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 『皆山集①』潮江村の天満宮(現在の潮江天満宮、高知市天神町19-20)の項に次のような記述がある。「朱鳥二年(687年)」という九州年号が刻まれているというのだ。

「御剣銘に朱鳥二年八月北 神息とみゆ」(P356)

「天満宮ノ宝刀
神息ノ刀   土佐国土佐郡潮江村天満宮御宝刀表ニ神息裏二朱鳥平身作り中直刀少々のたれ有   匂ひ深シ明治廿六年二月廿三日祠官宮地堅磐方ニ於テ謹拝見ス 松野尾章行」(P358)

 この宝刀については、以前当ブログでも紹介し、潮江天満宮の宮司さんにも直接質問したことがある。菅原道真の遺品を長男高視に届けるために土佐国へ来たという白太夫(渡会春彦)について研究発表もされている方であったが、宝刀に関しては全くご存知ないようであった。てっきり潮江天満宮の御神体とばかり思い込んでいたが、勘違いだったのだろうか。『皆山集』に記載されている旨はお伝えしておいた。

 潮江天満宮の宮司は代々宮地家が継承してきたが、今の宮司さんは宮地姓ではない。『皆山集』の編者・松野尾章行氏に宝刀を見せたという宮地堅磐(みやぢかきわ、1852-1904年)氏は当時の潮江天満宮の神主であり、神仙界で見聞したことを『異境備忘録』として記録している。
 父・宮地常磐(みやぢときわ、1819―1890年)氏もまた潮江天満宮の神主を務め、鹿持雅澄の鹿門十哲の一人でもあり、数々の著作を残している。件の宝刀は宮司世襲家の宮地家に伝承されていた物であろうか。
 宮地家については、ブログの大先輩であるひまわり乳業「今日のにっこりひまわり」から、関連する内容を少し引用させていただく。
 太宰府で菅原道真公が失意のうちに亡くなり、その遺品を、白太夫さんが土佐まで運んできました。土佐に左遷されちょった嫡男、菅原高視さんに届けるべく。しかし、大津までやって来たところで急死。遺品は、高視さんのもとへ届けられました。
 その遺品を祀って天満宮としたのが、地元の宮地さん。で、代々、宮地さんが、潮江天満宮の宮司さんをつとめるようになった、ということ。
 筒上山頂の説明板によりますれば、宮地家は、日本武尊の第四王子、建貝王からでた名門で、白雉年間(7世紀)に、宮地信勝が山城国から土佐へ移住。その子孫が、菅原道真公を祀った、ということ。(「今日のにっこりひまわり」2014/06/15より)
 疑問とされる部分がないこともないが、宮地家は歴史的に由緒ある家柄のようである。幕末に宮司を務めた宮地常磐氏は、お告げにより手箱山(筒上山)に大山祇神社をはじめ十三社を鎮祀したそうで、潮江天満宮の境内社としても大山祇神社が祀られている。

 さらにその先祖とされる宮地信勝が山城国から土佐へ移住したのが白雉年間(7世紀)であれば、ほぼ同時代の「朱鳥二年」に造られた宝刀があったとしても、つじつまは合う。
 しかし、家系図だけでは根拠としては不十分である。違った角度からの検証が必要となってくるだろう。




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 大学時代に『「邪馬台国」はなかった』(古田武彦著)を読んで、夜寝られなくなりました。古代史に関心を持つようになったきっかけです。
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