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 「十三弁花紋は九州王朝の家紋」とする仮説(古賀説)が正しいかどうかはまだ検証の必要があるが、九州北部に多く見られる紋であることは確認されている。とすると、土佐で見つかった十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦は何を意味するのか。九州王朝との関係があるのだろうか。
 久留米市の犬塚幹夫氏の調査によると、単弁十三弁蓮華文軒丸瓦が出土する遺跡は北部九州の中でも、とりわけ太宰府市に集中して分布しているようだ。
太宰府史跡(太宰府市)
宝満山遺跡(太宰府市)
浄妙寺(榎寺)跡(太宰府市)
筑前国分寺跡(太宰府市)
 ということは、太宰府と土佐国府の共通点の有無を調べることによって、土佐国における十三弁菊紋軒丸瓦の存在が、必然であったか偶然であったかを知ることができるかもしれない。次の4項目の類似点について紹介して、識者の判断を仰ぎたい。

①大裏と内裏

 太宰府条坊の北方に「大裏」地名があり、土佐国府の北方にも紀貫之の国司館跡とされる場所に「内裏」地名がある。
【名称】旧小字標石 大裏(だいり・おおうら)
【所在場所】観世音寺3丁目 都府楼跡北辺
【文化遺産情報】住居表示により古い地名が失われるため、平成5年(1993)8月に太宰府市が旧小字名を石標に刻して建立したもの。地名「大裏」は内裏、紫宸殿ともいわれ、天智天皇の内裏跡や安徳帝の行宮があった場所だという謂われが残っている。大宰府政庁の政庁域全体がこの地名である。

②観世音寺と観音寺

 太宰府北東部(鬼門)に観世音寺(観音寺と呼ばれたこともある)があった。土佐国府北東部には比江廃寺跡がある。現在、土佐国府跡北方に「永源寺」(えいげんじ)があり、かつては、曹洞宗大本山永平寺の直末で「観音寺」といって鬼門除けのお寺であった。『長宗我部地検帳』にも「タイリ中ニツカアリ……同(観音寺分)」とある。

③都府楼礎石と比江廃寺礎石

 比江廃寺跡の礎石について、凹凸の違いはあるものの、太宰府都府楼の礎石に似ているとの指摘がある。

④大宰府の廃止と土佐国司の派遣 

 天平十四(742)年正月に大宰府が廃止された、と『続日本紀』は伝えている。土佐の国司は、天平十五(743)年六月三十日に任命された土佐守・引田虫麻呂が記録に見える姓名の明らかな国司の始めである。それ以前に国司が派遣されていたかもしれないが、九州王朝滅亡(700年)後も、742年頃まで大宰府の管轄下にあったか、何らかのつながりを維持していた可能性も考えられる。

 以上、①~④の4点をピックアップしてみたが、土佐国に
十三弁菊紋(蓮華文)軒丸瓦が存在することは、やはり何らかの意味があるようにも思えるが、いかがであろうか。







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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
 算数・数学・理科・社会・国語・英語など、オールラウンドの指導経験あり。郷土史やルーツ探しなど研究を続けながら、信頼できる歴史像を探究しているところです。
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