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 土佐の物部氏が歴史の上に登場するのは、奈良遷都――「なんと(710年)見事な平城京」――から4年後の元明天皇の和銅七年(714)5月のことである。
癸丑、土佐国の人、物部毛虫咩、一に三子を産みて、穀四十斛并乳母を賜る。(『続日本紀』)
 三つ子を産んだ物部毛虫咩(もののべのけむしめ)の多産を寿(ことほ)ぐ記事である。「土佐国の人」とあるので、その時点で、土着して長い歴史を持っていた土佐物部氏と考えられる。おそらく古墳時代にはすでに土佐国に拠点を構えていたのではないか。
 その居住地としては物部川流域、現在の香美郡であろうと考えられる。香美郡の初出記事に、郡領として物部鏡連が登場する。物部鏡連は、香美郡の物部郷に置かれた物部の伴造だったと考えられ、『日本後紀』延暦二十四年(805)5月条には香美郡少領の物部鏡連家主の名前が見える。なお、香美郡には物部文連もおり、『日本後紀』弘仁元年(810)正月には家主の妻として物部文連全敷女の名前が見える。

 承平年間(931~938年)に編纂された『和名類聚抄』によると、土佐国香美郡8郷の1つに物部郷という地名が見える。伊勢本・東急本の訓は「毛乃倍」。『土佐幽考』は「物部河〈鏡川下流〉の西にあり」とし、『地名辞書』は「今三島村是なり、岩村郷の南にして、即ち物部川の西岸なり」とする。物部川下流右岸の地に物部集落があるので、この物部を中心とした旧三島村一帯が郷域であろう。現在の地図でいえば、高知龍馬空港の北側辺りになる。物部川そのものが遺称地でもあり、土佐国内で物部氏関連地名として明確なのはここだけになる。
 この8・9世紀頃における土佐物部氏の存在は史料的に見てもほぼ疑いえないものであろう。問題はいつごろ、何のために土佐にやってきて、その後どうなっていったかという点である。


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