地域の青年団。彼らには、かつて土佐地芝居で女形として舞台に上がっていた「いなきさん」の教え・心得が、今も脈々と受け継がれています。数少ない農村歌舞伎を今に残す若者たちの奮闘ぶり、さらには祭りを継承する難しさ、楽しさとは? そして「いなきさん」が後世に残した“大切な何か”を描きます。
そもそも八代は神社の社(やしろ)が語源であるとも言われている。八代市妙見町にある八代神社(祭神:天之御中主神、國常立尊)は、妙見宮(みょうけんぐう)、妙見さんとも呼ばれ、福島県の相馬妙見、大阪府の能勢妙見と並んで、日本三大妙見の一つとされる。また、八代妙見祭は八代地方において最大の祭礼行事で、もっとも古い祭礼の記録は相良氏が支配していた時代の記録である『八代日記』の1515年(永正12年)に記述がある。
高知県において天之御中主を祀る妙見は、明治初年の神仏分離令及び名称変更の達しにより星神社に改称された。『鎮守の森は今』(竹内壮市著、2009年)によると、高知県内の星神社は54社を数える。
閑話休題、吾川郡いの町枝川になぜ八代地区があり、八代八幡宮が存在するのだろうか。なぜ数百年以上も奉納歌舞伎が継承されてきたのか。演目の中では「大黒踊り」がより古くからあるものと伝えられ、『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)「寺子屋」の段も演じられる。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描くストーリーである。
ここにも何か九州とのつながりを感じさせる伝統が息づいているように感じられた。
11月11日(日)、荒倉神社(高知市春野町弘岡中1113)の秋季大祭が行なわれた。昨年から復活した浦安の舞も地元の小中学生によって舞われ、春野高校の生徒たちも獅子舞や神輿担ぎで参加した。ここの御神輿は八角形になっているのが特徴である。
さて、この荒倉神社については過去に何度か取り上げた。「春野昔ばなし」に御神体は北向きという言い伝えがあって、御神体北向きは徳島県美馬郡轟の天都賀佐比古神社だけではないということをさも知ったかのように紹介したが、広谷喜十郎氏が荒倉神社の宮司さん(先代の吉良さんであろうか)に確認したところ「そんなことはない」と否定されたということが『土佐史の神々 第二集』(平成17年)に記されていた。
私もお祭り終了後、質問してみた。御神体の扉は「開けるべからず」とされており、現在の新川宮司は直接は見ておられないようだったが、「外を向いているはずはなく、南向きであろう」とのことであった。この点については私の早とちりだったかもしれない。
ところで、安芸郡の安田八幡宮などでも御神体が厨子に納められており、「古来より之を開かず」とされている。荒倉神社は約1300年前、安田八幡宮もそれに勝るとも劣らない歴史の古さがある。にもかかわらず「延喜式内社」には含まれていない。
もしかしたら、九州王朝につながりを持つ秘密が隠されているのではないだろうか。九州年号「勝照二年(586年)」始鎮の小村神社もやはり式内社となっていない。荒倉神社の神紋には小村神社と同様「五七の桐」が使われている。
とりあえず身の周りの高知県民に「しなね様」について聞いてみたが、大半が「知らねー」との答え。高知の夏は「輪抜け様」に始まり、「よさこい祭り」で絶頂を迎え、「しなね様」で終るとも言われる。
今年(2018年)のスケジュールをパンフレットから紹介しておく。
8月24日(金)宵祭り20:00 神事 宵宮(参列自由)21:00 悠久の舞(巫女四人舞)22:00 悠久の舞(巫女四人舞)●夕刻より夜店が多数出店します。8月25日(土)大祭・御神幸10:00 神事 大祭(参列自由)13:00 鼓笛隊マーチ(一宮幼稚園園児)15:00 神事 神幸祭16:00 神輿巡行16:30 お旅所祭17:30 還幸祭●古式神事が雅楽の調べとともに行われます。
ぜひ、ご参列ください。※夜店はありません。土佐神社(高知市一宮しなね2-16-1)土佐神社は、土佐の総鎮守で、460年の創建と伝えられている。本殿、幣殿及び拝殿は長宗我部元親、鼓楼、楼門は山内忠義(二代藩主)の建立で、これらは国の重要文化財に指定されている。御祭神は味鋤高彦根神(あじすきたかひこねのかみ)、一言主神(ひとことぬしのかみ)。
『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。
もう一つの天都賀佐彦(あまつかさひこ)神社が美馬市美馬町轟の天都賀佐比古神社より西方、同市美馬町西荒川の小高い岡の上にある。厳密に言うと「比古」と「彦」の漢字が違う。同一町内に同一の神社が存在することによる混乱を避ける配慮もあるのだろうか? 祭神も微妙に違っており、例祭も一日違い(1人の宮司さんが複数の神社を兼任しているためであろうか)になっている。
集落の路地を入って行き、民家に紛れて見つけにくかったが、何とかたどり着いた。木の鳥居に木彫りの扁額。旧無格社であるから、このようなものかもしれないが、『美馬町史』(美馬町史編集委員会、1989年)によると、鎮座している場所が古墳群であったことが推測でき、廃瓦の出土もあって、轟の天都賀佐比古神社に勝るとも劣らない古い歴史を持っていることが伺える。
境内には五角柱の石碑があり、五柱の神様の名が刻まれている。「天照皇大神・倉稲魂命・埴安姫命・少彦名命・大己貴命」――この後、徳島県の神社では、このややいびつな五角柱を何度も目にすることになる。
主祭神は「級長戸辺(しなとべ)命」とされており、『古事記』『日本書紀』によって風の神とするのが一元史観の解釈である。土佐国一宮である土佐神社の夏祭り「しなね祭(しなね様)」の語源についても諸説ある。風の神・志那都比古に結び付ける説もあるが、全国的にも「しな〜」を冠する名前はいくつか見られる。多元史観による解釈の必要があるのではないだろうか。
徳島県美馬市に入って天都賀佐比古神社を検索すると、意外にも2か所ヒットして少し戸惑った。美馬町轟にあるほうが、鳥居・社殿等が立派で、立地も開けた中心部に近いところにあり、見つけるのが容易であった。こちらが本命であろうか。境内に入って右手、神社由来記の石碑にも「6世紀以前の創建と思われる」とし、かつての鎮座地に近い郡里(こうざと)には白鳳時代の廃寺跡(法起寺式、12弁蓮華文軒丸瓦が出土)もあって、大和朝廷以前の歴史を持つ可能性が見える。
さて、御神体が北向きというのは確かに珍しいが、高知県にも似たような話がある。高知市春野郷土資料館のHPに掲載されている荒倉神社の昔話である。県外のことを知って、県内のこともよく理解できるというもの。井の中の蛙になってはいけない。
はるの昔ばなし「ご神体は北向き」
(前略)……
二代目藩主山内忠義公は狩が好きで、たびたび各地の狩猟場へ出掛けました。ある年、側臣や勢子を多数連れてこの荒倉山に来ました。この日は獲物がたくさんあり、忠義公はたいそうごきげんでありました。さっそくこの神社の馬場先で獲物を料理しました。ところがその肉はなんぼ煮ても軟かくなりません。煮ても煮ても煮えないというわけです。
家来たちは「これは神前をけがしたからではないか。」と話し合っていました。忠義公はこれを聞いて「領内のことはすべて藩主の意のままになるものだ。気に食わねばご神体を北向けにしておけ。」と言われました。
このことがあってから、荒倉神社では、社殿は南向きでもご神体は北向きにしてお祀りするようになったといわれています。
土佐には大小五千近い神社があり、その大方は南向きで、東向き或は西向きのものも少しありますが、荒倉神社のように社殿に対してご神体が反対向きというのは例がないようです。
かつて横浜中学校の生徒が詠んた俳句にとても感銘を受けた。毎年、6月30日には高知県下の主だった神社で輪抜け様というお祭りが行なわれる。境内に備えられた大きな茅(ちがや)の輪を左回り、右回り、左回り(女性は逆回り)とくぐり抜けて、半年間の穢れを祓いのけてもらうそうだ。
これは古事記の上巻の天の御柱めぐりの段でイザナギの命は左より、イザナミの命は右から廻ったとの故事にならったとのこと。ただし、高知市内は男女とも左→右→左で統一しているようだ。
輪抜け様の巨大な茅の輪と友の耳にぶら下がる小さな金属のイヤリングーーこのコントラストが絶妙だと思いませんか?
さて、輪抜け様というのは高知県だけのことかと思っていたら「茅の輪神事」という名で、自らの罪穢れと社会の罪穢れを祓い去る大祓として、6月30日(夏越の大祓)と12月31日(年越の大祓)に全国の神社で斎行される行事で、歴史は古く、大宝元年(701)に撰修された大宝律令には正式な宮中の年中行事として定められている。
現在でも宮中では、大祓の儀に先立ち、天皇御自ら「節折(よおり)の儀」により御身を清められるという。この儀式は、背丈をはじめ御身五か所の長さを測った9本の竹の節を折る、天皇ご自身のお祓いである。
高知市内の輪抜け様実施神社一覧
潮江天満宮 高知市天神町19-20
若宮八幡宮 高知市長浜6600
小津神社 高知市幸町9-1
薫的神社 高知市洞ヶ島町5-7
鹿児神社 高知市大津乙3199
高知大神宮 高知市帯屋町2丁目7−2
土佐神社 高知市一宮しなね2丁目16−1
出雲大社土佐分祠 高知市升形5-29
石立八幡宮 高知市石立町54
清川神社 高知市比島町2丁目13−1
天満天神宮 高知市福井町917
本宮神社 高知市本宮町94
多賀神社 高知市宝永町8−36
仁井田神社 高知市仁井田3514
朝倉神社 高知市朝倉丙2100−イ
郡頭神社 高知市鴨部上町5−8
土佐市在住の人に聞くと、土佐市では輪抜け様はやっていないとのこと。高知市以外では以下の神社などで行なわれる。今年はあいにくの雨。
椙本神社 吾川郡いの町大国町
八王子宮 香美市土佐山田町北本町2
新宮神社 南国市十市新宮山
毎年6月になると、「あじさいまつり」でにぎわう六條八幡宮(高知市春野町西分3522)は別名「あじさい神社」とも呼ばれる。春野町あじさい愛好会の方々が世話をして下さり、平成12年には境内に一株であったものが、挿し木や奉納で種類と株数を増やし、平成28年には約80種類約1400株にもなって、参拝者を楽しませてくれている。
さて、案内パンフレットを見ると御祭神は次のようになっている。
御祭神
品陀和気尊(第十五代天皇 応神天皇)
※外に明治初年、西分地区にあった小宮の神々を合祀しています。
倉稲魂命(うがのたまのみこと)
天忍穂耳尊(あまのおしほみみのみこと)
天穂日命(あまのほひのみこと)
天津彦根命(あまつひこねのみこと)
活津彦根命(いくつひこねのみこと)
熊野久須毗命(くまのくすびみこと)
多紀理毘咩命(たぎりびめのみこと)
市杵島毘咩命(いちきしまびめのみこと)
多紀津毘咩命(たぎつびめのみこと)
天忍穂耳尊以下は五男三女神に相当し、天照大神が須佐之男命と誓約された時に生まれたとされ、八王子神社(春野町弘岡下)の祭神でもある。ここでは明治初年の廃仏毀釈及び神社名変更の達しの際に、西分地区の小宮が整理され、合祀されたことが分かる。
『高知懸神社誌』(竹崎五郎、昭和6年)によると神母神社外一社を合祭してあるということから、倉稲魂命は神母神社の祭神と思われる。
由緒
当社は、応永9年(1402年)10月15日に、京都六條左女牛(さめがい)八幡宮から御分霊を遷し迎えた社であり、高知県高知市(旧吾川郡)春野町西分地区の総氏神であります。
六條左女牛八幡宮は、第70代御冷泉天皇の勅願により天喜元年(1053年)10月15日に京都六條左女牛の地に創建され、六条八幡とも左女牛八幡とも称されました。歴代天皇のご尊崇は申すまでもなく、源頼朝は、建久元年(1190年)に臨時の大祭を行うなど、弟の義経も祖先に倣って社地の近くに居館を構え、常に崇敬の誠を捧げました。御社は、元左女牛西洞院(現本願寺地)にあり、社伝によると、源頼義がその邸内に祀った八幡の若宮であったと云われています。
土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由としては、文治元年(1185年)にはすでに吾川郡は京都六條左女牛八幡宮の領地として、源頼朝から寄進されていたということであり、同宮の荘園となっていたと云われています。八幡信仰は源氏の氏神であり武家の守護神として中世以降大いに尊信されるに至り、当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなったと思われます。
土佐「南路志」の中に、吾南(現高知市長浜、春野町周辺)の八幡宮が抽出されており、「西分・東諸木・仁ノ・弘岡下・弘岡中・弘岡上・芳原・秋山・森山」の中で、西分の八幡宮は、六條八幡宮としてその由来が明らかにされています。昔から文武の神として崇敬され、近世では地区の産業の発展・氏子の家内安全・商売繁盛はもとよりでありますが、時には和歌、俳諧などの詠進もあるなど吾南地区の産業・経済・文化面の守護神ともなっています。
神社境内地及び付近一帯の字名を「大寺」と総称していますが、昔時壮大な寺院が有ったところで、慶長年間に退転したと伝えられています。境内地の山を大寺山と呼び、社地の字名を奥屋敷と称し、続いて中屋敷と呼ぶ地名もあり、寺院の規模も相当大きな伽藍が存在したことが想像されます。
(以上、パンフレットより引用)
土佐国吾川郡下に八幡宮の多い理由として、源頼朝が、大江広元の弟・季厳阿闍梨を別当職に任じ、文治元年(1185年)土佐国吾川郡の地を京都六條左女牛八幡宮領の荘園として寄進したことを根拠として挙げている。『長宗我部地検帳の神々』(廣江清著、昭和47年)によると「八幡の数は113社(安芸20、香美10、長岡15、土佐5、吾川16、高岡32、幡多15)にのぼる」とし、集中していると言えなくもないが、他より抜きんでているという程でもない。「当時全国的に八幡宮の地方への勧請は争って行なわれ、その多くは在来の土地の神社に取って代わることとなった」との指摘、鎌倉幕府と八幡宮の関係についてはさらに調査したいところである。
東には縄文時代からの西分増井遺跡があり、この界隈は広大な弥生集落も営まれている。さらに、この六條八幡宮の近くは大寺廃寺跡。出土した有稜線素弁八葉蓮華文鐙瓦は、高知市北郊の秦泉寺廃寺跡からも同系統の瓦が出土しており、七世紀頃の創建とされる県下で最古の寺院と考えられている。
古記は大宝令の注釈書で738年(天平十)ごろの成立とされる。『令集解』所引古記が引用する一云によれば、村ごとに神社があり、社首(しゃのおびと)という祭祀者がいて、あたかも地方自治の一翼を担う行政機関のようである。大和朝廷の神祇令によると一般的には祝(はふり)であり、社首は他に見られない。もしかしたら九州王朝時代の制度が、のぞき見えているのかも知れない。
この一村一社とも言うべき制度は、古代中国の社に遠源を持つのではないかとさえ思われる。『古代中国の社―土地神信仰成立史』(エドゥアール・シャヴァンヌ著、菊地章太訳注、2018年)を読むと、古代中国の社と日本の神社との類似性が見えてくる。
周・漢の時代に家25軒で里とし、一社を置いている。日本の律令制ではその倍の五十戸を里(さと)としている。いわゆる産土(うぶすな)神とされる村社のルーツが、単に自然発生的なものではなく、行政的な色彩が少なくなかったように思われる。
柳田国男の協力もあって、1920年神社合祀無益の議決が貴族院を通過した。反対運動は結実を結んだと言えるが、そのために年月を要した。神社合祀令による神社整理は多くの都道府県で既に実施されていたのであった。
1906~1911年末まで、全国でおよそ8万の村社が合併または廃止された。最も極端な破壊が行われたのは三重県で、数において6.8分の1に減じ、次いで和歌山県が4.7分の1に減少した。
これらのことは『南方熊楠』(鶴見和子著、1981年)に詳しい。
高知県の主な白皇神社を次に挙げる。
- 四万十市西土佐江川
- 四万十市双海
- 高岡郡四万十町八千数(はっせんずう)
- 高岡郡四万十町宮内
- 土佐清水市白皇山山頂に鎮座していた神社 ⇒ 白山神社 (土佐清水市)
- 幡多郡黒潮町田野浦
古代の幡多郡は高岡郡仁井田郷(現・四万十町)を含むと考えられており、「白皇神社」の分布とよく重なっている。『南路志』などを見ると、かつては「一村一白皇」と思われるほど、ほとんどの村に白皇神社(白皇権現)があった。こうなると統治者による政策の反映としか考えにくい。
もちろん白川神道の影響は考察する必要があるが、むしろ白山神社の勧請による山岳信仰の繋がりが見えてきた。
そもそも白皇権現は、四国霊場38番札所「金剛福寺」の奥の院であり、金剛福寺が創建されたとされる平安時代初期の弘仁13年(822年)に、白皇山真言修験寺として創建された。同時期に熊野三所権現や白山権現が勧請されている。すなわち、白皇山(標高433m)を対象とする真言系修験の山岳信仰と位置付けされる。後に神仏分離令により白皇神社となり、白山神社に合祀された。
白山神社の総本社は、白山比咩神社といい、加賀国の一宮である。現在の鎮座地は、石川県白山市三宮町で、創建は崇神天皇の頃とされている。現在の祭神は、菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀る。
ところが、高知県西部の白皇神社の祭神はほとんど大巳貴命であり、山岳信仰の色彩は感じられない。弘仁年間の勧請としているところがいくつか見られるが、金剛福寺文書を根拠としているのだろうということが分かってきた。
一方、愛媛県側では「白王神社」という表記になる。祭神は、菊理姫、伊弉諾尊、伊弉冉尊の三神を祀るところが多く、白山神社系にも見える。
その分布はやはり愛媛県西部に集中するが、八幡浜市および宇和島市の海浜部に密集している。もしかすると鯨(いさな)漁など海との関連性があるように思われる。イザナギ・イザナミ信仰の原初的な姿がこの地域から始まっていった可能性も感じられる。
いずれにしても、高知県の白皇神社分布域と合わせて、一大文化圏をなしているようでもあり、今後の研究課題としておきたい。
高知県西部の「白皇神社」再考①
高知県西部の「白皇神社」再考②
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算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。

